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不完全な婚約
情交の後のひととき
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互いを貪り合った激しい時間が過ぎれは、再びこの部屋は初春の静かな夜が訪れる。
物音一つしない。あるのは、互いの微かな息遣いだけ。まるでこの世界に私達だけしかいないようだ。いや、眠りの世界から弾き出されたと言ったほうが正しいのかもしれない。
そんなことを思いながらも、私はうつらうつらとしている。瞼がひどく重い。
けれど、それはとてもとても幸福なひとときだった。だって私は今、大好きな人に抱かれ、大好きな人の胸の中にいる。
こんな満たされた気持ちで眠りに落ちるなんて、久方ぶりだ。
そんな気持ちからレイディックの胸の中で小さくあくびをして、目を閉じた瞬間、私を眠りから引き戻す彼の声が耳朶を刺した。
「…………ごめんね、アスティア」
さっきの熱を帯びた声音とは打って変わって、レイディックの声はとても沈んでいた。
「…………レイ、どうして謝るの?」
もしかして、レイディックは私との婚約を、なかったことにしようとしているのだろうか。
そんな不安がよぎれば、彼の顔を見ることができない。ただ声が震えないようにするのが精一杯だった。
───けれど、それは私の杞憂に終わった。
「昨日の今日なのに、激しく抱いてしまってごめんね。君が僕の婚約者になったと思ったら嬉しくてつい…………」
手加減ができなくて。
最後の言葉は、ごにょごにょと尻すぼみして上手く聞き取れなかった。
けれど、そんなことはどうでも良い。安堵と共に、くすくすと笑みが零れてしまう。何より、ちょっと子供っぽいその口調が、かつての彼を思わせるもの。なのに、口にした言葉はとても大人の発言だったので、そのギャップが妙におかしかった。
「レイ、私は大丈夫だから。そんなこと気にしないで」
身体をずらしてレイディックを見つめながらそう言えば、彼は拗ねたように口を尖らせた。
「無理っ。気にするよ…………でも、怒ってない?」
最後はおどおどと問いかける彼に、再び幸せな笑みが零れてしまう。
「ええ、全然怒ってないわ」
怒りを覚えるどころか、私は眩暈がするほどに幸福だった。けれど、私を抱きしめる彼は、深いため息を付いた。
「ねえ、アスティア。さっき僕が謝った時、ちょっと、びくってしたよね?」
「……………………」
気付かれていたか。いや、こんなに隙間なく触れ合っていたら、気付くのは当然だったか。隠すことができなかった浅はかな自分に対して、苦い気持ちがこみ上げる。
そんな私に、レイディックは感情を殺した口調で問いかけた。
「僕が君のこと遊びだと思ってる?君との婚約を、僕が本気じゃないと思ってる?」
「……………………」
それはまさにずっと私が抱えていた気持ち。でも、絶対に言葉にできない気持ちでもあった。
だから、何も言えない。頷くことも、首を横に振ることすらも。けれどそれは、明確な是と言う返事になってしまった。
途端に、レイディックは不機嫌な息を吐いた。とても怒っているのだろう。
いたたまれなくなって、ぎゅっと掛布を握り顔を隠そうとすれば、レイディックは腕を緩め私の顎を掴んだ。まるで、逃げるなと言わんばかりに。
「アスティア、それは結構、傷付くよ」
「……………………ごめんなさい」
空色の瞳の奥に、鮮明な赤が見え隠れする。それは怒りの色。けれど、レイディックの声音は震えていて、彼の怒りが本気で傷付いた故のものだということを知る。
もう、何を言っても自分にとって都合の良い訳になってしまう。だから私は、ありきたりな謝罪の言葉しか言えなかった。
けれど突然、私の顎を掴んだままレイディックは、声を上げた。
「じゃあ、さ」
急に明るい口調に変わった彼に、目を丸くする。そしてじっと続きの言葉を待てば、彼はにっこりと笑みを浮かべてこう言った。
「このまま一緒に寝てくれる?」
「もちろん。あのね、レイ…………実は私もそうして欲しかったの」
彼の提案は、仲直りの証ということ。
ぱっと笑顔になった私は、ついつい余計なことまで口にしてしまう。瞬間、レイディックは、信じられないといった様子で、目をぱちくりさせながら口を開いた。
「アスティア。君からそんなことを言ってくれるなんて、嬉しいよ。でも…………」
「でも?」
「また君を抱いてしまいそうで、僕はちょっと怖いな」
「…………っ」
昨日に引き続き、あれだけ激しく抱かれたのだ。さすがに、これ以上は身体が辛い。けれど、彼を拒みたくない。
そんな気持ちが葛藤して、まごまごする私に額に、レイディックは優しい口付けをしてくれる。
「冗談、冗談。今日はもう寝るだけにするよ」
