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2・南十星の災難(前)

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 路地からほど近いおれの家に、シンは首輪を引かれる犬みたくおとなしくついて来た。数奇屋門を通って家へと迎え入れる。シンは無遠慮にきょろきょろと、花の一つもない殺風景な玄関を眺め回している。

「へえ。広いんですね。南十さんもしかしてお金持ち?」
「親の遺産だ。金は無い。それとその南十さんってのはなんだ」
「ああ、確かに。言われてみればけっこうなボロ屋ですね」
「話を聞け。お前、さては無礼者だな」
「お邪魔しまーす」

 打てど響かぬシンを相手に、諦め半分でおれも靴を脱いだ。彼が歯に絹着せず評したボロ屋の称号は、しかし客観的に見て正当な評価だ。影だけ見れば武家屋敷風の古民家に見える我が藤堂邸だが、実像を照らせば二束三文の値しかつかないプレ廃墟に過ぎない。とは言えおれの収入ではここ以外にアトリエ付きの一戸建てなど望むべくもなく、持て余し気味の広さを除けば特に不都合もないので親の生前から引き続きここに暮らし続けている。
 歩くだけでギシギシ鳴る腐れた廊下を抜けて、とりあえずは居間として使っている和室まで連れて行く。歩いている間にもシンはあちこちに、具体的には開け放した部屋の鴨居の細工から荒れ放題の庭に咲いたおれも知らない花まで、眼で舐めまわし眼窩に写しとるかのように物珍しそうな視線を向けている。

「遺産って言いましたよね。一人で住んでるんですか? 家族は?」
「いない。一人だ。……おいお前、さすがに不躾が過ぎるぞ」
「ふうん。じゃあちょうどいいや。あんまり僕の好みじゃないけど、贅沢言ってる場合でもないしな」
「は?」

 ちょうどそのとき、おれたちは目的の部屋に着いた。振り返って、背筋が冷えた。後ろ手に障子戸を閉めたシンが、笑みを浮かべながらおれを見ている。瞳の中心に、血のように赤い光が宿っている。

「南十センセイ。良い犬になりましょうね」
「……っ!?」

 硬直するおれの肩をシンの手が掴む。作り物のように整った顔面が、おれの首筋に近づいてくる。

 鋭い二つの牙が、ぷつりと皮膚を破った。

 タバコの火を押し当てられたような痛みが全神経を直撃した。両足の腱から力が抜けて、おれはその場にへたり込む。

「……ぁえ……?」

 痺れた声帯から、意味のない声が漏れ出た。眼筋──こんなちっぽけな筋肉を動かすのにすら、相応の意思を必要とすることをおれはそのとき初めて実感した──を必死に持ち上げてシンを見る。真紅の瞳と視線がぶつかった。瞬間、なぜだかおれは月を連想した。赤い月だ。皆既月食の夜にぽっかりと浮かぶ、不吉を象徴する紅の月。
 とん、と、シンの手がおれの肩を突き放す。紙の人形みたいにおれは後ろに倒れる。古い畳が優しさのかけらもなく、しかしいくらかのクッション性をもっておれの後頭部を受け止める。

「あー、いい感じですね。これも主のお導きってとこかな。っは」
「……っ、……ぅ」
「まあ、それならそれで……ありがたく頂いときますけどね、っと」
「……っ!?」

 わけのわからないことを呟きながら、シンはおれの隣に膝をつく。目を剥いた。背筋に悪寒が走った。おれが履いている地味なグレーのスラックス、そのベルトをシンがしゅるりと引き抜いたからだ。弾くようにホックを外してジッパーを下げる、その動作の意味がわからないほどおれも呑気じゃない。ただ物理的に、抵抗ができない。薬でも盛られたかと疑うほどに手足が、身体に張り巡らされているはずの筋肉すべてがぴくりとも動かない。
 あらわになった黒いボクサーパンツの前、男の大事な部分が収められたそこを、シンが無遠慮に掴む。飛び出そうになる心臓とは裏腹に、おれの喉は弱々しい痙攣を生み出しただけだ。

