美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです

榛乃

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蠢くもの

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 微かに虫の鳴き声が聞こえる。分厚いカーテンの向こう側から。薄い硝子の窓を通って。
 外はすっかり夜の帳に包まれ、鬱蒼とした草花たちは、各々根の張った場所で静かな眠りについている。それらの薫らせる、昼間とはまるで違う甘やかな香りは、濁りのまるでない、どこまでも透き通った匂いだ、と、リリアは鋭く尖った細い針をゆっくりと動かしながら思う。繍枠にぴんと張られた白いコットン地の上には、黄色と緑色の刺繍糸でかたどられた小さな花模様が、中途半端な形で浮かび上がっている。

 ステッチのひとつひとつを丁寧に重ねながらも、リリアの意識はずっと、手元とはまるで別の場所にあった。そのせいで、何度も針を刺す位置を誤りそうになり、その度に慌てて意識を引き戻す。そんなことを、もう何度繰り返したか分からない。気を紛らわせるために始めたはずなのに、どうにも集中出来ないのだ。最初のひと針を布地に落としたその瞬間から、ずっと。テーブルを挟んだ向かい側のソファに腰を下ろし、書庫から持ち出したらしい本を読んでいるルイスの、無言でありながらも、なお強く濃く空気に滲む存在感のせいで。

 夕食を終えて寝室に引き上げてから、どれほどの時間が経ったのだろう。ほんの数十分かもしれないし、或いはもっと、途方もなく長い時が流れているのかもしれない。時間の歩みは誰にとっても等しく一定であるはずなのに、誰と共に過ごすかによって、その速さはまるで別物のように感じられる。善くも悪くも。それは本当に不思議なことだ、と、頭の片隅でぼんやりと思いながら、リリアは黄色い刺繍糸を通した針を、小花の雌蕊の辺りへ慎重に落とす。

 と、その時だった。ルイスの纏う空気が、ふいに張り詰めたのは。
 その違和感に気づき、リリアは針を動かす手をとめて、そっと顔を上げた。視線の先にいるルイスは、つい先ほどと何ひとつ変わらぬ姿でソファに腰掛け、本を片手に、静かに頁を見下ろしている。けれども、彼の周囲に漂う気配だけが、明らかに違っていた。それは、謁見の間で初めて対峙したあの時のような、冷たく研ぎ澄まされた、まるで刃のような空気。言葉はなくとも、何かが起きたのだと察するのに、それは十分すぎるものだった。

 肌を突き刺すような沈黙が、部屋を包みこんでいる。端々に巣食う、小さな夜闇にまで。背筋を撫でる冷たいものに、リリアは思わず息を呑み、繍枠を握る手に知らず知らず力がこもった。息をすることさえ憚られるような、張り詰めた静寂。喉の奥がひりつくのに、けれど鼓動は、不思議なほど落ち着いていた。嵐の前の奇妙な静けさに、まるで竦んででもいるみたいに。

 やがてルイスの手が、ゆっくりと動いた。本の頁をそっと閉じる音が、冷ややかな空気のなかに、不釣り合いなほど大きく響く。彼は本をテーブルに置き、そして徐ろに立ち上がった。その動きは、何気ない所作でありながら、しかし一分の隙もない。するりと流れるように向けられた赤い瞳の、その空を裂くような動きさえも。

「良いと言うまで、動くな」

 低く、静かな声音だった。それでいて、ひどく鋭い、有無を言わさぬ声。
 リリアが固唾を呑むのと、扉が控えめにノックされたのは、ほとんど同時だった。余計な物音を立てぬよう、そっと開かれた扉の向こうからセドリックが顔を覗かせる。いつになく冷淡で険しい、感情を捨てたかのような無機質な表情。いつも柔和な笑みを湛える彼の、それは初めて見る“軍人”の顔だった。

「――殿下」

 セドリックには一瞥もくれず、ルイスは肩越しに窓の外へ視線を投げる。分厚いカーテンに遮られ隠された、庭のそここに跋扈する影を、まるでひとつ残らず見透かすかのように。

「数は」
「確認出来ているのは五人ですが、状況からするに、他にもいるとみて間違いないかと」

 淡々と交わされる言葉の、そのあまりの重たさに、リリアは息を呑む。窓は全てカーテンで閉ざされているせいで、薄い硝子の向こう側に広がるどろどろと濁った闇を窺い知ることは出来ない。しかし、室内に満ちる緊迫した空気が、否応なく恐怖を煽り立てる。彼らのように“何か”を感じ取っているわけでも、視認したわけでもないけれど。寧ろ“見えない”ということが、却って恐ろしさを際立たせるような気がした。

 警備の厳しい王城ではなく、護衛の手薄になるこの機会を敢えて狙ったのだろう、と考えながら、リリアはそっと目を伏せる。ルイスが直々に選抜した精鋭揃いとはいえ、相手もそれは承知のはずだ。それでもなお、彼らは迫ってきた。陰鬱な夜の闇に紛れ込んで、じりじりと。リリアに今理解出来るのは、ただそれだけだ。

「リリア様、こちらへ」

 ふいに声をかけられ、我に返って顔を上げると、場にそぐわぬ穏やかな微笑を湛えたセドリックと目が合った。愛らしい妹と同じ、綺麗な薄黄色の瞳。少しでも安心させようとしてくれているのか、いつの間にか傍らに膝をついていた彼は、視線が交わったのを認めてすぐに、ふっと、やさしく目を細めた。大丈夫ですよ、と、まるでそう伝えるように。
 そんな彼の背後には、エリオットに付き添われたメアリとメイドが、肩を寄せ合うようにして静かに立っていた。メアリのふっくらとした手には、灯りの落とされたランプが握られている。

