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45. 姉夫婦の関係
しおりを挟むいつものコインパーキングに車を停めてしばらく歩くと、ファミリー向けのアパートが見えて来る。
南欧風の建物に合わせた明るい色味の玄関扉から、前回はあの毒蛇のような印象を与える女が現れたのだった。
新一と電話で話し、直接会う約束をした私は、あの後すぐに車でこちらに向かった。
勇太には簡単な説明だけを済ませて、戻ったらきちんと話すと約束してきた。
扉の前に立ってふと見返れば、姉が使っていた駐車場にピンク色の普通車が停まっているのが見えた。
そういえば姉の乗っていた軽自動車はどうなったのだろうか。
どちらにせよ、もうここは姉の住むところではないのだと実感させられて、何とも言い表せない気持ちになる。
「はい」
玄関横のインターフォンを押すと新一の声で応答があった。あの女の声ではなくて少しホッとする。
「伊織です」
「入れよ。玄関開けてるから」
そう言われて玄関のドアノブを下げると、確かに重い扉はキイッという音を立てて手前に開いた。
「こんばんは。新一さん、突然すみません」
玄関の中へと足を踏み入れ、奥に向かって声を掛ける。
「おう、リビングまで入って来い。こっちは酒飲んでたから動きたくないんだよ」
「おじゃまします……」
玄関にあのピンク色のハイヒールは見当たらず、脱ぎ散らかした男物の靴が数足と、履き古した小さめのサンダルがあるだけだった。
リビングへと足を踏み入れたら、上下スエット姿の新一はそこで一人酒を飲んでいた。
テーブルの上にはビールの缶や酎ハイの缶が散乱し、床には日本酒の瓶まである。
「新一さん、突然すみません。電話でも話したんですけど、あの……姉が脅迫されていた事について調べたくて」
「まぁその辺に座れよ。話は長くなるから」
座る際にさりげなく周囲に目を走らせると、部屋には明らかに女の気配がしていた。
男の一人暮らしには到底似合わないようなメイク道具や服、家具や食器がすぐ目につくところに散在している。
「はい。失礼します」
返事の代わりに頷いた新一は、顔を暗赤色に染めどこか疲れた表情で、機嫌が良い状態でない事は明らかだった。
口から出てくるものを無理に飲み込もうとするように、僅かに黄色みがかった液体の入ったグラスを傾けて、グイッと中身を飲み干した。
「で? 何だったっけな?」
「姉さんを脅迫していたという手紙を見せて欲しいんです。新一さんが犯人を探していると姉さんから聞きました」
「お前、あの病院がしてる事、詩織が何をしたのか知ったのか?」
日焼けか仕事の溶接焼けかは分からないが、茶褐色の皮膚の上にアルコールによる血管拡張で赤くなった顔は極めて不健康そうに見えた。
筋肉質の体は相変わらずだが、それも着古したスエットの下にすっかり隠されている。そのせいかは分からないけれど、まだ三十代とは思えない程に老けて見えた。
「はい。姉さんから聞きました。それで、手紙はどこに? 何か分かった事はありますか?」
「はっ! アイツ、本当に馬鹿だよな。あんな手紙くらいで俺に勧められるがまま精神科なんか入院してさ。どうせ入院費もお前んところのご立派な両親が払ってるんだろ?」
新一は投げやりな態度でそう口にすると、床に置いた日本酒の瓶からグラスへと乱暴に酒を注いだ。
「そうですね、今は両親が入院費払っているのだと思います」
何故このように荒んでいるのかは分からないが、今はただ新一に問われた事だけを答えるに徹する。
「いいよな、親が裕福な家は。困った時には助けてくれるんだからさ」
グイッとグラスを煽る新一は、ごくりと酒を音を立てて飲み込んだ後、ぐにゃりと口元を歪めた。
「俺みたいに片親じゃ、逆にこっちが面倒見なきゃいけないんだから。人間ってやつは、生まれた時から不公平だよな。お前みたいに金もあって顔もいい奴は、俺みたいなのから全部取っていくんだから」
随分と酔っているのか、新一が言っている事は支離滅裂でその上卑屈な言葉ばかりだった。
「不公平……ですか?」
「ああ、不公平だな!」
私だって生まれた時からずっと、母親から抑圧されて生きてきた。
自由なんてない。経済的な不安は感じなくとも、勇太と出会うまでまともに生きてる実感なんて無かった。新一はそんな事を知る由もないだろうが。
