50 / 53
50. 娘の名はイネス
しおりを挟むアフロディーテの予想通り、次にサラが神殿を訪れたのは一年も後のことであった。
真っ白なワンピースを身につけたサラは、両手を広げて歓迎した女神にガバリと抱きついた。
「アフロディーテ様、長らく来られなくてすみません。ユーゴが私の身体を心配して、なかなか出て来られなくて……」
「ふふっ……。そんなことだろうと思っていたから大丈夫よ。あの男は、あなたを全く外に出さなかったのでしょう?」
「でも! でもそれはきっと……私の身体と子どもの心配していたから……」
サラの妊娠中に、盲目のヒイロを含めた盗賊団タンジー一味の処刑は行われた。
どこか満足げな表情で逝ったヒイロの最期は、ユーゴも近くで見守った。
身重の妻を心配して、特にその時期には外に出ないように、ヒイロ処刑の話題が耳に入らぬようにと、細心の注意を払ったのである。
だが、心配はそれだけではない。
元はケサランパサランであったサラが身籠った子どもが、一体どんな子どもなのか。
夫婦は生まれるまで密かに心配したが、生まれて来たのは人間の赤ん坊であった。
「それで? 赤子はどこに?」
「ユーゴが、赤ちゃんを抱っこしている時はゆっくり歩かないと危ないからって……。もうすぐ来るはずです」
どこまでも心配性なユーゴは、赤ん坊を抱いている時には、非常に神経を使うようである。
「相変わらず、極端に面倒くさい男ねぇ」
「ふふふ……」
そうこうしているうちに、赤ん坊を抱いたユーゴが随分遠くからゆっくりと慎重に歩いて来るのが見えた。
「本当に焦ったい男ね。もう! 私が行くわ」
ハアッと呆れたようなため息を吐いたアフロディーテは、サラと共にユーゴの方へと歩き始めた。
「そのような歩みでは明日になってしまうわ。相変わらずね、ユーゴ」
「女神よ、そうは言うが……もし転んだりしたら大変だ」
「さあ、早く私に抱かせなさい」
眠る赤ん坊をそおっとアフロディーテに手渡すユーゴは、やはり心配そうな目線でその後の女神の動きも見ていた。
「おお、おお。可愛らしい! 名は何と言う?」
「イネス」
「イネス……。まさに愛し子に相応しい名前ね」
美しい女神アフロディーテは、愛を込めて赤ん坊の名を呼んだ。
「イネス、あなたも私の可愛い愛し子よ」
母親と同じ紫色の透き通るような瞳で、女神に抱かれたイネスは、じっとアフロディーテを見ているようだった。
イネスの髪はユーゴと同じ黒色、瞳の色はサラとアフロディーテと同じ紫色をしている。
ぷくぷくとまあるい頬をして、じいっとアフロディーテを見ていた。
「女神よ、 絶対に落とさぬように、しっかりと抱いてくれよ」
「もう、落とすわけないでしょう。本当に心配性な父上ねぇー」
「何とでも言ってくれ」
頭上でやり取りする二人に、ふにゃふにゃと唇を動かしたイネス。
次の瞬間にクシャッと顔を歪ませたと思えば、大きな声で泣き始めた。
フギャァーっと泣き声を上げるイネスは、慌てて駆け寄るサラが間に合わず、突然姿を変えた。
突然赤ん坊の重みが消えたと思えば、そこに現れたのは小さくて丸くてモフモフのケサランパサラン。
「モキューッ! モキュー!」
フワフワモフモフの毛玉が、可愛らしい鳴き声を上げがらフルフルと身体を震わせているのだ。
「あらあら、まだ赤子だから上手く出来ないのね」
そう言って、鳴き声を上げるモフモフ毛玉を駆け寄ったサラに手渡すアフロディーテは目を細めた。
「アフロディーテ様、この子はこれからどうなるのでしょう?」
心配そうに問いながら、ユーゴが何処からか取り出した天花粉を毛玉イネスに与えるサラは、すでに母親らしい表情をしていた。
「大きくなれば、自分の好きな姿を自由にとれるようになるわ」
「なるほど、今は幼いから不安定なのですね」
アフロディーテの言葉を聞いて、あからさまにホッとした様子の夫婦に、悪戯っぽい笑顔を浮かべた女神は続けた。
「良かったじゃない。ユーゴはモフモフを愛でるのが大好きなのでしょう? あなた達の子どもとしてはピッタリね」
