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1巻
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ごぉぉ、ごぉぉ。
午後八時十五分。夜の地下鉄ホームは、様々な装いの人々で溢れていた。
イヤホンを耳にはめ、音楽を聴く学生。
疲れた顔でスマートフォンをいじるサラリーマン。
そして、昏い面持ちで俯く、河原志緒。
ごぉぉ、ごぉぉ。
志緒の目の前に延びる線路の先は、先の見えない真っ暗なトンネルに繋がっている。
先ほどから志緒の耳に届く風のような音は、地下鉄の走る音なのだろう。
駅構内に、聞き慣れたメロディーが響き、次いでアナウンスが流れる。
『まもなく回送列車が通過します。危ないですので、白線の内側にお下がりください』
ごぉぉ、ごぉお、おおお。
暗かったトンネルの奥から、ふたつの光が見えてくる。それはどんどん近づき、まぶしく志緒を照らした。
その時――
「危ない!」
唐突に響く声。引かれる右腕。たたらを踏む足。
志緒の目の前を、地下鉄が勢いよく通り過ぎていく。そして自分の右腕は痛いくらいに握られている。
志緒のすぐうしろで、荒く息を刻む音が聞こえた。
「あなたは――」
志緒は振り向いた。そこには、いつになく怒った顔をした男が立っていた。
彼の名は、七海橙夜。
会うたびに甘い言葉をかけてきては志緒を翻弄する、取引会社の社長だ。
常に強気な笑みを浮かべている七海は、今は恐ろしいほどに思い詰めた表情をしている。
真剣な眼差しで見つめられて、志緒の心はどきんと大きく音を立てた。
――どうして? 私、動揺している。
志緒は自分の心に戸惑った。しかし、誰かがその戸惑いの理由を教えてくれるはずもない。
まるで自分と七海だけ時間が止まってしまったみたいに、ふたりは動くことなく……
ただ、周りでは大衆が忙しそうにホームを行き来していた。
第一章
それは風の強い日だった。その風に流されて、小雨が降っていた。
十月の初め。街路樹が葉を朱く染める秋の季節。
志緒の祖母が息を引き取った。享年七十三。長きにわたる闘病の末だった。
通夜を経て、しめやかに告別式が行われた。次の日。志緒はひっそりと家を出た。
見送る人は誰ひとりいない。両親に別れを告げたところで、無視されるだけだろう。
手に持つのは、自分の私物が入ったスーツケース。最後にと、志緒は自分の生まれ育った家を見上げた。
この家には、志緒と祖母が楽しく過ごした思い出がたくさん詰まっている。
しかしそれ以上に、辛い思い出のほうが多かった。
ゆえに家を出るのだ。祖母が旅立った以上、思い残すことはない。
志緒は黙ったまま、この家と決別する。
――さようなら。
そう心の中で呟き、家に背を向ける。
「あら、やっとこの家を出てくれるの?」
突然、うしろから声をかけられた。ころころと、鈴を転がすような可愛い声。だけど志緒にとっては、心に錘がずしりと落ちるような憂鬱さに満ちた声。
志緒はゆっくりと振り向く。
するとそこには、高級ブランドのワンピースを着た女性と、背の高い男性が立っていた。
妹の愛華。そして、愛華の婚約者である元敬だ。
「まあ、今日中に出て行ってくれなきゃ、パパとママが追い出すって言っていたけどね。あのうるさいばあさんが死んで、あなたが消えてくれる。今日はなんてステキな日なのかしら」
ニコニコと笑顔で、ひどいことを口にした。
彼女は、祖母が亡くなったことを心から喜んでいるのだ。彼女だけではない。両親も『ようやく死んでくれた』とはしゃいでいる。
悲しんでいるのは志緒だけだ。実の息子である父親すら祖母の死を望んでいたなんて、胸が痛くなる。
「さようなら、お姉ちゃん。どこに行くのか知らないけど、せいぜい不幸になりますように」
