美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです

榛乃

文字の大きさ
29 / 45

生まれてきた意味

しおりを挟む
 少しだけ――ほんの少しだけ、あの逞しい背中に近づけたような、そんな気がしていた。お茶の時間を設けてくれたり、右手に負った傷を異能で癒やしてくれるくらいには。それらが、どこか心の距離までも埋めてくれたように感じてしまっていた。

 けれど、それは所詮、幻だったのだ。手を伸ばしても決して触れることの出来ない、儚く脆い幻影。
 彼を見つめていたはずなのに、その実、本当の彼は何ひとつ見ていなかった。すぐ傍にいたと思っていたその距離も、結局は在りもしない幻に囚われ、自分ひとりが思い込んでいただけのことだったのだ。

 なんと愚かで、滑稽なことだろう。“お飾り”であればいいと、彼は確かに告げていたというのに。それでも尚、もっと彼のことを知りたい、と手を伸ばした己の浅ましさが、今やっと胸に突き刺さる。幻に縋り、現から目を背けていた報いなのだと思えば、あの冷たい視線も、蔑みに満ちた嘲笑たちも、当然の帰結なのかもしれない。

 ふと足元に、小さな白い花弁がふわりと舞い落ちた。俯けていた顔をゆっくりと上げ、リリアはガゼボの周囲に広がる花々を、ぼんやりと見やる。ぽってりと丸みを帯びた光沢のある緑の葉、朝霧のようにやわらかな純白をした大きな花房。辺り一面を埋め尽くすようにたっぷりと茂ったアナベルの合間を縫うように植えられた色とりどりのジニアが、しっとりとした夜風に撫でられるようにしてゆったりと揺れている。

 ここが庭園のどこであり、どうしてこんな場所にぽつんと座っているのか、リリアはそれをまるで思い出すことが出来なかった。気付いた時にはもうここにいた、と、そう言った方が正しいだろう。

 ルイスが大広間を出て行ったことも、その場にひとり置き去りにされたことも、ひそひそとした嘲笑に囲まれたことも、全て憶えている。クラリスが父である公爵を伴って駆け寄ってきてくれたことも、ユリウスがそっと耳打ちをしてくれたことも、ちゃんと。

 けれど、記憶にあるのはそこまでだ。その先のことは、どれだけ頭の中を漁り回っても、見つけることが出来ない。どうやってあの場を辞したのか。どんな顔で、どんな足取りで歩いてきたのか。その全てが、薄い靄に包まれていて判然としない。

 今頃大広間では、何事もなかったかのように舞踏会が続けられているのだろうか。どこか遠く、まるで水の底から見上げるような感覚でぼんやりとそう考えながら、リリアはゆっくりと顔を俯向け、膝の上に力なく開かれた右手に視線を落とす。異能によって元通りに癒やされた、右手。そして、静かに拒まれ、虚しく宙に浮いていた、右手。

「――あら、こんなところにいたのね」

 蒼白い月明かりに照らされた静謐な世界に突如差し込まれた、冷たい声。
 聞き覚えのあるその声が鼓膜に触れた瞬間、心臓がきゅっと縮まり、リリアは息を呑む。甘ったるく、どこか人を見下したような声音。それが誰のものであるかだなんて、振り返って確かめるまでもない。

「お姉様が落ち込んでいるんじゃないかって」

 近づいてくる靴音は、石畳の上を爪先で弾くように軽やかで、愉しげだった。彼女がすぐそこにいるのだ、と、まるで思い知らせるようにふわりと漂う香水の匂いに呼吸を奪われ、息苦しい。心臓が、耳のすぐ裏側で、激しく脈打っている。

「私、とても心配していたのですよ」

 すぐ真後ろで、ぴたりと足音がとまった。リリアは顔を上げることも出来ずに、ただ静かに、膝の上で微かに震える右手をそっと握り締める。「何故ここへきたの」だなんて、問うだけ無意味だろう。くすくす、と、頭上から落ちてくる小さな嗤い声が答えなのだから。彼女の狙いなんて、考えるまでもない。

「あんなふうに置いていかれてしまうなんて、私だったら、とても耐えられませんわ」

 まるで慰めるような口調でそう言い、カトリーヌはわざとらしく、芝居がかった溜息を漏らす。けれどすぐに、「ああ、でも」と、納得したふうに声を弾ませた。舞台の上でスポットライトを浴びた役者のように、仰々しく。

「お姉様は、ただの“お飾り”でしたわね。お飾りの王太子妃様にはぴったりだったかしら」

 薄刃のように鋭く尖ったその一言が、心の奥底に沈んでいた何かに深く突き刺さり、音もなく崩れ去ってゆく。それは散り散りになりながら胸のそこここを擦り、幾つものひどい傷を残しながら、腹の底にぽっかりと口を開けた虚の中へ沈む。黒い波紋を広げ、その薄い波が身体に触れる度、心臓がずくりと痛んで胸をきつく締め付ける。

