聖獣の神子と糸の巫女

草野瀬津璃

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1巻

1-1

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   第一章 糸の巫女になりました


 十月の終わり、紅葉もみじりのシーズンを迎えた山々は、燃えるような赤に染まっていた。見渡す限り赤や黄に色づいている。
 たちばな理緒りおは、絵画のようなその風景をぼんやり眺めていた。そんな彼女の右腕をめい雪下ゆきした明理あかりが揺さぶる。

「ねえねえ、理緒ちゃん。あっち見て。綺麗だよ!」

 自動車の窓にはりついた明理は、顔だけ振り向いて、山際の木々を指差す。その先では、赤に染まった紅葉もみじがトンネルのようになっていた。理緒も、自分側の窓の向こうを示す。

「本当だ、綺麗。ほら、明理ちゃん、こっちも見てよ。向かいの山も真っ赤だね」
「ほんとだぁっ」

 明理はまんまるの目をキラキラと輝かせた。
 彼女は今年の夏に七歳になったばかりの、小学一年生だ。肩くらいの長さの髪を、ピンク色の丸い玉が二つついたヘアゴムで結んでいる。服装もピンクの上着に白いシャツ、赤いスカートとお気に入りでまとめているので、今日の彼女はご機嫌だ。

(今日も、うちのめいっこはとても可愛い)

 理緒は頬をほころばせる。
 しばらくして、明理が自分側の窓に視線を戻したので、理緒は開けていた窓を閉めた。日射しは暖かいが、風は冷たい。
 車内には、眠気防止の為に姉の好きなロック調の曲が流れている。二車線のゆるやかな山道は単調で、確かに眠くなりそうだ。ふと、車窓に映り込んだ自分の姿に、理緒は眉を寄せた。

(前髪、ちょっと切りすぎたかな)

 指先で髪を触りながら、ついでに化粧の具合もチェックする。そしてセミロングの黒髪を手ぐしで整えた。平凡な顔立ちの理緒は、真ん丸の黒い目ときりっとした眉が印象的らしく、二十六歳にもかかわらず、友人に黒いマメシバなんてあだ名をつけられている。
 どこがマメシバなんだ、と考えていると、運転中の姉、美緒みおが口を開いた。

「理緒、今日は付き合ってくれてありがとね。旦那が急に行けなくなったから、お出かけはやめようかと思ったんだけど、明理が大泣きして行きたがって。約束は守る為にあるんだよ、だって。どこで覚えてきたんだか」

 長い髪を金髪に染め、白いロングTシャツに、ブルージーンズを合わせている美緒は、どこから見ても派手だ。ハンドルを握る手にはおしゃれな紅葉もみじのネイルがほどこされている。

「いいよ、ちょうど休みだったしね」

 理緒は気軽に返す。それを聞いた美緒はしみじみとした調子で続けた。

「ほんと助かる。遠くに出かける時は、私一人だとちょっと心配なのよね。明理、元気が良いからすぐに駆けだしてっちゃうし。旦那なら走って捕まえられるけどさ。あーあ、もう三ヶ月前から決めてたのに、これだから嫌んなるわ」

 姉も家族で出かけるのを楽しみにしていたようで、口をとがらせて文句を言う。

「仕方ないよ、昨日あった大規模火災の応援なんでしょ? お義兄にいさん、警察官なんだし」
「分かってるけど、ムカつくんだもん」
「まあまあ、休みの日は家事もしてくれてるんでしょ? いい旦那さんじゃん。そんなこと言って、大好きなくせに」
「もう、からかわないのっ」

 後ろからでも、美緒の頬が赤くなったのが見えた。理緒はにやにやする。
 姉は理緒よりも六つ年上だ。十代の頃はかなりやんちゃをしていたが、そんな彼女をよく注意していた警察官と二十歳で恋愛結婚し、二十五歳で明理を産んだ。
 一方の理緒はいまだ出会いを探している、ごく普通のOLである。