それに、勇太は自分の生い立ちよりも生き方を大切にしている。それを知ってから、私も考え方を変える事が出来た。
けれど新一にはそういう事を知る機会が無かったのだろう。
「新一さん、一体どうしたんですか?」
「俺の女、杏奈って言うんだけどさ」
あの人は杏奈というらしい。新一はそこまで言ってフンと鼻を鳴らした。
「俺みたいな貧乏な男よりお前の方がいいってさ。『あんな高級マンションに住んでて、その上綺麗な顔してる男が義理の弟だったなんて詐欺みたいなもんだ! 貧乏なアンタとなんか別れてやる!』って言うから怒鳴りつけてやったよ。そしたら飛び出してった」
「まさか、何でそんな事に……」
全く訳が分からない。別にあの女とは碌に話した事も無ければほとんど接触もない。
それなのに何故そんな風に思われたのか。
「元々惚れっぽい女だったからな。それにすげぇ性格が悪い。詩織に脅迫の手紙を書いたのだってあの女だよ。詩織の実家から金を搾り取って、最後はそれを盾に俺と離婚させようって魂胆だった。あの時はまだ、な」
以前姉が母親から金を借りたのも、そういう事があったからかも知れない。
「別に、あの女の事だって詩織への鬱憤から逃げる為に利用しただけで、遊びみたいなもんだったけどな」
遊びだと言うならば、尚更新一がここまで暗い顔をしている理由が分からなかった。
「新一さんがあの人に話したんですか? 姉さんの秘密を。それであの人が姉さんを脅迫してたと?」
「まぁ、そういう事だ。そうまでして杏奈は俺と一緒になりたいのかって、そこが可愛く思ってたけど。いい男が現れたらあっさり捨てられて、馬鹿みてぇだよなぁ」
そう言って新一は顔をくしゃりと歪める。いかにも辛そうな表情だ。
あの杏奈とかいう女の事が余程好きだったのだろうか。
「事情は分かりました。姉さんにはどう伝えるつもりですか? 離婚するのと引き換えの条件だったんですよね?」
「適当に犯人を作って、もう二度と関わらないと約束させたって伝えるつもりだ。その方が詩織も幸せだろうし」
「それでいいんですか?」
「いいんだよ。俺が不倫してて、その不倫相手が脅迫の犯人だなんて、今のアイツがわざわざ知る必要ないだろう」
これが一度は結婚して子どもをもうけた妻に対する、新一なりの優しさなのだろうか。
「新一さんは……はじめから姉さんに愛情は無かったんですか?」
聞いたところでどうする事も出来ないけれど、聞かずにはいられなかった。これを逃せば、きっともう二度と聞く事はないだろう。
カナちゃんの両親がどんな気持ちで夫婦になったのか、そこにはハナから愛が無かったのかを、私は聞いておかなければならない気がしたのだった。
「まぁ……はじめは詩織も可愛かったよ。俺の事好き好きってうるさいところも、常に束縛したがってべったりくっついてくるところも」
苦笑いを浮かべ、酒で腫れぼったくなった新一の目は遠くを見ていた。
「けどさ、アイツは別に俺の気持ちなんかどうでもいいんだよ」
「え?」
「俺が詩織の事を好きかどうかなんて、別にアイツにとったら関係ない。自分が好きな相手を束縛していたいってだけだ」
姉と新一の関係性については納得できたけれど、カナちゃんの事を考えると胸が痛かった。
「姉さんは、やっぱり自分勝手な人間だったんですね」
「はは……。まぁ俺だってそんな詩織に乗せられて、無責任なまま香苗の親になっちまったからな」
「……何の罪も無いカナちゃんの事を思うと、胸が苦しいです」
私の非難めいた言葉にも、新一は腹を立てた様子はない。「そうだな」と呟いて何度かグラスに口をつけては、ちびちびと酒を飲む。
気まずい空気が流れ始めた頃、新一の方から口を開いた。
「だからって不倫の言い訳にはならないんだろうけどさ。その点、杏奈は常に自分の事を好きかどうかを確かめずにはいられないってタイプだったから。全然違うところを求めちまったのかもなぁ」
手に持ったグラスの酒をグイッと一気に飲み干した新一の視線は、テーブルの上に散らかった空き缶たちへと向けられる。
「俺が親父になるのがそもそもの間違いだったんだよ」
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