「それにしても、殿下もお気の毒ですわね。お飾りに過ぎないお姉様とご一緒しなければならないなんて」

 彼女の紡ぐ言葉のひとつひとつが、まるで花の香りに包まれた毒のようだった。優美に装われた悪意が、ひたひたと鼓膜に、頭に、沁み込んでゆく。返す言葉は、何もなかった。あるはずがなかった。彼女が告げているのは事実でしかないのだから。

「その美しいお顔だけでは、殿下のお心は動かなかったのですね。それなのに、まるで何かを得たつもりでお父様にまで逆らって……。きっと罰が当たったのですよ。ねえ、そう思いませんこと? お姉様」

 噛み締めた唇が、微かに震えている。その震えが、頬の筋肉へ、肩先へ、少しずつ伝わってゆくのを、リリアは止めることが出来なかった。心の奥で、何かがじくじくと熱を帯びている。それは怒りなのか、悔しさなのか、悲しみなのか――もう自分でも分からなかった。

「でも、これで殿下もお分かりになったのではないかしら」

 ふふっ、と、カトリーヌの愉しげな微笑が耳元でこぼれる。視線の先で、蒼白い月明かりが右手を冷たく照らしていた。仄暗い闇の中に、ぼんやりと浮かび上がるように。

 なんとなく、彼女が次に発しようとしている言葉が脳裏を過ぎり、リリアはそっと目を伏せる。聞きたくない、と思った。どうしても聞きたくない、と。それを聞いてしまったらきっと、これまで少しずつ積み上げてきたものが、全てなかったことになるような気がして。
 けれどそんなリリアの心情などまるで関係なく、言葉は容赦なく耳を打った。

「――役立たずのお姉様は王太子妃に相応しくない、と」

 右肩にそっと手を触れさせながら、カトリーヌはくすくすと嗤った。吐息が耳朶を掠めるほどの、すぐ傍で。心底愉しそうに、悦に浸りながら。

「だってお姉様は出来損ないですもの。今のままでは殿下がお辛いだけですわ。皆さんもそう仰っていましたわよ?」

 肩に触れていた爪先が、ぐっと皮膚に喰い込む。

「お父様にお願いして、私とお姉様の立場を入れ替えていただくのはどうかしら。ほら、私はお姉様と違って、多少なりとも世のことに通じておりますし、異能も持ち合わせていますもの」

 異能。鼓膜を打ったその言葉に、ああ――とリリアは静かに自嘲をこぼす。心はひどく疼いているというのに、身体の端々からはすうっと力が抜けてゆき、妙な軽さが全身を包み込む。それは、どこか諦めにも似た感情だった。諦めと、それから、虚しさ。

 あと一歩。指先が触れ合う寸前の、あの儚い間際。ルイスは、確かに見ていた。差し出された右手を。彼自身が癒やした右手を。――異能が発動するきっかけとなった右手を。揺らめく真紅の瞳で、じっと、静かに。

「その方が、殿下もきっとお心強いのではないかしら。そもそも、美しさだけしか取り柄のないお姉様が王太子妃に選ばれること自体、何かの間違いだったのですわ」

 役に立ちたい、と思っていた。漸く花開いてくれた異能を用いて、ルイスの為に何かをしたい、と。ユリウスはああ言っていたけれど。それでも、どんなに小さな、些細なことでも良いから、ルイスの役に立つことが出来れば、と。何の取り柄もなかったはずの自分に、ただひとつだけ存在した“価値”だったから。

 けれど――。握り締めていた右手をゆっくりと解き、薄く血管の透けて見える掌を見つめながらリリアは思う。彼の為に役立てたい、と、そう願った力で、彼の心に暗い影を落としてしまった。言葉にしてそう言われたわけではないけれど。しかし、あの時の瞳の揺れは、言葉以上に彼の気持ちを赤裸々にしていたと、今ならば分かる。

 過去を勝手に覗かれて、快く思う人間はそういないだろう。しかも覗き視てしまったその記憶は、彼の心に深く刻まれた傷そのものだ。踏み入ってはならない領域に、そして、決して触れてはならない痛みに、無遠慮に足を踏み入れ、触れてしまった。

 そんな人間を彼が受け入れないのは、至極当然のことだ。遠ざけられても、文句は言えない。それだけのことをしてしまったのだから。視たのが意図的だろうがそうでなかろうが、そんなものは少しも関係ない。

 ――お前なんて産まれてこなければっ……!

