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第十話 深淵を覗く影
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王城から数街区離れた、裏通りの奥。
昼なお陰が濃い石畳には人の気配もなく、かすかな露の跡だけが残されていた。
その静けさを裂くこともなく、一人の男が歩く――
銀の仮面に、黒の燕尾服。
鋭くも冷たい眼差しを、その奥に隠しながら。
クラウス・フォン・ノイバウンシュタイン。
かつて王家直属の“影”としてあった男。
今はただ、ある令嬢に仕える一執事。
だが今夜は――そのどちらでもない。
“国家にとって危険と見なすべき女”の正体を、洗うために動いていた。
彼が足を止めたのは、街の外縁に近い王都記録院。
王城とは別に、戸籍や人口管理記録が集約される場。
昼夜問わず衛兵に守られ、許可なき者は立ち入り禁止。
だがクラウスにとっては、衛兵や鍵など紙より軽い。
角灯の火が乾いた風で揺れ、衛兵の視線が一瞬だけ炎に吸い寄せられる。
その揺れを待って、靴底を石目に平行に置く。革が鳴らない角度だ。
右の衛兵が槍を持ち替えるくせ――柄尻が床を打つ間合いが四拍。
三拍目で柱の影から抜け、四拍目の音に足音を重ねる。
扉の前に立つ頃には、鎧の金具がまた一度だけ鳴った。
そこに残ったのは、冷えた空気だけだった。
錠前に触れる指先が一度だけ止まり、革手袋の指を外して金属に耳を寄せる。
小さな舌打ちのようなバネ音。――解錠は、それだけでよかった。
誰にも気づかれず、誰にも声をかけられず、彼は裏手の木製扉をくぐり抜け、無音のまま書庫へと滑り込んだ。
中は冷えきっていた。
湿り気はなく、乾いたインクの古臭さが鼻腔を刺す。
手にした帳簿の端は、乾ききった革のようにパリ、と音を立てた。
「……フェリシア・ルーン」
彼は女の名を口の中で転がしながら、棚を探る。
“地方の商家出身”という公式説明――しかし、その痕跡はまるで布で塗り潰されたかのように不自然だった。
――家族の記録なし。
――出生地の村は火災で消失。
――唯一残された雇用記録も、今年に入って突然出現。
「偽装か……それとも、“人物”自体が存在していない……?」
クラウスの指先が、ほんのわずかに止まる。
妃候補として、これほど“空白に満ちた女”は見たことがない――一言で言うなら“異物”。
まるで、誰かが“精密に造形された美しい娘”を――
この王国に後から差し込まれたような、不自然な継ぎ目。
だが、クラウスの眉は動かない。
ただ淡々と、手紙でも手に取るかのように、記録を抜き取る。
彼にとって、正体などどうでもよかった。
重要なのは、“主”に災いをもたらす存在か否か。
「この歪みは、リシェルお嬢様を貶めるだけのためには過ぎた手際。……“偶然”とは考えにくい」
女の正体は不明――だが、背後に何らかの“意志”があるのは間違いない。
それが“誰の意志”かを確かめるには、まだ材料が足りない。
クラウスは最後に二冊、別の帳簿を引き抜いた。
王都に出入りした旅人の記録台帳。
それから、とある劇場の演者のリスト。
セドリック王子が頻繁に通っていたという、南区の劇場――
王子の気まぐれ癖は、こういう場所にこそ表れる。
「……“ミレイ”という名。三ヶ月前から複数回。舞台演者としての登録」
名義が異なる。フェリシアではなく、ミレイ。
だが、身長、髪、瞳の色、年齢――。
照合項目は一致する――“今のところは”。
「変名、あるいは立場の使い分け。」
女はただの平民の娘ではない。
貴族でもない。
“何か”を演じるために生み出された存在――
造られた“物語”。もし、本人すら、その配役に気づいていないのだとしたら……
誰にも聞かせるつもりもない声で、彼は呟いた。
「ならば、そろそろ“化粧”を剥がして差し上げねばなりませんね」
紙の山を整え直し、何も盗らず、痕跡も残さず――
クラウスは記録院を後にした。
クラウスが扉を出ると、夜風に燕尾をなびかせたそのとき――
空気が、わずかに“鳴った”。
気のせい、と流すには重すぎる気配。
彼はすぐに歩みを止め、振り向かずに低く問いかける。
「……どなたです?」
返事はなかった。
けれど――小さく息を吐くような音に紛れて、声が届いた。
男とも、女ともつかぬ、けれど背筋に触れるような声が。
「深淵を覗く者を、深淵もまた覗いていますわ――お忘れなきよう」
ほんの一瞬、世界が冷えた気がした。
夜の闇さえ、その言葉を聞き逃すまいと耳を澄ます。
黒燕尾の裾が、風もないのにふわりと揺れる。
前を向いたままの仮面の奥の双眸が、冷ややかに暗がりを見据えた。
「――お嬢様の安寧を脅かすものならば、たとえ深淵とて、容赦はいたしません」
低く、しかし凛とした声。
氷の刃のような静けさが、空気を切り裂く。
ほんのひとかけ、気配が揺れた。
だが、次の瞬間にはすべてが消えていた。気配も、風も。
「……気のせいではなさそうですね」
振り返ることもなく――
仮面の奥で目を細めながら、クラウスは静かに歩き出す。
夜風が、燕尾の裾をわずかに揺らす。
その背に勲章はなく、栄誉もない。
ただそこには、王国で最も冷たく、鋭い刃が静かに息づいていた。