「ぁ、う……ぐっ、……め、……め、ろ……ッ!」
「ん? 声出せるんですね。はは、じゃ、もっと聞かせて?」
「!? んッ、ん゛んんんッ!!」

 骨ばった長い指が、下着の上からおれの性器を揉み上げた。跳ねるような声が出る。忌々しいことにおれの海綿体は事ここに至ってもすこぶる正常な機能を保っているらしい。腿の動脈から血液を吸い上げて、むくむくと下着からはみ出した先端を、シンの冷たい指が引っ掻くようになぞる。

「~~~~ッ!!」
「っふ、かーわい。素直でいいですね、南十センセ。この分だとすぐにでもいけちゃいそうかな」
「は、へ、ぁ、……?」
「ほんとはもっと、じっくりヤりたいとこだけど……僕も地味に緊急なんで。許してくださいね」
「は……ぁっ!?」

 ミカンの皮でも剥くように、下着がずるんと剥き去られる。無抵抗のおれをころんとひっくり返して、うつ伏せになった腰をシンの両手がよいしょと持ち上げる。血の気が引いた。まさか。おい、まさか。
 尻の割れ目にぺとりと、生々しい肉の感触が触れる。

「っ、め……!!」

 死に物狂いで逃げようとするおれを、肉体的にも、精神的にも歯牙にもかけず。
 シンの一部がおれの尻を割り開いた。中央の、入れる場所ではない穴を無理にこじ開けて、その剛直は強引におれの内部に潜り込んできた。

「ッ!?!?!?」

 動かないはずの背が、その瞬間、確かに勢いよく反った。あるいはそれは意志とは無関係の反射だろうか。とにかくおれの脳内は、ありえない事態に対する困惑と混乱で、ほとんどバラバラに千切れかけている。

「っあ……はっ、うわ、なにこれ。……はは、すっげえ」

 後ろからおれの腰をがっちり掴んで、シンが陶然とした声音で呟く。その声をおれは、どこか遠い宇宙からの声みたいに聞いていた。なんだこれ。犯されてる? おれが? 男に? シンに? なんで? おれが? 夢かと思うくらいに現実感がない。腹の中に感じるどすんとした重さも、背後で響くかすれた吐息も、全部。

 ああ、そうか。これは夢だ。きっと悪い夢なんだ。それを裏付けるように広げられた肉穴は、息詰まる圧迫感以外には痛みのひとつも感じていない。だいたい常識的に考えて、尻の穴に男のアレなんて入れたら大ごとだ。尻に物を入れた経験なんて幼少時の坐薬くらいしかないが、それだって泣き喚くほどに辛かった。なのにその何倍もでかいものを慣らしもせずに入れて、それなのに裂けるどころか痛くもないってのは、つまりこれが夢であることの証左に他ならない。以上、証明終わり。なるほどつまりおれは疲れているのだ。目が覚めたらゆっくり温泉にでも行こう。観光地よりはどこか田舎の、隠れ湯みたいなひなびたところがいい。そうと決まれば早く起きなくちゃ。ほら、早く、早く起きろ、藤堂南十星。

 架空の温泉に心を飛ばすおれを、嘲笑うかのようにシンはゆっくりと動き始める。粘液らしきものをまとったそれが腹の奥からぬるりと抜けていき、おれはようやくほうっと息を吐いた──その瞬間を見計らって、シンは再び、一気呵成に奥へと滑り込む。

「あぐっ!?」
「はぁ……っ、いい、あは、極上じゃないですか、センセイ。犬にしちゃ最上級ですよ」
「あ、ぎっ、ふぅうっ」

 およそ体内に受け入れ難いはずの硬度が、おれの腹筋を裏から削る。おれの妄想も少しずつ削り取られて、傷口から絶望的な現実がじわじわと沁みていく。つまりおれは今、道端で拾ったわけのわからん自称宇宙人に、シンに、尻の穴を男の性器で犯されている。四つん這いで腰を引っ掴まれて、交尾の姿勢を取らされながら犬呼ばわりされている。真っ暗になる視界とは裏腹に、おれの内部は意志とは無関係に収斂し、シンのかたちをリアルに刻み込もうとしている。

「はっ、……はぁっ、っ、う、ふぅっ……ううぅっ」

 ぽたぽたと落ちた汗が、畳に丸い染みを作った。もしかしたらおれは泣いているのかもしれない。けれどその自覚すらもしたくない。ただ思考を飛ばして律動に身を任せることだけが、この状況から心を守る唯一の方法だった。

