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46. 忍び寄る影
しおりを挟む自嘲するような薄笑いを浮かべながら、新一はこれまでで一番饒舌に語り始めた。
「結局父子家庭で高卒の俺は負け組だよ。父親になったのが間違いだった。人より長く働いてやっと人並みに稼げる。それでも詩織が母親にちょっと強請って貰った小遣いの方が、俺が一日中汗水垂らして働いた金額より多いんだからな」
酒と溶接焼けで赤くなった顔を歪ませて、新一は独り言のように言葉を続ける。
新一の様子から返事なんて求めていないと分かったので、私はただ黙って聞いていた。
「杏奈が貧乏な俺に見切りをつけて、見た目が良くて金も持ってる伊織の方が優良物件だって言うのも仕方ないだろ」
無理矢理に見える苦々しい笑みを浮かべた新一は、恐らく以前の私と同じで自己肯定感の低い人なんだろう。
その劣等感を埋める為、強く自分を求める姉と夫婦になったが上手くいかず不倫した。
そして今、あの女が離れていく事をすんなりと諦め、受け入れている。「自分が悪い、仕方ない」と。
ふと勇太が恩師から言われたという言葉を思い出していた。
――『生まれと育ちは変えられなくとも、これからの人生の方が長い。そこで出会う人との縁を大切にしていけ。そうすれば、人は変われる』
新一はきっと人との縁に恵まれなかったのだろう。
私だってきっと……勇太と出会ってなかったら、この言葉を教えて貰わなかったら、今の新一のように投げやりになっていたかも知れない。
元々は明るくて人当たりの良い印象だった新一も、今では卑屈になって酒に逃げている。
別にこの人を助けてやる義理は無い。姉と離婚した今となっては元義兄でしかなく、今までだって特段関わりもなかった相手だ。放っておけばいい。
だけど、この人は紛れもなく……カナちゃんにとっては実の父親なのだ。
カナちゃんという存在は、この人が居なければこの世に生を受けなかった。それなら少しくらいお節介をやいてもいいだろう。
「私も……ずっと自分の生まれを恨んできましたよ。あの姉の弟ですからね。色々思うところもあったんです」
「はは……。だろうな」
投げやりに笑う新一に、決して真面目な顔を崩す事なく伝える。
「でも、『生まれと育ちは変えられなくとも、これからの人生の方が長い。そこで出会う人との縁を大切にしていけ。そうすれば人は変われる』この言葉で救われました。新一さん、きっと今からでも間に合いますよ」
カナちゃんは新一とあの姉の血を分けた娘だけれど、決して不幸にはさせない。
それで全てが決まるなんて事は言わせない。そう強い決意を込める。
すると投げやりな態度から一転、縋るような眼差しをこちらへ向ける新一に向けて本心からの言葉をかける。
「カナちゃんをこの世に生み出してくれた事、感謝しています。近々両親が特別養子縁組をする事になり、戸籍上は姉の子という繋がりも無くなります。もちろんあなたとも」
「そうか……」
「あと、私には男性の恋人がいます。どんなに好きでもその人とは結婚出来ません。私が自分の血を引いた子どもを持つ事も、この先ありません」
新一は急な私の激白に、一気に酔いが覚めたかのように目を大きく見開いた。
「だけど、私もその人もカナちゃんを自分の子どものように大切に思っています。一緒に暮らしていて、カナちゃんだって懐いています。だから、そんな私達に子育ての機会を与えてくれた事に関しては感謝しているんです」
途中途中で新一が何か言葉を挟もうと口を開こうとしたところを、わざと制するようにして声を大きくした。
ちゃんと最後まで聞いて欲しいと訴えた。
「でも! カナちゃんにとってどっちが幸せだったのかは分かりません。姉さんと新一さんが……我が子であるカナちゃんに愛情を注いでくれるのが、一番自然な形だったと思いますから」
そう言ってサッと立ち上がる。これ以上この人と話す事はない。
言わなければならない事は全て伝えた。
立って見下ろした角度では、俯いた新一の表情は見えない。
あんなに逞しく思えた身体は、時間の経った風船のように小さく萎んでしまったように思えた。
もう二度と訪れる事がないであろうリビングを出る時、後方で「すまん」と小さな呟きが聞こえたような気がした。
それが誰に向けた言葉なのかは分からずじまいだ。
アパートを出てコインパーキングへと向かう道すがら、目頭が燃えるように熱くなった。
不意に頬を伝って涙がこぼれ落ちる。誰の為の涙なのか、自分でも分からなかった。
濃紺の空に真っ白な月球が浮かぶ中、街灯と周囲の窓から漏れる灯りがぼんやりと辺りを照らしている。
「え……」
目の端に動くものを捉えたような気がして、じっと左前方を注視した。
四つ角の隅切りされた塀の陰に誰かが潜んでいるような、そんな妄想に取り憑かれる。
じとりと嫌な汗がこめかみに滲む。まさかあの杏奈とかいう女が直接私に何かしてくるとは思えないが、嫌な胸騒ぎがした。
ゆっくりと、歩幅を小さくして四つ角へ歩みを進める。いやに周囲は静かで、車の音も聞こえない。
視線は塀の陰から決して外さずに、ジリジリと四つ角へ近づく。意を決し、塀の向こう側を覗き込むようにして素早く身体を移動した。
「ニャアァン!」
突然、尻尾を狸のように膨らませた黒猫が、目をギラリと光らせながら飛び出して来る。
離れたところにある街灯に照らされ、黒猫は影と一体化して別の生き物のように大きく見えたのだった。
みるみる走り去って行った猫の後ろ姿を見つめながらフウッと息を吐く。いつの間にか涙は引っ込んでいた。
その時、静かな通りにスマホの着信音が鳴り響く。聞き慣れた音のはずなのに飛び上がるほど驚いた。
「どうして……」
画面に表示された名前は意外な人物で、先程引っ込んだはずの嫌な胸騒ぎがぶり返す。
こういう悪い予感というものは、外れて欲しいと願えば願うほど、往々にして当たってしまうものだ。
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