そう言って、彼は私を抱きなおし、敷布を整える。そして、もう寝ようと言った。けれど、私は、彼の気持ちを知ってしまった以上、もう先送りにできない案件がある。
「ねえ、レイ。あのね、私一度診療所に戻ろうと思うの」
「…………なんで?どうして?」
小さなあくびをして、今まさに目を閉じようとしていた彼は、私の言葉を理解するのに、少し時間がかかってしまったようだ。
そして、追及の眼を私に向けた。
「ティシャにずっと薬草園の世話をお願いしていて…………それが申し訳ないし、私も一度、足を運んで薬草の状態を確認しておきたいの」
「……………………いつ?」
「えっと…………近いうちにと思っているけれど、ま、だ決めていないわ」
レイディックは、苦い微笑みを浮かべている。それが何だかとても怖く感じてしまう。
そして尻込みしながら、なんとか彼の問いに答えれば、レイディックは、ちょっと眉を上げて今後の指示を私に出した。
「わかった。じゃあ、3日後にして。その日なら馬車を用意できるから。ん?アスティア、約束したよね?出かける時は馬車を使うって。あとティシャと一緒に行動するって」
「ええ。もちろん、覚えているわ…………でも、馬車なんて、私が使って良いのかしら?」
ここは狭い村だ。レイディックの屋敷は村の外れにあるけれど、それでも馬車を使う距離ではない。
でも、レイディックにとったらこれも拒絶の言葉に聞こえたのだろう。露骨に不機嫌な声を出す。
「当たり前だよっ。もうっ、アスティアは、ディナーの時といい、変なことばかり気にするんだから。もっと僕を頼ってよ。それに、ここは君の屋敷でもあるんだから、遠慮なんてしないで…………」
口を挟む間も無いほど、流れるような口調で私を諫めていたレイディックだったけれど、眠気には勝てなかったのだろう。あくびによって、遮られてしまった。
そして、ちょっとバツが悪そうな笑みを浮かべ、私の髪を撫でる。
「…………アスティア、ごめん。僕、眠いや」
「そうね、寝ましょう。おやすみなさい、レイ」
実は私も相当、眠かった。
なので、レイディックがそう切り出してくれたことにほっとしつつ、就寝の言葉を彼に向ける。そうすれば、レイディックふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「おやすみ、アスティア。愛してるよ」
髪を撫でる手が滑り私の頬を撫でる。そしてその手は後頭部に移動し、そのまま彼の胸元へ引き寄せられる。
────トクン、トクン。
規則正しい彼の心音を聞きながら、私はすぐに深い眠りに落ちた。
物音一つしない。あるのは、互いの微かな息遣いだけ。まるでこの世界に私達だけしかいないようだ。いや、眠りの世界から弾き出されたと言ったほうが正しいのかもしれない。
そんなことを思いながらも、私はうつらうつらとしている。瞼がひどく重い。
けれど、それはとてもとても幸福なひとときだった。だって私は今、大好きな人に抱かれ、大好きな人の胸の中にいる。
こんな満たされた気持ちで眠りに落ちるなんて、久方ぶりだ。
そんな気持ちからレイディックの胸の中で小さくあくびをして、目を閉じた瞬間、私を眠りから引き戻す彼の声が耳朶を刺した。
「…………ごめんね、アスティア」
さっきの熱を帯びた声音とは打って変わって、レイディックの声はとても沈んでいた。
「…………レイ、どうして謝るの?」
もしかして、レイディックは私との婚約を、なかったことにしようとしているのだろうか。
そんな不安がよぎれば、彼の顔を見ることができない。ただ声が震えないようにするのが精一杯だった。
───けれど、それは私の杞憂に終わった。
「昨日の今日なのに、激しく抱いてしまってごめんね。君が僕の婚約者になったと思ったら嬉しくてつい…………」
手加減ができなくて。
最後の言葉は、ごにょごにょと尻すぼみして上手く聞き取れなかった。
けれど、そんなことはどうでも良い。安堵と共に、くすくすと笑みが零れてしまう。何より、ちょっと子供っぽいその口調が、かつての彼を思わせるもの。なのに、口にした言葉はとても大人の発言だったので、そのギャップが妙におかしかった。
「レイ、私は大丈夫だから。そんなこと気にしないで」
身体をずらしてレイディックを見つめながらそう言えば、彼は拗ねたように口を尖らせた。
「無理っ。気にするよ…………でも、怒ってない?」
最後はおどおどと問いかける彼に、再び幸せな笑みが零れてしまう。
「ええ、全然怒ってないわ」
怒りを覚えるどころか、私は眩暈がするほどに幸福だった。けれど、私を抱きしめる彼は、深いため息を付いた。
「ねえ、アスティア。さっき僕が謝った時、ちょっと、びくってしたよね?」
「……………………」
気付かれていたか。いや、こんなに隙間なく触れ合っていたら、気付くのは当然だったか。隠すことができなかった浅はかな自分に対して、苦い気持ちがこみ上げる。
そんな私に、レイディックは感情を殺した口調で問いかけた。
「僕が君のこと遊びだと思ってる?君との婚約を、僕が本気じゃないと思ってる?」
「……………………」
それはまさにずっと私が抱えていた気持ち。でも、絶対に言葉にできない気持ちでもあった。
だから、何も言えない。頷くことも、首を横に振ることすらも。けれどそれは、明確な是と言う返事になってしまった。
途端に、レイディックは不機嫌な息を吐いた。とても怒っているのだろう。
いたたまれなくなって、ぎゅっと掛布を握り顔を隠そうとすれば、レイディックは腕を緩め私の顎を掴んだ。まるで、逃げるなと言わんばかりに。
「アスティア、それは結構、傷付くよ」
「……………………ごめんなさい」
空色の瞳の奥に、鮮明な赤が見え隠れする。それは怒りの色。けれど、レイディックの声音は震えていて、彼の怒りが本気で傷付いた故のものだということを知る。
もう、何を言っても自分にとって都合の良い訳になってしまう。だから私は、ありきたりな謝罪の言葉しか言えなかった。
けれど突然、私の顎を掴んだままレイディックは、声を上げた。
「じゃあ、さ」
急に明るい口調に変わった彼に、目を丸くする。そしてじっと続きの言葉を待てば、彼はにっこりと笑みを浮かべてこう言った。
「このまま一緒に寝てくれる?」
「もちろん。あのね、レイ…………実は私もそうして欲しかったの」
彼の提案は、仲直りの証ということ。
ぱっと笑顔になった私は、ついつい余計なことまで口にしてしまう。瞬間、レイディックは、信じられないといった様子で、目をぱちくりさせながら口を開いた。
「アスティア。君からそんなことを言ってくれるなんて、嬉しいよ。でも…………」
「でも?」
「また君を抱いてしまいそうで、僕はちょっと怖いな」
「…………っ」
昨日に引き続き、あれだけ激しく抱かれたのだ。さすがに、これ以上は身体が辛い。けれど、彼を拒みたくない。
そんな気持ちが葛藤して、まごまごする私に額に、レイディックは優しい口付けをしてくれる。
「冗談、冗談。今日はもう寝るだけにするよ」
そう言って、彼は私を抱きなおし、敷布を整える。そして、もう寝ようと言った。けれど、私は、彼の気持ちを知ってしまった以上、もう先送りにできない案件がある。
「ねえ、レイ。あのね、私一度診療所に戻ろうと思うの」
「…………なんで?どうして?」
小さなあくびをして、今まさに目を閉じようとしていた彼は、私の言葉を理解するのに、少し時間がかかってしまったようだ。
そして、追及の眼を私に向けた。
「ティシャにずっと薬草園の世話をお願いしていて…………それが申し訳ないし、私も一度、足を運んで薬草の状態を確認しておきたいの」
「……………………いつ?」
「えっと…………近いうちにと思っているけれど、ま、だ決めていないわ」
レイディックは、苦い微笑みを浮かべている。それが何だかとても怖く感じてしまう。
そして尻込みしながら、なんとか彼の問いに答えれば、レイディックは、ちょっと眉を上げて今後の指示を私に出した。
「わかった。じゃあ、3日後にして。その日なら馬車を用意できるから。ん?アスティア、約束したよね?出かける時は馬車を使うって。あとティシャと一緒に行動するって」
「ええ。もちろん、覚えているわ…………でも、馬車なんて、私が使って良いのかしら?」
ここは狭い村だ。レイディックの屋敷は村の外れにあるけれど、それでも馬車を使う距離ではない。
でも、レイディックにとったらこれも拒絶の言葉に聞こえたのだろう。露骨に不機嫌な声を出す。
「当たり前だよっ。もうっ、アスティアは、ディナーの時といい、変なことばかり気にするんだから。もっと僕を頼ってよ。それに、ここは君の屋敷でもあるんだから、遠慮なんてしないで…………」
口を挟む間も無いほど、流れるような口調で私を諫めていたレイディックだったけれど、眠気には勝てなかったのだろう。あくびによって、遮られてしまった。
そして、ちょっとバツが悪そうな笑みを浮かべ、私の髪を撫でる。
「…………アスティア、ごめん。僕、眠いや」
「そうね、寝ましょう。おやすみなさい、レイ」
実は私も相当、眠かった。
なので、レイディックがそう切り出してくれたことにほっとしつつ、就寝の言葉を彼に向ける。そうすれば、レイディックふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「おやすみ、アスティア。愛してるよ」
髪を撫でる手が滑り私の頬を撫でる。そしてその手は後頭部に移動し、そのまま彼の胸元へ引き寄せられる。
────トクン、トクン。
規則正しい彼の心音を聞きながら、私はすぐに深い眠りに落ちた。
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