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1巻
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しおりを挟む「食事に行こうと外に出たら、君のうしろ姿を見かけたものでね。あとをつけたんだ」
「あ、あ、あとをつけたって、どうして」
「そりゃ、少しでも君の傍にいたいからに決まっているだろ。ところで、食べないのか?」
人差し指で弁当を指す。
――傍にいたいってどういうことだ。あとをつけたって、そんなストーカーみたいな真似をしたのか。大体、いつから志緒を覗き見ていたのだ。
ぱくぱくと口を開け閉めしながら様々なことを一度に考えた志緒は、唐突に我に返る。
「た、た、食べません」
「え? これで昼食は終わりとか言わないよな?」
「食欲がないんです。私のことは放っておいてください。この辺りのお食事処のリストはお渡ししたはずです」
「それより、その弁当。片付けるなら俺にくれないか?」
「はあ!?」
志緒は思わず素っ頓狂な声を出して、顔をしかめた。すっかりビジネス用の顔を忘れている。
「お断りします。七海さんのお口に合うようなものではありません」
口早に言って、弁当を片付けようとした。しかし、今度は弁当箱が奪われる。
「ちょっ……!」
「いただき。箸、借りるぞ」
七海は志緒の箸を使って弁当を食べ始める。志緒が慌てる中、彼はパクパクと、いっそ小気味良いテンポで食べ進めた。
「うん、うまいな。これ、ピーマンにじゃこがまざっているのか」
「え、ええ。それはピーマンとじゃこのおかか炒め……ではなくて!」
「これは鶏の照り焼きだろ。なかなか凝ったメニューじゃないか」
「別にそれは、つけおきしたものを朝焼いただけです」
「ふうん、いいね。河原さんは料理上手か」
ニコニコして、彼は弁当箱に入っていた俵おにぎりを口にする。
「またひとつ、君を知ることができた」
「なぜ、そんなに嬉しそうなんですか」
「君を知ることは、最近の俺の趣味だからね」
「は、はぁ……?」
思わず体を引き、唖然としながら七海を見る。すると七海はニヤリと横目で志緒を見た。
「さて、俺はどこまで河原さんを知っているでしょう?」
「し、質問の意味がわかりかねます。七海さんにとって私は、取引先の社長秘書であり、それ以上のことは知るすべがないと思います」
「フフ……。まあ、普通はそう思うだろうな。いや、そう思いたいのかな?」
意味深な言葉を口にして、彼はカラになった弁当箱を閉じ、志緒に差し出した。
「ごちそうさま」
この場合、『おそまつさまでした』と言うべきか『勝手に食べるな』と怒るべきなのか。
志緒は結局なにも言い返すことができず、黙ったまま、弁当箱をクロスで包んだ。
「人のお弁当を取らなくても、おいしいお店がたくさんあるのに」
思わずそんな減らず口をたたいてしまうと、七海はクックッと軽く笑った。
「もう食べる気がなかったんだろ? 弁当は傷みが早い。せっかく作ったのに捨てるんじゃ、もったいないじゃないか」
「それはそうですけど」
正直なところ、食べてもらえて助かった。食べ物を捨てるのは心が痛むし、朝に弁当を作った労力も無駄になる。
「まあ、食欲が湧かなくても、なにか腹には入れておいたほうがいいぞ。いい仕事は、充実した食生活があってこそだからな」
ぽんぽんと志緒の肩を軽く叩き、七海は公園を立ち去る。
志緒は眉間に皺を寄せたあと、ため息をついた。七海と話していると、妙に疲れてしまう。終始彼のペースと言おうか。
やはり、できる限り関わりたくないタイプだ。
志緒は腹に手を当てたが、やはり食欲は感じられない。もう、今日の昼食は食べなくてもいいだろう。志緒は元気のない足取りでのろのろと会社に戻り、総務課の自席についた。
