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02.世界の底で
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フィラティノアの冬の訪れは早い。なかでも、西北にあるこの土地は、いっそう冬に好かれているのだと思われるほどだった。つい先頃まで金色に色づいていた木々の葉が、いつの間にか風の中に消え寂しく幹と枝のみが残る。そこに雪の衣装を纏うまで、さしたる時間はかからない。白銀の貴婦人と謳われる首都オリアには比ぶべくもないが、エーファの集落も素朴な雪景色の美しい場所だった。
産業と呼べるほどのものもなく、農業のみで生活している集落の人々も、また素朴であり、時折国内に沸き起こる戦禍からも程遠い位置にあるのだと、そのときまではアデルもその家族も皆思っていたのだ。
「領主様からの、お呼び出し?」
兄の元に兵士として城に上がるよう使いが訪れたのが、今朝のことだった。エーファは国王の直轄領であり、領主とは国王より派遣された代官を指す。が、その代官はここよりも丘を幾つか、川を幾つか隔てた街に赴任している。かのひとが領地を巡察に訪れたことなど一度もないから、それがどのような人なのか、果たして男性なのか女性なのか、子爵なのか男爵なのか、まるで判らない。
そんな人物からの突然の招集である。なにごとか、とアデルの両親も当の兄も兄嫁も、驚いたものだった。
「隣の領地で、反乱があったとか」
老齢を理由に隠居し、家長を兄に譲った父は、部屋の隅の椅子にうずくまるようにして座ったまま、小さく呟いた。反乱、とは時折何処かでおこるものだとは聞いていたが、今回は思いのほか近かったらしい。直接エーファが襲われることはないが、
「警備を強化することが目的だそうだ」
実際、戦闘をすることはない。軍備を整えるだけとの説明があった模様である。
兄だけではなく、エーファの若者全てに今回の招集はかかっていて、一人だけ断るわけにもいかない。とはいえ、アデルの家も多分に漏れず農業を営んでいる。兄夫婦が中心となって作業を行ってはいるが、兄嫁ヘルガは現在第二子を孕んでいた。第一子のマルガは漸く乳離れをしたばかりである。面倒はアデルが見ているとはいえ、兄を失えばこの先家業を続けられるか疑問だった。
「香草園だけは、なんとか維持出来るかもしれない」
が、他は無理だろうと兄は言う。香草は、アデルの家は勿論この辺りの農家の主要産業である。それだけでは生活してはいけないので、花の栽培もやれば、数軒で費用を出し合って魚の養殖までも行っていた。魚の方は割と好評で近隣の富裕層に喜ばれるため、最近では農業よりもこちらの方に力を入れる家が多くなってきているのだ。しかしこれは手入れに時間を要し、また手間がかかるため、どうしても男手が必要だった。その権利を、魚を分けてもらうことを条件に他家に譲り、両親とヘルガとで香草園を細々と営んでいく――それしかないだろう、と。
「香草園の実入りだけでは、難しいでしょう」
膨らんだ腹をさすりながら、ヘルガが呟く。そうは言うものの、この腹ではヘルガの手は当てには出来ない。それにマルガの面倒は誰が見るのだ、と兄の顔が渋くなる。
「あたしが手伝う、ヘルガはマルガとゲルトたちをお願い」
アデルが申し出ると
「そうね、マルガはあたしが見なきゃ」
ヘルガがにこりと笑った。アデルの弟妹ゲルトとラエルも、そろそろひとりで身の回りのことが出来るような年齢になっている。ゲルトであればマルガの相手もできるであろうし、そう両親も兄夫婦も考えたに違いない。
そうこうしているうちに、兄フォルカーは故郷を旅立った。
近隣の若者たちもやはり同様に領主の元に集って行く。集落は更に活気を失い、春が過ぎ夏を迎えたころになっても、まどろみの中に居るような不思議な静けさを帯びていた。
そんな折である。
隣の街が、盗賊に襲われたのは。
「ヴィーラントの旦那様のお屋敷も、襲われたそうだ」