「そういや明理ちゃんてば、なんでまた、そんなに動物のふれあいパークに行きたいの?」

 今日の目的地は、山の上にある牧場だ。ちょっとした散策ができる遊歩道があり、山羊やぎや羊とふれあえる広場がある。

「ちっちゃい時は山羊やぎを怖がって、ギャン泣きしてたじゃない?」

 だから、理緒には明理のお願いが不思議なのだ。それを聞いた美緒が噴き出した。

「あはは、そんなこともあったわね! アニメの影響よ。移動動物園が来て、そこに敵が出て一騒動。動物を助けて、ハッピーエンドって回があってさ。自分も動物さん達と遊ぶって」

 その説明に、明理自身が身を乗り出して付け足す。

「それだけじゃないよ。この間はね、紅葉もみじりをしてたんだよ。だから明理も赤い葉っぱを見ながらお散歩するの!」
「アニメって結構、季節感のあるイベントがあるから。うちの子、すぐに影響されるのよね」

 はしゃいでいる明理に対し、美緒はやれやれと息をついている。理緒も噴き出した。

「あはは、私も小さい頃はこうだったかも」
「まあ、ニュースでお花見が流れていたら、急に桜を見に行きたくなるのと一緒かな。……あ」

 ふいに美緒が嫌そうに舌打ちしたのを聞き、理緒は苦笑して注意する。

「……お姉ちゃん、子どもの前で舌打ちはやめようね」
「だって雨が降ってきたんだもん」

 だもんなんて可愛らしく言っているが、彼女のしかめつらは凶悪の一言につきた。油断すると、姉は元不良の一面をのぞかせる。

「本当だ。でも今日の天気予報は晴れだったし、山でよくある通り雨じゃない?」

 降り始めた小雨は、そのうち、バタバタと音を立てる土砂降りに変わった。慣れない山道での運転で気が立っている美緒は、悪態をつく。

「最悪! ライト点けて……ええと」
「ゆっくり行こう、お姉ちゃん」
「うん」

 美緒は返事をしたが、まだ肩に力が入っている。

「ねえ、動物さん達、おうちに帰っちゃったかなあ?」

 焦る理緒達に対し、明理は能天気だ。姉は運転に集中したいだろうと、理緒が明理の相手をすることにした。

「あの辺りはきっと晴れてるよ、明理ちゃん」
「だったらいいな」

 明理は心配そうに窓の向こうを眺めている。
 美緒が理緒に一緒に来てと頼んだのは、不慣れな遠出で、運転を交代できる相手が欲しかったからだ。昔はバイクを飛ばしていたわりに、山道での車の運転は好きではないらしい。理緒は念の為、明理がちゃんとシートベルトをしているか確認した。スリップでもしたらことだ。
 そう思った時、美緒が急ブレーキを踏んだ。