「え、これは、なに?」
驚きに目を丸くする。なぜか自分のデスクの上に、有名なジュース専門店の野菜のスムージーと、可愛らしくラッピングされた焼き菓子の包みが置いてあったのだ。
「もしかして……七海さん?」
先ほどの弁当のお返しだろうか。
そうだとすれば、志緒が公園から会社に戻るまでの間に、七海はこれらの店に行って購入したということになる。なんというフットワークの軽さなのだ。しかも周りにいる女性社員が騒いでいないということは、他の社員が戻る前にすばやく置いたのだろう。よその会社でそこまでするとは、呆れを通り越して思わず感心してしまう。
志緒はなんとなくスムージーを手に取った。
「変な人」
ぽつりと呟く。どうして七海が自分に興味を持つのか、まったく理由がわからない。
(遊び……暇潰し。そう考えるのが妥当ね。あまり深く考えないようにしよう)
自分はあくまで、七海の取引先に勤める一介の秘書だ。それ以上でもそれ以下でもない。必要以上に関わらなければ、そのうち彼も飽きるだろう。
志緒はスムージーにストローを挿し、飲み始めた。トマトベースで、セロリの風味がみずみずしい。ほんのりスパイスのきいた味はあとを引く。
「……ん。これは、おいしい、かも」
久しい感覚だった。なぜだろう。スムージーは素直においしいと感じた。
◆ ◇ ◆
十一月も中頃になると、長かった雨はようやく終わりを告げる。代わりにやってきたのは、身が凍るような寒波だった。冬の足音が近づき、街を歩く人々の装いはあっという間に冬のものへと変わっている。
「河原さん、大丈夫?」
エアコンの効いた社長室。ファックスの仕分けをしていた志緒に、今日は社内で仕事をしていた占部が訊ねた。
「はい。社長のスケジュールですよね? 一時間くらいなら今から外出されても問題ないかと」
「違う違う。君の体調を聞いているんだよ」
志緒は「え?」と目を丸くして、書類を持ったまま振り向いた。
占部はでっぷりした体を椅子に押し込め、人のよさそうな眼差しで志緒を見つめていた。
「この一ヶ月で、君はすっかり痩せてしまったし、顔色も悪いよ。ちゃんと寝ているかい?」
「心配をおかけして申し訳ございません。睡眠はできるだけ取るようにしています」
そう口にしながらも、実のところは、あまり眠れていない。ベッドで横になると、どうしても祖母との記憶が蘇り、物思いにふけってしまうのだ。
――早く立ち直らなければ。早くしっかりしなければ。
心が焦るばかりで、まったく体はついてこない。
自分でも嫌になるくらい、情けなかった。これでは祖母に叱られてしまう。
思い詰める志緒を見て、占部は困ったように白髪まじりの薄い頭を撫でた。
「河原さん。無理しないで、休める時は休みなさいね」
「はい。お気遣いくださり、ありがとうございます」
志緒は頭を下げた。優しい言葉が心にしみる。声だけで人を和ませる力を持っているのが、占部の不思議なところだ。これも人徳なのかもしれない。
志緒が、トレーに入った書類を振り分けてファイルに閉じていると、占部に電話が入った。彼はしばらく会話をして、電話を終える。
「河原さん。すまないが、今日の五時にアーベルトラストの七海さんが来ることになったよ。至急、人材マネージャーの予定を確かめておいてくれるかな。できれば君にも同席してもらいたい」
「かしこまりました。確認しますね」
志緒はパソコンで社内チャットを立ち上げ、マネージャーにメッセージを送った。そういえば、最近は頻繁に七海がやってくる。彼の会社で、たくさんの人手を必要とする大きなプロジェクトが動いているのかもしれない。
(そうだ。占部社長は今日の夜、会食の予定も入っているんだった)