近隣の家から様子を聞いて来た父が、真っ青な顔で食卓に着いたとき、母は手にしていた器を危うく取り落としそうになり、ヘルガは腕に抱えた乳飲み子を反射的に強く抱き締めすぎて大泣きさせてしまった。慌てて子をあやしながらヘルガは、
「それで、旦那様や奥様方は?」
ご無事なのでしょうか、と尋ねる。父は難しい顔をしながら、小さくかぶりを振った。
「なんとも」
有力な商人たちの集うその街は、盗賊の格好の標的となっている。そのため傭兵を雇ってはいるが、所詮は金で繋がれた契約、彼らの中には寝返って盗賊と共に主家を襲う不届き者まで出ることがあるのだ。今回は不幸にしてそのような傭兵が多かったらしい。そして、最も被害を受けたのがヴィーラント商会、アデルの家が香草を納めている商人である。
両親とヘルガが危惧した通り、ヴィーラント家も無事では済まなかった。主人たるヴィーラントは襲撃の際に負傷、衝撃を受けた夫人は病を得て床についてしまったそうだ。嫡男が店を継いだが、若輩ゆえに切り盛りはたどたどしく、店の立て直しに忙しくとても香草の代価にまで手が回らないようだった。
それだけではない。
「お嬢様が、盗賊に」
「なんということ……」
準貴族たる名家に輿入れが決まっていた令嬢が、盗賊たちに辱めを受けたのだ。それは世間の知る処となり、当然、婚約は解消された。
有力な後ろ盾を得るはずだったヴィーラント商会は、それを失うことになり。存続自体も危ぶまれ始めたという。
「坊ちゃまは、他のお店を紹介して下さったんだが」
その店もヴィーラント商会ほどではないが、それなりに被害を受けている。アデルの両親・ゲオルグとニコルが希望するような代価を得ることは、不可能だろう。
ゲオルグは妻と義娘、そして娘たちを見回した。
夏場はよい。だが、それを越えればあっという間に秋を通り越して冬になる。この人数を養えるほどの食料を得ることが出来るのか。ことに、食べ盛りのゲルトは、ラエルは――幼いマルガも、乳飲み子のルッツもいる。父の目に不安の色が広がるのを、アデルは痛ましい思いで見つめていた。
「大変なのは、何処も同じだと思うのよ」
村長の一人娘オルガは、アデルの幼馴染でもある。繕いものを頼まれた母が村長宅に上がるたび、アデルを連れて行ったのが縁だった。香草園の手入れに忙しい母に変わって、今ではアデルが代わりに出向いている。そのためか最近は話をする機会が増えたように思う。
今日も仕事を終えたアデルが帰宅しようとすると、
「少しゆっくりしていきなさいよ」
オルガが引きとめたのだ。
村長とはいえ貧しい村のこと、使用人も少なく当然同い年くらいの子供などはいない。寂しさを訴えたオルガがアデルを行儀見習い兼小間使いとして家に置いて欲しいと頼んだ時も、村長夫妻は首を縦には振らなかった。
十四歳となりそろそろ花嫁修業に励まねばならぬオルガは、それなりに多忙な日々を送っているはずだったが、
「暇なのよ」
軽く肩を竦め、薄めた葡萄酒を口に運んだ。村長の娘自らが入れてくれたその飲み物を、アデルも有り難く頂いた。若干甘みが強いのは、蜜を入れてくれたからだろう。そのことに感謝しながら
「どうして?」
アデルは首を傾げた。
「隣町のこと、聞いたでしょう? 香草の取引先が全て盗賊の被害を受けてしまったから、って。父様が別のお店を探さなきゃ、ってあちこち飛び回っているの。母様も親戚とか知り合いを頼って、色々出掛けているから。あたしのことなんて、構っている暇はないのよ」
オルガは、ぶすりと唇を尖らせる。
村長も村の利益のために娘を隣町の有力商人に嫁がせようと目論んでいた。が、当てが外れて困惑したらしい。娘の新たな婿を探すべく、また、商品の取引先も合わせて探すためになりふり構っていられなかったのだ。のちにアデルはそのことに気付いたが、このころはまだ何も判らず
「そう」
と頷くだけだった。
「で、ねえ、アデル」