「はぁっ……、……あっま……、……っ、ふ……っ」
「っぁ、ふぅっ……、……んん……っ!」

 うっとりとした声音でシンが呟く。おれの腰を固めていた手が持ち上がり、背骨に沿って背筋をつうっとなぞる。ぞくぞくと、痺れるような感覚が脊髄を走った。甘美とすら言えるほどのあえかな感触は、苦痛を受けるよりもずっと屈辱的だ。

「ひ、ぐっ……ぅ、う、あっ、あっ、うっ」
「……っ、あー……オレも、そろそろ……やっば……ッ」

 限界まで広げられた入り口が、シンのあれと摩擦されてじんじんと血流を増している。呼応して前が勃ち上がっているのは、断じておれの意思じゃない。おれの意思じゃないけれども男の生理は、前立腺を擦る違和感をやがてうす甘い快楽に変えていく。

「はぁ、……あ……ッ♡」

 漏れてしまった声の甘さに、ハッと口を押さえる。背中越しに、ふっと鼻で笑う声が聞こえた。

「ふっ、初めてでもうそんな声出るんだ。さっすがセンセイ、素質ありますね」
「うっ、ううぅっ! んっ、ぐっ、んぉっ、んッ……♡」
「あっは、いい子。……じゃ、ご褒美……、ねっ!」
「んッ、んんんんーーーッ♡♡♡」

 突き破らんばかりの奥深くまで、シンの硬くて大きいものがえぐりこむ。まぶたの奥の暗いところで、チカチカと星のような光がまたたく。何もかもわけがわからなくて、屈辱で、気持ちよくて、ただ与えられる肉の感触だけが、どうしようもないほどにリアルだ。

「あっ、あぁッ、ぐっ、ふうぅっ♡ んっンッ、んぁッ、あぅんッ♡♡♡」
「はっ、あ……あー、きもちー……やっばいなコレ、拾いもんかもっ……!」
「んっんッ、んんんっ……!?」

 ずっぽりと嵌まり込んだ最奥で、シンのそれが一瞬だけ動きを止めた。刹那の間を置いて溢れ出した熱い液体が、おれの内臓を深く深く侵食していく。

「あっ、あ、あ! あっ! ……あっ……は、あ……あぁああ……っ♡」
「……っはぁ……っ♡」

 自分でも気づかないうちに、押し出されるようにおれは精を放出していた。
 涙でぼやけた視界が、ゆっくりと闇の中に落ちていった。



 暗い夜の中で、脳みそだけがぐらぐらと揺れている。宇宙に放り出されたみたいに足元が定まらなくて、けれどおれの肉体は、その感覚を正常な状態として受け入れ始めている。
 食い破られた首筋から。あるいは腹の中にしこたま出された精液から。おれの遺伝子が都合よく書き換えられて、今までとはまるで別の生物に変化してしまったみたいだ。
 もしかしたらその生物を、シンは犬と呼んでいるのかもしれない。




 目覚めて最初に認識したのは、節だらけの古い天井だった。背中には冷えた畳の感触。ばらけた髪をかき上げながら身を起こす。おざなりにかぶせられていた毛布が、膝の辺りからするりと落ちる。

「……ぁ」

 あらわになったのは、おれの下半身。つまりパンツもズボンも身につけてはいない剥き出しの裸体だ。妙なことにおれに浴びせられたはずの汚液は、体のどこにも、一滴たりとも痕跡を残してはいない。けれど状況からして──おれという人間が、なんの意味も記憶もないままチンコ丸出しで寝込むほど終わりきっていない限り──あの悪夢めいた出来事が、現実に起こってしまったことは明白だ。
 まだ覚醒しきらない頭のまま、ぼんやりと室内を見渡した。シンは、いない。わずかに開いた障子戸からは、青い月光が対面の壁まで射しこんでいる。

 部屋の隅に散らばっていた衣類を身につけてから、引き寄せられるように戸を開けた。フェルメールブルーの妙に明るい夜、てっぺんに飾られた大きな月が、視界の真ん中に飛び込んでくる。地平線に触れそうなくらい低い満月は、地表に向かって少しずつ落ちてきているようにすら見える。もちろん錯覚だとはわかっていても、衝動的にどこかへ逃げ出したくなるくらいだ。

