此処は讃岐の国の麺処あやかし屋〜幽霊と呼ばれた末娘と牛鬼の倅〜

蓮恭

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48. 看板娘

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 翌朝美桜は暗いうちから起き出して、昼間畑仕事に出掛ける弥兵衛の為に、握り飯を作っておいた。
 味噌汁と干し魚、漬物という弥兵衛の好きな物ばかりの朝食も準備してある。

 昨日のうちに掃除を隅々まで済ませた家の中をぐるりと見渡す。ここには家族で過ごした思い出がたくさんあるのだ。
 
 家の中で一番太い柱に付けられた傷は三姉妹の背丈を記したものだったし、母親の大切にしていた着物だって弥兵衛がいつか娘達に着せようと思ったのか、まだ幾つかは綺麗に残してある。

 幼い頃から過ごしたこの家は確かに懐かしいのに、美桜はもうこの場所が他人の家のようにも思えていた。
 此処に比べたらごく短い間しか過ごしていないはずの山奥にあるあの母屋や店が、今の美桜にとってはよりふさわしい居場所のような気がする。

「不思議……」

 少し前まで、病弱な自分は死ぬまでこの家で父親と暮らすのだと思っていた。百合や椿が嫁いでも、自分だけはこの家に残って弥兵衛と暮らすのだと。
 
 それが今日この場所を去って、遠夜の住まうあの家に移る。そしてきっとあちらで一生を終える事になるのだ。
 たった一年前にはこんな事になるなんて考えてもみなかった。

「大きな変化というのは、知らず知らずのうちに少しずつ起こっているんだわ」

 あとから振り返ってみればそれが分かる。ただしその時にはあんまり小さな変化に全然気付かないもの。
 毎日の生活を懸命に送っているうちに、いつの間にか考えていた未来とは全く違った方向へ舵を切っているという事もあるのだ。

 それならば、今は人間とあやかし達との仲をどうこうしようなどという大それた事に頭を悩ませるのはやめよう。
 日々懸命に生きているうちに、いつの間にやら思わぬ方向へ進む事もあるのだから。

 そう考えてみれば、日に日に心の底に溜まって美桜を阻害していた澱のようなものが、すうっと滑らかに溶けていった気がした。

 ちょうどその時格子窓から朝陽が射し込んできて、美桜の手によって磨き上げられた室内が明るくなる。
 まだ眠っている弥兵衛を起こして別れを済ませたら、美桜は一人で山へと向かわねばならない。

 そうすれば山の主が青峰山に続く山道の入り口で待ってくれているはずだ。
 近所の人目を避ける為にそうすると、二日前にこっそり此処を訪れた遠夜にも話した。

 その後最後の朝食を二人でゆっくりと噛み締めるようにして食べた父子は、しばしの別れを美桜が弥兵衛を抱きしめるような形の抱擁で惜しんだのだった。

「それじゃあおととさん、もし椿姉さんが戻って来たら知らせて。私も心配だから」

 家を出る時、美桜は懐かしい室内と弥兵衛を振り返って言った。
 未だ行方知れずの椿を心配しているのは本心からだ。弥兵衛は美桜の言葉に頷くと、そっと美桜の肩に手をやる。
 
「勿論だ。いいか美桜、仕事は大変だろうが身体には気をつけるんだぞ。何かあったら遠夜さんに相談しろよ。あの人はお前の事を、誰よりも大事に思ってくれてるだろう」
「うん……ありがとう。おととさんも、身体に気をつけてね」
「ああ、気をつけるよ。お前と遠夜さんの孫の顔を見るまでは、元気でいなけりゃならねぇからな」
「もう! まだ私と遠夜さんは夫婦にもなってないのにそんな事……!」
「はははは!」

 パンパンと、軽く美桜の肩を叩いた弥兵衛は入り口の戸を自ら開けた。
 遠くの方の田んぼには仕事をしている者や、あぜ道を歩く者がちらほら見えるが、今集落のはずれにある弥兵衛の家の方を気にする者は居ないようだ。

「それじゃあな。気を付けて行くんだぞ」

 柱に寄っ掛かるようにして美桜を見つめる弥兵衛の瞳は、今にも涙が溢れそうなほど潤んでいる。
 美桜はもう一度弥兵衛の身体に抱きつきたくなる衝動を抑えつつ、家の外へと一歩足を踏み出した。

「行ってまいります」

 近頃急に大人びた美しい顔で、母親にも似た微笑みを浮かべてそう言った美桜は、そのまま家の裏手へとまわる。
 なるべく人目につかない道を選びつつ、美桜は集落を見下ろす山塊の一つである青峰山を目指して足早に進んだ。

 山の主が待つ所までは順調に進んでも女の足で三日はかかる。それでも美桜は自分の足で山へ向かいたかったのだ。
 
 実は先日遠夜に話したように、人目につくからという理由だけでそうすると決めたのでは無かった。
 
 美桜はこれから自分が半妖である遠夜と生きていく事や、人里離れた山奥で暮らしていくという事、家族との別れや人外ばかりの中での暮らしというものに慣れていかなければならない。