オルガが身を乗り出してくる。アデルは僅かに身を引いた。彼女がこうして乗り出してくるときは、必ず良からぬ企みがあるときだ。生簀を壊して魚を逃がしたとき、蜂蜜を取るのだと言って蜂の巣を落として蜂に追いかけられたとき、ちょっと垢ぬけた隣町の商人の弟子の気を引こうとしたとき――過去の彼是を思い出し、アデルは苦笑いを浮かべる。
「あなた、領主様の処で働かない?」
「領主様?」
思わぬことを言われ、アデルは目を白黒させた。
「もちろん、あたしも一緒に行くけどね」
オルガの言い分は、こうだった。
この村は香草や養魚の他には目立った産業がない。が、先の盗賊の被害のせいで、双方の利益すら見込めなくなった。警備を固めるとの名目で若い男性は全て領主の元に集められている。当然、働き場所も収入も望めないどころか、
「お嫁に行くこともできないのよ」
ここ重要、とオルガが力説した。
「オルガ」
そういうことか。アデルは気づかれぬよう息をつく。
彼女は領主の元にあがり、そこで花婿を探そうと考えているのだ。確かに、領主の膝もとの街は大きいうえに人口もそれなりにある。出会う異性も選り取り見取り――オルガの言葉を借りれば――で、上手くいけば領主の目にとまり、玉の輿も夢ではない。
「領主様って、かなりのお歳だそうだけど?」
「馬鹿ね、領主様の坊ちゃまとか。親戚の若様とか。色々あるでしょう、いろいろ」
オルガは力説する。
今回の招集で更に人口が増えた分、まかないなどの女性の手も相応に必要になって来たのだそうだ。現に村長の元には、領主の館で働く小間使いを世話して欲しい旨、通達が来ているらしい。それを耳聡く聞いたオルガが、勝手に妄想を膨らませている次第である。
行きましょうよ、といわれても、アデルは即答することが出来なかった。
第一、自分が家を離れてしまっては、香草園はどうなるのだ。マルガもルッツもやがては成長するだろうが、それまでの世話は。
「もちろん、ただじゃないわよ。それなりにお給金も出るのよ、当然でしょう、領主様だもの」
人差し指を立てて、オルガが笑う。
給金。報酬。アデルの心が僅かに動いた。
もしも自分が仕送りが出来れば、両親やヘルガ、弟妹たちもそれなりの暮らしを送ることが出来るのではないか。アデルのその変化をオルガは見逃さなかった。じゃあ、決まりねと明るく言うと、
「とうさまー」
足音も高く部屋を出て行く。
待ってくれと呼びとめる間もない。残されたアデルは、冷めかかった葡萄酒を喉に流し込んだ。今度はあまり蜜の味はせず、どろりと重い葡萄の皮の味がした。
案の定、この話が村長から齎されたとき、アデルの両親は渋った。当然である。アデルはまだ十三歳、村より一歩も出たこともなく、世間知らずが服を着て歩いているようなありさまだった。高貴なる人に対する礼儀も知らない、作法の一つも判らぬような娘を、領主の元に差し出すなど――父は断固として反対したが、
「なに、先方で躾は全てしてくださる。このような田舎に置いておくよりも、都会で磨かれた方が良い相手と縁を持てるではないか。一人で行くわけではないし、私の娘も一緒だ、安心しなさい」
村長は笑って取り合わない。絶対損な話ではないはずだと強く言い切る村長と、父の幾許か怒りを帯びた声は長いこと食堂の方から聞こえて来ていたが。
「それに、向こうにはフォルカーもいるのだろう」
村長の一言で、父は折れたらしい。
しっかり者の長男が、領主の傍にいる。一兵士でしかない存在だが、何かあれば彼の元へ行けばいいのだという村長の言葉に、父は圧されたのだ。
「それに、子が生まれては何かと物入りだろう」
支度金も相応に受け取ることが出来る、そう言って、村長は革袋を卓上に置いたのだそうだ。中にあった金子は、それこそ一家が一月食べて行かれるほどのものが入っており、村長が帰った後に中を改めた父が蒼褪めたほどである。
「領主様とかいって、ほんとうは、人買いに売るつもりなんじゃないだろうか」
「まさか、でも、村長様がそんなこと」
革袋を挟んで、両親が真剣な面差で語り合っていたことを、アデルは長いこと忘れることが出来なかった。両親の危惧も判る。けれども、少しでも家の役に立つのであれば、とアデルは彼らの説得に当たった。