改めて他人に言われると、何故かとても気恥ずかしい気がして、ユーゴは耳まで真っ赤にしてから抗議する。
「いや! それにしても、姿をコロコロ変えることがイネス本人にとって幸せなのかどうかは分からんからな!」
なるほど、いくらモフモフした物が好きとはいえ、自分の娘のこととなると、喜ぶだけではないらしい。
女神はツンと顎を上に向けて、流し目でユーゴを見る。
「そんなこと? 心配しなくともイネスが悩むようになれば、私が相談に乗ってやるわ。イネスの望むようにすることくらい、私にとっては造作もないことよ」
それを聞いたサラは、パアっと花が開くような笑顔で感謝の言葉を述べた。
しかし妻だけでなく愛娘まで、この少々癖の強い女神に手懐けられるのではないかと思案したユーゴは、実に微妙な表情であった。
サラの手の中で、天花粉をモッシャモッシャと食べ終わった毛玉イネスは、フワフワと浮かんで女神の肩に乗った。
「ほら、もう私に懐いているわ。可愛らしい私の新しい愛し子」
白く長い指でアフロディーテが毛玉イネスを撫でてやると、イネスは嬉しそうに体を揺らした。
「ユーゴ、アフロディーテ様の愛し子にしていただけるなんて、イネスはきっと幸せな娘になるね!」
「……まあ、な」
美しい妻がそう言って実に嬉しそうに笑いかけるものだから、複雑な表情ながらもユーゴは納得した。
イネスを愛でるアフロディーテは、歌うような声音で言葉を紡いだ。
「ああ、これからはまたこのイネスの愛が、どのように育まれていくのか見るのも楽しみだわ」
心配性なユーゴは、まだ赤ん坊のイネスがいつかは誰かのことを愛するようになるのだと急に実感して、妻に向かって不安げな言葉を漏らす。
「そうか……、イネスもいつかは誰かを愛して、俺たちの元から去って行くのか」
「でもユーゴ、そしたらまたユーゴを独り占めできるから、私はちょっと嬉しいな」
「……そうか、確かにそういう面もあるか」
甘ったるい雰囲気を醸し出し始めたこの夫婦に、肩をすくめたアフロディーテは、毛玉イネスを連れて少しの間その場を離れる事にした。
慣れない子育てでサラだって疲れているだろうから、たまにはユーゴと二人にしてやろうと。
「全く……。次の赤子が生まれるのも、きっとすぐの事ね。イネス、あなたにはきっと多くの兄弟姉妹が出来るわよ。楽しみね」
「モキュウ」
すりすりと頬擦りする毛玉イネスはまるで『楽しみだ』と返事をするように鳴いてから体を揺らした。
――モフモフ毛玉のケサランパサランは、私の可愛い愛し子。
人間の男に恋をして、ただそばに居たいと願った。
やがてそばに居るだけでなく、役立ちたいと願う健気な愛し子は、私の力を借りて人間の娘に姿を変えた。
努力を重ねて健気な愛を伝え続けた愛し子に、鈍感で言葉足らずな人間の男も、やっとこの子への愛を自覚したの。
そこからは男の執着と溺愛がまあひどいわね。
愛には色々な形があって、愛するが故に相手を傷つける愛もある。
もう一つの歪な愛は成就しなかったけれど。
とっても焦ったかった二人は、今では辟易とするほどに甘ったるいのだから。
とても興味深い愛の形だったわね。
さあ、次は新しい愛し子イネスの愛を見守りましょう。
過保護なユーゴの心配を煽るのも楽しみだわ。
~fin~
10
あなたにおすすめの小説
【完結】殺されたくないので好みじゃないイケメン冷徹騎士と結婚します
大森 樹
恋愛
女子高生の大石杏奈は、上田健斗にストーカーのように付き纏われている。
「私あなたみたいな男性好みじゃないの」
「僕から逃げられると思っているの?」
そのまま階段から健斗に突き落とされて命を落としてしまう。
すると女神が現れて『このままでは何度人生をやり直しても、その世界のケントに殺される』と聞いた私は最強の騎士であり魔法使いでもある男に命を守ってもらうため異世界転生をした。
これで生き残れる…!なんて喜んでいたら最強の騎士は女嫌いの冷徹騎士ジルヴェスターだった!イケメンだが好みじゃないし、意地悪で口が悪い彼とは仲良くなれそうにない!