 セドリックに促され、寝室の一角に置かれた本棚の前でリリアは足をとめた。古いものも新しいものも入り混じり、様々な種類の本が所狭しと並べられた、重厚な本棚。一見して、何の変哲もないその中の一冊――下から三段目の、やや右端に差し込まれた革張りの古書――に、エリオットが躊躇いなく指をかけ、そっと引き抜く。その瞬間、ごく微かな音とともに、本棚全体がわずかに身を震わせた。まるで眠りから目覚めた動物のように。その光景を、リリアはただ唖然と見つめる。

 やがて中央部分に切れ目が走り、四角く区切られた一部分が、すうっと奥へと引っ込んでいく。棚はそのまま静かに横滑りし、何かが引っかかるような僅かな音を立ててすぐ、ぴたりと動きをとめた。ぽっかりと口を開けた、真っ暗な空洞を露わにして。

 王城にも幾つかの隠し部屋や隠し通路があると聞いてはいたけれど――。鈍色の石を積み上げて造られた、小さな部屋とも通路ともつかないその暗晦とした空間を眺めながら、リリアはこくりと唾を呑む。
 何故だか、その奥へと足を踏み入れたら最後、もう後には戻れないような、そんな気がした。隔たれられる、という、或いは、遠ざけられる、という漠然とした焦燥。そんなことはきっと起こりはしない、と、そう信じているけれど。しかし、胸の奥にしんと根を張った不安は、そう簡単には消えてくれない。それどころか、ますますその存在を、愉快そうに嘲笑いながら突きつけてくる。

 怖い、と思った。自分の命がどうこうではない。自分以外の全ての人が危機に晒されている、ということが、どうしようもなく怖くてたまらなかった。
 それでも、前に進むしかない。駄々を捏ねてルイスたちの足を引っ張るわけにはいかないのだから。

 明かりを灯したランプを片手に、先に暗闇の中へと入っていったメアリの背中を見つめながら、リリアはゆっくりと深呼吸する。怯んでは駄目だ、と。こんな時こそ毅然としていなければ、と。二の足を踏みそうになる身体を叱咤して、リリアはしっかりとした足取りで、本棚の向こう側へと足を踏み入れる。ほんの数歩足らずなのに、そうするだけで、随分と勇気が要った。

「万が一の場合は、例の抜け道を使え。……場所は分かっているな」
「ええ、ええ、分かっていますとも。ですが、そんな、万が一だなんてっ」

 本棚に片手をつき、僅かに腰を折って空洞の中を覗き込むルイスに、メアリは悲痛な面持ちで縋るような声をあげる。万が一の場合――それが何を意味するかなんて、考えるまでもない。それは、誰もが望まぬ結末だ。絶対に起こり得てはいけない未来。

 エリオットから渡された鍵束を、両腕で抱き締めるようにして蹲るメアリの背中にそっと手を添えながら、リリアは微かに震える唇をきつく噛み締める。メイドの啜り泣くか細い声と、状況を報告に来た護衛の張り詰めた声。それらのざわめきの中で、“万が一”というその言葉だけが、胸の奥にひたりと沈んでゆく。深く深く、記憶の淵に触れるまで。

「殿下、そろそろ……」
「ああ」

 セドリックの促しに短く答え、ルイスはそれ以上何も言わず、誰とも目を合わさず踵を返す。その小さくも逞しい背中を見上げ、リリアは切なく顔を歪めた。セドリックもいるのだから大丈夫だ、と、そう何度も言い聞かせているけれど。それでも、意識の底からひたひたと、あの光景が――あの記憶が、鮮明に蘇ってくる。
 暗く翳った芝生。ぐったりと手足を投げ出して横たわる人影。そして、一面の赤、赤、赤――。

 血濡れた指先が、まるで今目の前にあるかのような錯覚に襲われ、心臓がどくりと激しく跳ね上がる。身体を駆け抜けた衝動は、“恐怖”や“不安”というにはあまりにも苛烈な、逃げ場のない絶望に肉体ごと突き落とされるような感覚だった。理性すらも焼き尽くしてしまいそうな、途方もない激情。胸を締め付ける切迫感に突き動かされ、今にも身体中を掻き毟りたくなる。そうしなければ、身の内で暴れ回るものを、とても堪えきれそうになかった。

 それなのに――。離れてゆく背中を見つめながら、リリアは開きかけた唇を、そっと噤む。行かないで、と、引き止めたかった。手を伸ばし、服の裾でも良いから掴んで、そして、危険なところへはゆかないで、と縋りたくてたまらなかった。
 けれども、どんなに心がそう叫んでいても。そう望んでいても。現実はひとつも許してはくれない。

「……殿下」

 こみ上げる不安をぐっと押し殺し、今出来うる限りの平静を繕って、振り向くかどうかも分からない背中に向けて、そっと声をかける。少しでも気を緩めれば、忽ち足元から崩れ落ちてしまいそうだった。怖くて――怖くて怖くて、どうしようもなくて。
 それでも必死に笑みを浮かべ、リリアはゆっくりと瞬く。うまく笑えている自信なんて、少しもない。けれど、立ち止まった背中から目を逸らすことは、したくなかった。どんなに苦しくても。どんなに怖くても。

「どうか、ご無事で」
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