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41. 椿の心

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 あの夜、美桜と遠夜の逢瀬を目にした時、椿はシンに会いに屋敷を抜け出そうとしていた所だった。


 ◆◆◆
 
 
 庄屋の屋敷をぐるりと囲む塀の一部は竹垣で出来ていて、椿は人目につきにくいその場所に秘密の出入り口を設けていた。

 はじめは集落で一番美しい男を手に入れたと喜んでいたけれど、元々堕落した生活を送っていたシンが所帯を持つのを嫌がった事で雲行きが怪しくなっている。

 下女として働きに出ていた姉は庄屋の息子を籠絡し、まんまと若奥様の座に納まったのだから、自分は誰よりも美しい男と所帯を持つ事でそんな姉を見返そうと考えていたのだった。

「若旦那の顔はせいぜい十人並み。あんな男としか所帯を持てない百合姉さんも大した事ないわね」

 そう独りごちたものの、これから屋敷を抜け出してシンに会えるというのに、以前のような胸の高鳴りや湧き立つような気持ちが無くなっている事に椿は気付いていた。
 
 けれどもそれを認めてしまったら百合に負けてしまう気がして、今夜も自分の気持ちにしっかりと蓋をし、竹垣の秘密の出入り口の前で呟いた。

「私は誰よりも幸せになってやるんだから」

 昔から椿は百合が嫌いだった。

 誰からも美しいだの賢いだのと褒められる百合。そのくせ、それが当然かのように若い男相手には愛想笑い一つしない。
 自分はそんな姉の下に生まれ、比べられ、賢さでは敵わなかったから美しさと愛嬌で勝る事にした。

 父親も姉も病弱な妹ばかり気にかけて、自分の事は困った娘くらいに思っている。

 美桜なんか、生まれて来なければ良かったのに。

 そう思った事は数えきれない程ある。だって、美桜が生まれたせいで母親が死んだのだから。
 
 二人姉妹の頃はまだ良かった。その頃まだ表情が豊かだった百合は父親っ子で、椿はいつも母親を独占していた。

 それなのに、ある日母親の腹に妹が出来たのだ。そして妹が生まれたと同時に、母親を失ってしまう。
 同じ頃、百合は急に大人びて、以前は言わなかったような小言を口にするようになった。

 窮屈で窮屈で仕方がない。美桜が咳をする度、熱を出す度に心配する父親と姉を見ては、嫌な気持ちになる。

 そんな日々が続くと、自然に美桜の事も大嫌いになった。

「美桜なんか死に損ないの幽霊なんだから、おととさんの所で苦労すればいいと思ったのに。何であんなに元気になって帰って来たの」

 弥兵衛が中風になって身体が不自由になったと聞かされた時、身体が弱い美桜が行っても大した事は出来ないだろうと高を括っていた。
 あわよくば、苦労してもっと身体を壊してしまえばいいとさえ思っていたのに。

 百合が子を産んでから、弥兵衛と共に屋敷へと戻って来た美桜は、見違えるように溌剌として美しくなっていたのだ。

 椿はまた美桜の事が憎くなった。ヘラヘラ笑って話しかけてくる弥兵衛の事も、鬱陶しくて堪らなかった。

「どうして私ばっかり……」

 月明かりに照らされた椿の横顔は、すっかりいつもの威勢を失っている。
 この世で自分が一番不幸な娘なんじゃないかと、この時は本気で思っていた。

「え……?」

 微かな声がしたような気がして、庭の方へと目を向ける。
 月明かりに照らされた庭は曲線を描く松や丸い形の植木で影が多い。その中に、真っ白な肌が闇夜に映える美桜を見つけた。

「こんな時間に誰と話してるの」

 そろそろと音を立てないように移動して、美桜が向き合っている相手が見える位置に潜む。

「誰……」

 集落で一番美しいと思っていたシンなど、比べ物にならない程美しい男だった。
 長い黒髪を白い組紐で束ねたその男の、すっとした鼻筋や切れ長の瞳は椿の好みだ。

 近頃はすっかり感じなくなっていた胸の高鳴りや高揚感が、弱々しい感情に走りかけていた椿をグンと力強く引き上げる。

「やっぱり私は美しいから、神様にまで好かれているんだわ」

 美しい男が大嫌いな美桜の手を取り口元へ持っていく所を見ても、腹が立つどころかその眩い所作をまるで自分が体験しているかのようにときめいてしまう。

「どこの誰だかは知らないけれど、あの人は私のものよ。あの人だって、陰気な美桜なんかよりも私の方が良いに決まっているわ」

 しばらくの間美桜と男の様子をその場から窺っていたものの、突然つむじ風のような強い風が巻き起こり、椿は思わず自分の顔を手で覆う。
 自慢の顔が枝で傷付いたりでもしたら大変だと思ったのだ。

 次に椿が目を開けた時、ぼんやりとした顔で一人空を眺める美桜の姿がそこにあるだけであった。
 
 
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