笑顔で呪詛を口にした。どうして実の妹にここまで憎まれなければならないのか。志緒は、愛華の思考がまるで理解できなかった。
それに、彼女の隣に立つ男、元敬――
心底侮蔑したような目でこちらを見る彼は、かつては志緒の婚約者だった。
しかし志緒は彼から、一方的に別れを告げられたのだ。その理由はいまだにわからない。彼の思考もまた、志緒には理解できなかったということなのだろう。
だから、もういい。もう、関係ないのだ。
自分はここから去る。幼少の頃から志緒のものをすべて奪い続けた妹も、志緒を捨て、なぜか嫌悪の感情を向けるようになった婚約者も、そして、愛華を溺愛し、姉である志緒を虐げてきた両親も。
皆、さようならだ。二度と会うことはない。
志緒は無言で前を向き、スーツケースを引っ張って歩き出す。
勝ち誇ったような愛華の笑い声を背に、志緒は生まれ育った家を発つ。
空を仰ぐと、薄暗い雲が厚く立ち込めていた。
それは今の志緒の心を映したみたいに、今にも泣き出しそうだった。
◆ ◇ ◆
河原志緒は今年で二十四歳になる社会人だ。交じりけのない真っ黒な髪はセミロングで、仕事時はサイドの髪をうしろでまとめてバレッタで留めている。顔の造りは、とろりと目じりの下がった垂れ目以外は特徴らしいところもなく、全体的に大人しそうな風貌をしている。
いつもと変わらない。志緒は今日も静かに、黙々と仕事を片付けていた。
窓の向こうは、さあさあと静かに雨が降っている。
秋の長雨とは、九月の中旬から十月の上旬までの天候を言うが、今年はいささか長引いているようだ。十一月に暦が変わってもなお、しとしとと雨は降り続いている。
今日は水曜日。時刻は午前十時五分。志緒は社長室で雑務をこなしていた。
社長宛のファックスをチェックし、トレーに分けて入れる。社長にアポイントが入れば、本人に確認してからスケジュールを調整してねじ込む。
志緒の仕事は、人材コンサルティング会社を経営する社長の秘書だ。
会社の規模は中小企業のレベルだが、派遣する人材の質がいいと評判で、取引の依頼は年々増える一方である。
そんな会社を切り盛りする社長は、もちろん多忙な毎日を送っている。社長が少しでも動きやすいように先回りして整えるのが、志緒の主な仕事だ。
志緒は手に持っていた書類の束をトントンと整えて、ふぅと息をつく。
手首には、祖母の形見である腕時計がはめられており、時を刻んでいた。
志緒は眉根を寄せ、腕時計を見つめる。
家を出て、小さな単身用アパートに住み始めて、一ヶ月。
結論から言えば、志緒はまったく祖母の死を乗り越えることができずにいた。
なにをしていても、ふとした拍子に祖母を思い出してしまう。
そのたびに落ち込み、形見の腕時計を握りしめて泣く。
食事をしてもおいしくない。そもそも空腹を感じないから、食べたいという欲求が湧かない。
自分でも意味のない感傷だとわかっている。いつまでも前に進めない、弱い己に嫌気が差す。
こんなはずじゃなかった。あの家を出たら、もっと前向きに生きることができるはずだった。
志緒は今日何度目かわからないため息をつく。
その時、デスクの電話がプルルと鳴った。
「はい。株式会社インリソースです」
『ああ、河原さん。ちょうどよかった。占部だけど』
「はい。どうかしましたか」
志緒はすぐさま気持ちを切り替え、胸ポケットからペンを取り出した。
占部とは、志緒の直属の上司だ。つまり、社長である。
太り気味なことを気にしている温和な性格の中年男性で、洞察力は人一倍優れている。その辺りは、さすが社長といったところだろうか。
『実はちょっと打ち合わせが長引いて、戻りが少し遅くなりそうなんだ。それで次の予定なんだけど、もうすぐ七海さんがいらっしゃるはずだよね?』
「はい。十一時にお約束していますから」
スケジュールを確認しながら志緒が答える。
『悪いけど、お昼の一時には戻れると思う。こちらからも先方に謝罪の電話を入れておくけど、待って頂きたいんだ。うまく対処してくれるかな』