そして風は止み、王都の夜は静けさに沈んでいく。――闇の気配を孕んだまま。
昼なお陰が濃い石畳には人の気配もなく、かすかな露の跡だけが残されていた。
その静けさを裂くこともなく、一人の男が歩く――
銀の仮面に、黒の燕尾服。
鋭くも冷たい眼差しを、その奥に隠しながら。
クラウス・フォン・ノイバウンシュタイン。
かつて王家直属の“影”としてあった男。
今はただ、ある令嬢に仕える一執事。
だが今夜は――そのどちらでもない。
“国家にとって危険と見なすべき女”の正体を、洗うために動いていた。
彼が足を止めたのは、街の外縁に近い王都記録院。
王城とは別に、戸籍や人口管理記録が集約される場。
昼夜問わず衛兵に守られ、許可なき者は立ち入り禁止。
だがクラウスにとっては、衛兵や鍵など紙より軽い。
角灯の火が乾いた風で揺れ、衛兵の視線が一瞬だけ炎に吸い寄せられる。
その揺れを待って、靴底を石目に平行に置く。革が鳴らない角度だ。
右の衛兵が槍を持ち替えるくせ――柄尻が床を打つ間合いが四拍。
三拍目で柱の影から抜け、四拍目の音に足音を重ねる。
扉の前に立つ頃には、鎧の金具がまた一度だけ鳴った。
そこに残ったのは、冷えた空気だけだった。
錠前に触れる指先が一度だけ止まり、革手袋の指を外して金属に耳を寄せる。
小さな舌打ちのようなバネ音。――解錠は、それだけでよかった。
誰にも気づかれず、誰にも声をかけられず、彼は裏手の木製扉をくぐり抜け、無音のまま書庫へと滑り込んだ。
中は冷えきっていた。
湿り気はなく、乾いたインクの古臭さが鼻腔を刺す。
手にした帳簿の端は、乾ききった革のようにパリ、と音を立てた。
「……フェリシア・ルーン」
彼は女の名を口の中で転がしながら、棚を探る。
“地方の商家出身”という公式説明――しかし、その痕跡はまるで布で塗り潰されたかのように不自然だった。
――家族の記録なし。
――出生地の村は火災で消失。
――唯一残された雇用記録も、今年に入って突然出現。
「偽装か……それとも、“人物”自体が存在していない……?」
クラウスの指先が、ほんのわずかに止まる。
妃候補として、これほど“空白に満ちた女”は見たことがない――一言で言うなら“異物”。
まるで、誰かが“精密に造形された美しい娘”を――
この王国に後から差し込まれたような、不自然な継ぎ目。
だが、クラウスの眉は動かない。
ただ淡々と、手紙でも手に取るかのように、記録を抜き取る。
彼にとって、正体などどうでもよかった。
重要なのは、“主”に災いをもたらす存在か否か。
「この歪みは、リシェルお嬢様を貶めるだけのためには過ぎた手際。……“偶然”とは考えにくい」
女の正体は不明――だが、背後に何らかの“意志”があるのは間違いない。
それが“誰の意志”かを確かめるには、まだ材料が足りない。
クラウスは最後に二冊、別の帳簿を引き抜いた。
王都に出入りした旅人の記録台帳。
それから、とある劇場の演者のリスト。
セドリック王子が頻繁に通っていたという、南区の劇場――
王子の気まぐれ癖は、こういう場所にこそ表れる。
「……“ミレイ”という名。三ヶ月前から複数回。舞台演者としての登録」
名義が異なる。フェリシアではなく、ミレイ。
だが、身長、髪、瞳の色、年齢――。
照合項目は一致する――“今のところは”。
「変名、あるいは立場の使い分け。」
女はただの平民の娘ではない。
貴族でもない。
“何か”を演じるために生み出された存在――
造られた“物語”。もし、本人すら、その配役に気づいていないのだとしたら……
誰にも聞かせるつもりもない声で、彼は呟いた。
「ならば、そろそろ“化粧”を剥がして差し上げねばなりませんね」
紙の山を整え直し、何も盗らず、痕跡も残さず――
クラウスは記録院を後にした。
クラウスが扉を出ると、夜風に燕尾をなびかせたそのとき――
空気が、わずかに“鳴った”。
気のせい、と流すには重すぎる気配。
彼はすぐに歩みを止め、振り向かずに低く問いかける。
「……どなたです?」
返事はなかった。
けれど――小さく息を吐くような音に紛れて、声が届いた。
男とも、女ともつかぬ、けれど背筋に触れるような声が。
「深淵を覗く者を、深淵もまた覗いていますわ――お忘れなきよう」
ほんの一瞬、世界が冷えた気がした。
夜の闇さえ、その言葉を聞き逃すまいと耳を澄ます。
黒燕尾の裾が、風もないのにふわりと揺れる。
前を向いたままの仮面の奥の双眸が、冷ややかに暗がりを見据えた。
「――お嬢様の安寧を脅かすものならば、たとえ深淵とて、容赦はいたしません」
低く、しかし凛とした声。
氷の刃のような静けさが、空気を切り裂く。
ほんのひとかけ、気配が揺れた。
だが、次の瞬間にはすべてが消えていた。気配も、風も。
「……気のせいではなさそうですね」
振り返ることもなく――
仮面の奥で目を細めながら、クラウスは静かに歩き出す。
夜風が、燕尾の裾をわずかに揺らす。
その背に勲章はなく、栄誉もない。
ただそこには、王国で最も冷たく、鋭い刃が静かに息づいていた。
そして風は止み、王都の夜は静けさに沈んでいく。――闇の気配を孕んだまま。
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