七海との打ち合わせが何時に終わるかはわからないが、占部がスムーズに移動できるよう、手はずを整えておこう。
スケジュール表を眺めながら志緒が考えていると、占部がふいに話題を変える。
「ところでさ」
「はい」
「アーベルトラストの七海さん。どう思う?」
「……はい?」
そう言った自分は、相当訝しげな表情をしたのだろう。占部がおかしそうに笑う。
「はははっ。河原さんが僕の秘書に就いて一年が経つけれど、特定の人間にそこまで嫌そうな顔をしたのって初めてじゃない?」
「い、意味がわかりかねます」
志緒は気を取り直し、努めて冷静に対応した。しかし占部はニマニマと笑って頬杖をつく。
「いい男だと思わないかい? 将来性は抜群にあるし、見た目もいい。更に言えば、明治時代より続く財閥家の跡取りだし、なんというか女性の理想を詰め合わせたような人だよね」
占部の言いたいことをなんとなく察する。志緒はこれ見よがしにため息をついた。
「誰もがあの人に夢中になるとお思いでしたら、それは間違いですよ」
「じゃあ、河原さんは嫌いなのかい?」
「別に嫌いではないですが、率直に言って苦手です」
「そうかあ。七海さんだったら、僕も手放しで応援できるのになあ。彼は誠実な男性だよ」
ニコニコと占部が言った。志緒は書類を綴じ終えたファイルを持って、占部のデスクに置いた。
「そうでしょうか。お言葉ですが、誠実には見えませんね」
「おやおや。普段は温和な河原さんがめずらしい。きっと彼くらいだろうね、君がそこまで嫌悪感を露わにするのは。ふふふ」
からかうように言われて、志緒は呆れた顔をした。
仕事を終え、志緒は会社をあとにする。
腕時計を見ると午後八時。アーベルトラストとの打ち合わせ後に明日の会議に使われる資料をまとめていたら、いつの間にか終業時間を過ぎていた。
はあ、と吐く息は白い。空を仰ぐと、黒い空が広がっている。都会はきらびやかなネオンが美しいが、代わりに星は見えない。
志緒はコツコツとローファーの音を響かせて、人通りのまばらになった歩道を歩く。
そろそろ、繁華街ではクリスマスの飾り付けがされているだろうか。
(クリスマスか。確か、去年はおばあさまとターキーを焼いたっけ)
ふと、思い出す。去年のクリスマスに元敬から婚約解消を告げられたことを。困惑する志緒の前に愛華が現れて、元敬は自分の婚約者になったと、勝ち誇ったような笑顔で言った。
そんな元敬と、妹、そして両親の四人は、そのままクリスマスディナーに出かけていき、残された志緒は、祖母と一緒にクリスマスを過ごした。
『なんで、どうして。あんなにも優しい人だったのに。意味がわからないよ! 私が、なにをしたというの。こんなのってない。ひどいよ!』
泣きながらターキーを食べる志緒の背中を、祖母はずっと撫でてくれた。
『ごめんね。彼も結局、あの子たちにそそのかされてしまったのよ。だからもう、なにを言っても聞かないわ。志緒、あなたは――』
私が死んだら、家を出るのよ。
祖母はそう言った。老いてもなお強い眼差しで、志緒を見つめながら。
両親は実の娘である志緒を憎み、妹は姉を虐げることに愉悦を感じている。
志緒が手にしたものはすべて奪う。彼らの憎しみは本物だった。
ここまで憎まれる理由が志緒にはわからないけれど、祖母は言ったのだ。
――世の中には、血が繋がっているからこそ、憎しみを深める人たちがいる。だから、そんな人たちとは離れたほうがいい。志緒の幸せのためにも、家を出るべきなのだと。
『私はもう長くないわ。だからね、志緒は今のうちに準備をしておくのよ』
祖母のアドバイスは悲しかった。彼女が不治の病におかされていることは理解している。命の刻限が近づいているからこそ、志緒はもう『そんなこと言わないで』とは口にできなかった。