「きゃっ」
「何? 今、何かが目の前を……」

 美緒の声にはおびえのようなものが含まれていた。理緒は姉に声をかける。

「どうしたの?」
「タヌキか何かをひいたかも」

 美緒の横顔は色をなくしている。彼女はすぐに路肩に停車し、ハザードランプを点け、雨の降る外へ確認に行く。姉を心配した理緒は傘を手に取った。

「明理ちゃん、ここにいてね。濡れると風邪を引くから」
「わかった」

 理緒は明理に一言声をかけ、外へ出る。傘があってもあっという間に膝から下が濡れてしまった。
 急いで扉を閉めたところで、カランと車に何かがぶつかる音がする。

「何?」

 顔を上げた理緒の前に、こぶし大の石が飛んできた。それがひたいを直撃し、彼女の視界は真っ暗になる。

「理緒!」

 遠ざかる雨音にまぎれて、姉の悲鳴が聞こえた気がした。


     ◆


「……あれ?」

 ふと気付くと、理緒は花畑に立っていた。
 燃えるような赤い夕焼け空の下、彼岸花ひがんばなが咲き乱れている。

「なんで私、こんな所に? それに何してたんだっけ」

 空を飛びかうトンボをぼんやりと見ていると、背後から声が聞こえた。
 ――よし、お前達にしよう。
 近いようで遠いような不思議な声に誘われ、理緒は後ろを振り返る。

「えっ?」

 いや、振り返ろうとして、よろけた。地面が崩れ始め、足元の穴へ吸い込まれていく。

「きゃあああ」

 悲鳴を上げながら、そのまま闇へ落ち、そして――

「――起きよっ」

 耳元でした誰かの叫ぶ声で、理緒は目を覚ました。
 ぱちぱちとまばたきをすると、涙がすーっと頬を伝い落ちた。なぜか知らないが泣いている。
 あれはいったいどこの花畑だったのだろう。ぞっとする程の美しさは、切なさを感じて……

「ようやくたましいが体に馴染なじんだな。しかし、死のふちにまだ少し引きずられているか? おい、いい加減に起きよ! 目覚めの時間だ」

 べちっとひたいを叩かれた。不思議な余韻にひたっていた理緒は、眉をひそめて体を起こす。

「いたっ。何よ、もう。せっかくいい気分で寝てたのに……ん?」

 文句は途中で途切れた。てっきり誰かがいると思ったのに、足元にいたのは、真っ白な犬――ポメラニアンだ。ちょこんと行儀よく座っている。小さな舌を出し、へっへっと息をしているのが可愛らしい。首輪は無いが、ひたいに青い宝石飾りがついていた。

「やっと起きたか、糸の巫女よ」

 あどけない男の子の声が、不遜ふそんな響きを帯びて言った。
 理緒は目を丸くする。ポメラニアンがしゃべったように聞こえたのだ。

「え?」
「異界から呼び寄せたせいで、肉体の再構築に時間がかかったな。体におかしなところはあるか?」
「は?」

 また、ポメラニアンから声が聞こえた。

「おい、大丈夫かといている」

 ポメラニアンは理緒の膝に前脚を置き、彼女の顔を覗き込む。
 そのキラキラと輝く黒い目を見ながら、唐突に、理緒は理解した。

「あ、そうか、夢か。犬が話すわけないもんね」

 犬がしゃべっていると勘違いするなんて、どうかしている。ひたいに手を当てて、首を横に振った。

「やれやれ、どこかで頭でも打ったのかな」
「そうだ。思い出したか?」

 また幻聴が聞こえた。いよいよ、やばいかもしれない。

(けど、夢にしてはリアルだ)

 真っ白なワンピースのやわらかな感触も、お尻に当たる大理石の床の冷たさも本物みたいだ。穏やかな日差しに、色とりどりの花壇さえはっきりと見える。
 そして、男の子の声は続く。

「お前達は休日に山へ出かけ、土砂崩れにあった。お前は、落石が頭に直撃して死んだのだ」

 その言葉を聞いて、理緒の頭に雨の光景が浮かび上がる。確かにあの時、石が飛んできた。
 もう、犬が話してるかどうかなど、構っていられない。

「え? 待って。?」
「その後ろの娘だ」

 振り返ると、理緒と同じような白いワンピースを着た明理が、すうすうと寝息を立てている。

「土砂で車が埋まり、救出されたものの、この娘のは重体で、病院で寝ている」
「お姉ちゃんは?」

 ところどころ引っかかるが、真っ先にその疑問が浮かぶ。ポメラニアンは淡々と答える。

「無事だ、幸運にも。動物をはねたと勘違いして、外に出ていたお陰でな。あれは動物ではなく、落石だった。だが不幸なことに、妹と娘は事故にあったわけだ」
「じゃあ、ええと、ここは天国で、あなたは神様?」

