愛に目覚めた冷徹社長は生涯をかけて執着する

桔梗楓

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1巻

1-3

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「二日酔いの朝は、これしか受け付けない。体に優しい味がするだろう?」

 ぱく、と志緒は粥を口にした。
 彼が言う通り、優しい味だ。決して薄味ではなく、体に染み入るような味がする。

「そうですね。……はい。体も、ぽかぽかします」

 ショウガがきいているからだろう。一口食べるごとに腹の中が温かくなっていく。

(不思議。お腹がおいしいもので満たされるって、こんなにも幸せなんだ)

 祖母が亡くなるまで、当たり前だと思っていたからわからなかった。サプリメントで栄養を摂取しても、体に元気が出なかった理由。人間は、料理を口にしてこそ満たされる。それは体を動かすエネルギーになる。
 正直なところ、まだ、食欲はない。だけど食べやすいから、するすると口に入っていく。

「ごちそうさまでした」

 気づけば、粥の入ったつぼはからになっていた。スタッフが中国茶を運び、テーブルに載せる。
 ガラスのポットにはオレンジ色の花が入っていて、七海が茶器に茶をぐと、優しい花の香りがした。

「これ、キンモクセイの香りですか?」
「そう。桂花茶けいかちゃっていうんだ。秋らしい、いい香りだろう」

 茶器を志緒に渡す。志緒は受け取り、ゆっくりと茶を飲み込んだ。

「とてもおいしい……」

 ほう、と心が安らぐ。キンモクセイの香り。――それは、志緒にとって懐かしい匂いだった。
 祖母が好きだったのだ。秋になると、庭にあるキンモクセイの花をみ、ガラスの花器に水を張って浮かべ、飾っていた。近づくとほんのりあまい香りがして、志緒はそれを見るたびに、秋の到来を喜んだのだった。
 しかし、庭にあった見事なキンモクセイの木は、今はもうない。
 祖母がやまいにおかされ、庭木の世話ができなくなった頃、両親が業者に頼んで切り倒したのだ。妹が『臭い』と言った、それだけの理由で。

「…………」

 ぐ、と唇を噛みしめると、視界がゆがんだ。だめだ、と思ったけれど、遅かった。
 ぽろりと涙が頬を伝う。腹が満たされたせいで、気がゆるんでしまったのだろうか。止めようと思ったのに止められなかった。
 一筋の涙は、二粒目のしずくを運ぶ。三滴、四滴、五滴。

「うっ……く」

 ぼろぼろと涙が流れ、志緒は慌ててハンカチを取り出す。ぐしぐしと乱暴に拭くが、まったく涙は止まらない。
 嫌だ。七海の前で泣きたくなかった。しかし、キンモクセイの香りは心をほぐす効果でもあるのか、あふれる感情を抑え切れない。

「ご、ごめんなさい。これは、七海さんのせいではありません。お気になさらず」

 あくまで自分の問題なのだ。志緒はそう言って、ぎゅっと目をつむり、なんとか涙をこらえる。
 七海は黙ったまま、そんな志緒を見つめていた。

「なあ、河原さん。心に抱えるものというのは、他人に話すと少しは楽になるらしいぞ」
「……え?」

 ぐし、と鼻を押さえていると、七海が静かに話し始める。

「話してみないか。そんな調子では、いずれ仕事もままならなくなるぞ。君もわかっているだろう?」

 志緒は驚いて顔を上げ、七海を見た。彼は隣で、じっと志緒を見つめている。
 その表情は真剣で、からかっているようには見えなかった。

(どうしてこの人は、こんなにも私を気にかけてくれるんだろう)

 彼とは、まだ数えるくらいしか顔を合わせていないし、世間話をするような仲でもない。
 しかし、まったくの他人だからこそ、事情を話してみるのは妙案みょうあんかもしれない。
 話してどうなるというものではないが、他人に話をすることで、気が楽になる。そういうこともあるかな、と思った。初めて出会った時から、七海は志緒に優しかった。
 志緒だって、現状のままでいいとは思っていない。久しぶりに食事がおいしいと感じて、身にしみるようにわかった。
 人が健康に生きるためには、ただ栄養を摂取するだけでは足りない。豊かな食事が必要なのだ。粥を食べたことでそれを思い知った志緒は、少しでも前に進むために気持ちを決める。