 久方天に奪われかけた心は、すぐに現実に引き戻された。踏み出した廊下のすぐ横から、誰かが息を吐く音が聞こえたからだ。障子で仕切られたそこはおれがアトリエとして使っている部屋。そしてその誰かとは言うまでもなく、さっきおれを好き勝手蹂躙し尽くしたにっくき男。シンシャマール=イル=なんたらかんたら、略してシンに決まりきっている。

 たん! と音を立てて障子戸を開けた。和室からコンクリート貼りのアトリエへと、半ば無理やりリフォームした屋敷の一室。その真ん中、描きかけのP30号キャンバスと向き合って、シンはおれに背を向ける形で立っていた。
 戸を開ける音は、当然シンの耳にも届いていたはずだ。だが彼はしばらく振り向かなかった。大きめのTシャツ裾をたくし上げ、ズボンのポケットに片手を潜り込ませて、ただじっと、無警戒かつ無防備におれに背中を晒していた。
 数秒の間を置いて、その背がぴくりと動く。

「……あぁ。南十さん」

 髪に宿る流星をなびかせて、シンがゆっくりとこちらを向いた。さっき赤く光っていたはずの瞳は、今は茶色く静まり返っている。煮えたぎるマグマが冷えて固まったみたいに、なんの熱も興味も持たない目がおれを捉えた──瞬間、頭の芯がかっと突沸した。
 大股で部屋へと踏み入る。覇気なく立ち尽くすシンの頬を、固めた拳で思い切り張り倒す。
 瞬間的に身をよじったシンが、そばにある作業机の上に倒れ込んだ。安普請の机は画材を巻き込んで崩壊し、深夜の静寂をかき壊す派手な音を立てた。

「……いっ、てぇ」
「お前……お前、おまえっ!! よ、よくも、よくもっ、お前えぇっ!!」
「あれ? なんで……ああ、そう。そうなんだ。ははっ」

 何がおかしいのか、倒れたままのシンがかすかに笑う。その態度に今さらながら震えが来た。怒り、恐怖、絶望、屈辱。急激に襲い来るそれらの感情を、まとめてもう一度ぶつけてやろうと、乱暴にシンの胸ぐらを掴んだ、そのとき。

「……!?」

 飛び込んできた色彩に、おれは目を疑った。おれの拳で切りでもしたのか、シンの口元から血が流れている。そのこと自体はざまあみろだが、問題はその血が、蛍光色に近いライトブルーの色合いをしていたことだ。

「なんっ、だ、これ」
「? なにって……ああ、血。いいの貰っちゃいましたね。久々だな、こういうの」
「じゃなくてっ、お前、これ、この色! ……いや待て、口の中に変な薬でも隠してたってことか。違うのか。確率的に言えばそっちの方がまだしもあり得る話だろ、なあ」
「何一人でぶつぶつ言ってんですか。何がそんなに……あ、ひょっとして」
「は? おいっ」

 シンの手が下から伸びてきて、おれの首筋から髪の毛を払う。そこには小さな赤い点がふたつ。彼自身が噛みついた傷跡だ。

「へえ。南十さんのは赤いんですね。気持ち悪」
「なっ、失礼だな! ……っ、待て、ってことはお前、本当に、う、宇宙……」
「今さら? 信じてくれてなかったんですか。傷つくなあ」
「っ、どの口が!」
「ん? でも」

 何かに気づいたみたいに、シンの瞳孔がきゅっと縮まった。伸ばした手がおれの眉間に移動して、長めの、色素の薄い前髪を簾のように持ち上げる。

「眼、ってか、瞳? は青いんだ。青よりは藍色って表現するのかな。僕と反対だ」
「これは単なる隔世遺伝で……いやもう、そんなことはどうでもいいんだよ! 無駄口叩ける立場じゃないだろ、自覚あるのかお前!」
「っはは。そうでしたそうでした」