 ポメラニアンが神様なんて意外すぎる展開だ。

「違う。私は聖獣だ」
「セイ……ジュウ?」

 なんだそれ、と理緒は目を丸くした。

(駄目だ、理解が追いつかない。私は死んで、明理ちゃんは重体で……)

 そこで大事なことに気が付いた理緒は、明理の肩を揺さぶった。

「明理ちゃん、大丈夫なの!?」
「ううーん、なあにぃ、理緒ちゃん。うるさぁーい」

 寝起きの舌足らずな声でこたえ、明理は眉をひそめる。

「無事なの? 痛いところは無い?」

 理緒は明理の体に傷が無いか、あちこちに視線を走らせる。特に怪我は見当たらない。

「無いよ?」

 明理は不思議そうに返しながら、目元を指先でこする。

「あれ? なんで泣いてるんだろう」

 首を傾げる明理を前に、理緒は一気に脱力した。

「良かったーっ。土砂崩れに巻き込まれたって聞いて、もう駄目かと」
「土砂崩れ?」
「え? 覚えてないの?」
「よく分かんない。ぐっすり眠って気持ち良かった」
「そう? でも、念の為にレントゲンを撮ってもらおうよ。ってそうだった、ここはどこよ?」

 改めて周りを見た理緒は、古代ギリシャの神殿のような光景に戸惑った。
 白い大理石が輝く広間は、ちゅうろうで囲まれている。窓は無く、庭にすぐに出られる造りだ。ガゼボを大きくしたみたいな雰囲気で、正面には祭壇らしきものがある。その向こうの壁には、星をかたどった紋章が大きく刻まれていた。
 気候は暖かく、柱の向こうにある植込みには草花が生い茂り、果樹が植わっている。見たことの無い木々ばかりで、南国のものみたいだということしか分からない。

「ここはリオンテーヌ王国。聖獣の間だ」

 ポメラニアンからそんな声がする。
 理緒はようやく観念した。周りに人がいないのだから、この犬から声が聞こえているのだ。
 そこで、一つの可能性に気付き、四つん這いでポメラニアンに近付く。

「首輪が無いなら、もしかしてこの宝石がスピーカー?」

 理緒は、ポメラニアンのひたいについている宝石に触れようと右手を伸ばした。だが、指先が触れる前に、ポメラニアンが理緒の手に噛みついた。

「いだぁっ」

 手を押さえ、尻餅をつく。ポメラニアンは歯を見せて怒った。

「触るでない! 無礼者っ」
「ひいい、なんなの、これ!」

 甘噛みだったが、人差し指には歯形がついている。痛みと、しゃべる犬という訳の分からない事態に、理緒はパニックにおちいった。一方、明理は、ぱああっと明るい笑みを浮かべる。

太郎たろう!」

 明理は嬉しそうにポメラニアンに飛びついた。

「太郎! 太郎だ! 帰ってきたんだね。おかえりなさい!」
「こら、明理。駄目よ、そんな凶暴ポメラニアンに近付いちゃっ」

 理緒は慌てて明理を引き離そうとした。だが、途端にポメラニアンはきゅるるんと可愛い顔をして、明理の頬をなめる。その豹変ぶりに理緒は頬を引きつらせた。

「あ、あんた、明らかに顔を使い分けてるわねっ」

 理緒の抗議は聞こえていないのか、明理は大喜びできゃあきゃあと騒いでいる。
 太郎というのは、姉夫妻が飼っていた犬で、ほんの半年前に交通事故で死んでしまった。
 明理は、別れを悲しんで食欲が無くなる程その犬を可愛がっていたのだ。あの犬は確かに、こんな感じの白いポメラニアンだった。
 明理が手を離したことで床に下りたポメラニアンは、つぶらな目で明理を見上げる。