「では、お言葉にあまえて。――本当に、他人にとっては些細ささいなことなんですけど」

 志緒はそう一言断ってから、自分の事情をぽつぽつと話した。
 両親のこと、妹のこと、そして祖母の死。
 それは、ただ事実を羅列られつしただけだった。しかし、すべて話し終えると、志緒は自分の心がほんの少し軽くなったように感じた。

(ああ、本当だ。他人に話すって、ちょっと気分が楽になるのね)

 もっと早く、誰かに話を聞いてもらえばよかったのかもしれない。だが、こういう話は、なかなか自分から切り出せるものではなかった。だからこそ、提案してくれた七海には感謝しないといけないな、と志緒は思う。

「七海さん。話を聞いてくださって、ありがとうございます」

 志緒は深々とお辞儀じぎをした。七海は腕を組み、なにか思案するように目をつむっている。なにを考えているんだろうと思いつつ、カバンから財布を出した。

「それと、お料理代をお渡ししたいので、伝票を見せて頂けますか」

 そうたずねるも、やはり彼は目を開けない。というより、志緒の話を聞いていないようだ。

「七海さん?」
「志緒」

 ふいに七海は目を見開いた。志緒は紙幣を一枚取り出したところで、目をしばたたかせる。

「はい? というか、七海さん。今、私のことを名前で……」
「志緒。俺が、君に人生は楽しいということを教えてやる」
「……はい?」

 意味がわからない。志緒が首を傾げると、にっこりと七海は微笑む。

「君はね、もっと自分の人生を楽しむべきだ。今まで辛かったからこそ、これから幸せにならなければならない。だから俺にその手伝いをさせてくれ。いや、する。決めた」

 志緒はぽかんと口を開け、七海を見つめる。しばらく頭が真っ白になって思考停止していたが、やがてハッと我に返った。

「な、なにを言っているんですか。あと、勝手に人の名前を呼ばないでください」
「これからちかしい関係になるんだから、名前を呼ぶくらい構わないだろう」
「嫌です! 私はお近づきになりたくありません!」

 志緒は怒鳴り、こぶしでテーブルを叩いた。

「だ、大体、なにをするつもりなんですか」
「それはこれからのお楽しみだ。秘密にしておいたほうが、わくわくするだろう?」
「私はわくわくしません。人の人生で遊ばないでください!」 

 せっかく、いい人だと思いかけたところだったのに。志緒としては、ただ話を聞いてくれるだけでよかったのだ。これ以上なにかしてほしいなんて思っていない。
 すると七海は、妙に真剣な顔になって、テーブルの上で両手を組む。

「なぜ、そこまで拒否をする? 前向きに生きたいなら、素直に俺の言葉にあまえればいいだろ? それとも志緒は、今のままでいたいのか?」
「それは……」

 もちろん、今のままでいいなんて思っていない。
 いつかは克服しなければならないのだ。七海の言う通り、前向きに生きるきっかけはほしいと思っている。しかしそのきっかけは、自分で見つけ出したい。
 だから志緒は、気持ちをしっかり保って表情を引き締め、テーブルに二千円を置いた。

「とにかく結構です。これ、お粥のお代です。これくらいですよね?」
「残念。足りない」
「足りな……!? お粥一杯で一体おいくら……!?」
「そんなことより。なぜ結構なんだ。理由が知りたい」

 七海はテーブルの上に置いた二千円を手に取ると、開きっぱなしになっている志緒の財布にサッと戻す。そのまま志緒の手を握りしめた。

「教えてくれ。なぜ嫌なんだ」
「距離が近いです! それならハッキリ言わせてもらいますけど、私は七海さんが苦手なんです。だから、あまり関わってほしくないんです」

 前から思っていたことを口にした。そう。志緒は七海が苦手なのだ。すると、七海は「へえ?」となぜか笑みを浮かべて、志緒の顔を覗き込む。……距離が、限りなく近い。

「つまり、俺が嫌いなのか」
「嫌いじゃありません」
「苦手と嫌いの違いが、俺にはわからない」
「私には、とても嫌いな人たちがいます。彼らは私を傷つけるし、私のものを奪う。けれど七海さんは、私からなにも奪わないし、私をしいたげない。だからあなたのことは、ただ苦手なんです」