 おれの怒声が響いているのかいないのか、シンはへらへらと肩をすくめてみせる。この野郎。もう一発くらいかましてやるべきだったか。

「で? どうするんですか、僕を。一般論として述べるなら、このまま警察に突き出すのが賢明だとは思いますけどね」
「……」

 他人事みたいにうそぶくシンを、見下ろしながらおれは考える。しばしの間を置いて、胸ぐらを掴んでいた手から力を抜いた。

「いてっ」

 絵の具で汚れたコンクリートの床に、支えを失った体が尻餅をつく。その彼を見下ろしながら、おれは仁王立ちの姿勢で腕を組む。

「これからお前に、尋問を行う」
「はあ」
「返答如何によって今後の処遇を決める。嘘偽りなく正直に答えろ」
「いやまあ、別に、いいですけど。……尋問て」

 いぶかしげな顔で見上げるシンに対して、構わずおれは質問を繰り出し始める。情なくしかして公正に、なるべく頭に血を上らせないように。

「まずお前。宇宙人、ってのは、その、本当に、本当なのか」
「本当ですって。まあ僕から見ればあなた方こそ宇宙人と呼ぶに足る存在ですけど、あなた方の視点で言えば僕の方がいわゆる宇宙人であることは確かです」
「いちいち回りくどいな、まあ言いたいことはわかった。じゃ、次、どこの星から来た」
「地球」
「は?」

 ぴくりと眉を上げるおれに、シンはへらへらと笑いながら片手を振った。

「怒んないでくださいって。別に、ふざけてるわけじゃないですよ。どこの星でも科学の歴史を顧みれば、自分の母星にわざわざ名前なんかつけてないのが当たり前でしょ? もちろん母星自体を意味する言葉はありますけど、その単語を日本語訳すれば地球、英語ならearth、あるいは地球ディチォゥ、tero、지구、земля、と、つまりはそんな感じの意味になるってことです」
「な、なるほど」
「まあこの星の観測記録においては、おおぐま座δ星dとかいう名前で呼ばれてるみたいですけどね」
「なら最初っからそう言え!」

 思わず声を荒げると、シンは悪びれもせずにあはは、と声を上げる。駄目だ。こいつのペースに飲まれるな。一度深呼吸だ、深呼吸。

「じゃあそのおおぐま座の地球から、お前は何しに地球……あー、今、お前が立っている、太陽系の地球まで来た。目的はなんだ。侵略か。観光か。母星から遠く離れたこの星なら、蛮行お咎めなしだとでも思ったか」
「だから怒んないでくださいって……無理か。えーっと、目的、目的ね。一言で言い表すのは難しいんですけど、主には学術的好奇心、そこに付け加えて流刑と布教、あと可能なら侵略をひとふり、って感じです」
「全体的にわけがわからんが、最後の穏やかじゃない単語は聞き捨てならんな」
「不穏なことになるのは本意じゃないんで説明すると、僕の母星は、端的に言えば過疎化した宗教コミューンみたいなとこでして」

 睨みつけるおれの前でよいしょ、とあぐらをかき直し、シンは腿の上で指を組む。

「母星のすべては創造主からもたらされた贈り物であり、外宇宙への進出は人に与えられた領分を超える強欲であると。つっても何かしら逼迫してればそんなことも言ってられないでしょうけど、なんせ資源だけは潤沢な過疎村なもんでね。で、僕はそんな星で宇宙科学者なんてやってたもんで、異端の罪人として追放されちゃったんですよねえ」
「それで、流刑か」
「僕にとっては刑でもなんでもないですけどね。それで晴れて重力から解き放たれた僕なんですけど、代償に面倒な義務を負わされちゃって」
「布教と侵略、ってやつか」
「正解。察しがいいですね」
「馬鹿にしてんのか?」
「してませんって。短気な人だなあ。ビタミン足りてます?」
「お前がおれを強姦したせいだろうが!!」

 思わず再び胸ぐらを掴み上げる。ぐえ、と潰れたような声がシンから漏れ、奇妙な指輪をはめた手がおれの二の腕をタップした。

「ギブギブ、ゲホッ、すいませんって。けどあれも一応、よんどころない事情の賜物でして」
「何が事情だ!! そんなもん、何があったとしてもおれがあんな辱めを受ける理由になるか!!」
「ご、ごもっとも……」