「娘、お前の名はなんという?」

 明理は目をみはり、悲しげにうるませる。

「えっ、私のことを忘れちゃったの? 明理だよ。雪下明理」
「ユキシタ=アカリ、私の名を呼んでくれないか」
「……太郎?」

 明理がきょとんと問い返した時、ポメラニアンのひたいにある青い宝石が光り輝いた。そこからしゅるしゅると金色に輝く糸が飛び出し、明理の左の薬指へ巻き付く。そして一際強く輝き、金色の紋様となって指輪のような形におさまった。


 明理は左手を掲げ、興奮して騒ぐ。

「わあっ、何? 魔法? すごいっ、太郎は魔法使いになって帰ってきたのねっ。もしかして私、これで変身できるの?」

 目をキラキラさせて、明理はポメラニアンを期待たっぷりに見つめる。理緒はふと思い出した。

(そういえば明理ちゃん、変身プリンセスシリーズにはまってたわね)

 変身プリンセスは最近流行はやっている子ども向けアニメだ。主人公の少女が童話のプリンセスに変身して、童話の世界から来た悪役と戦って世界を守るという設定である。花と宝石いっぱいのドレスが可愛らしく、脇役の妖精や動物も魅力的なので、世の女の子に大人気だ。
 明理の質問に、ポメラニアンは否定を返す。

「いや、変身はできない」
「できないの?」

 明理はあからさまに肩を落とした。ポメラニアンは慌てて付け加える。

「だが、その指の契約の輪がある間は魔法を使えるようになるぞ」
「本当!? すごーいっ」

 明理は黄色い声を上げて喜び、その場でぴょんぴょんとはねる。その様子を呆然と見守ってしまっていた理緒は、ようやく我に返った。

(魔法ってなんだ、聞き捨てならない)
「ちょっと、待ちなさいよ、そこのポメラニアン! 契約って何? うちのめいっこに何をしたの?」

 するとポメラニアンは、キッと理緒をにらんだ。

「私はポメなんとかではないぞっ、ターロウだ。リオンテーヌ国を守護する聖獣だ。が高いぞ、糸の巫女っ」
「なんなの、えらっそーに! あんたが国を守護する聖獣とやらなら、私は明理ちゃんを守る叔母よっ。いいから説明しなさい!」

 にらみあう一匹と一人の横で、明理は首を傾げる。

「ねえ、ズガタカイってなあに?」
「はうっ、可愛い」
「なんと愛らしい」

 その可愛らしさに、理緒とポメラニアンは一時和解して、明理に言葉の意味を教えることにした。


「――つまり、私は本当に死んでしまったと」

 あれからポメラニアン改め太郎は、理緒と明理がなぜここにいるのかについて、詳しく教えてくれた。一通り話を聞いた理緒の結論に、太郎はこくりと頷く。

「そういうことだ」

 壇上の椅子、その上に置かれた青いクッションに、太郎はふてぶてしく座っていた。上から目線なのはしゃくにさわるが、床に座る理緒とは視線が合うので話しやすい。
 明理は探検と称して、庭を歩き回っている。
 理緒が死ぬ原因になった事故のことを、太郎は語った。だからか、明理をそれとなく庭のほうに行かせてから、理緒にだけ説明してくれたのだ。
 見知らぬ花の前でしゃがみ、まじまじと観察している明理を見た後、理緒は太郎に視線を戻した。

「どう見ても、生きてるけど」

 正直、何を言っているんだか分からない。だが、犬が人間の言葉を話している時点ですでにおかしいので、ここが死後の世界と言われても変ではないように思えた。

「私がたましいを呼び寄せ、肉体を再構築したからだ。今のお前は、できたてほやほやの健康体だな」
「ええー? うわっ、本当だ! そういえば眼鏡が無いのに、あんなに遠くまで見える! 小さい頃の怪我も消えてる!」

 眼鏡かコンタクトレンズが無いと自動車の運転もできない理緒なので、これには驚いた。子どもの頃に自転車で派手に転び、病院で縫うはめになった怪我のあとも無い。足についた傷を隠す為に、ミニスカートが穿けなかったのに。