 至近距離で見つめ合い、志緒の顔は熱くなってしまった。視線を避けたくて横を向く。
 いつも堂々としていて、自信にあふれ、人生そのものがキラキラと輝いているような七海。彼を見ていると、自分がみじめに思えてくる。まるで、光の陰にひそむ虫。ちっぽけな存在のよう。
 だが、みじめな虫にだってプライドはある。この、すべての幸せが約束されていそうな男に、自分の人生を振り回されたくない。
 七海は不敵に唇の端を上げ、「なるほど」と頷く。

「ようは、食わず嫌いか」
「え?」
「じゃあ、一度食べてから判断してくれ。そうでなければ俺は聞かない。というわけで、君は俺への苦手意識を克服するように」
「ちょっと、勝手に話を進めないで。あと、だから、近いんですっ!」

 志緒は七海の胸を押す。こんなおおやけの場で、本当にやめてほしい。

「七海さん。私はあなたへの苦手意識を克服したいとは思いません。自分のことは自分で解決しますから、放っておいてください!」
「嫌だ。俺は君が好きだから、放ってはおけない」
「……は?」

 志緒は目を丸くして、ぽかんと口を開けた。
 今日は、驚かされてばかりだ。なにを言っているのだ、この男は。
 志緒は思わず立ち上がっていた。

「私は、同情してもらいたくて話したわけじゃありません。そういう安っぽい言葉は嫌いです」

 そう言い放って、志緒はレストランから出ようとする。
 結局、あのおいしい中華粥がいくらかはわからなかったが、レジで聞けばいいだろう。
 ふかふかした絨毯じゅうたんを歩きながらそう思っていると、うしろから手を引かれた。

「同情じゃない。これはれっきとした愛情だ、志緒」
「愛情なんて、数回会社でお会いしたくらいで芽生えるものじゃありません」
「そうかな。一目惚れだって立派な愛情だろう。運命の出会いは確かにある」
「私は、一目惚れなんて信じません」
「たとえそうでも構わない。俺の君への感情は、一目惚れではないからね」

 志緒は振り返った。そこには、勝ち気な笑みを浮かべる七海がいる。

「たった数回。されど数回だ。俺はあの会社で君に会うたび、思いをつのらせていた」
「なにを、言って……」
「嘘だと思うのか? それなら、これから自分で確かめてみればいい」

 七海は志緒の手首を握る手に力を込めた。そして、力強く自分のほうへ引き寄せる。

「きゃ!」
「せっかくの機会だから、同時進行で口説かせてもらおう」

 かぁっと顔が熱くなった。

「これから覚悟するといい。志緒」

 ねっとりと、体中に絡むような色艶いろつやのある声。こんな風に、熱く愛を囁かれたのは初めてだった。元敬に告白された過去はあるが、彼はもっと穏やかだった。

(本当に七海さんは私のことが好きなの? でも、どうして)

 思い当たることが、ひとつもない。

「さあ、これから楽しい人生の始まりだ。志緒、俺は君を、存分に振り回すからな」

 志緒の耳元であまく囁き、七海はようやく手をほどく。
 つかまれた手首はいまだジンジンと熱をはらんでいて、志緒はそこに触れた。

「もうこんな時間だ。車を呼んでおいたから、君はそれに乗って帰るといい」

 茶目っ気たっぷりに片目をつむる。今日はずっと彼のペースだ。妙に腹が立って、志緒は唇をとがらせる。

「そんなお節介、いりません」
「お節介と言われても、心配だから引けない。ハイヤーを使わないのなら、俺が直接送る」
「困ります! やめてください」

 志緒が声を上げると、七海はニッと笑みを浮かべた。吊り目もあいまって、とても獰猛どうもうに見える。

「なら、大人しく俺が手配した車で帰るんだな」
「うぅ」

 なんて勝手な人なのだ。志緒は唇を戦慄わななかせて、七海をにらむ。彼はおどけたような表情をした。

「普段のすまし顔が嘘かと思うくらい、今日は表情がくるくると変わるね」

 彼はまるで悪役のように、ククと低く笑う。
 志緒は言い知れない恐怖を覚えた。七海のペースに巻き込まれたくないと思っていたのに、気づけばしっかりと術中にまっている。