 王太子妃に選ばれたことが、そもそも間違っていたと言うけれど。それはきっと、正しいようで正しくはない。“どこから間違えていたのか”というなら、それは間違いなく、“母の命と引き換えにこの世に生まれ落ちた時から”だ。何かを奪って生まれてきた、その時から、すでに。あの瞬間から、全てが狂ってしまっていたのだ。間違った方向に。

 才能も価値も、何ひとつ持たない。唯一授かった異能でさえ、誰かを癒すどころか、傷つけてしまうものだった。そんな自分に、果たして生まれてきた意味などあるのだろうか。父が心から愛していたであろう母の命を犠牲にしてまで生まれたこの命に。誰も、何も幸せにすることの出来ない、役立たずの自分に。果たして存在する意味などあるのだろうか。

(馬鹿よね。そんなもの、初めからあるはずがないのに……)
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

君を愛することは無いと言うのならさっさと離婚して頂けますか

砂礫レキ
恋愛
十九歳のマリアンは、かなり年上だが美男子のフェリクスに一目惚れをした。 そして公爵である父に頼み伯爵の彼と去年結婚したのだ。 しかし彼は妻を愛することは無いと毎日宣言し、マリアンは泣きながら暮らしていた。 ある日転んだことが切っ掛けでマリアンは自分が二十五歳の日本人女性だった記憶を取り戻す。 そして三十歳になるフェリクスが今まで独身だったことも含め、彼を地雷男だと認識した。 「君を愛することはない」「いちいち言わなくて結構ですよ、それより離婚して頂けます?」 別人のように冷たくなった新妻にフェリクスは呆然とする。別人のように冷たくなった新妻にフェリクスは呆然とする。 そして離婚について動くマリアンに何故かフェリクスの弟のラウルが接近してきた。 

ドレスが似合わないと言われて婚約解消したら、いつの間にか殿下に囲われていた件

ぽぽよ
恋愛
似合わないドレスばかりを送りつけてくる婚約者に嫌気がさした令嬢シンシアは、婚約を解消し、ドレスを捨てて男装の道を選んだ。 スラックス姿で生きる彼女は、以前よりも自然体で、王宮でも次第に評価を上げていく。 しかしその裏で、爽やかな笑顔を張り付けた王太子が、密かにシンシアへの執着を深めていた。 一方のシンシアは極度の鈍感で、王太子の好意をすべて「親切」「仕事」と受け取ってしまう。 「一生お仕えします」という言葉の意味を、まったく違う方向で受け取った二人。 これは、男装令嬢と爽やか策士王太子による、勘違いから始まる婚約(包囲)物語。

元カレの今カノは聖女様

abang
恋愛
「イブリア……私と別れて欲しい」 公爵令嬢 イブリア・バロウズは聖女と王太子の愛を妨げる悪女で社交界の嫌われ者。 婚約者である王太子 ルシアン・ランベールの関心は、品行方正、心優しく美人で慈悲深い聖女、セリエ・ジェスランに奪われ王太子ルシアンはついにイブリアに別れを切り出す。 極め付けには、王妃から嫉妬に狂うただの公爵令嬢よりも、聖女が婚約者に適任だと「ルシアンと別れて頂戴」と多額の手切れ金。 社交会では嫉妬に狂った憐れな令嬢に"仕立てあげられ"周りの人間はどんどんと距離を取っていくばかり。 けれども当の本人は… 「悲しいけれど、過ぎればもう過去のことよ」 と、噂とは違いあっさりとした様子のイブリア。 それどころか自由を謳歌する彼女はとても楽しげな様子。 そんなイブリアの態度がルシアンは何故か気に入らない様子で… 更には婚約破棄されたイブリアの婚約者の座を狙う王太子の側近達。 「私をあんなにも嫌っていた、聖女様の取り巻き達が一体私に何の用事があって絡むの!?嫌がらせかしら……!」

王女殿下のモラトリアム

あとさん♪
恋愛
「君は彼の気持ちを弄んで、どういうつもりなんだ?!この悪女が!」 突然、怒鳴られたの。 見知らぬ男子生徒から。 それが余りにも突然で反応できなかったの。 この方、まさかと思うけど、わたくしに言ってるの? わたくし、アンネローゼ・フォン・ローリンゲン。花も恥じらう16歳。この国の王女よ。 先日、学園内で突然無礼者に絡まれたの。 お義姉様が仰るに、学園には色んな人が来るから、何が起こるか分からないんですって! 婚約者も居ない、この先どうなるのか未定の王女などつまらないと思っていたけれど、それ以来、俄然楽しみが増したわ♪ お義姉様が仰るにはピンクブロンドのライバルが現れるそうなのだけど。 え? 違うの? ライバルって縦ロールなの? 世間というものは、なかなか複雑で一筋縄ではいかない物なのですね。 わたくしの婚約者も学園で捕まえる事が出来るかしら? この話は、自分は平凡な人間だと思っている王女が、自分のしたい事や好きな人を見つける迄のお話。 ※設定はゆるんゆるん ※ざまぁは無いけど、水戸○門的なモノはある。 ※明るいラブコメが書きたくて。 ※シャティエル王国シリーズ3作目! ※過去拙作『相互理解は難しい(略)』の12年後、 『王宮勤めにも色々ありまして』の10年後の話になります。 上記未読でも話は分かるとは思いますが、お読みいただくともっと面白いかも。 ※ちょいちょい修正が入ると思います。誤字撲滅! ※小説家になろうにも投稿しました。