「大丈夫なの?」
最初は心配していたヘルガも、義妹が夫のいる街に赴くのだと判ると、それならば――と届けてほしいものがあるのだと、いそいそと兄の好物などを用意し始めたのだ。ゲルトとラエルは自分たちも行くのだと言って聞かず、母に窘められていた。
結局、アデルはオルガと共に領主の街マルゴットに赴くこととなったのだが。
出発の当日に、思わぬ事態が起きた。オルガが体調を崩したというのだ。前日は元気に木苺摘みに出かけていたというのに、夜半から高熱を出してしまったと言い、
「後日、追いかけるようにするから。アデル、先に行っていておくれ」
村長自ら家に赴いてそう言われては、断ることもできない。アデルは兄への差し入れと、自身の僅かな荷物を持って、領主の使いだという人物の用意した馬車に乗り込んだ。見送りに出てくれたのは、両親と弟妹、それにルッツを抱きマルガの手を引いた義姉ヘルガだった。皆、アデルの無事を願い、村長や使者にくれぐれも宜しくと頼みつつ、別れを惜しんでいる。アデルも開かれた車窓から軽く手を振った。
マルゴットは、ここから馬車で三日ほどかかる場所だという。なかなか帰って来られるところでもない。
一抹の寂しさを覚えながら、アデルは涙が零れぬうちにと窓を閉め、席に腰を下ろした。両手に抱えた小さな荷物が、微かに震える。寂しい、その気持ちが徐々に育っていくのが判る。
やがて、動き出した馬車、その轍の軋みが耳にざらりと心地悪かった。
斜向かいに座った領主の使者を名乗る男性が、不躾にアデルの全身を見回している。まるで値踏みされているようだ――そう思ったのは、間違いではなかった。
が、そのことをアデルが知るのは、もう少し後のことになる。
産業と呼べるほどのものもなく、農業のみで生活している集落の人々も、また素朴であり、時折国内に沸き起こる戦禍からも程遠い位置にあるのだと、そのときまではアデルもその家族も皆思っていたのだ。
「領主様からの、お呼び出し?」
兄の元に兵士として城に上がるよう使いが訪れたのが、今朝のことだった。エーファは国王の直轄領であり、領主とは国王より派遣された代官を指す。が、その代官はここよりも丘を幾つか、川を幾つか隔てた街に赴任している。かのひとが領地を巡察に訪れたことなど一度もないから、それがどのような人なのか、果たして男性なのか女性なのか、子爵なのか男爵なのか、まるで判らない。
そんな人物からの突然の招集である。なにごとか、とアデルの両親も当の兄も兄嫁も、驚いたものだった。
「隣の領地で、反乱があったとか」
老齢を理由に隠居し、家長を兄に譲った父は、部屋の隅の椅子にうずくまるようにして座ったまま、小さく呟いた。反乱、とは時折何処かでおこるものだとは聞いていたが、今回は思いのほか近かったらしい。直接エーファが襲われることはないが、
「警備を強化することが目的だそうだ」
実際、戦闘をすることはない。軍備を整えるだけとの説明があった模様である。
兄だけではなく、エーファの若者全てに今回の招集はかかっていて、一人だけ断るわけにもいかない。とはいえ、アデルの家も多分に漏れず農業を営んでいる。兄夫婦が中心となって作業を行ってはいるが、兄嫁ヘルガは現在第二子を孕んでいた。第一子のマルガは漸く乳離れをしたばかりである。面倒はアデルが見ているとはいえ、兄を失えばこの先家業を続けられるか疑問だった。
「香草園だけは、なんとか維持出来るかもしれない」
が、他は無理だろうと兄は言う。香草は、アデルの家は勿論この辺りの農家の主要産業である。それだけでは生活してはいけないので、花の栽培もやれば、数軒で費用を出し合って魚の養殖までも行っていた。魚の方は割と好評で近隣の富裕層に喜ばれるため、最近では農業よりもこちらの方に力を入れる家が多くなってきているのだ。しかしこれは手入れに時間を要し、また手間がかかるため、どうしても男手が必要だった。その権利を、魚を分けてもらうことを条件に他家に譲り、両親とヘルガとで香草園を細々と営んでいく――それしかないだろう、と。
