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甘い世界の向こう側
甘い世界
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「翔くん、久しぶり」
「……っ、小春ちゃん」
翔さんの反応に、ただごとではないと。私は敏感に感じ取った。
ある日、珍しくお客さんが少なく落ち着いている日だった。お店に一人で入ってきた女の人を席に案内する。彼女は誰かを探しているようだった。
「待ち合わせですか?」
「いえ、ここで働いてる人が……あ」
ちょうど翔さんがキッチンから出てきて、翔さんに彼女が反応して。翔さんのファンの人かなぁと思っていた。でも。
「翔くん、久しぶり」
彼女を見て、翔さんが持っていたマグカップを落とした。翔さんが動揺するのを見たのは初めてだった。
「……っ、小春ちゃん」
翔さんの特別な人なのだと、嫌でもすぐに分かってしまった。彼女は翔さんに走り寄り、カップの破片を拾い始めた。
「大丈夫?怪我してない?」
「え、あ、大丈夫。小春ちゃん、怪我するからいいよ。ごめんね」
翔さんが小春ちゃんと彼女を名前で呼ぶ度に心臓が嫌な音を立てる。どういう関係だろう。彼女は誰なのだろう。立ち尽くす私に気付かないまま、二人は一緒に片付けをする。
その時、悠介さんと滝沢がお店に入ってきた。
「すずちゃん、どうした……て、小沢?」
悠介さんが彼女に反応した。悠介さんに「久しぶり」と笑う彼女は、悠介さんとも知り合いらしい。三人は笑顔で話し始めた。まるで私がその場にいないみたいに。
「……おい」
「……」
「おいって、生きてるか?」
「っ、え?ごめん、何だった?」
私の反応を見て、滝沢は眉間に皺を寄せた。そして頭をコツンと突いた。
「気にすんな。ただの昔の知り合いだろうから」
私は必死で顔に笑みを貼りつけた。
***
「すずちゃんごめん、今日悠介たちと飲みに行くことになって……」
仕事終わり、翔さんがそう言ったのだけれど。私はぼんやりとしてしまって、翔さんの声が遠くに聞こえた。
「すずちゃん?」
「っ、え、あ、はい、楽しんできてください、私今日は家に帰ります」
「すずちゃん」
翔さんが私の手を握る。心配そうな顔。私は今、どんな顔をしているだろう。大丈夫。翔さんは私だけを好きって言ってくれるんだから。何も不安になることなんてない。
「どうしたんですか?早く行かないと置いていかれちゃいますよ」
翔さんの手をそっと外す。そして背を向けた。また名前を呼ばれた気がしたけれど、私はまたぼんやりとしていて反応できなかった。
「おい、」
「……」
「はぁ」
顔を上げると、滝沢が目の前にいた。ため息を吐かれて、どうしたのだろうと首を傾げる。
「お前、目虚ろ。送る」
気付けば路地を抜けたところで、ここまでどうやって歩いてきたかもよく覚えていなかった。滝沢は私の少し前を歩く。ぼんやりとしたまま着いて行って、いつの間にか私のアパートの前に立っていた。
「あ、ありがとう。わざわざごめんね」
私、一人だ、今日。自分のアパートに帰ってきたのは久しぶりで、一人で眠るのも久しぶり。どうしよう、怖い。
「……なぁ、」
「ねぇ、怖い」
「あ?」
「翔さん、もう私のところ戻ってこないのかな、あの人のところに行っちゃうのかな、どうしよう」
「おい、どうした、」
「滝沢、私、怖い」
気付けば涙がボタボタと地面を濡らしていた。はじめ、雨が降ってきたのかと思った。でも違う。だって、何かが頬を伝う感触がしたから。
「藤堂、」
滝沢が私に手を伸ばす。涙は拭っても拭っても止まらない。次から次へと落ちてくる。どうしよう、どうしよう。
「藤堂、泣き止んだら、今から言うこと忘れろ」
伸びてきた手が私の後頭部に回って抱き寄せた。目の前には滝沢の胸。翔さんとは違う匂い。
「俺ならお前を泣かせない」
耳元で、滝沢の声が響く。息ができないほど、涙が零れて。
