【完結】銀月揺れる、箱庭

東沢さゆる

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03.明日が見えない

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「いったい、どういうことなの?」
 マルゴットに行くのはアデル一人。出発の直前になってそう言われて、オルガは酷く憤慨していた。もともとこの話は、オルガの元に来ていたのである。それを村長である父が渋っていたのだ。領主とも縁を持てる良い話であるのに、なぜ父は躊躇するのだろう、とは思っていたのだが。

 ――オルガを一人でやるのは心配だ。

 父の一言で、それならばと幼馴染のアデルを伴うことにした。アデルの義姉となったヘルガは、つい三年ほど前まで村長宅で女中をしていたのだ。その縁もあって、アデルもヘルガも、当然あの一家は断らぬだろうと思っていた。それを話せば、急に父は乗り気になり。早速アデルの家に交渉に出向いたのが先日のこと。想像とは異なり、アデルの両親は強く反対した。それを村長が押し切る形で、アデルのオルガとの動向が決まったのである。
 しかし。
 領主の館から使者が訪れた際、

 ――娘は病弱でして、今日もまた体調を崩しまして。その代わりと申し上げては、失礼でございますが……。

 父が下手な言い訳を始めたことに、オルガは驚いた。慌てて階下に飛び出そうとするのを女中頭に押さえられ、扉の前で階下の様子を窺っていた母は、そんな彼女を振り返り唇の前に指を立てて静かにするよう指示を出す。
 使者が去った後漸く解放されたオルガが父に詰め寄ると、父は軽く肩を竦めた。
「なに、もともとご希望されていらしたのは、『若い娘を一人』だったのだ」
「どういうこと?」
「領主様からご依頼があったのは、城の下働きに仕えるような若い娘が一人欲しい、とのことだったのさ。奥女中や小間使いならともかく、下働きだぞ。行儀見習いにも何もならん。領主様の館にお仕えした、という箔は付くかもしれんが、花の盛りを薄暗い倉庫か何かで送ることになるのだ。可愛いオルガをそんなところにやれるか」
 村長は目を細め、愛娘の髪を優しく撫でる。オルガは目を見開き、それから「ふぅん」と頷いた。
「そうね、あたしには下働きは似合わないものね」
 貧しい家の娘であるアデルなら、そういった仕事も務まるだろう。その点で父娘の意見は一致した。微笑み合う夫と娘に
「さぁさ、使者殿の手土産を戴きましょう。珍しいわ、焼き菓子というらしいのよ。小麦粉と砂糖を使って焼いた菓子ですって」
 みやこの食べ物はやはり違うわ、と浮かれた口調で村長夫人が食堂の卓子を示す。そこには女中が運んで来た件の焼き菓子なるものと、上等の葡萄酒を蜜で割ったものとが乗せられていた。まだ朝食を食べていなかったことに気付いたオルガは、喜んで卓子に付く。本当はこの菓子は、娘を差し出すアデルの両親へと持参されたものだったが、
「ま、どうせ食べても味なんか判らないわよね」
 貧乏人だもの――アデルの日に焼けた顔や香草園の手入れでぼろぼろに荒れた指先を思い出し、オルガはくすりと笑った。



