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それでも彼は、何故か毎日のように離宮へと足を運んだ。外見こそ庭園に聳えるに相応しい絢爛さを備えてはいるが、一歩中へ踏み込めば、幾重にも塵積もった黴と埃、そして何年も放置され劣化の一途を辿る油絵の饐えた臭いが立ち込める、“死んだ場所”のようなところへ。時には砂汚れのついたシャツを着て、またある時は、“正装”と思しき立派な衣服を身に纏って。
そんな彼のことが、シェリルは苦手で、疎ましかった。此処へ来ても、彼は何か特別なことをするわけではない。時間が許す限り鉄格子の向こう側に腰掛け、小さな明り取りから射し込む陽光と、それに照らされてきらきらと舞う埃を、ただぼんやりと眺めているだけ。
時折気紛れに口を開いたかと思えば、「好きな食べ物は?」という、ありふれた問いを投げかける。或いは「好きな色は?」だったり、「嫌いな動物は?」だったり。それは仲の良い子供たちだけが交わす、どこにでもある、何の変哲もない質問だった。裏表のない、ただ相手を知りたいという純粋な気持ちと熱量だけが滲んだ問い。
唯一違うことといえば、シェリルはそれらの問いに、一切の答えを返さないことだった。顔を縦に振ることもなければ、横に振ることもなく、もちろん唇を開くこともない。自分でも驚くほど、表情はぴくりとも動かなかった。痩せこけ張り詰めたような頬も、眉間に薄っすらと刻まれた皺も、冷たい石床ばかりを見つめる虚ろな眼も、固く引き結ばれた唇も、何もかも。
それでも少年は、飽きることなくシェリルに問いかけた。答えが返ってこないことなど分かっていながら。何度でも、何度でも。好きな色は何か、好きな遊びは何か――此処へ来てもうどれくらい経つのか、何故そんなに身体中傷だらけなのか。
やがて、にっちもさっちもいかないと悟ったのか、少年は無意味な――一方的な――問いを投げかけることはやめ、壁を背凭れにするように石床にぺたりと腰を下ろして、それから何気ない日常を語るようになった。シェリルが聴いていようがいまいが構わずに。
否、彼は恐らく、シェリルが聴いているのは、なんとなく分かっていたのだろう。たとえ彼女が膝を抱えて顔を伏せていても、石床に散らばった幾つもの小さな跡をぼんやりと眺めていても。それでも自分の話は――面白かろうが面白くなかろうが――彼女の耳に届いているのだろう、と。届いているはずだ、と。
そして現にシェリルは、彼の口にする話を、時折頭の外に追い出すことこそあれど、それでもなるべく耳を傾けるようにしていた。“聴きたい”という楽しみより、“そうしなければいけない”という義務感より、どこからともなく流れてくる“音楽”が勝手に耳に入り込んでくる、というような感覚で。
庭園の樹木を剪定している庭師に悪戯をして怒られたこと、授業を放り出してベランダからこっそりと逃げ出したこと、ダンスの講師をしている夫人がとても厳しいこと、ステップをひとつ間違えるだけで曲の初めから全てやり直しさせられること――。
彼の話す世界は、シェリルにとってどれも新鮮なものだった。母・エレノアが亡くなった八歳の頃から、邸の地下牢や、牢獄同然の離宮に隔離されたまま、もう何年も何年も、気の遠くなるような年月をただひとりで過ごしてきたシェリルにとっては。庭師に悪戯をすることも、授業を放り出すことも、ダンスを踊ることも。なんだか新鮮で、そして特別なことに思えてならなかった。まるでお伽話の中の出来事のような、眩しすぎるほどに輝かしく、彩り豊かで鮮やかなものに。
最後に誰かと会話をしたのは、いつだっただろう。エドワードやエリザベスはただ罵るだけで“会話”という会話はなく、国王セオドアはシェリルを一瞥する――侮蔑の色濃くこもった目で見下ろす――だけで、彼女に対して何か言葉をかけることはない。侮辱することもなければ、無論、慈悲の言葉をかけることもなかった。まるで言葉をかける価値さえない、と、そう切り捨てるかのように。
この牢獄は、悲鳴と罵声だけが響き渡る場所だった。ずっと、ずっと。もう何年も。何かが強くぶつかる鈍い音、結晶が床に散らばる澄んだ音、そして、嘲笑、罵声、嘲笑、罵声――。
だから彼の、邪気のまるでない、子供特有のやわらかな声は、この場所には異質でありながら、とても心地の良いものだった。
それでも、だからといって少年への対応が変わるわけでは少しもなかった。何日も何日も、ただ一方的に少年だけが喋り続け、シェリルはその声を、或いはその言葉の羅列を、聴くともなく聴くだけ。
庭園のパーゴラに這った藤が見事な盛りを迎えていること、授業は代わり映えがなくつまらないこと、黒魔術を得手とする“天才少年”なる者がいること、教会はいつも重苦しく陰鬱な鐘を鳴らし続けていること――。
そんな少年との一方的な関係に、一筋の光が舞い込んだだのは、いつのことだっただろう。あの日は確か、とても穏やかな風が――それでも牢獄の中は幾分肌寒かったけれど――、明り取りの小さな窓から流れ込んでくるほど、あたたかかったように思う。あたたかで白っぽい木漏れ日の差す、長閑な春の日。