「わかりました。お引き留めしたらよろしいんですね」
『頼むよ~。それじゃあ、あとでね』
占部はそう言って、電話を切った。志緒も受話器を置き、早速応接室の準備を始める。窓を開けて換気し、軽くモップをかけて、テーブルをふきんで拭いた。
「インターネット環境、筆記用具、メモ帳、貸出用タブレット……うん、揃ってる」
今更確認する必要もないものばかりだが、万が一、足りなかったら失態である。念のためのチェックを済ませた志緒は、給湯室でお茶の準備にとりかかった。
そこまで終えたところで、十時五十分。約束の十分前に総務課より来客の連絡が入る。志緒は戸棚に入れていた新品のタオルを手に持ち、小走りで階段を降りた。
ロビーに到着すると、そこにはとても目立つ男がひとり、立っていた。
彼は志緒に気づき、笑顔を向ける。
「やあ、おはよう」
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました、七海様」
志緒はお辞儀をして七海を出迎えた。
七海橙夜。彼はたびたびここを訪れては、社長と商談を交わしている。秘書である志緒とも顔見知りだった。
彼の髪は一見黒なのだが、光に照らされると赤茶色に輝くことを志緒は知っている。短髪をさらりとうしろに撫でつけた髪型と強気な眼差しは、常に溢れんばかりの自信に満ちている。
意志の強そうな吊り目で、きりりとした精悍な顔つき。高い鼻梁。相貌は非常に整っていて、おまけに色気まである。
体格がよく、背も高いため、海外ブランドのビジネススーツがよく似合っていた。野性的な雰囲気を醸しながらも、立ち居ふるまいに品があり、常に人の視線を引きつけてやまない。
まさに、王者という言葉が似合う男性だ。二十八歳という若さながら、そのカリスマ性に誰もが惹きつけられる。彼はビジネス雑誌で、たびたび新鋭の注目プレジデントとして表紙を飾っていた。
「占部とお約束していた件ですが、ただいま先客との打ち合わせが長引いております。ここへ到着するのは一時頃になりそうで、申し訳ございません」
「ああ、聞いているよ」
七海は笑みを浮かべているが、志緒は愛想笑いのひとつも見せない。
「もし、七海様のあとのご予定が詰まっていないようでしたら、占部が到着するまで待って頂きたいとの伝言を預かっています。お願いできますでしょうか?」
「それくらいなら大丈夫だよ」
「ありがとうございます。では、ご案内いたします。傘は、こちらでお預かりします」
外は雨だ。七海は濡れた傘を持っていて、雨雫が床に水たまりを作っている。
「ありがとう」
七海が志緒に傘を渡す。それと交換する形で、志緒は彼にタオルを渡した。
「肩が濡れていますよ。これをお使いください」
「至れり尽くせりだな。もしかして、このタオルは君のもの?」
ふかふかのタオルを手に、七海が爽やかな笑みを見せる。
なぜそんなにも嬉しそうなのだ。志緒は、そっけなく言葉を返した。
「いえ、悪天候の時にいらっしゃったお客様には、いつもお渡ししている新品のタオルです」
大体、客人に私物を渡すなど非常識である。
なにを言っているのやら、と思いながら、志緒はクルリと七海に背を向けて歩き出した。
「なんだ、残念だな。俺だけの特別扱いかと期待したのに」
心底落ち込んだように、これみよがしなため息をつく。
志緒は彼の前を歩きながら顔をしかめた。彼は初対面の時からこんな調子で、志緒に思わせぶりなことばかり言うのだ。正直言って、どんな対応をするのが正解かわからず、志緒はいつもだんまりを決め込んでいる。
(まったく。七海様はどの会社に行っても、こんな風に女性に声をかけているのかしら。女たらしと思われても仕方がないわね)
「軟派で、軽くて、言動が冗談ぽい。女癖も悪そうだ。そんな風に思ってる?」