 アデルは、生まれてこのかたエーファを、故郷を出たことがなかった。だから、マルゴットへの道程など知るはずもない。馬車で三日、とは聞いていたが、今日で旅は五日目になる。雪で道路事情が悪くなる冬季とは異なり、今は夏だった。比較的往来も盛んとなる。しかし、この遅れはどうなのだろう。
 不審に思って領主の使者に尋ねると、
「行き先が変わったのだ」
 彼は無愛想に応じた。
「変わった?」
 何処へ。
 重ねて投げた問いに、
「王都」
 思わぬ言葉を彼は告げたのである。アデルは二の句が継げなかった。王都、とは別名白銀の貴婦人とも呼ばれる、この国の首都オリアではないか。マルゴットどころではない、かの地よりもさらに遠く、かの地よりも遥かに大都会だ。しかも、遠い。普通に向かっても、馬車で十日はかかるところだと聞いたことがある。無論、それは夏場の話で、冬ともなれば更に時間を要する場所であった。
「王都」
 心の中で、呟く。
 何故行き先が変更されたのか。理由は判らない。アデルはこのまま扉を開けて、表に飛び出したい衝動に駆られた。両親は勿論、ヘルガも、行き先がマルゴットだと思っていたから渋々ではあるが承諾したのだ。知り合い縁者のまるでない場所に、しかも、世間知らずの田舎娘がいきなり華やかなる王都へ連れて行かれるのだと知ったら、天地がひっくりかえっても頷くことはしなかったろう。
 アデルとて、とても自分が王都で何かの仕事が出来るとは思えない。それこそ両親が危惧していた通り、人買いにでも売られてしまうのではないかと不安になった。
「王都の、どちらへ行くのでしょう?」
 せめて、それだけでも訊きたかった。
 使者は、まじまじとアデルを見つめ。
「王宮だ」
 淡白に応える。今度こそ、アデルは卒倒しそうになった。
 王宮。
 王都に行くことすら信じられぬというのに、王宮か。
「お……王宮で、何を、何をすれば宜しいのでしょう?」
 ゴミ拾いか。それとも、薪集めか。そのような仕事があれば、の話だが。
「台所の下働きだ。本当は、わが主人の屋敷の台所に連れていく予定だったのだが」
 事情が変わったのだ、と使者は言う。
 領主たる男爵家、その台所で下働きをしていた女性が懐妊のため里帰りをした。その補充人員を求めて使者がエーファを訪れたのだ。下働きとはいえ、歴とした貴族の屋敷である、それなりの家柄の娘でなければということで、村長の娘を候補としたが。当の娘は病身を理由に辞退、かわりにとその幼馴染を推薦したのだ。
「そんな」
 聞いた話とまるで違う。アデルは、養魚のように口をぱくつかせた。
「貴殿も相応の家柄の娘ではあるらしいな。父上は下級貴族に仕えていた騎士で、母上は元は何処かの屋敷で奥女中をしていたとか」
 使者に言われ、アデルは思わず「そうだったのですか?」と聞き返しそうになる。どうせこれも、村長の出まかせだろう。アデルをオルガの身代わりに立てるための方便に違いない。天を仰ぎたい気持ちとはまさにこのことか、と。アデルは使者に気付かれぬようそっと息をついた。
 いかにもオルガらしい。領主の屋敷での仕事が、小間使いや奥女中の類ではなく下働きだと知ったとたん、行くのを渋ったのだ。そして上手いことを言って自分を身代わりにして――過去、幾度もされたこととはいえ、今度ばかりは呆れてものが言えなかった。そもそも先に正直に話してくれれば、ここまでの道中、これほど不安にならなかったものを。
 アデルが王宮へと上げられることになったのは、まったくの、本当に全くの偶然なのだ。
 領主が縁ある貴族と台所の下働きが宿下がりしたという話をしていた際に、ちょうどよい娘がいると紹介したのである。その娘が領主の家へと入ったために、オルガへの話は立ち消えとなるところだった。が、たまたまその話を聞いた別の縁者が、王宮でも近頃流行り病で何人か下働きがやめたので人手が不足していることを嘆き、先に王宮の方に人を紹介して欲しかった旨を告げたことから、それならばとオルガを王宮にまわすことになったという。だが、実際蓋を開けてみればオルガは断りを入れ、かわりに一介の村娘であるアデルがやって来ることになった。
 読み書きはできるのか、との問いに、アデルはできませんと即答する。
 これが、使者の失望を更に誘ったようだ。彼は掌で額を覆い、幾度か短く息をつく。
 この国の識字率など高が知れている。が、この時のアデルはそれを知らなかった。商人が多い国は帳簿などを見る関係でどうしてもある程度の読み書きは必要となって来るが、フィラティノアにおいてはそれは然程重要なことではない。だからこのときも、使者に悪いことをしたと思うくらいで、特に恥ずかしいとは思わなかったのであるが。
「せめて、自身の名ぐらい書けた方がよかろう」
 自分の名前と、出身地の名称、それくらいは覚えるようにと彼は徐に布を取り出し、
「して、貴殿の名は?」
 尋ねる。
 アデル、と答えれば、
「姓は?」
 重ねて聞かれる。
「アデル、だけです」
 使者はまた、溜息をついた。彼は懐から取り出した筆記用具で、布の上に何やら記号めいたものを書きだす。それが、アデル――自分の名の綴りだと彼女は教えられた。
「そして、これが”エーファ”だ」
 アデルとエーファ、何処がどう違うのか、ぱっと見ただけではよく判らない。アデルは困惑気味の表情で差し出された布を受け取る。二つ書かれた文字、そのうちの上の段に書かれたものが自分の名前で、下段が村の名前だった。なるほど、これが自分の名前かと思うと、見ているうちに愛しさが込み上げてくる。アデルは指先で己の名を辿った。



