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6. 彩歌市の秘密って……ええ⁉︎
しおりを挟む私は先程浴室で見たことを、そのまま天野さんに話した。
天野さんは尊敬できる上司で、とにかく困った事があれば何でも天野さんに相談しようというのがこの職場の風潮だったから。
案の定、混乱する私を宥めるように背を撫でながら、天野さんはちゃんと事情を聞いてくれた。
「そう、見てしまったのね」
「あのぉ、見てしまったのねって事は……天野さんは知ってたんですか? 赤井さんの、その……」
「赤井さんが浴槽の垢を舐めていた事でしょう」
淡々と答える天野さんを前に、一人で混乱して取り乱していた自分が馬鹿みたいに思えた。
どういう事だろう。赤井さんにはそういう変わった趣味があったという事だろうか。
それにしても、たくさんの人が入った浴槽の垢を舐めるなんて……考えただけで気分が悪い。
赤井さんの事が好きだっただけにショックだった。
「有栖川さん、あなたここに来てどれくらいかしら?」
「え? やっと半年経ちました」
「そう。もうそろそろ話さないとね。その方があなたも、皆も仕事がしやすいだろうから」
どういう意味だろう。こんな時にも冷静なクールビューティー天野に驚きつつ、聞いてはいけない事を今から聞かされるような、とてつもなく大きな不安感が襲ってくるのだった。
ゴクリ、と大きく喉が鳴った。
「とりあえず、気持ちの切り替えは難しいだろうけど、今日の勤務終わりまでは仕事をしてちょうだい。利用者さんに対してはいつもの元気なあなたでね」
「はぁ」
「はぁ、じゃなくてハイでしょ」
「はい」
ふらふらと相談室を出た私は、とりあえず深呼吸をする。
そうは言ってもめちゃくちゃ気になるじゃないか。
でも、赤井さんの行動にはどうやら理由があるらしいという事は分かった。
単に赤井さんが変態なだけじゃなくて良かったけれど、謎は深まるばかりだ。
だけど今は勤務時間内。利用者さんが帰るまで、ちゃんと仕事はしなければならない。
「よし、私は楽天家。楽天家なんだから! 気持ち切り替え!」
自分に言い聞かせるようにしてデイルームに戻った。
そうだ、私は主任になったんだから。天野さんの次にここの職場では責任がある立場。とにかく今日の勤務を無事終えよう。
何とか気持ちを切り替えて勤務に戻った私を、ダルマ顔の長手さんが苦笑いで迎えてくれた。
長手さんは何も話さずに他の利用者さんとの談笑に戻ったけれど、長年このデイサービスを利用している主みたいな人だから、何か知っているのかも知れない。
利用者さん同士で「どこそこの嫁は料理が上手いらしい」「どこそこの息子は有名大学に進学した」などという話をしているのもよく聞こえてくる。
高齢者の情報網、侮りがたし。
そして赤井さんはその後デイルームには戻って来なかった。
さりげなく尋ねてみると、「天野さんが呼び出してどこかに連れて行った」と他の同僚が話していたから、きっと心配は無いと思うけれど。
事情がよく分からずにあの衝撃的な光景を目にしてしまった私にとっては、赤井さんと会うのは少し怖くて気まずかったので正直助かった。
「有栖川、今日何かあったのか?」
利用者さんを家まで送り届ける車の中で、行きとは逆に最後に家に帰る事になる長手さんがそう言って尋ねてくる。
私は何と言ったらいいのか分からずに「うーん」とか「あー」とか唸っていると、痺れを切らしたように長手さんが口を開く。
「赤井の垢舐めを見ちまったとか?」
「ええええっ⁉︎ 何故それを⁉︎」
「やっぱりなぁ。最近我慢してたみたいだからなぁ。今日は我慢出来なかったのか」
長手さん、さすが施設利用者さんの中でも主と言われるだけはある。動じない。
いや、動じないどころか私よりも断然その辺りの事情に詳しそうだ。
どうしても気になる、この際疑問をぶつけてしまおうか。
「長手さんって、一体何者ですか?」
「ワシか? ワシはな、手長じゃよ」
「てなが……。長手さんは、てなが?」
訳が分からない。昨日からずっと私の思考回路はいっぱいいっぱいだ。
ダルマ顔の長手さんは私の反応を見て面白そうにニヤニヤしているけれど、こちらとしては本当にそれどころではない。
「今日の送迎が終われば、天野くらいがお前に話してくれるんじゃないか? この彩歌市の秘密を」
「彩歌市の秘密? そんな壮大な話になるんですか?」
「壮大かどうかは知らんが、有栖川みたいな人間なら受け入れられるだろうよ。まぁ心配するな」
長手さんの変な自信に元気づけられて、とりあえず天野さんが事情を説明してくれるのを待とうと思えた。
私は本当周りに助けられている。利用者さん達も皆個性的ではあるけれど、いい人ばかりだし。
同僚にも恵まれて……赤井さん、大丈夫なのかな。
私に今の職場のアレコレを優しく教えてくれた赤井さん。
あの場面を見て「怖い」と思ってしまったのは確かだけれど、赤井さんが今まで自分にどんな風に接してくれたか考えると「怖い」より「何故」が先立った。
「それじゃあ今日もありがとう。有栖川、色々あって混乱するかも知れないけどな、ワシらはお前の事を頼りにしてるよ」
「あ、ありがとうございます。ではまた。さようなら長手さん」
「おう」
ヒョコヒョコと家の中へ入って行く長手さんは、ふと振り向いて厳ついダルマ顔にニカッと笑顔を浮かべた。
私を励ましてくれているつもりなんだろう。顔は怖いけど心は優しい人だ。
施設に帰ると天野さんが私を待っていて、相談室に呼ばれた。
あれから赤井さんは姿を見せず、ここにいるのかなと思ったけれど居なかった。
「さぁ、じゃあまず……この施設は彩歌市社会福祉協議会が運営するデイサービスだって事は分かってるわよね?」
「はい。もちろん」
天野さんが突然当たり前の事を聞くものだから拍子抜けしたけれど、まずはそこからが大切らしい。
「彩歌市の市長は誰か知ってる?」
「えっと……、すみません。実家は彩歌市じゃないもので。確か就職の時に聞いたんですけど、覚えてないです」
「怒楽さんね。大切な事だから覚えておきなさい」
天野さんはメモ用紙に「怒楽」と書いて丸で囲んだ。
そうだ、市長さんの名前が怒ったり楽しかったり忙しい名前だなぁと就職の時に笑ったのを思い出した。
思い出し笑いで頬が緩むのを天野さんに見つかって、クールビューティーな眼差しで咎められた。
「はい、すみません」
「この彩歌市はね、怒楽さんをトップにして長年やってきた『妖怪の集う場所』なの。それこそもう随分前からね」
「ようかいのつどうばしょ……。へ⁉︎」
な、なんですと⁉︎
彩歌市、あやかし⁉︎
まさか、そんなダジャレみたいな事ってある?
信じられない内容を淡々と語る天野さんは、私が話を聞いているのをその表情から確認して続きを語り始めた。
それはもう、私にとってはこれまで生きてきた中で一二を争う衝撃の事実で。
応援ありがとうございます!
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