心の内で思っていたことをぴたりと当てられて、思わず志緒は足を止めた。
うしろを向くと、七海がニヤリと勝ち気な笑みを浮かべている。
「図星?」
「いいえ」
志緒は短く否定して、ふたたび廊下を歩き出す。
「残念だが、君だけだよ。俺は河原さんに特別扱いされたいから、こういう風に言うんだ」
七海が本気か冗談か判断しづらいことを言う。
志緒は無言を貫くしかない。
(もう、本当に七海さんは苦手だわ。さっさと応接室に案内して、自分の席に引っ込もう)
こういった手合いは、非常に対応に困るのだ。
志緒が階段を上って廊下を歩いている間にすれ違う社員は、誰もが七海を見た。特に七海は女性の人気がとても高いため、彼見たさにわざわざ廊下で待ち構えている人もいるようだ。
七海はアーベルトラストというIT関連の企業を経営する、代表取締役だ。企業向けの情報インフラの提案、そして構成、整備などを手がけていて、新興企業ながらも二年前に上場し、その株価は順調に上昇している。投資家からも他の企業からも、大変注目されている会社と言えるだろう。
そんな企業の敏腕社長で、しかも顔がいい。仕草にも品があり、紳士的。……となれば、憧れない女性のほうが少数だ。きっと彼は、多くの女性に声をかけられ、憧れられているのだろう。
だが、志緒と言えば、その少数派に類するほうだった。仕事だから仕方がないけれど、本当は、できるだけ顔を合わせたくない。
志緒は応接室の扉を開け、七海を通した。
「こちらでお待ちください」
「ありがとう」
「Wi︲Fi環境は整っております。筆記用具やノートは、ご自由にお使いください」
ぺこりと頭を下げ、一旦応接室を出る。志緒はその足で給湯室に向かい、彼のために用意していたお茶を淹れた。そして応接室の扉を二度ノックして、ふたたび室内に入る。
ソファに座る七海の前に、温かいお茶を置いた。
「ああ、心が落ち着くいい香りだね。これはハーブティかな?」
「以前、占部から、七海様はハーブティを好まれると聞きましたので、用意いたしました」
「ふぅん? そんなことを言ったかな。占部社長も、そして君もよく覚えていたね」
七海はハーブティの香りを楽しんだあと、ゆっくりと飲み始める。
「ちなみに、このハーブティのチョイスは誰が?」
「私です。お好みに合わないようでしたら、別のものを淹れ直しますが」
「いや。今の俺にぴったりのハーブだったから驚いたんだ。河原さんはハーブに詳しいのか?」
七海に淹れたハーブティ。それは『エゾウコギ』という薬草を使ったものだ。シベリア人参とも呼ばれる植物で、疲労回復と集中力を高め、また、体を温める効果もある。
「特別詳しいわけではありません。七海様がお好きだと伺ったので、少し勉強はしました」
「へえ、それは嬉しいね。是非とも、ふたりで色々なハーブを試してみたいな。どうかな? 今度の休みにでも」
「暖房を効かせていますが、今日は一段と寒いです。よかったらお使いください」
七海の言葉を遮るように、志緒は彼にブランケットを渡した。くっくっと七海は肩を震わせて笑い、志緒からブランケットを受け取る。
「まったく、反応が可愛いなあ」
びしっと志緒の額に青筋が走る。思わず素に戻って睨んでしまったら、七海は慌てて手を横に振った。
「怒らないで。ただの本心だよ」
「……七海様」
「この会社は君がいるから、いつも優しい気遣いに溢れているね。俺に言わせれば、君のような秘書さんがいると勘違いするお得意さんが続出しても不思議はないよ?」
「仰っている意味がわかりかねます」
志緒はムッと眉間に皺を寄せた。七海は勝ち気な吊り目で志緒を見つめる。
「俺なら期待してしまう。こんなにも自分を気遣ってくれるんだ、もしかしたら好意を持ってくれているのかなってね。そんな男は本当にいない?」
七海は形のよい目を細める。口元には笑みを浮かべているが、目が笑っていないように感じるのは気のせいだろうか?