「俺と一緒に……」
滝沢にしがみついた。だって、翔さん今まで女の人には優しいのに一歩距離を置いているのが分かった。壁を作って、気を許していないような。でも、あの人には違った。心からの笑顔だった。あの人は特別なんだってすぐに分かった。声を上げて泣く私を、滝沢はずっと支えてくれていた。
その日の深夜、翔さんから電話がかかってきた。その時には随分落ち着いていて、普通に出られたと思う。
『すずちゃんが心配するようなことは何もないんだ。彼女は高校の同級生で、悠介も仲がよかった子で……』
翔さんが必死で言い訳をしているように聞こえた。私はぼんやりとしたままその声を聞いていた。相槌を打ったかは覚えていない。
「あの人のこと、好きだったんですか?」
無意識の質問に、翔さんが詰まった。……ああ、そうなんだ。答えを聞かなくても分かった。
『すずちゃん、あのさ、』
携帯を取り上げられ、そのまま翔さんの声が聞こえなくなった。ゆっくりと顔を上げたら滝沢が私を怒ったように見ていた。
「わざわざ傷付くようなこと聞くな馬鹿。とりあえず寝ろ」
頭を撫でられ、目を閉じる。ベッドの横に座っていた滝沢が、手を握ったままでいてくれた。
***
「……あ」
藤堂が眠って、朝までついていた。一睡もできなかった。あんなに不安定な藤堂を見たのは初めてだった。
朝になり、コンビニにでも行こうかとアパートの階段を降りたところで、見慣れた後ろ姿が座り込んでいるのを見つけた。俺の声にその人が顔を上げる。
「智輝……」
まぁ、やましいことはないとは言え一晩一緒にいたのは事実で。何となく気まずくて目を逸らすと、翔さんは虚ろな目で言った。
「すずちゃん、泣いてた?」
「……」
沈黙は肯定。何も言えない俺に、翔さんは自嘲するように笑った。
「……何やってんだろ、俺……」
くしゃっと前髪を握り、弱弱しく呟いた翔さんに、俺は尋ねた。あの人とはどういう関係なのかと。
「……唯一、好きになれるかもしれないと思えた人なんだ。もちろんすずちゃんと出会う前だけど」
「……」
「俺に何も求めずに、ただそばにいてくれた。俺のことが好きだってまっすぐに言ってくれた。嬉しかった。俺も彼女の気持ちに応えたいと思った。……でも結局、無理だった。俺が何もできないまま、彼女は離れていった」
「……」
「今、すずちゃんと出会って初めて人を愛しいと思って。でも小春ちゃんが困ってるの、放っとけないと思った。今小春ちゃん、好きでもない人と結婚させられそうになってるらしくて。助けてあげたいって……」
「……」
「あの頃何もできなかったからどうにかしてあげたいって……」
「何をするんですか?藤堂を傷付けてまで」
俺の言葉に、翔さんは目を見開いた。
「あの人を助けるって、じゃああの人と結婚してあげるんですか?」
「……っ」
「藤堂泣いてました。翔さんがもう戻ってこないかもしれないって。いいんですね、俺、アイツのこと連れて行きたいんですけど」
「え……」
いいと思った。アイツが幸せなら。でも、こんなことがあるなら。翔さんがアイツを傷付けるなら、
「……ダメ。ごめん。絶対ダメ。すずちゃんは絶対渡せない」
「じゃあフラフラすんな」
「……うん、ごめん。智輝、本当にごめん」
「謝んのはアイツでしょ」
「うん、そうだね」
隣できのこを生やしそうなほどジメジメ落ち込んでいる翔さんに、ため息を吐く。ちょっとでも隙見せたら奪ってやるからなと思いながら。
***
「私、翔くんじゃなきゃ無理なの」
悠介と三人で飲みに行った帰り、小春ちゃんがそう言った。小春ちゃんがお店に来る前、小春ちゃんからメールで相談を受けていた。親の都合で好きでもない人と結婚させられそうになっていると。助けてあげたいと思った。あの頃は何もしてあげられなかったけど、今なら助けてあげられるかもしれないと思った。お店に来た時は驚いた。すずちゃんもいたから、何となく焦った気持ちもあった。
「……ごめん、俺彼女いる」