――俺の母上は、俺のせいで死んだんだ。
そんな彼のことが、シェリルは苦手で、疎ましかった。此処へ来ても、彼は何か特別なことをするわけではない。時間が許す限り鉄格子の向こう側に腰掛け、小さな明り取りから射し込む陽光と、それに照らされてきらきらと舞う埃を、ただぼんやりと眺めているだけ。
時折気紛れに口を開いたかと思えば、「好きな食べ物は?」という、ありふれた問いを投げかける。或いは「好きな色は?」だったり、「嫌いな動物は?」だったり。それは仲の良い子供たちだけが交わす、どこにでもある、何の変哲もない質問だった。裏表のない、ただ相手を知りたいという純粋な気持ちと熱量だけが滲んだ問い。
唯一違うことといえば、シェリルはそれらの問いに、一切の答えを返さないことだった。顔を縦に振ることもなければ、横に振ることもなく、もちろん唇を開くこともない。自分でも驚くほど、表情はぴくりとも動かなかった。痩せこけ張り詰めたような頬も、眉間に薄っすらと刻まれた皺も、冷たい石床ばかりを見つめる虚ろな眼も、固く引き結ばれた唇も、何もかも。
それでも少年は、飽きることなくシェリルに問いかけた。答えが返ってこないことなど分かっていながら。何度でも、何度でも。好きな色は何か、好きな遊びは何か――此処へ来てもうどれくらい経つのか、何故そんなに身体中傷だらけなのか。
やがて、にっちもさっちもいかないと悟ったのか、少年は無意味な――一方的な――問いを投げかけることはやめ、壁を背凭れにするように石床にぺたりと腰を下ろして、それから何気ない日常を語るようになった。シェリルが聴いていようがいまいが構わずに。
否、彼は恐らく、シェリルが聴いているのは、なんとなく分かっていたのだろう。たとえ彼女が膝を抱えて顔を伏せていても、石床に散らばった幾つもの小さな跡をぼんやりと眺めていても。それでも自分の話は――面白かろうが面白くなかろうが――彼女の耳に届いているのだろう、と。届いているはずだ、と。
そして現にシェリルは、彼の口にする話を、時折頭の外に追い出すことこそあれど、それでもなるべく耳を傾けるようにしていた。“聴きたい”という楽しみより、“そうしなければいけない”という義務感より、どこからともなく流れてくる“音楽”が勝手に耳に入り込んでくる、というような感覚で。
庭園の樹木を剪定している庭師に悪戯をして怒られたこと、授業を放り出してベランダからこっそりと逃げ出したこと、ダンスの講師をしている夫人がとても厳しいこと、ステップをひとつ間違えるだけで曲の初めから全てやり直しさせられること――。
彼の話す世界は、シェリルにとってどれも新鮮なものだった。母・エレノアが亡くなった八歳の頃から、邸の地下牢や、牢獄同然の離宮に隔離されたまま、もう何年も何年も、気の遠くなるような年月をただひとりで過ごしてきたシェリルにとっては。庭師に悪戯をすることも、授業を放り出すことも、ダンスを踊ることも。なんだか新鮮で、そして特別なことに思えてならなかった。まるでお伽話の中の出来事のような、眩しすぎるほどに輝かしく、彩り豊かで鮮やかなものに。
最後に誰かと会話をしたのは、いつだっただろう。エドワードやエリザベスはただ罵るだけで“会話”という会話はなく、国王セオドアはシェリルを一瞥する――侮蔑の色濃くこもった目で見下ろす――だけで、彼女に対して何か言葉をかけることはない。侮辱することもなければ、無論、慈悲の言葉をかけることもなかった。まるで言葉をかける価値さえない、と、そう切り捨てるかのように。
この牢獄は、悲鳴と罵声だけが響き渡る場所だった。ずっと、ずっと。もう何年も。何かが強くぶつかる鈍い音、結晶が床に散らばる澄んだ音、そして、嘲笑、罵声、嘲笑、罵声――。
だから彼の、邪気のまるでない、子供特有のやわらかな声は、この場所には異質でありながら、とても心地の良いものだった。
それでも、だからといって少年への対応が変わるわけでは少しもなかった。何日も何日も、ただ一方的に少年だけが喋り続け、シェリルはその声を、或いはその言葉の羅列を、聴くともなく聴くだけ。
庭園のパーゴラに這った藤が見事な盛りを迎えていること、授業は代わり映えがなくつまらないこと、黒魔術を得手とする“天才少年”なる者がいること、教会はいつも重苦しく陰鬱な鐘を鳴らし続けていること――。
そんな少年との一方的な関係に、一筋の光が舞い込んだだのは、いつのことだっただろう。あの日は確か、とても穏やかな風が――それでも牢獄の中は幾分肌寒かったけれど――、明り取りの小さな窓から流れ込んでくるほど、あたたかかったように思う。あたたかで白っぽい木漏れ日の差す、長閑な春の日。
――俺の母上は、俺のせいで死んだんだ。
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