河原家は、旧家の流れを汲む由緒正しい家柄らしい。祖母はその直系で、本家の当主だった。それなりに資産があるとも聞いている。
『財を持つ人間はね、その財に見合う人格を持たなければならないのよ』
志緒はそう、祖母から教えられていた。
どんな時でも気丈であるように。余裕がない時こそ、品のあるふるまいを忘れずに。祖母は、その言葉を体現したような人だった。だからこそ、情けなく泣きすがる自分なんて見せたくなかった。
志緒は、祖母が言った通りに、家を出る準備を進めた。
しかし祖母を亡くした今、志緒の心は迷子になっている。気丈にもなれず、品のあるふるまいができるはずもなく、生きる気力をすっかりなくして日々を過ごしている。
志緒が歩く歩道の先には、地下鉄の入り口があった。地下に向かう階段を進み、改札口をくぐってホームに降りる。
そこにはそれなりに人がいて、やがて来るはずの電車を待っていた。
スマートフォンを忙しそうに操作しているサラリーマン。
イヤホンを耳にはめて、音楽を聴いている学生。
志緒もそんな人混みに紛れ、ぼんやりと立ち尽くし、電車を待つ。
腹に手を当てたが、腹の虫が鳴いている様子はない。もう一ヶ月以上、空腹を感じない。
――このままではいけない。そんな逼迫した気持ちは常に抱えていた。
ごぉぉ、ごぉぉ、と、地下鉄のトンネルの先から、轟音が聞こえる。
聞き慣れたメロディーが流れて、回送電車のアナウンスが、ホーム内に響いた。
やがて黒いトンネルの先に光の筋がふたつ見えて、轟音が近づいてくる。
その時だった。
「危ない!」
志緒の腕が突然握られ、力強く引かれたのは。
(え――?)
驚くままに、たたらを踏む。目の前では回送列車がごうごうと通り過ぎていく。
はあ、はあ、と、うしろで荒く息を刻む音が聞こえた。誰かが自分の腕を握っている。
志緒はうしろを向いた。
「あなたは――」
そこには、見たこともない怒りの表情を浮かべた七海が立っていた。
「七海……さん」
唖然として彼の名を呟くと、彼はぎゅっと腕を掴む手に力を込める。
「河原さん、なにをしているんだ」
「え、なにって、今から帰るんです。それよりも七海さんはどうしてここに?」
夕方の打ち合わせを終えてから、もう何時間も経っている。ここは彼の会社の最寄り駅ではないし、こんな場所で再会するのは意外だった。志緒が戸惑いながら訊ねるも、七海は答えない。その代わりに、ひどく辛そうな顔をする。
「君が……」
七海が呟いた。その時、アナウンスと共に地下鉄がホームに到着して、人々が忙しなく電車を出入りする。
だが、七海と志緒だけは動くことはない。人々は、ふたりを避けて移動していた。
「君が、今にも線路に飛び込みそうに見えたんだ」
「私が?」
志緒は呆気に取られながら七海を見上げた。彼は眉間に皺を寄せ、志緒を睨んでいる。
志緒は、はあ、と思わず呆れたため息をついた。
祖母の死の悲しみに耐えかねて、飛び込み自殺をはかる? ばかばかしい。自分は落ち込んでいるが、そこまで落ちぶれてはいないつもりだ。
「誤解です。手を放してください」
きっぱりと言って、手を振り払おうとする。しかし七海は手を放さない。
ムッと志緒はしかめ面をした。次はぞんざいに腕を振る。
すると、自分の体がよろめいてしまった。思わず「あっ」と声を上げ、倒れそうになる。
七海は志緒をしっかりと胸で受け留めた。そして、もう片方の手で志緒の背中を支える。
「足がふらふらじゃないか。まったく力が入っていない」
「大丈夫です。手を放してください」
「ちゃんと食べているのか? 打ち合わせの時から心配だった。前に会った時よりも痩せているし、ひどい顔色だぞ」
七海が志緒の顎を摘まみ、くいと上げた。
「頬がこけているし、目に充血もある。それにクマまで」