「香草園の実入りだけでは、難しいでしょう」
膨らんだ腹をさすりながら、ヘルガが呟く。そうは言うものの、この腹ではヘルガの手は当てには出来ない。それにマルガの面倒は誰が見るのだ、と兄の顔が渋くなる。
「あたしが手伝う、ヘルガはマルガとゲルトたちをお願い」
アデルが申し出ると
「そうね、マルガはあたしが見なきゃ」
ヘルガがにこりと笑った。アデルの弟妹ゲルトとラエルも、そろそろひとりで身の回りのことが出来るような年齢になっている。ゲルトであればマルガの相手もできるであろうし、そう両親も兄夫婦も考えたに違いない。
そうこうしているうちに、兄フォルカーは故郷を旅立った。
近隣の若者たちもやはり同様に領主の元に集って行く。集落は更に活気を失い、春が過ぎ夏を迎えたころになっても、まどろみの中に居るような不思議な静けさを帯びていた。
そんな折である。
隣の街が、盗賊に襲われたのは。
「ヴィーラントの旦那様のお屋敷も、襲われたそうだ」
近隣の家から様子を聞いて来た父が、真っ青な顔で食卓に着いたとき、母は手にしていた器を危うく取り落としそうになり、ヘルガは腕に抱えた乳飲み子を反射的に強く抱き締めすぎて大泣きさせてしまった。慌てて子をあやしながらヘルガは、
「それで、旦那様や奥様方は?」
ご無事なのでしょうか、と尋ねる。父は難しい顔をしながら、小さくかぶりを振った。
「なんとも」
有力な商人たちの集うその街は、盗賊の格好の標的となっている。そのため傭兵を雇ってはいるが、所詮は金で繋がれた契約、彼らの中には寝返って盗賊と共に主家を襲う不届き者まで出ることがあるのだ。今回は不幸にしてそのような傭兵が多かったらしい。そして、最も被害を受けたのがヴィーラント商会、アデルの家が香草を納めている商人である。
両親とヘルガが危惧した通り、ヴィーラント家も無事では済まなかった。主人たるヴィーラントは襲撃の際に負傷、衝撃を受けた夫人は病を得て床についてしまったそうだ。嫡男が店を継いだが、若輩ゆえに切り盛りはたどたどしく、店の立て直しに忙しくとても香草の代価にまで手が回らないようだった。
それだけではない。
「お嬢様が、盗賊に」
「なんということ……」
準貴族たる名家に輿入れが決まっていた令嬢が、盗賊たちに辱めを受けたのだ。それは世間の知る処となり、当然、婚約は解消された。
有力な後ろ盾を得るはずだったヴィーラント商会は、それを失うことになり。存続自体も危ぶまれ始めたという。
「坊ちゃまは、他のお店を紹介して下さったんだが」
その店もヴィーラント商会ほどではないが、それなりに被害を受けている。アデルの両親・ゲオルグとニコルが希望するような代価を得ることは、不可能だろう。
ゲオルグは妻と義娘、そして娘たちを見回した。
夏場はよい。だが、それを越えればあっという間に秋を通り越して冬になる。この人数を養えるほどの食料を得ることが出来るのか。ことに、食べ盛りのゲルトは、ラエルは――幼いマルガも、乳飲み子のルッツもいる。父の目に不安の色が広がるのを、アデルは痛ましい思いで見つめていた。
「大変なのは、何処も同じだと思うのよ」
村長の一人娘オルガは、アデルの幼馴染でもある。繕いものを頼まれた母が村長宅に上がるたび、アデルを連れて行ったのが縁だった。香草園の手入れに忙しい母に変わって、今ではアデルが代わりに出向いている。そのためか最近は話をする機会が増えたように思う。
今日も仕事を終えたアデルが帰宅しようとすると、
「少しゆっくりしていきなさいよ」
オルガが引きとめたのだ。
村長とはいえ貧しい村のこと、使用人も少なく当然同い年くらいの子供などはいない。寂しさを訴えたオルガがアデルを行儀見習い兼小間使いとして家に置いて欲しいと頼んだ時も、村長夫妻は首を縦には振らなかった。
十四歳となりそろそろ花嫁修業に励まねばならぬオルガは、それなりに多忙な日々を送っているはずだったが、
「暇なのよ」
軽く肩を竦め、薄めた葡萄酒を口に運んだ。村長の娘自らが入れてくれたその飲み物を、アデルも有り難く頂いた。若干甘みが強いのは、蜜を入れてくれたからだろう。そのことに感謝しながら