 顔面を急速に青ざめさせつつあるシンが(彼の血の色から想像すると、これは地球人類で言うところの顔真っ赤状態にあたるのだろうか)、タップをやめてだらりと腕を下げる。このまま本当に殺してしまおうか──そんなことすら頭によぎった。彼の言葉が真実ならば罪に問われることもない。庭の隅、荒れ放題の草深いところにでも埋めてしまえば、それであとは何もなかったのと同じことになる。すべてが終わりになるはずだ、が。
 ふっと、首元を掴む手から力が抜けた。崩れ落ちたシンがゲホゲホと咳き込むのを、開けっ放しの戸から月が明け透けに照らしている。
 手を離した理由は、おれ自身にもよくわからない。おれの殺意を薄めたものはなんなのか、情だけは無いとして好奇心かそれとも別の何かか、自分でも不明瞭なままその場に座り込む。確かなことはひとつ。シンを殺さないのならば、おれにはやるべきことがある。

「事情ってのは、なんだ」
「は?」
「言ったろ。これは尋問だ。正直に答えろ」
「嘘でしょ。この後に及んでどういう斟酌……あー、はいはい、答えます、謹んで答えさせて頂きますよ」

 驚愕半分呆れ半分みたいな顔をして、シンは大げさに両手を上げた。一挙一動がいちいちカンに障るやつだ。だが彼が呆れる気持ちは、我がことながらおれにも理解はできなくもない。そのくらいの客観性は、おれにもある。
 再び座り直したシンはまたしてもあぐらの体勢だ。神妙に正座する、なんて選択肢はハナからないらしい。文化の違いに由来するものか、それとも単にこいつが図太いだけか。確証はないが恐らく後者だろう。

「えーっとですね。あなた方太陽系第三惑星人にも、胃袋ってあるでしょ? 僕らにも当然あるんですけど、食物を消化する胃袋とは別に、もう一個、心の胃袋とでも呼ぶべき器官があるんです」
「心の胃袋?」
「他の知的生命体、それも肉体的に接触している個体の、生命維持に関わるレベルでの苛烈な情動……例えば怒り、悲しみ、もしくは性的興奮なんかを摂取することにより、精神を安定させる機能を担った器官です。原始僕らが動物であった時代に、集団パニックを防止するために発達した器官だなんて言われてますけどね。けど問題は、僕らが野生の獣を逸脱し、理性と道徳を重んずる人間へと進化を遂げてしまったこと。それにも関わらず僕らがいまだに、その器官を精神の土台に敷いたままにしてしまっていることです」

 おれの胸元に、シンの指先がひたりと触れた。反射的に身がすくむ。さっきおれの身を思う様弄んで、意志に反した快楽を注ぎ込みやがった指先は、冷静に見ると思いの外白くて長い。

「動物ならいいんですよ。家族や友達が死ぬとか食われるとか、それこそ日常茶飯事ですから。けど文明人たる我々の世界では、身近な重大事件なんてそれこそ一生に数えるほどしか起こらない。南十さんたちだってそうでしょ?」
「それは、まあ……そう、かもしれないな」
「それでも我々の生物的特徴として、心の胃袋が満たされなければ精神が崩壊する。もちろん胃袋と名がつくくらいだから、定期的かつ定量的な摂取も必要です。なぜ、って話じゃないんです。そういう構造になってるんです、僕らの体は」
「……」
「翻って」

 教壇に立った教師のように、シンは一本指を立ててみせる。

「さっきの例示を思い返して欲しいんですが。生命の根幹に関わる感情のうち一つだけ、他よりも遥かに平和的で、比較的穏当な手段で満たすことのできる感情が存在しますよね。ああ、いや、今回の件はひとまず置いといて、一般的な可能性の話としてね?」

 取ってつけたような最後の補足に、自然と顔が歪んだ。何が穏当だ。どの口が言いやがる、こいつ。掘られた尻の違和感が、腰の奥で禍々しく疼く。つまりはシンの言う、穏当な手段で満たせる感情とは。