「放っておいてください。元々こんな顔なんです」
躍起になって、顎を摘まむ七海の手をパンと払う。
「そんなわけないだろう!」
ホームにいた周りの人たちまでもが、ギョッとしてこちらを凝視するほどの大声。志緒は体にビリッと稲妻が走ったみたいにすくみ上がった。
七海は額に手を当て、小さく息を吐く。
「すまない。……だが」
グイッと志緒の手が引っ張られた。そして、七海はどこかに向かってずんずんと歩いていく。志緒は引きずられるように小走りで歩きながら、「ちょっと!」と声を上げた。
「やめてください。どこに行くんですか。放して!」
「このまま放ってはおけない。いいからついて来るんだ」
そう口早に言ったあと、七海はスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかける。そして志緒を引っ張ったまま地下鉄の階段を上って地上に出ると、彼は近くにあるコインパーキングに向かい、車の助手席をガチャリと開けた。
「乗れ」
「え? きゃ!」
困惑する時間すら与えられず、志緒は助手席に押し込まれた。七海は運転席に乗り、エンジンをかける。
「ちょっと、困ります。車なんて……停めてください!」
「断る。すぐ近くだから、しばらく黙っていてくれ」
「だまっ!? あなた、私を無理矢理車に乗せておいて、黙れってどういうことですか!」
「怒鳴る元気があるなら、まだマシだな。君は自分のために、俺の言うことを聞くべきだ」
「私のためにって……」
七海は一体なにを言っているのだ。志緒が戸惑う間に、七海の運転する車はビジネス街の大通りを突き進む。
そうして繁華街に入ると、景色は一気に華やかなものに変わった。
志緒は思わず、街の様子に目を奪われる。
街はすっかりクリスマス一色になっていて、街路樹には美しい青色のイルミネーションが輝いていた。
七海に向けていた苛立ちが薄まり、しばしその景色に見入ってしまう。
車はやがて、繁華街の駅近くにある、巨大なホテルの地下駐車場に進んでいった。
(ん……ホテル?)
志緒は眉をひそめた。七海は黙ったまま車を駐車場に停め、エンジンを切る。
「ついたぞ」
「待ってください、七海さん。一体なにをお考えですか」
怪訝に思い訊ねると、七海はようやく、いつもの勝ち気な笑みを見せた。
「なにって。君のことだけど?」
「冗談はやめてください。私は真剣に聞いているんです」
志緒が七海を睨んで言うと、彼はチラと横目でこちらを見た。
それはひどく迫力があり、同時に色艶のある視線だった。見るものすべてを魅了するような瞳に、図らずも志緒の心はドキリと音を立てる。
「俺が、冗談を言っているように見えるのか」
低く、腹に直接響くような声色。笑みを浮かべているが、その瞳は笑っていない。
志緒は得も言われぬ恐怖を覚えた。なんだろう、この人は。とても怖くて、今にも逃げ出したいのに、魅入られてしまって体が動かない。
七海は、フッと瞳を和ませた。ようやく志緒は、ホッとして体が弛緩する。
「河原さんの体調が心配なんだ。ここ最近の君は、本当にひどいからね」
「ひどいって……そこまで、ですか?」
確かにクマはあるかもしれない。頬もこけているような気がする。だが、地下鉄で七海が血相を変えて腕を掴んだり、『線路に飛び込みそうに見えた』と口にしたりするほどひどくはないだろう。彼の態度はどこか過剰だった気がしてしまうのだ。
エンジンを切った車内は静かで、七海は穏やかに志緒を見つめる。
「俺は、追い詰められた人間をたくさん知っている」
それは、悲しくて辛そうな瞳。なにかをたくさん、その手からこぼれ落としたような、後悔の顔。
志緒は目を大きく見開く。
「彼らと君が、重なって見えた。だから怖かった。河原さんは絶対に失いたくないんだ」