(なんなのよ……この人は)

 こういうところが苦手なのだ。だから構わないでほしいのに。
 志緒は心底困り果て、眉根を寄せた。



   第二章


 妙なことになってしまった……
 志緒は長いため息をつき、椅子の背にもたれた。今日は朝からデスクワークが続いていたので、肩が重い。コリをほぐすように自分の肩を揉み、ノートパソコンの画面を見つめた。
 昨晩、七海は人生が楽しいということを教えてやると言った。そして、志緒が好きだとも口にした。

「なにを言っているんだか。からかっているとしか思えないわ」

 ぽつりと呟いた。しかし、七海はその手の冗談を言いそうには見えない。

(だからと言って、信じるかといえば難しいのよ)

 志緒はコキリと首を鳴らした。そして手を軽く揉み、キーボードを打ち始める。
 よりによって、なぜ自分に興味を持つのだ。
 どうせ引く手あまたなのだろう。彼ほどの男性なら、女性のほうが黙っていないはずだ。
 はっきり言って、志緒は美人ではなかった。人混みに入れば、数秒もしないうちにまぎれてしまう。特徴らしい特徴はなく、印象の薄い顔をしていて、妹のほうが格段に可愛かった。両親が妹を溺愛したのは、それも理由にあるだろう。
 では、中身はどうか。
 志緒はすぐさま自虐的な笑みを浮かべた。

『おまえは器量が悪いし、要領も悪いし、いつもうじうじと鬱陶うっとうしい。見ているだけで苛立つ』
『そのオドオドした目がウザイ。陰キャも大概たいがいにしてよね、お姉ちゃん』

 両親が、妹が、毎日のように言っていた。志緒の自尊心はすでに粉々で、誰かに好かれる自信なんてまったくない。唯一、自分を好きになってくれた婚約者だって――

『別れよう。君の陰湿さには、ほとほとあきれ果てたよ』

 突然冷たくなった。そう言った時の彼の腕には愛華が絡まっていて、ニヤニヤとこちらを見ていた。
 そう。自分は、暗い性格で、祖母の死もなかなか乗り越えることができない、どうしようもない人間なのだ。
 だから信じられない。人があこがれるなにもかもを持っていて、会社中の女性から熱い視線を向けられているような男が自分を好きだなんて、なんの冗談かと思う。
 関わりたくなかった。
 七海のことを考えるたび、自分がちっぽけでつまらない人間に思える。そして、そんな自分が嫌になる。
 きっと自分は、七海がうらやましいのだろう。自分だってもっと美人で、生活環境に恵まれていたら、ここまで卑屈ひくつな性格にはならなかったはずだ。
 だからねたましい。腹が立つ。彼は住む世界が違うのだから、自分に見合った場所で好きなだけ幸せになればいいのだ。
 そんなことを考えながら黙々と仕事をしているうちに、終業のチャイムがオフィス内に響いた。

「五時半、か」

 丸い壁時計を見上げる。周りの社員が慌ただしく帰り支度を始める。志緒も仕事を切り上げて、パソコンの電源を落とした。
 七海と関わらないようにするには、さっさと帰るに限るだろう。連絡先も交換していないし、志緒の行動範囲の中で彼に知られているのはこの会社の場所くらいだ。幸い、今日の占部は午前で仕事を終わらせている。志緒がいつ帰宅しても問題ない。
 志緒は総務課の同僚に「お疲れ様です」と挨拶あいさつして、早々にロッカー室に向かった。そして身支度をして会社をあとにする。
 ひゅう、と寒風がコートの隙間から入り込んだ。志緒はぎゅっとコートの首元を握って、早足で歩道を歩く。