 このとき、彼に教えられたことが早速役に立ったのは、王宮の裏口に立たされたときだった。使用人を表から招き入れることは当然適わない。なので、下働きの者たちは当然、裏を使う。その使用人専用の門を守る衛兵に署名を求められたとき、たどたどしいながらも自身の名と出身地を書くことができたおかげですんなりと中へと通されたのだ。同じ時期にやはり下働きとして王宮へ上がろうとしたのであろう若い娘が、同様のことを求められたのにもかかわらず自身の名が書けないというだけで追い返されていたのを見て、アデルは複雑な気持ちになった。

 もし、字が書けなかったら。
 自分は、家に帰れたのだろうか。

 小さな荷物を抱え背中を丸めて去っていく若い娘、自分とさして年齢の変わらぬ彼女の後姿を見つめ、アデルは切なくなった。
 使者はアデルを衛兵に渡すと、やはり踵を返そうとする。
「待ってください」
 その背に声を投げたアデルは、
「両親に、両親とヘルガに、あたしはマルゴットではなく王宮に居る、と。伝えてください」
 それだけを漸く言うことが出来た。衛兵らは奇異の目でアデルを見たが、使者は小さく頷き、待たせていた馬車へと乗り込む。その轍の音が消えぬうちに、アデルは
「さあ」
 使用人の一人と思しき人物に案内され、建物の中へと入ったのだ。



 王宮とは、話に聞いていたが随分と広いものだ――感心してそう呟くと、案内役は
「なんだって?」
 ぶっと無遠慮に噴き出した。
「ここは王宮じゃないよ。まあ、王宮っちゃ王宮の中だけど、その敷地内っていうだけさ」
「そうなんですか?」
 驚くアデルに、案内人は窓越しに表を指差して、
「ごらん、あの森があるだろう。あの向こうにあるのがお城だよ」
 簡単に説明してくれた。
 いま彼女らが居る建物は、食料庫だという。アデルの仕事場は此処で、彼女は野菜を洗うことがその役目なのだと案内人たる女性は言う。
「ええと、料理を作るのではないのですか?」
「料理? なにを言っているんだね、この子は」
 案内人はまじまじとアデルの顔を見つめ、それから豪快に笑いだした。下働きが料理を作ることはないのだ。下働きはあくまでも、下働き。泥のついた野菜を洗う、汚れた布類を始末する、もしくは洗う。それだけが仕事なのだと。料理をするのはアデルよりもずっと”身分”が上の人間なのだとも彼女は言った。
「あとは、見えない処の掃除だね。間違っても表に出ようなんて思うんじゃないよ、あんたのような娘が姿を見せていい処じゃないんだからね」
 たとえ表に出ることがあったとしても、貴族やその直属の使用人らは、アデルら下働きを”いないもの”として扱う。アデルが歩いていても平気でその前に馬車を走らせる。馬を差し向ける。アデルらが負傷しようが落命しようが、馬車の部品がひとつ欠けたほどにも気にしない。
「それが、世の中ってものさ」
 案内人は両手を腰に当ててアデルを見下ろした。
「わかったかい?」
 言われて、頷くしかなかった。
 嫌だと言っても、否定しても、どうにかなることではないだろう。アデルは荷物を抱き締める腕に力を込める。これからどれくらいの間、自分はここで働くことになるのだろう。生きている、その最低限の権利さえ保障されないようなところで。
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