きいろいやくそく

おおきなりょかん

   おじいさんの旅館はとっても大きくて、上から見るとＬ字になっているらしい。一階と二階を合わせて二十部屋もあって一周できるから、子どもの頃は駆け回って、たまに叱られることもあった。

　旅館の玄関は象が入りそうなほど広く、誰もが一番最初に目に入るのは左にある水槽だ。浦島太郎に出てくる鯛やヒラメ、海にいる魚が泳いでいて、宴会の時には、それらを取り出して美味しく料理される。
　だから床がビチャビチャになってもいいように、モップとバケツがいつも置いてある。

　玄関から前に進むと、少し先に行くと小さなロビーと客室や厨房に分岐するのだが、そこに行くには大きな熊の剥製が置かれていて、口から鋭いキバが見えるから、毎回遊びに通るたびに臆病な僕はドキリとしていた。

　最後に玄関から右側には、小さなプレートで「受付」と書いてある部屋がある。
　奥に旅館で働いている人たちがお昼ご飯を食べる休憩室があり、誰かが来た時にはすぐに対応できるようになっていた。

　受付を終えたお客さんは、熊の剥製の横にある三段しかない階段を上がり、小さなロビーにたどり着く。
　そこにはテカテカした茶色のソファーや固い椅子が向かい合い、その間には机。少し離れた場所に百円玉を入れて遊ぶゲーム台もあるけど、壊れていて、ただのテーブルになってしまっている。

　他にも思い出すのは、昼間に誰もいない宴会場で、お爺さんと新聞紙についてくる広告を、いっぱい使って何枚も紙ヒコーキを折って、どっちが遠くまで飛ぶか競走したこと。
　中庭に魚を飼う生簀があって、大きな大根のような鯉を網で掬わせてもらった時、動き回る鯉にドキドキが止まらなかったこと。
　お客さんが入る前に何十人も入れる大きな岩のお風呂に二人きりで一緒に入った後、お母さんに内緒で２本目の、きいろいジュースを飲ませてくれたこと。

　楽しい思い出ばかり沢山あった。今思うと本当に贅沢な時間を過ごしていたんだ。
　
　――あの日までは

　マジックテープの靴を履いて、いつものように玄関で振り返ると、私は大きな声で叫ぶ。
　
「お母さん、お爺さんの家にいってくるよー」
「もういくの？　今日は、やけに早いわね」
「うん、お爺さんと海に石拾いにいくの。前は赤い石を拾ったから今日は黄色の石を探す約束なんだ。だからお爺さんに電話お願い！　」
「はいはい、わかりました」

　洗面所からタオルで顔を拭きながらお母さんは電話をかけ、今から家に向かうことを伝えてもらう。
　
「じゃあ気をつけていってらっしゃい。洗濯終わったら迎えにいくからね」
「うん、わかったー」と返事すると同時に駆け出した。

　お爺さんの家は旅館の駐車場をまたいだ隣にある。つまり、目の前に旅館があるってことだ。
「賢治、速いな！　二分で着いたぞ！　」と、びっくりさせたこともある。
　そんなに近い場所なので、いつも一人で遊びに出かけても誰も気にしなかった。
　
　舗装されていないデコボコの道を、まっすぐ走っていく途中に、玄関の前でお爺さんがラジオ体操をしているのが、もう見えていた。
　
　「おはよう、お爺さん！　石拾いにいこう！　」
　「おはようさん。今日は早起きやな賢治、もうちょいと待っちょってな」

　お爺さんはニコッと笑い、腕を伸ばし深呼吸をし始めると同時に、駐車場へ黒い車が何台か停車するのが見えた。
　こんなに朝早くお客さんがくるなんて珍しいと二人で見ていると、スーツを着たお客さんたちが車から降りてきて、お爺さんの前に紙を広げ読み上げだした。