「アンナ、やはり君は私の妻に一番向いている女だ」
嫌いだと言っているのに、彼は『自分を好きにならない女』を妻にしたいと契約結婚を持ちかけて来た。
私は命を守るため。
彼は偽物の妻を得るため。
お互いの利益のための婚約生活。喧嘩ばかりしていた二人だが…少しずつ距離が近付いていく。そこに健斗ことケントが現れアンナに興味を持ってしまう。
「この命に代えても絶対にアンナを守ると誓おう」
アンナは無事生き残り、幸せになれるのか。
転生した恋を知らない女子高生×女嫌いのイケメン冷徹騎士のラブストーリー!?
ハッピーエンド保証します。
完璧(変態)王子は悪役(天然)令嬢を今日も愛でたい
咲桜りおな
恋愛
オルプルート王国第一王子アルスト殿下の婚約者である公爵令嬢のティアナ・ローゼンは、自分の事を何故か初対面から溺愛してくる殿下が苦手。
見た目は完璧な美少年王子様なのに匂いをクンカクンカ嗅がれたり、ティアナの使用済み食器を欲しがったりと何だか変態ちっく!
殿下を好きだというピンク髪の男爵令嬢から恋のキューピッド役を頼まれてしまい、自分も殿下をお慕いしていたと気付くが時既に遅し。不本意ながらも婚約破棄を目指す事となってしまう。
※糖度甘め。イチャコラしております。
第一章は完結しております。只今第二章を更新中。
本作のスピンオフ作品「モブ令嬢はシスコン騎士様にロックオンされたようです~妹が悪役令嬢なんて困ります~」も公開しています。宜しければご一緒にどうぞ。
本作とスピンオフ作品の番外編集も別にUPしてます。
「小説家になろう」でも公開しています。
主人公の義兄がヤンデレになるとか聞いてないんですけど!?
玉響なつめ
恋愛
暗殺者として生きるセレンはふとしたタイミングで前世を思い出す。
ここは自身が読んでいた小説と酷似した世界――そして自分はその小説の中で死亡する、ちょい役であることを思い出す。
これはいかんと一念発起、いっそのこと主人公側について保護してもらおう!と思い立つ。
そして物語がいい感じで進んだところで退職金をもらって夢の田舎暮らしを実現させるのだ!
そう意気込んでみたはいいものの、何故だかヒロインの義兄が上司になって以降、やたらとセレンを気にして――?
おかしいな、貴方はヒロインに一途なキャラでしょ!?
※小説家になろう・カクヨムにも掲載
「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」
透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。
そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。
最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。
仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕!
---
記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】
かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。
名前も年齢も住んでた町も覚えてません。
ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。
プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。
小説家になろう様にも公開してます。
【完結】モブのメイドが腹黒公爵様に捕まりました
ベル
恋愛
皆さまお久しぶりです。メイドAです。
名前をつけられもしなかった私が主人公になるなんて誰が思ったでしょうか。
ええ。私は今非常に困惑しております。
私はザーグ公爵家に仕えるメイド。そして奥様のソフィア様のもと、楽しく時に生温かい微笑みを浮かべながら日々仕事に励んでおり、平和な生活を送らせていただいておりました。
...あの腹黒が現れるまでは。
『無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない』のサイドストーリーです。
個人的に好きだった二人を今回は主役にしてみました。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
冷徹文官様の独占欲が強すぎて、私は今日も慣れずに翻弄される
川原にゃこ
恋愛
「いいか、シュエット。慣れとは恐ろしいものだ」
机に向かったまま、エドガー様が苦虫を噛み潰したような渋い顔をして私に言った。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる