監禁された私には、時空の監視者の愛情は伝わらない

茂栖 もす

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◆◇第一幕◇◆ 時空の監視者の愛情は伝わらない 

鍵のない部屋

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 苛立ちが極限まで達していた私だったけれど、重苦しい静寂に包まれれば、まるで世界中の人間に見捨てられたような気持ちになってしまった。でも、打ちひしがれていたのは一瞬で、すぐに身を起こした。

 こんなところで項垂れている場合ではない。今すぐバルドゥールの後を追わないと取り返しのつかないことになる。

 今までに感じたことがない程の得も言われぬ不安に襲われて、私はベッドから転がり落ちるように床に降りた。そして、あちらこちらよろけるように壁に移動して、そのままそれを支えにして扉へと向かう。

 抱かれた後は指先一つ動かすだけでも億劫だというのに、こんなことをしている自分に何をやっているんだと、呆れてしまう。

 もうバルドゥールはとっくに部屋を出てしまっているのに。後を追いたくても、彼の部屋がどこにあるかなんて知らないし、あんなひどい態度を取った私が、どの面下げて彼に会えばいいのだろうか。

 いやそれ以前に、この部屋には鍵がかかっているはずだから、私は許可を貰わずに外へ出るなんて不可能だというのに。

 そんなことを思っても、漠然とした焦りから、馬鹿なことをしている自分を止められないでいる。

 そしておぼつかない足取りで扉の前に到着した私は、全体重をかけながら両手でドアノブを回した。

「───………え?うそ」

 ドアノブを少し動かせば、硬い何かが邪魔をして回しきることはできないだろうと思っていた。なのに、いとも簡単に扉が開いてしまった。

 けれどそれは本当に予想だにしていないことだった。なので、ガチャリと扉が開いた瞬間、私はバランスを崩して廊下へと倒れ込んでしまう。

 咄嗟に両手を付いて、転倒を防ごうと思った。けれど、そう思った時には肩と膝を思いっきり打ち付けていた。なのに、不思議と痛みはない。それは間違いなく、この状況に混乱しているから。

 倒れ込んだまま首だけを起こし、あっさりと開いてしまった扉を見つめ、何度も瞬きを繰り返す。

 この部屋に鍵をかけなくなったのは、いつからなのだろう。私がここに保護された時は間違いなく鍵はかかっていた。手が痛くなるほどドアノブを回し、扉を叩いたあの日を私は忘れるはずがない。

 なら、いつから?と自分に問いかけたけれど、今の私は、わからないフリをしているだけ。だから、すぐに首を横に振った。考えなくてもわかる。きっと、いや間違いなくやり直しを始めたあの日からなのだろう。

 仕掛けの無い手品を見せられたような気がして、私は廊下にへたりこんだまま、何度も部屋と通路を交互に見つめる。そして馬鹿だなぁと、自分に向けて小さく呟いてみる。 

 こんなことすら気付けずにいたのだ。知ろうともせず、聞くこともせず、警戒心の強い小動物のように私はずっと自分の意志で鍵の無い檻から出ようとしなかっただけなのだ。白い独居房に囚われ続けていたのは自分だった。

 鍵をかけずにいることに、彼はどれほどの勇気が必要だったのだろう。いつまた私が逃げ出すかもしれない。そんな恐怖を抱えて、日々を過ごしていたのだ。私にはそんな素振りすら見せずに。なのに私は欲しい言葉が貰えなかっただけで、子供みたいに不貞腐れていた。

 バルドゥールが私を抱くのは、時空の監視者だから。それは曲げることができない現実だ。でもそれだけなら、彼は自ら不安や恐怖を受けるようなことをしなくても良いはずなのに。表面だけ取り繕う優しい言葉だけを私にかけていれば良いはずなのに。

 もう一度、開いたままの扉を見つめ確信する。あの時、私が欲しかった言葉はここにあった。

 そして気付いてしまった。見失っていたのは私の方だったことを。多くのものを求め過ぎていたのは私の方だった。垣根は彼が作っていたのではなく、私が作っていた。

 「…………ごめんなさい」

 猫のように体を丸めて、ここには居ない彼に謝罪の言葉を紡ぐ。何度も、何度も。でも何度言っても足りないぐらい、私は心から恥じていた。

 血の繋がった者でさえ私を愛してはくれなかったのに。バルドゥールは時空の監視者という責務だけで、こんなにも私を大切にしてくれていたというのに。これ以上私は、彼に何を求めようとしたいたのだろうか。この現実があるだけで私はもう十分だというのに。

 彼の心の中にいる私が、同情を誘う可哀想な異世界の人間のままでもいい。変っていく私に気付いて欲しいなど、もう望まない。

 そして、この事実がいつか壊れてしまう希望と理想の仮定形であったとしても。私はそれをちゃんと受け止める。バルドゥールを責めたりはきっとしないだろう。

 そう決意した途端、胸がしめつけられるように痛んだ。でもこの痛みは、ついさっきまで抱えていた痛みとは違う別のもの。更に身体を丸めながら、この痛みを甘んじて受け続ける。こんなことでは贖罪にならないけれど、それでも誤魔化して痛みを和らげたいとは思わなかった。

 ───そんな私は、こちらに近づいてくる足音に気付くことができなかった。

「アカリ」

 自分の名を呼ばれ、初めてバルドゥールがすぐ傍にいることに気付いた。

 いつから?どうして?そんな問いが頭の中で弾けるように浮かんだけけれど、結局その問いを一つも口にすることはできず、のろのろと顔を上げることしかできなかった。そしてそうすれば視界の全てが、心配そうに私を覗き込むバルドゥールだけになる。

