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レストランに行こう
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美香の最後の言葉だった。
末期のすい臓がん。発見が遅れすぎた。医者からは「あと数ヶ月」と宣告されてから、すでに九ヶ月が過ぎていた。痛みは激しく、モルヒネを増やしても顔を歪める日々が続いた。それでも美香は、病室の小さなテレビを見ながら、時々笑った。
「ねえ、退院したら絶対に……あのイタリアンのお店に行こうよ。渋谷の裏路地にある『ルーチェ』。結婚十周年記念日に予約してたけど、私の入院でキャンセルしちゃったよね」
僕はベッドサイドで彼女の手を握りしめ、ただ頷いた。言葉を発したら、堰を切ったように泣いてしまいそうだった。
美香は、その言葉を残して二日後の深夜、静かに目を閉じた。僕の手を握ったまま、もう二度と開かない目で。
葬儀が終わってからも、現実が受け入れられなかった。家に帰ると、美香の匂いがするカーディガンがソファにかかっている。キッチンには二人で買ったエプロン。冷蔵庫には、彼女が最後に作ったトマトソースの残り。
僕は会社を辞め、毎日酒を飲んだ。夜は美香の遺影に話しかけた。
「ごめん……もっと早く連れて行ってあげればよかった」
それから五ヶ月が経ったある夜、僕はふと思い立った。
――レストランに行こう。
美香との約束を、一人ででも叶えよう。
僕は久しぶりにシャワーを浴び、髭を剃った。美香が「これ似合うよ」と選んでくれたダークグレーのスーツ。ネクタイは彼女の好きな淡いブルー。
予約なしだったが、平日の夜なら入れるはずだ。
渋谷の裏路地は雨上がりの湿った空気が漂い、ネオンの光が水溜まりに映っていた。『ルーチェ』の小さな木製のドアを見つけたとき、胸が張り裂けそうになった。
店内は暖かなオレンジの照明。木の温もりが感じられるテーブル。壁にはイタリアの風景写真。
マスターは穏やかな五十代の男性で、優しく迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
「……二人でお願いできますか」
マスターは少し目を細めたが、すぐに窓際の二人席へ案内してくれた。美香がネットで見て「ここがいい!」と興奮していた席だった。
メニューを開き、僕は丁寧に注文した。
前菜は鮮魚のカルパッチョとカプレーゼ。トマトの赤とバジルの緑が、美香の好きな色だった。
スープはミネストローネ。彼女はいつも「野菜たっぷりが体にいいよね」と笑っていた。
パスタはペスカトーレ。エビとあさりがゴロゴロ入ったトマトソース。
メインは仔牛のカツレツ、ミラノ風。レモンを絞って食べるのが美香の好み。
ワインはキャンティ・クラシコのボトル。結婚記念日に飲むはずだったもの。
料理が運ばれるたび、僕は向かいの空いた席に話しかけた。
「美香、ほら、カルパッチョ。タイが新鮮で美味しいよ。君の好きな薄切り」
「パスタ熱々だよ。エビがプリプリ。……半分こしようか?」
僕はフォークで少し取り、美香の皿に移した。
ワイングラスも、彼女の分を注いだ。赤い液体がグラスの中で揺れる。
マスターは時々こちらを見て、優しく微笑むだけだった。
デザートにティラミスとエスプレッソを頼んだ頃、僕は酔いが回っていた。
「美香……ごめんね。もっと一緒にいたかった。もっと、いろんなところに連れて行きたかった」
涙が止まらなくなった。
その瞬間――向かいの椅子が、かすかに軋んだ。
グラスが少し傾き、ワインが波打った。
ナプキンがふわりと浮いた。
「……美香?」
返事はない。でも、確かにそこにいる気がした。
会計のとき、マスターが静かに言った。
「奥様も、きっと喜んでいらっしゃいますよ。実は、数ヶ月前に佐藤様ご夫妻でご予約をいただいておりました。でもキャンセルが……今夜は偶然、そのお席が空いておりました」
僕は驚いて顔を上げた。名前を覚えられているのも不思議だった。
店を出て、夜風に吹かれながら歩いた。
「美香、ありがとう。来てくれて」
風が優しく頰を撫でた。
それからというもの、僕は毎月のように『ルーチェ』に通うようになった。
いつも二人分の席。
いつも同じメニュー。
ワインは少しずつ減り、パスタは半分になる。
ティラミスのスプーンには、時々淡い唇の跡。
ある夜、向かいの席に小さな封筒が置かれていた。
美香の字で、
『今日は私がおごるね。
ずっと一緒にいよう。
――美香』
マスターが言った。
「お会計は、もう済んでおります」
僕は振り返った。店の奥に、美香が立っているような気がした。
それ以来、僕はもう店に行っていない。
なぜなら――
家に帰ると、美香がいるから。
キッチンからトマトソースの香りがする。
「おかえり。今日はパスタにしようか」
彼女の声が、すぐそばで聞こえる。
僕は微笑んで頷く。
一緒に食卓について、ワインを注ぐ。
彼女のグラスも、ちゃんと注ぐ。
夜、ベッドに入ると、美香が隣で眠っている。
手を握ると、温かい。
毎朝、目が覚めると、彼女がコーヒーを淹れてくれている。
「今日もいい天気だね。一緒に散歩しようか」
僕は幸せだった。
すべてが、完璧だった。
――そして、突然、目が覚めた。
白い天井。ピッ、ピッ、という機械音。
体が動かない。
視界の端に、モニター。心拍数、血圧。
看護師の声。
「佐藤さん!? 目が……開きました!?」
医者が駆けつける。
「奇跡だ……植物状態から五年、ついに意識が戻った!」
僕は必死に口を動かそうとした。
でも、声が出ない。
頭の中だけで、叫んだ。
美香……どこにいる?
看護師が涙ぐみながら言った。
「奥様は……五年前に、ご病気で……」
僕は理解した。
すべては、夢だった。
植物状態の僕が、長い昏睡の中で見た、長い長い夢。
美香は、もういない。
そのショックから僕は倒れてしまったらしい。
レストランも、一緒に暮らす日々も、全部ない――
僕の願いが作り出した、幻。
涙が、動かない頰を伝った。
カルパッチョの味だけが何故だか口に残っている気がした。
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