七海は運転席から降りる。そして助手席に回りドアを開けると、志緒に手を差し伸べた。
「おいで。君を案内したいところがあるんだ」
今すぐその手を払い、逃げても構わなかっただろう。しかし、志緒はおずおずと彼の手に自分の手を載せた。
理由はわからない。
もしかすると、七海が口にした『心配』という言葉が、心に響いたのかもしれない。
威圧的だし、強引極まりない人だけれど、自分を傷つけない。それは、幼少の頃から家族に虐げられていた志緒の、直感のようなものだ。
信用していいかはわからない。けれど、自分からなにかを奪ったり、ひどい言葉を投げたりはしないはず。
七海に手を握られ、志緒は駐車場からホテルのロビーに入り、エベレーターに向かった。
どこへ行くのだろう……。乗り込んだエベレーターはゆるやかに停まり、静かに扉が開いた。
そこはラウンジになっており、ふかふかの絨毯が敷き詰められている。七海は志緒の手を引き、歩き出した。
どうやらこの階は、レストランフロアのようだ。志緒が腕時計を見ると、時刻は午後九時を越えている。食事時を過ぎているからだろう、客足は少ない。
やがて奥まった場所にある中華料理店に入り、スタッフに案内されてテーブル席につく。
「あの、七海さん。ここでなにをするんですか?」
「レストランに入ってすることと言えば食事しかないだろう」
呆れたように七海は言って、お冷やを運ぶスタッフに「例のものをお願いします」と伝えた。
(例のもの? なんだろう……)
お冷やを口にしてから、自分の腹に触れる。……やはり、空腹は感じていない。
「あの、七海さん。申し訳ないのですが、私はあまりお腹が減っていないんです」
「腹が減っていないんじゃない。それは、麻痺しているんだ」
ジロリと七海が志緒を睨む。
「君は栄養失調の一歩手前だよ。睡眠も足りていないのだろう」
「そ、それは……。でも、栄養は取れているはずです」
「カロリーバーやサプリメントだけでは、栄養が足りているとは言えない」
テーブルの上で手を組み、静かな口調で言う。志緒は驚きに、息を呑んだ。
どうして、志緒がそんな食生活を続けていることを知っているのだろう?
疑問を感じていると、スタッフが料理を運んできた。志緒の目の前に、蓋のついた白い陶磁器の壺のようなものが置かれる。
「君みたいな顔をした人はね、大体、食生活が似たり寄ったりなんだよ」
「そうなの……ですか?」
「ああ。だから、まずはこれを食べてみるといい」
七海は、ぱかりと蓋を開けた。
すると、温かい湯気がほわりと顔にかかる。ごまの香りが漂うと共に、ふつふつと泡をたてる料理。
(お粥……だ)
少し意外だった。七海は派手好きに見えるので、もっと中華料理らしい、脂っこいものを頼んだのかと思っていたのだ。
「七海さん。私……」
「いいから、一口だけでも食べてみてくれ」
志緒は戸惑いながらも、レンゲを手に取った。
料理に罪はない。出された料理を無駄にするわけにはいかない。一口だけと思い、粥をすくう。
(あれ……思ってたより、さらさらしてる)
それは、クリームスープと間違えるほど、レンゲですくった感じが軽かった。とろりとした粥はとても食べやすそうで、志緒はふうふうと冷ましてから、口に入れる。
するんと喉を通る粥はなめらかで、ショウガの風味がどこか懐かしい。複雑な味を持つ出汁はあとを引くおいしさで、志緒は思わずもう一口と、レンゲで粥をすくった。
「お、おいしい、です」
「そうだろう? これは、俺のとっておきなんだ」
「とっておきですか?」
志緒が首を傾げると、七海は「ああ」と頷く。
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