「どうして?」
アデルは首を傾げた。
「隣町のこと、聞いたでしょう? 香草の取引先が全て盗賊の被害を受けてしまったから、って。父様が別のお店を探さなきゃ、ってあちこち飛び回っているの。母様も親戚とか知り合いを頼って、色々出掛けているから。あたしのことなんて、構っている暇はないのよ」
オルガは、ぶすりと唇を尖らせる。
村長も村の利益のために娘を隣町の有力商人に嫁がせようと目論んでいた。が、当てが外れて困惑したらしい。娘の新たな婿を探すべく、また、商品の取引先も合わせて探すためになりふり構っていられなかったのだ。のちにアデルはそのことに気付いたが、このころはまだ何も判らず
「そう」
と頷くだけだった。
「で、ねえ、アデル」
オルガが身を乗り出してくる。アデルは僅かに身を引いた。彼女がこうして乗り出してくるときは、必ず良からぬ企みがあるときだ。生簀を壊して魚を逃がしたとき、蜂蜜を取るのだと言って蜂の巣を落として蜂に追いかけられたとき、ちょっと垢ぬけた隣町の商人の弟子の気を引こうとしたとき――過去の彼是を思い出し、アデルは苦笑いを浮かべる。
「あなた、領主様の処で働かない?」
「領主様?」
思わぬことを言われ、アデルは目を白黒させた。
「もちろん、あたしも一緒に行くけどね」
オルガの言い分は、こうだった。
この村は香草や養魚の他には目立った産業がない。が、先の盗賊の被害のせいで、双方の利益すら見込めなくなった。警備を固めるとの名目で若い男性は全て領主の元に集められている。当然、働き場所も収入も望めないどころか、
「お嫁に行くこともできないのよ」
ここ重要、とオルガが力説した。
「オルガ」
そういうことか。アデルは気づかれぬよう息をつく。
彼女は領主の元にあがり、そこで花婿を探そうと考えているのだ。確かに、領主の膝もとの街は大きいうえに人口もそれなりにある。出会う異性も選り取り見取り――オルガの言葉を借りれば――で、上手くいけば領主の目にとまり、玉の輿も夢ではない。
「領主様って、かなりのお歳だそうだけど?」
「馬鹿ね、領主様の坊ちゃまとか。親戚の若様とか。色々あるでしょう、いろいろ」
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今回の招集で更に人口が増えた分、まかないなどの女性の手も相応に必要になって来たのだそうだ。現に村長の元には、領主の館で働く小間使いを世話して欲しい旨、通達が来ているらしい。それを耳聡く聞いたオルガが、勝手に妄想を膨らませている次第である。
行きましょうよ、といわれても、アデルは即答することが出来なかった。
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「もちろん、ただじゃないわよ。それなりにお給金も出るのよ、当然でしょう、領主様だもの」
人差し指を立てて、オルガが笑う。
給金。報酬。アデルの心が僅かに動いた。
もしも自分が仕送りが出来れば、両親やヘルガ、弟妹たちもそれなりの暮らしを送ることが出来るのではないか。アデルのその変化をオルガは見逃さなかった。じゃあ、決まりねと明るく言うと、
「とうさまー」
足音も高く部屋を出て行く。
待ってくれと呼びとめる間もない。残されたアデルは、冷めかかった葡萄酒を喉に流し込んだ。今度はあまり蜜の味はせず、どろりと重い葡萄の皮の味がした。
案の定、この話が村長から齎されたとき、アデルの両親は渋った。当然である。アデルはまだ十三歳、村より一歩も出たこともなく、世間知らずが服を着て歩いているようなありさまだった。高貴なる人に対する礼儀も知らない、作法の一つも判らぬような娘を、領主の元に差し出すなど――父は断固として反対したが、
「なに、先方で躾は全てしてくださる。このような田舎に置いておくよりも、都会で磨かれた方が良い相手と縁を持てるではないか。一人で行くわけではないし、私の娘も一緒だ、安心しなさい」