そう、俺にはすずちゃんがいる。すずちゃんのことは絶対に離したくない。でも小春ちゃんのことも助けたい。そんな中途半端な気持ちのまま、俺はすずちゃんの家に行った。電話の向こうの声は少し震えているようだった。泣かせたのは俺だ。どうしてもすずちゃんに会いに行けなくて、アパートの階段の下に座り込んでいた。
「何をしてあげるんですか?藤堂を傷付けてまで」
智輝に言われてようやく気付いた。そうだ、俺は小春ちゃんに何もしてあげられない。中途半端に優しくしたって更に傷付けるだけ。俺に必要なのは、すずちゃんだけなのに。
次の日、小春ちゃんに会った。夜の公園、街灯の下。微笑む彼女は綺麗だった。
「……そう。分かった」
「ごめん、中途半端に優しくして。無理なんだ。俺、すずちゃんだけは離したくない。だから君には何もしてあげられない」
「出来たんだね。心の底から好きな人」
「……うん」
ポツポツと雨が降り出した。彼女は傘を持っていて、家まで送ると言ってくれた。でも俺はこれからすずちゃんに会いに行きたいと思っていたから、断ろうとした。
その時。公園の向こうの道路で赤い傘が揺れた。
「すずちゃん?」
声が震えた。誤解されたかもしれない。すずちゃんは俺を置いて走って行く。
赤い傘。公園。あの日の記憶。
「……嫌だ」
「え?」
駆け寄ってきた小春ちゃんが首を傾げる。でも、俺の口からは勝手に言葉が零れた。
「一人にしないで」
大切な人は、俺の前から姿を消す運命なのかもしれないと思った。
***
ハッとして立ち止まった。いつの間にか本降りになった雨が容赦なく私に打ち付ける。滝沢から翔さんの話を聞いて、会いに行こうと思った。自分の中で完結させずにちゃんと話を聞きたいと。でも公園で相合傘をする二人を見て、思わず逃げてしまった。何てタイミングが悪いんだろうと自分を呪いたくなった。
でも、走っているうちに唐突に頭の中に蘇ってきた。夜の公園。赤い傘。降りしきる雨。……翔さんがお母さんに、最後に会った日。
私は来た道を戻っていた。無意識だった。今まで翔さんと過ごしてきた日々。くれた言葉。全部全部夢なんかじゃない。勘違いでもない。確かに、二人で歩んできた日々。
公園で、翔さんは一人立ち尽くしていた。あの人はいなかった。落ちていた傘を拾うと、翔さんが顔を上げた。
「すずちゃん」
目を見開いて、私を抱き締める。きつく、きつく。
「ごめん、謝るからどこにも行かないで、ごめん、すずちゃん、本当に愛してる、お願い、どこにも行かないで、俺を一人にしないで、好きなんだ」
何度も何度も、同じ言葉を繰り返す。壊れたおもちゃのように、何度も。
「……翔さん、」
「ごめん。傷付けてごめん。泣かせてごめん。愛してる。どこにも行かないで」
何度もキスをした。優しくも甘くもない、苦しいだけのキス。でもそれでよかった。だって、どうせ離れられないのだ。もし翔さんが浮気をしたって、私は翔さんから離れられない。どうしても、私はこの人が愛しい。
「俺にはすずちゃんだけ。今までも、これからも。すずちゃんだけを愛してる」
苦しいほどの愛情に、私たちは一緒に溺れる。抜け出せない、底なし沼。優しく、甘美で濃密な世界。二人だけの、世界。私たちは一緒に堕ちていくのだ。その向こうに。
次の日、バイトに行くとたまたま滝沢と一緒になった。
「落ち着いてよかったな」
「……うん、ありがとう滝沢」
泣き止んだら忘れろって言われたから何も言わないほうがいいよね、きっと。でも滝沢がいてくれてよかったと本当に思う。翔さんにも色々言ってくれたみたいだし。
「ねぇ、日本に帰ってくることがあったら遊びに来てね。あ、結婚式……」
「行かねぇよ」
「……そっか」
「二度と会わない。俺はお前の幸せの邪魔はしない」
泣きそうになって、ぐっと飲み込んだ。泣いちゃいけない。
「ま、まだバイトもあるし大学もあるし。これからもよろしくな」
ぐしゃっと髪を撫でられて、私は微笑んだ。
「すずちゃん」