志緒はよくわからない居心地の悪さを感じて、ふいと七海から視線を外した。
「私にそういった類の冗談を仰る方は、七海様くらいしかいません」
「そう。それはよかった。あと、冗談ではないから、そこは訂正しておいてくれ」
さらりと、困り果てることを言う。
こういうところが、好きではないのだ。多くの女性はこういう風に言われたら頬を染めるのかもしれないが、志緒はどうにも苦手だった。軽薄に思えるし、自惚れに見えるほどの自信家ぶりに辟易してしまう。そうは言っても、彼が持つ自信は実績に裏打ちされたものだ。
しかし志緒は、七海の成功者たる堂々とした態度がだめだった。なんと言うか、キラキラしすぎていて、近づきたくない。
だから志緒は、あからさまに話題を変えることにした。
「七海様。昼食はいかがなさいますか。よろしければお弁当やデリバリーを用意いたします」
「ああ、そうだな。今日は外で済ませる予定だったけれど……」
ふむ、と七海は腕を組み、悩んでいる様子で目を閉じる。そして、妙案を思いついたというように顔を上げた。
「そうだ。一緒に食べないか?」
「はっ?」
志緒は思い切り訝しんでしまって、七海がクスクスと笑う。
「なんだ。そんなに嫌うことないだろう。この辺りには詳しくないから、君のおすすめを教えてもらえると嬉しいんだけど」
志緒はむむっと眉間に皺を寄せた。せっかく話題を変えたのに、また蒸し返すつもりなのか、この人は。
(本当に勘弁してほしいわ。なんのつもりなのかしら)
七海に憧れる女性はそれこそ星の数ほどいるだろう。彼と外で昼食なんてしたら、たちまち社内で噂になることは想像に難くない。いかに自分が人の視線を集めているのか、彼には少し自覚してほしい。
「申し訳ございませんが、私は昼食を用意しています。おすすめの食事処をお教えすることはできますので、少々お待ちください。それでは失礼いたします」
志緒は丁寧にお辞儀をして、さっさと応接室を出る。
「はあ」
ドッと疲れた。やっぱり何度会っても、七海という男は苦手だ。
女性の扱いに慣れている感じがするところも嫌だし、恋愛を遊びと同等と考えていそうな気軽さも好きになれない。
(彼の目が本気に見えたりすることもあるけど……いや、本気なわけない。あんな風に言って、困惑する私の反応を楽しんでいるんだわ)
そう自分に言い聞かせる。なぜなら、七海のようになんでも持っていて、その気になれば女性もよりどりみどりな男性が、自分に本気になるわけがないからだ。
(私は、あの優しかった元敬さんにさえ嫌われてしまうんだもの。好きになられる要素なんてない)
かつての志緒の婚約者を思い浮かべる。
両親と妹に虐げられて、なにもかもを奪われていた日々。幼少の頃から罵声と蔑みの言葉を浴びせられていた志緒は、すっかり大人しく、自尊心の足りない人間になっていた。
そんな志緒に声をかけ、優しく接してくれたのが、元敬だ。
大学のキャンパスで出会い、不思議と気が合って、たちまち仲良くなった。
大学四年の秋。卒業したら結婚したい――そう言ってくれた時は涙が出るほど嬉しかった。ようやく自分はあの家を出て、幸せになれるんだと。
しかし、その幸せは長く続かなかった。
彼の軽蔑しきった冷たい瞳と、妹の勝ち誇った顔を思い出す。同時に、幼い頃からずっと聞き続けてきた両親の言葉も……
『根暗で陰湿な性格。おまえはまったく可愛くない。おまえは誰にも愛されない――』
志緒は首を横に振って感傷を振り払った。
そして食事処のリストを七海に手配し、昼休みのチャイムが鳴るまで黙々と仕事を続けた。