「ふぅ、寒い」

 かじかむ手に、息を吐く。一瞬だけ手の指は温かくなったが、寒いことに変わりはない。志緒はコートのポケットに入れたカイロを握り、コツコツと靴音を鳴らした。

「まったくだ。こんな日は、温かいものが食べたくなるな」
「そうですね……え!?」

 ぐるっと振り返る。すると、目の前に立っていたのは、にやりと笑う七海橙夜だった。

「な! あ!?」

 目を見開き、思わずきょろきょろと辺りを見回す。大丈夫だ。今のところ志緒と七海以外に人はいない。
 志緒は安堵あんどの息をついた。七海と話しているところなんて、同僚には絶対に見られたくない。

「ごきげんよう、志緒。仕事お疲れ様」
「ご、ごきげんよ……って、七海さん、仕事は!?」
「もちろん片付けた。いやあ、こんなに早く帰るのは久しぶりで、ウチの秘書が目を丸くしていたよ。はっはっは」

 明るく七海は笑うが、志緒は言葉を失い、ぱくぱくと口を開け閉めする。
 はっきり言って、七海の仕事は志緒のそれをはるかに超える忙しさだろう。なにせ、業績もうなぎのぼりであるベンチャー企業の社長なのだ。まさに今が稼ぎ時と言える。
 だが、彼が片付けたと言った以上、本当に今日の仕事は終わったのだろう。彼がいい加減に仕事をするような人間なら、アーベルトラストはあそこまで成長していないはずだ。

「もしかして、私の仕事が終わるのを待っていらっしゃったんですか?」
「うむ。俺のところは五時が定時だからな。正面玄関で待ってもよかったが、君の性格上、そういう待ち方は嫌がりそうだから社屋の裏側にひそんでいた」
ひそ……あのですね」

 よろりと、志緒はめまいを覚えた。有望企業の社長――しかも、ビジネス雑誌で表紙を飾るような有名人が、そんな真似まねをしないでほしい。

「君が出てくるのを今か今かと待ち続けるのは、なかなかワクワクして楽しかったぞ」

 七海が明るく笑った。まったく人の気も知らないで。志緒が脱力してしまうほど、彼はいつだって楽しそうだ。

「そんなことを言って。本当は、寒かったでしょうに」

 えりのついた黒いロングコートを着込んだ七海。彼の首筋には、うっすら鳥肌が立っていた。志緒はコートのポケットに入れていた使い捨てカイロを取り出し、七海に押しつける。

「これは?」
「差し上げます。そろそろマフラーを巻いたほうがいいですよ」

 ぶっきらぼうに志緒が言うと、七海は嬉しそうにカイロを握った。そして自分の首に当てる。

「そうだな。助言ありがとう。ああ、カイロが温かくて気持ちいい」
「カイロのカバーは返してくださいね」
「花柄のカバーとはまた、君の趣味は可愛らしい。それじゃ、行こうか」

 ガシッと志緒の手が握られた。ハッと気づくが、もう遅い。

(しまった! 関わらないようにしようと決めていたのに!)

 唐突な登場に驚き、しかもカイロまで渡して、なにをやっているのだ自分は。さらに言うなら、七海に手をつかまれて、もはや逃げることもできない。

「ど、ど、どこに行くんですか!」
「それは行ってのお楽しみだ」
「前みたいに、いきなり高級ホテルに連れて行くようなことはやめてください。結局私、あの中華粥のお値段がわからないままですし、お金を支払えないのは気持ちが悪いんです!」
「志緒は堅物かたぶつだなあ。俺が勝手にやったことなんだから、気にしなきゃいいのに」
「そういうわけにはいきません。ご馳走ちそうになったことに違いはないんですから」

 志緒が真剣な顔をして言うと、七海はフッと目を細める。
 それは、志緒が思わずどきりと胸を高鳴らせてしまうほど、優しい眼差しだった。いつくしむような温かな視線に、釘付けになってしまう。

