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42. 夜の竹林へ

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 椿と話をしてから二日が経った。美桜は弥兵衛や百合に心配をかけまいとして、晴れない心を押し殺して過ごしている。

 遠夜に会えばこの憂いも晴れるのだろうかと考えたりもしたけれど、一方で椿と遠夜を会わせたくなかった。
 美桜は複雑な感情に苦しい思いを抱きながら、夜遅くに布団へと潜り込む。

 どれくらい時間が経っただろうか。何やら人の気配を感じた美桜は、ふっと目を覚ます。
 障子の向こうに月明かりを背にした小さな人影が見えた気がして、美桜は暗がりの中でじっと目を凝らしていた。

「美桜さん……美桜さん」

 囁くように名を呼ばれ、美桜は布団から起き上がると畳の上を歩いてそろそろと障子に近付く。

「美桜さん、マツです」

 この屋敷に来てからも、美桜は一度もマツの姿を見かけていない。
 
 百合からは、歳をとったから今は下女の仕事はしていないと聞いていた。庄屋の遠縁である彼女は、この屋敷の蔵に部屋を与えられ、今はゆったりと過ごしているのだと。

「マツさん? こんな夜更けに、どうしたんですか?」

 障子越しに美桜が声を掛けると、マツは明らかにホッとしたような声で「良かった」と言った。

「司郎坊ちゃんが高い熱を出したんです」
「えっ、司郎が?」

 美桜は可愛い甥っ子が熱を出したと聞いて、慌てて障子を開ける。
 久しぶりに顔を見たマツはすっかり変わっていた。白い髪は随分と薄くなり、顔の皺も以前よりも深く刻まれている。

「ええ、そうです。それで若奥さんが美桜さんに解熱の薬を取って来て欲しいと。美桜さんなら分かるからと言っているのです」

 美桜は昔から度々熱を出していたので、日頃から解熱効果のある淡竹の葉を摘んで来ては家に保管していた。
 そしてより効果が高そうな淡竹の葉を選ぶのは、美桜の役割だったのだ。

「分かりました。すぐに探して来ます」
「門の横のくぐり戸は開けておきますので。どうかお願いします」

 自分に向かって手を合わせるマツに頷いて見せると、美桜は急いで支度を始める。
 素早く寝巻きから着物へと着替えると、美桜は淡竹の葉を探しに庄屋の屋敷を飛び出した。
 
「まだ幼いというのに可哀想な司郎。待っていて、早く持って行ってあげるから」

 夏風邪を引いたのかも知れない。小さな赤子にとっては単なる風邪も命取りになる事だってある。

 マツから借りた提灯を手にした美桜は足早に集落の道を進む。その足は、少し行ったところにある竹林を目指していた。

 夜風に乗って竹林の清々しい香りが漂って来ると、美桜はほんの少し歩く速度を緩める。
 サラサラという葉と葉がぶつかる音が聞こえ、風にしなって同じ方向へ曲がる幾つもの竹が見えて来た。

 美桜は右手に持った提灯を握り直すと、夜の竹林へと近付いて行く。
 夜の竹林は真っ暗だろう。怖くないと言えば嘘になる。けれども司郎の為だと勇気を振り絞り、一歩一歩足を踏み出すのだった。

「本当に、随分と変わったもんだな。前は幽霊みたいだったっていうのに」

 美桜の耳に聞き慣れない声が届く。誰かがすぐ近くに居るような気配を感じたと同時に、何者かによって提灯が取り上げられた。

「あっ」

 突然の出来事に驚きの声を上げた美桜は、竹林を背にして嫌な笑みを浮かべた男の姿にギョッとする。

「シン……さん?」
 
 美桜の提灯を取り上げ、その光にぼんやりと照らされた顔は、紛れもなくシンだった。

「一回しか会った事がねえって言うのに、俺の事覚えてたのか。さてはお前も、尻軽の椿とおんなじで俺の顔を気に入ってたんだろう」
「なにを……」
「そうだよなぁ。俺の顔は一級品だって、いつもお前の姉さんが言ってるよ」

 ジリジリと距離を詰めて来るシンから離れようと、美桜は少しずつ後ずさる。

「こんな夜更けにどうされたのですか?」

 美桜が震える声で問い掛ければ、シンは腹を抱えて笑い声を上げた。
 それに合わせてゆらゆら揺れる提灯の明かりが、風に揺らぐ竹林を不気味に照らしている。

「まだ分かんねえのか? 突然戻って来たお前は椿にとっては邪魔なんだと。だから傷物にして、嫁に行けないようにしてやれとさ」
「まさか……そんな事を椿姉さんが?」
「お前、余程椿に嫌われてるんだな。実の妹を俺なんかに差し出すなんて、アイツもアイツでなかなか悪い奴だけど。まあ俺は、頼まれた事を実行するだけだ」

 提灯を足元に置き、両手が自由になった大の男の足はあっという間に美桜との距離を詰める。

「いや!」

 ぐっと近付いた遠夜とは違った男のにおいに、美桜は込み上げる嫌悪感で吐き気さえ覚えた。

 シンのぎらついた眼差しと両手が怯える美桜の身体を捕らえた途端、夏の夜にも関わらず辺りをすっかり凍らせてしまうような冷たい声が鋭く響く。

「美桜に触れるな」

 

 

 

 
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