「明理ちゃんもそうなの?」
「そうだ。ここで暮らすには、新しいうつわが必要だ。たましいの情報から、元の肉体に近いものを作った」

 太郎は前脚に頭を乗せ、伏せの体勢をとった。

「お前はもう戻れるうつわが無いので、元の世界には戻れない」

 太郎の言い方が引っかかり、理緒はすぐさま問う。

「明理ちゃんは戻れるって意味?」
「重体だからな、まだ戻せる」
「それなら戻してあげてよ! お姉ちゃんとお義兄にいさんが心配してるわ。あんなにちっちゃいのよ。親から引き離して、かわいそうだと思わないの?」

 青筋立てて怒る理緒に、太郎はにべもなく返す。

「駄目だ。この国は神子を必要としておる。だから、私と波長の合う純粋な娘を呼び寄せたのだ。しかし私とて、このような幼子おさなごを選ぶのは初めてだ。だから世話係も兼ねてお前も復活させた。糸の巫女としてな」
「……イトの巫女?」

 何度か聞いた謎の単語に、理緒は首を傾げる。

「そうだ。そら、見えるだろう?」
「え?」

 太郎にうながされた時、突然、視界に金色の糸がにゅるりと浮かび上がって見えた。

「何これ!」
「これがえんの糸だ」
「縁のイト? イト……糸ね! 糸の巫女ってそういう字なのね」

 理緒は指先で、糸をつついてみた。まるで糸こんにゃくのような感触で、ふよふよと揺れる。

「よく分かんないけど、これって切れるの? えいっ!」

 理緒は、空手家がかわらに叩き落とすみたいな手刀を、糸に振り下ろす。

「ええっ、伸びた!」

 糸はびよんと伸びただけで切れなかった。両手で掴んで引っ張ってみても伸びるし、指をハサミの形にして挟んでみても駄目だ。
 巫女と言うわりには縁が見えるだけで何もできず不満な理緒に、太郎は説明を続ける。

「この国では、神子が死んだらすぐに次を選ぶ決まりだ。私はいにしえにそう約束した。どんな神子を選ぶかは私の自由だが、選ばないということはできない。約束だから、たがえることはできぬ。私からの契約破棄もできないのだ」
「……約束したから?」
「そうだ。私は聖獣だ、約束は大きな意味を持つ。約束を破ると死んでしまう」
「クーリングオフは無いの!?」
「無い」
「え? こっちにもあるの? クーリングオフ……」

 てっきり何を言ってるんだと返されると思った理緒はのけぞった。太郎は平然と続ける。

「お前達のたましいの情報を見たからな、そちらの言語のこともだいたい分かる。でなければ、お前達は言葉が通じなくて困っていたはずだ」
「あ、本当だ。どういう仕組み?」
「説明するのは面倒くさい。魔法的なものだ」
「魔法的なもの……」

 本当に面倒くさいんだな、と理緒は心の内でつぶやいた。とはいえ説明されても理解できないだろうから、無駄なことは省くことにする。

「それなら、明理ちゃんからの契約破棄は?」
「できない」
「なんで!? どっちからも破棄できない契約っておかしいでしょ!」

 理緒が詰め寄ると、太郎は遠くを見る目をした。

「――もし悪い者に脅されて、無理矢理、契約を破棄されたら恐ろしゅうございますぅ」
「何よ、急に」
「最初の契約者が言ったのだ。私といくつかの約束をした娘だよ。泣きつかれて、この約束を認めた」
「……その女の人、美人だった?」

 理緒がじと目で問うと、太郎はすっと視線をそらした。理緒はばしっと床を叩く。

「色目を使われて、言われるままに契約しちゃったってこと? このお馬鹿っ!」
「ええい、うるさいっ。あの時の私は、まだぴっちぴちの子獣だったのだ! 反省しておるわっ!」

 二人して怒鳴り合い、ぜいはあと息を切らしてうなだれる。

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