志緒はいつも昼食を休憩室で取るのだが、外の空気を吸いたくなってしまい、近くの公園に赴く。
朝に降っていたはずの雨は、もうやんでいた。
厚く、どんより空を塗り潰していた雲は幾分か薄まり、わずかながら太陽が顔を出している。空気はひんやりして、キリリと目の醒めるような晩秋の風が志緒の頬を撫でた。
人ひとりいない寂しげな公園にあるのは、ベンチの他にはブランコと滑り台だけだ。濡れた砂利を踏みしめて屋根の下の木のベンチに座る。
膝に置いたのは、自作の弁当。包みをほどき、弁当の蓋をカパッと開ける。
箸を手に取り、いただきますと小さく呟いた。
しかし、なかなか一口目に進めない。何度もため息をついて、食べなきゃ、と自分に言い聞かせて、無理矢理卵焼きを口に放り込む。
「……味がしない」
もちろん味つけはしている。それなのになぜか、気分が悪くなる。無理に咀嚼してごくりと呑み込み、ペットボトルのお茶を飲んで気分を紛らわせた。
ここ一ヶ月もの間、志緒の食生活は散々だった。手作りをしても、はたまた外食をしても、おいしく感じられない。味覚が恐ろしいくらいに鈍ってしまっていて、食欲も湧かなかった。
だが、栄養を取らなければ倒れてしまう。仕方なしに、志緒はカロリーバーを口に詰め込み、サプリメントで栄養を摂取するという毎日を過ごしていた。しかし、それではあまりに不健康なので、久しぶりに弁当を作ってみたのだが、このざまである。
「おばあさま……」
慕っていた人の名を呟くと、涙がじわりとにじむ。
――落ち込むのはやめよう。いつまでも泣いていたら、おばあさまが天国から叱ってきそうだから。そう思っているのに、まったく前に進めていない。祖母の分も生きると決めたのに、志緒の気力は減る一方だ。
志緒にとって、祖母は愛を知るすべてだった。志緒はなぜか、物心つく前から両親に疎まれていて、妹が生まれたあとは、その態度がさらに露骨になって……
――姉妹間での、明らかな待遇の違い。志緒だけ食事を与えられない日もあった。しかし志緒が虐げられると、いつも同じ敷地内に住む祖母が志緒を守ってくれた。両親は祖母には頭が上がらなかったらしく、祖母が叱れば渋々志緒の待遇を改め、嫌々ながらも食事などの最低限の世話はした。
それでも、志緒が小学生になる頃には食事は別になり、志緒はいつも祖母の住む離れで、ふたりで料理をして、食べていた。
志緒に冷たい両親を見て、妹の愛華は『姉は虐げてもよい』と学習したのだろう。妹による姉への嫌がらせはエスカレートする一方だった。姉が手にするものは、すべて自分のもの。志緒の持ち物を愛華がほしがれば、妹の味方をする両親が、手段を選ばず奪い取る。そうして、志緒は自分が手にしたなにもかもを妹に取られ続けた。友達からの誕生日プレゼントも、初任給で購入したネックレスも、すべてだ。
志緒にとって味方は祖母ひとりだけ。あの冷たい家の中で、唯一志緒が安心する場所。それが祖母の傍だった。
実の母親よりも母らしく接してくれた大切な人を失った志緒は、こんなにも孤独を感じて、いまだに悲しみから抜け出せずにいる。
志緒は自分の弁当箱を見つめた。何度見ても、おいしそうに見えない。
肩を落とし、傍に置いていた弁当箱の蓋を取る。しかしその時、ヒョイと蓋が奪われた。
「えっ!?」
「へえ、手作り弁当か」
ベンチのうしろから現れたのは、七海だった。
なぜ七海がここに!? 志緒が驚きに目を見開いている間に、七海は志緒の隣にどっかりと座る。
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