八年間の恋を捨てて結婚します

abang
恋愛
八年間愛した婚約者との婚約解消の書類を紛れ込ませた。 無関心な彼はサインしたことにも気づかなかった。 そして、アルベルトはずっと婚約者だった筈のルージュの婚約パーティーの記事で気付く。 彼女がアルベルトの元を去ったことをーー。 八年もの間ずっと自分だけを盲目的に愛していたはずのルージュ。 なのに彼女はもうすぐ別の男と婚約する。 正式な結婚の日取りまで記された記事にアルベルトは憤る。 「今度はそうやって気を引くつもりか!?」

人の顔色ばかり気にしていた私はもういません

風見ゆうみ
恋愛
伯爵家の次女であるリネ・ティファスには眉目秀麗な婚約者がいる。 私の婚約者である侯爵令息のデイリ・シンス様は、未亡人になって実家に帰ってきた私の姉をいつだって優先する。 彼の姉でなく、私の姉なのにだ。 両親も姉を溺愛して、姉を優先させる。 そんなある日、デイリ様は彼の友人が主催する個人的なパーティーで私に婚約破棄を申し出てきた。 寄り添うデイリ様とお姉様。 幸せそうな二人を見た私は、涙をこらえて笑顔で婚約破棄を受け入れた。 その日から、学園では馬鹿にされ悪口を言われるようになる。 そんな私を助けてくれたのは、ティファス家やシンス家の商売上の得意先でもあるニーソン公爵家の嫡男、エディ様だった。 ※マイナス思考のヒロインが周りの優しさに触れて少しずつ強くなっていくお話です。 ※相変わらず設定ゆるゆるのご都合主義です。 ※誤字脱字、気を付けているつもりですが、やはりございます。申し訳ございません!

白のグリモワールの後継者~婚約者と親友が恋仲になりましたので身を引きます。今さら復縁を望まれても困ります!

ユウ
恋愛
辺境地に住まう伯爵令嬢のメアリ。 婚約者は幼馴染で聖騎士、親友は魔術師で優れた能力を持つていた。 対するメアリは魔力が低く治癒師だったが二人が大好きだったが、戦場から帰還したある日婚約者に別れを告げられる。 相手は幼少期から慕っていた親友だった。 彼は優しくて誠実な人で親友も優しく思いやりのある人。 だから婚約解消を受け入れようと思ったが、学園内では愛する二人を苦しめる悪女のように噂を流され別れた後も悪役令嬢としての噂を流されてしまう 学園にも居場所がなくなった後、悲しみに暮れる中。 一人の少年に手を差し伸べられる。 その人物は光の魔力を持つ剣帝だった。 一方、学園で真実の愛を貫き何もかも捨てた二人だったが、綻びが生じ始める。 聖騎士のスキルを失う元婚約者と、魔力が渇望し始めた親友が窮地にたたされるのだが… タイトル変更しました。

大好きな旦那様はどうやら聖女様のことがお好きなようです

古堂すいう
恋愛
祖父から溺愛され我儘に育った公爵令嬢セレーネは、婚約者である皇子から衆目の中、突如婚約破棄を言い渡される。 皇子の横にはセレーネが嫌う男爵令嬢の姿があった。 他人から冷たい視線を浴びたことなどないセレーネに戸惑うばかり、そんな彼女に所有財産没収の命が下されようとしたその時。 救いの手を差し伸べたのは神官長──エルゲンだった。 セレーネは、エルゲンと婚姻を結んだ当初「穏やかで誰にでも微笑むつまらない人」だという印象をもっていたけれど、共に生活する内に徐々に彼の人柄に惹かれていく。 だけれど彼には想い人が出来てしまったようで──…。 「今度はわたくしが恩を返すべきなんですわ!」 今まで自分のことばかりだったセレーネは、初めて人のために何かしたいと思い立ち、大好きな旦那様のために奮闘するのだが──…。

処理中です...