「泣いているのか?」

 おずおずと問いかけるバルドゥールの手が、私の頬をそっと包み込む。

 その手は少し汗ばんでいて、吐き出す息も整っていない。もしかして、私が倒れた音を聞いて駆けつけてくれたのだろうか。

「アカリ、泣かないでくれ」

 バルドゥールの問いに答えないまま、ぼんやりと見つめれば、再び彼は震える声でそう紡いだ。

 そして無言で袖口を何度も私の頬に擦り付ける。その彼の仕草で、私は泣いていたことを知った。でも、私の涙の有無など、どちらでも良かった。それよりも、金色の瞳を揺らしている彼のほうがよっぽど泣いているように見えて、胸が抉られるように痛んだ。

「…………さっきは、ごめんなさい」

 そんな顔をさせてしまったことが申し訳なくて、私は、彼の質問を無視して、今、一番伝えたいことを口にした。

 でもそれを聞いた途端、バルドゥールは更に泣きそうな顔をしてしまった。そしてきっと私も同じような顔をしているのだろう。その顔を見られたくなくて、ちょっと俯いて彼の袖に触れながら、二番目に伝えたいことを口にした。

「私、ちょっと色々考えすぎて、どうしていいのかわからなくなっていただけなんです。バルドゥールさんに不満なんてありません。リンさんのことも、ありがとうございます。もう、大丈夫です。心配かけてごめんなさい」
「何を悩んでいたか聞いても良いか?」
 
 間髪入れずに、そう問われ、私は首を横に振った。そして落胆した表情を隠さないバルドゥールに向かって、慌てて補足する。

「でも、次からはちゃんとバルドゥールさんに伝えます」
「…………そうか」

 少しの間の後、バルドゥールはゆっくりと噛み締めるように頷いた。そして太い腕を回し、私を真綿のように包み込む。

 部屋よりももっと薄暗い廊下で、私達はただ無言のまま、互いの息遣いを感じている。でもそれは、そんなに長い間ではなく───。

「アカリ、部屋に戻ろう」

 唐突に切り出したバルドゥールの声と共にふわりと身体が浮き、一拍遅れて彼が私を抱き上げたことを知る。いつもより高い視界の中、歩調に合わせて硬い胸板に頬が当たり、服越しに彼の肌の温もりが伝わってくる。

「まったくお前は…………抱いた後なのに、無茶をする」

 部屋へと足を踏み入れ、そのまま真っすぐベッドに向かうバルドゥールの口調は怒りを含んでいる。なのに、先程のように部屋がしんと冷えていく気配はない。

「ごめんなさい。どうしても、あのままでは………嫌だったんです」

 ぽろりと本音を零せば、私を抱く腕に力が籠る。

「…………馬鹿だな」

 苦笑交じり呟かれたその言葉はどちらに向けてのものだったのだろうか。

 そんなことを考えていたら、バルドゥールの歩が止まった。そして私をそっとベッドに横たえると、彼はそのまま覆いかぶさるように、私を覗き込んだ。

「アカリ、さっきは怖がらせて悪かった」

 声音も表情も、とても苦しそうなバルドゥールを見て、私は無言のまま勢い良く首を横に振った。

「あなたを傷つけることを私が言ってしまったんですから…………あ、あの………もう気にしないで下さい」

 どう言えば彼にちゃんと伝わるのだろう。そんなことを考えても、結局、稚拙な言葉でしか伝えられなかった私に、バルドゥールはありがとうと言って柔らかい笑みを浮かべてくれた。

 そして、私に覆いかぶさるっていた彼だけれど、こつんと互いの額を合わせた後、身を起こして安堵の息を吐く。その姿をじっと見つめていれば、当たり前のように視線が絡み合う。

「もう少しここにいて良いか?」

 バルドゥールは低く落ち着いた声で私に問いかけた。それにちょっと驚いて目を丸くしてしまう。

 なぜなら私も同じ言葉が浮かんでいたから。

 だから無言のまま彼に向かって手を伸ばしてみた。そうすれば、バルドゥールはとても自然な流れで私の手に自分の指を絡めた。

 手を伸ばせば必ず取ってくれる、温かくて、柔らかくて、拒まないもの。それを人は安心と呼ぶのだろう。

 不意に浮かんだそれは、今までバルドゥールとの距離を計りかねていた私にとって、ストンと胸に収まるものだった。

 この人は時空の監視者で、私をこの世界で生かす術を持つ人。でも、それだけじゃない。私に絶対の安心を与えてくれる人。一生手に入れることができないと思っていた、父親のような言葉のない優しさと、母親のような温もりを与えてくれる人。

「バルドゥールさん、あの日、私を見付けてくれて、ありがとうございます」

 そう言って笑みを向ければ、揺らめく蝋燭の灯に照らされた金色の瞳の持ち主は更に柔らかく微笑み、形の良い唇を動かした。

「それは俺の台詞だ。……………アカリ、ありがとう。俺は生涯この夜を忘れることはない」

 その声は、ずっと他人から向けられる心を拒絶していた私の心に、陽だまりのようなささやかな温もりを与えてくれた。
 
 そっか、私が望んでいたバルドゥールとの関係は、こういう形だったんだ。

「おやすみなさい、バルドゥールさん。私もきっと、この夜を忘れないと思います」

 そう就寝の挨拶をして眼を閉じれば、バルドゥールから優しい口付けが瞼に降りてきた。
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