「…………性的、興奮」
「ハイ。そういうことです」
「じゃあなんだ、お前はその心の胃袋とやらを満たすためにおれを襲ったってのか。だから不可抗力だとでも言いたいってのか、このゲス野郎ッ」
「ちょ、待って待って、話はまだ終わってないんですって。尋問なんでしょ? 最後まで自白させてくださいよ」
「……ああ、くそ。続けろ」
「どうも。えーっと、さっき言いましたよね、僕の母星は宗教国家だって。広い宇宙、文明あるところにはそれぞれいろんな宗教があるもんですけど、広く支持を集める宗教においては概ね、本能に身を任せるのはあんまりよくないとされてますよね」
「それはまあ、確かに」
「僕の母星でもそれは例外じゃなくて、っていうかむしろ平均的な宗教に比べてもかなり潔癖な方なんですね。なんせ『足るを知る』が美徳なくらいですから。当然、不純異性交遊……ああまあ、同性も含めてですけど、そんなのはもってのほかで、必要外の快楽を貪る行為ですら、怠惰や強欲、暴食に匹敵する大罪の一つとされてます」
「……ふん。どこでも変わらないもんなんだな」
「でも肉体の有り様として、それでは心の腹が減る。だけならまだしもその美徳を維持し続けてしまったら、行き着く先は精神の死だ。じゃあ、どうする?」

 意味ありげにおれを見つめる瞳が、ちかっと赤く光った。ハッと息を呑んだ。例の暴挙に及ぶ寸前、こいつがおれに投げかけた言葉。

「まさか、犬ってのは」
「大正解。さっすがセンセイ、頭が良くて助かりますよ」
「……っ!」
「遺伝子構造的には、この星の人間とチンパンジー並みにかけ離れた生物です。外見的には僕らとほぼ同一ですが、進化の系統樹で言えばだいぶ根っこの方で枝分かれしてる別種です。その生物──『犬』を、人間の手で飼養して、性的興奮の発露を肩代わりさせる。僕らの先祖が編み出した、人道的かつ合理的なやり方です」
「なっ……何が人道的だ! 外道だろ、そんなの……」
「外道?」

 おれの非難を受け取ってなお、シンは熱くも冷たくもない平熱の瞳を崩さない。

「それを言ったらこの星にも、牛や豚なんかの食用家畜、それに『犬』だって存在してるじゃないですか。同じですよ。むしろ命を奪わないだけずっと優しい。共利共生、人間の隣に常に在るかけがえのないパートナー、この星においてはそういう生き物のことを、『犬』と呼ぶんでしょう?」
「……っ、それ、は……」
「僕らの世界だってそれは同じです。たまたま姿かたちが似てただけですよ。まあ、無理に理解しろとは言いませんけどね。この星にだって僕から見れば、本能的に吐き気を催すような文化は山ほどありますし」
「……」
「それはともかくとして……んー……この先はまた怒られそうな話になる気がするんですけど。言わなきゃダメですか」
「当たり前だ。言え」
「わかりましたよ、もう。事実を述べるだけですからね。僕に当たらないでくださいよ」

 散々引っ張られたシャツの胸元を、シンは見せ付けるように直しながら続ける。

「本来『犬』からの食事の際には、性的興奮を促す薬剤を犬に与えるんです。実際性行為に及ぶことなんかほとんどない、そんなのは過激な自然信奉者か変質者のすることです。けど今回はそうも言ってられなかったんですよね。だって僕は今や流刑の身で、耳につけた恒常性維持装置もこの星に着いてからはもはやただの耳飾り、早急に腹を満たさなきゃ80光年の旅路を超えて立派な廃人だ。幸か不幸か、流れ着いたこの星には故郷と違わぬ『犬』が溢れ返っていた──と言うよりはむしろ、ハナからそういう星を狙って流されたって方が妥当でしょうけど」
「つまりおれは……おれたち人間は、お前らにとっての犬だって言うのか」
「遺伝子構造的には、です。だから本能の軛として、僕の牙には逆らえないはずだったんですけど」

 にっと上がった唇から、尖った牙がちらりと覗いた。無意識に、噛まれた首筋を手で覆う。もしかして危ないところだったのか、いや、ある意味もう手遅れな事態になってはいるんだが。

「でもどうやら、コトはそううまくいかなかったみたいですね。なかなか根性ありますね、センセイ」
「……冗談じゃない。お前の犬になんか、死んでもなってたまるか」
「あはは。まあ、そんなこんなで、誤解と行き違いの末に起きた不幸な事件だったんですよ。ご納得……はまあ、無理としても、理屈はわかっていただけました?」
「……理屈だけはな。理解や納得は到底できないが」
「でしょうねー」

 呑気な口調でそう言い放ち、シンは両手を後頭部に回す。首元の伸びたTシャツの真ん中で、犬とも猫ともつかない謎の動物が、UFOにさらわれながらおれを見ている。
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