「ただの支出じゃないよ。これは俺の投資なんだ」
「投資……?」

 志緒が首を傾げると、七海は「ああ」と頷いた。そして志緒の手を引いて歩き出す。

「俺が提案する『人生は楽しいぞプロジェクト』を成功させるための投資だ。俺の思惑通り、君が人生を楽しいと思えたら、それが俺にとっての『配当』だ」
「な、なんですかそれは」
「俺の投資を無駄にしないためにも、志緒は早く人生を楽しんでくれということだ」

 に、と不敵な笑みを見せる。
 勝手なことを、と志緒は言いたくなったが、思い直してため息をついた。この男はきっと、なにを言っても聞いてくれない。そして自分の思うままに行動してしまうのだ。傍若無人ぼうじゃくぶじんにもほどがある。
 振り回されるほうとしては勘弁かんべんしてほしいが、口論しても志緒が疲れるだけだろう。

(よくわからないけど、適当につきあって、さっさと帰ろう……)

 志緒があきらめ半分で考えている間に、地下鉄の入り口へ到着した。すると、志緒たちの傍に黒い車がゆっくりと近づき、停車する。
 そして、後部座席の扉が音もなく開いた。

「俺が呼んだんだ。これに乗って移動するぞ」

 七海が志緒を押し込み、自分もサッと隣に乗り込む。そして、ハイヤーはクリスマス色にいろどられた繁華街を走った。

「まだ十一月なのに、すっかりクリスマス仕様だな」

 窓を見ながら、七海が呟く。同じことを志緒も思っていたので、こくりと頷いた。

「ハロウィンが終わったら、もうクリスマスの飾りづけがされていますね」
「そしてクリスマスが終われば正月。正月が終われば節分せつぶんか? この時期は忙しいな」

 七海が軽く笑った。志緒は硬い表情のまま、窓の外を眺める。
 ……節分せつぶんが終われば、春が来る。その頃には、この胸にわだかまる気持ちが幾分いくぶんか薄まっているといいのに。

(その前に、七海さんに構われなくなっているといいのだけど)

 春には自分に飽きていてほしい、などと考える志緒を乗せて、車はまっすぐに走り続ける。
 やがてハイヤーが停まったのは、ほのかな明かりが灯る異国風の建物の前だった。ハイヤーを降りて、七海は志緒に手を差し伸べる。
 どうやらエスコートをするつもりらしい。おどけた表情で、志緒を見つめている。
 志緒がどうしたものかと悩んでいると、彼は軽く片目をつむった。

「お姫様、どうかこの哀れな男にご慈悲を。私めの手を取っていただけませんか」
「なにを言っているんですか。まったく」

 そういう態度がふざけているように見えるのだ。志緒はため息をついたあと、おずおずと七海の手に自分の手を載せた。
 彼のてのひらの上で踊らされているようで面白くはないが、ここまで巻き込まれて手を振り払うというのも往生際おうじょうぎわが悪い。それならいさぎよく彼の『遊び』につきあおう。
 七海は志緒の手を握り、目を細めた。そして、建物の中に入る。
 ――そこは、志緒が思っていた以上に、壮麗そうれいな造りをしたレストランだった。

「わあ」

 思わず感嘆かんたんの声を漏らしてしまう。
 さあさあと涼やかな音が聞こえるのは、店の中に滝があるからだ。壁面の天井から水が流れ落ちて、堀の中でたゆたっている。
 七海が入店したと同時に、スタッフがやってきた。そして、七海が予約していたのか、立ち止まることなくふたりを先導する。
 そしてたどり着いたところは、屋外にあるルーフトップバーだった。空を仰ぐと満天の星が目に飛び込んできて、テーブルには足元まで隠れるほどのテーブルクロスがかけられている。
 一見して、とても素敵なバーだ。しかし、今日のような寒い日に、外で食べたら風邪をひかないだろうか。
 志緒が少しだけ心配していると、七海が「まあ、座ろう」と志緒をうながす。戸惑いながら椅子に座ったところ、七海はおもむろにテーブルクロスをめくりあげた。そして、志緒の膝にかけてくれる。


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