 真面目な美桜だからこそ、これから始まる新しい生活がずっと先まで上手くいくか不安だった。

 けれど誰でもない自分が選んだ道だから、次に遠夜に会う時までにはその不安を全て消化したい。
 山へ一歩一歩と近づく度に、自分の覚悟を確固たるものにしようと考えたのだ。

「山の主様にはおととさんに似て馬鹿真面目の不器用な人間だと笑われたけれど、それが私だもの」

 そうして一歩、また一歩と自分の足で道を進み、日に日に近づいていた青峰山がすぐ目の前に聳え立った頃、美桜の心は澄み切った空のように晴々としていた。

 人っ子ひとり見当たらない青峰山の奥へと続く山道の入り口。獣道のような山道を通る物好きはほとんど居ない。
 
 その場に美桜が現れるなり、ざあっと音を立てて髪を大きく乱す程のつむじ風が巻き起こった。
 周囲をくるくると囲むように舞い散る葉に目を細めた美桜は、嬉しそうに破顔する。

「随分と遅かったじゃないか。やはり近くまで迎えに行った方が良かったのではないか?」

 ニヤリと笑い口元の立派な牙を見せつけるようにして姿を見せた山の主は、猪の姿でそう言った。

「いいえ、山の主様。私にとってこの三日間は、とても大切な道のりでございました」

 以前には無かった気高さのようなものが含まれた美桜の眼差しは、真っ直ぐに山の主へと向けられる。
 その澄んだ瞳の奥に美桜の硬い決心を感じ取った山の主は、牙の隙間からふっと息を吐くようにして笑った。

「そうか。それならば我も首を長くして待った甲斐があったというものだ。さあ行くぞ。遠夜がそわそわしながらお前が戻るのを待っている」
「ふふ……。よろしくお願いいたします」

 美桜は山の主の背に乗り木々の間を縫うようにして山を登ってゆく。登るにつれ段々と濃くなる山の匂いが、美桜にとっては非常に落ち着くものになっていた。

 店のすぐ近くにある崖の一部、見慣れた岩肌を視界の先に小さく捉えられた時、美桜は心の底からホッと安心したのである。

「麺処あやかし屋にようこそおかえり、美桜」

 美桜の心を知ってか知らずか、山の主が相変わらずの険しい山道を息も切らせずに駆けながらそう言った。

「皆がお前を待っていたぞ」

 その言葉が言い終わるか否かという時、美桜を背に乗せた山の主はあっという間に店の前まで辿り着いた。

「美桜!」
 
 名を呼ばれたその途端、美桜は湧き上がってくる歓喜で胸と目頭が同時に焼け、熱くなる。

「おかえり!」
「やっと戻ったか!」
「待ってたよ」

 遠夜だけではない。もうとっくに昼時は過ぎたはずの麺処あやかし屋の前には、産土神をはじめ多くの常連客の姿があったのだ。

 後ろにあるはずの店構えが人だかりで見えないほど、様々なあやかしや物怪がこぞって美桜を出迎える為に何列にもなって並んでいる。
 
 走り寄ってきた遠夜が美桜を山の主の背から抱き下ろすと、それだけで山が震えるかのような大きな歓声が上がった。

「皆さん……どうして……」

 込み上げてくる嗚咽をどうにも堪えきれずに、美桜は途切れ途切れに震える声で遠夜に尋ねる。未だ目の前の光景が信じられなかった。
 
 白の組紐でしっかりと髪を結った遠夜が、間近に美桜の存在を確かめるなりその端正な顔立ちを歪ませる。
 ひっきりなしに嗚咽を漏らす美桜につられたのか、遠夜は泣き笑いのような表情で答えた。

「皆、あやかし屋の看板娘が戻るのを心待ちにしていたんだ」

 ああ、あったかい……と美桜は思った。戻って来て良かったと、この場所がもう自分の居場所なのだと再確認する。

「ただいま戻りました。これからまた、よろしくお願いいたします」

 ぺこりと頭を下げた美桜に、再び割れんばかりの歓声が上がる。
 大きな声は山を下り、里まで聞こえてしまいそうだ。

「さあさあ、今日は少し早いがもう店じまいじゃ。遠夜がそわそわして仕事にならんからのぅ。今日くらい、若い二人をそっとしておいてやろうぞ」

 産土神の掛け声に常連客達は笑い声を上げ、それぞれ思い思いの方向へと順に姿を消していく。その間、美桜はずっと頭を下げ続けていた。
 
 そして残されたのは産土神と山の主で、美桜に一言二言声を掛けた後に二人して遠夜に何事かを囁いてから、何処かへ戻って行ったのだった。

 美桜は何だか遠夜の顔を真っ直ぐに見るのが憚られ、照れ臭い気持ちを隠すように口を開く。

「皆、帰ってしまいましたね」

 ほんの少し寂しいような気がしたが、勢揃いで出迎えてくれた事は本当に嬉しかった。

「ああ、私達も中へ入ろう」

 チラリと覗き見た遠夜の横顔は、美桜と同じで心なしが赤い気がする。二人してどこかぎくしゃくしながら、暖簾を下げた店の中へと足を踏み入れたのだった。
 
 
 


 
 
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