村長は笑って取り合わない。絶対損な話ではないはずだと強く言い切る村長と、父の幾許か怒りを帯びた声は長いこと食堂の方から聞こえて来ていたが。
「それに、向こうにはフォルカーもいるのだろう」
村長の一言で、父は折れたらしい。
しっかり者の長男が、領主の傍にいる。一兵士でしかない存在だが、何かあれば彼の元へ行けばいいのだという村長の言葉に、父は圧されたのだ。
「それに、子が生まれては何かと物入りだろう」
支度金も相応に受け取ることが出来る、そう言って、村長は革袋を卓上に置いたのだそうだ。中にあった金子は、それこそ一家が一月食べて行かれるほどのものが入っており、村長が帰った後に中を改めた父が蒼褪めたほどである。
「領主様とかいって、ほんとうは、人買いに売るつもりなんじゃないだろうか」
「まさか、でも、村長様がそんなこと」
革袋を挟んで、両親が真剣な面差で語り合っていたことを、アデルは長いこと忘れることが出来なかった。両親の危惧も判る。けれども、少しでも家の役に立つのであれば、とアデルは彼らの説得に当たった。
「大丈夫なの?」
最初は心配していたヘルガも、義妹が夫のいる街に赴くのだと判ると、それならば――と届けてほしいものがあるのだと、いそいそと兄の好物などを用意し始めたのだ。ゲルトとラエルは自分たちも行くのだと言って聞かず、母に窘められていた。
結局、アデルはオルガと共に領主の街マルゴットに赴くこととなったのだが。
出発の当日に、思わぬ事態が起きた。オルガが体調を崩したというのだ。前日は元気に木苺摘みに出かけていたというのに、夜半から高熱を出してしまったと言い、
「後日、追いかけるようにするから。アデル、先に行っていておくれ」
村長自ら家に赴いてそう言われては、断ることもできない。アデルは兄への差し入れと、自身の僅かな荷物を持って、領主の使いだという人物の用意した馬車に乗り込んだ。見送りに出てくれたのは、両親と弟妹、それにルッツを抱きマルガの手を引いた義姉ヘルガだった。皆、アデルの無事を願い、村長や使者にくれぐれも宜しくと頼みつつ、別れを惜しんでいる。アデルも開かれた車窓から軽く手を振った。
マルゴットは、ここから馬車で三日ほどかかる場所だという。なかなか帰って来られるところでもない。
一抹の寂しさを覚えながら、アデルは涙が零れぬうちにと窓を閉め、席に腰を下ろした。両手に抱えた小さな荷物が、微かに震える。寂しい、その気持ちが徐々に育っていくのが判る。
やがて、動き出した馬車、その轍の軋みが耳にざらりと心地悪かった。
斜向かいに座った領主の使者を名乗る男性が、不躾にアデルの全身を見回している。まるで値踏みされているようだ――そう思ったのは、間違いではなかった。
が、そのことをアデルが知るのは、もう少し後のことになる。
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だって、絶対の絶対に死にたくないからっ!
原作とはちょっと違う王子様たち、なんかびっくりな王様。
健気に奮闘する(ポンコツ)王子と、見守る人たち。
どうにか生き延びたい5才の、ほのぼのコミカル可愛いふわふわ物語。
(全年齢/ほのぼの/男性キャラ中心/嫌なキャラなし/1エピソード完結型/ほぼ毎日更新中)
掃除婦に追いやられた私、城のゴミ山から古代兵器を次々と発掘して国中、世界中?がざわつく
タマ マコト
ファンタジー
王立工房の魔導測量師見習いリーナは、誰にも測れない“失われた魔力波長”を感じ取れるせいで奇人扱いされ、派閥争いのスケープゴートにされて掃除婦として城のゴミ置き場に追いやられる。
最底辺の仕事に落ちた彼女は、ゴミ山の中から自分にだけ見える微かな光を見つけ、それを磨き上げた結果、朽ちた金属片が古代兵器アークレールとして完全復活し、世界の均衡を揺るがす存在としての第一歩を踏み出す。
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