滝沢がお店に入ったと同時、ふわっと後ろから抱き締められる。あれから翔さんとは普通に戻った。また不安になることもあるかもしれない。でも、大丈夫。
「……翔さん」
「なに?」
「次フラフラしたら一ケ月おさわり禁止だからね」
「っ、すずちゃん!俺フラフラなんてしてないよ?!俺ずっとすずちゃん一筋!ちょっと女の子に優しくしちゃっただけ!小春ちゃんは友達だから!だからそんなこと言わないで……!」
本当に、絶望の淵に立ったような顔で翔さんが落ち込むから、笑ってしまった。私たちは離れられない。何があってもきっと。甘い世界の向こう側に、二人で堕ちてしまったのだから。
「……っ、小春ちゃん」
翔さんの反応に、ただごとではないと。私は敏感に感じ取った。
ある日、珍しくお客さんが少なく落ち着いている日だった。お店に一人で入ってきた女の人を席に案内する。彼女は誰かを探しているようだった。
「待ち合わせですか?」
「いえ、ここで働いてる人が……あ」
ちょうど翔さんがキッチンから出てきて、翔さんに彼女が反応して。翔さんのファンの人かなぁと思っていた。でも。
「翔くん、久しぶり」
彼女を見て、翔さんが持っていたマグカップを落とした。翔さんが動揺するのを見たのは初めてだった。
「……っ、小春ちゃん」
翔さんの特別な人なのだと、嫌でもすぐに分かってしまった。彼女は翔さんに走り寄り、カップの破片を拾い始めた。
「大丈夫?怪我してない?」
「え、あ、大丈夫。小春ちゃん、怪我するからいいよ。ごめんね」
翔さんが小春ちゃんと彼女を名前で呼ぶ度に心臓が嫌な音を立てる。どういう関係だろう。彼女は誰なのだろう。立ち尽くす私に気付かないまま、二人は一緒に片付けをする。
その時、悠介さんと滝沢がお店に入ってきた。
「すずちゃん、どうした……て、小沢?」
悠介さんが彼女に反応した。悠介さんに「久しぶり」と笑う彼女は、悠介さんとも知り合いらしい。三人は笑顔で話し始めた。まるで私がその場にいないみたいに。
「……おい」
「……」
「おいって、生きてるか?」
「っ、え?ごめん、何だった?」
私の反応を見て、滝沢は眉間に皺を寄せた。そして頭をコツンと突いた。
「気にすんな。ただの昔の知り合いだろうから」
私は必死で顔に笑みを貼りつけた。
***
「すずちゃんごめん、今日悠介たちと飲みに行くことになって……」
仕事終わり、翔さんがそう言ったのだけれど。私はぼんやりとしてしまって、翔さんの声が遠くに聞こえた。
「すずちゃん?」
「っ、え、あ、はい、楽しんできてください、私今日は家に帰ります」
「すずちゃん」
翔さんが私の手を握る。心配そうな顔。私は今、どんな顔をしているだろう。大丈夫。翔さんは私だけを好きって言ってくれるんだから。何も不安になることなんてない。
「どうしたんですか?早く行かないと置いていかれちゃいますよ」
翔さんの手をそっと外す。そして背を向けた。また名前を呼ばれた気がしたけれど、私はまたぼんやりとしていて反応できなかった。
「おい、」
「……」
「はぁ」
顔を上げると、滝沢が目の前にいた。ため息を吐かれて、どうしたのだろうと首を傾げる。
「お前、目虚ろ。送る」
気付けば路地を抜けたところで、ここまでどうやって歩いてきたかもよく覚えていなかった。滝沢は私の少し前を歩く。ぼんやりとしたまま着いて行って、いつの間にか私のアパートの前に立っていた。
「あ、ありがとう。わざわざごめんね」
私、一人だ、今日。自分のアパートに帰ってきたのは久しぶりで、一人で眠るのも久しぶり。どうしよう、怖い。
「……なぁ、」
「ねぇ、怖い」
「あ?」
「翔さん、もう私のところ戻ってこないのかな、あの人のところに行っちゃうのかな、どうしよう」
「おい、どうした、」
「滝沢、私、怖い」
気付けば涙がボタボタと地面を濡らしていた。はじめ、雨が降ってきたのかと思った。でも違う。だって、何かが頬を伝う感触がしたから。
「藤堂、」
滝沢が私に手を伸ばす。涙は拭っても拭っても止まらない。次から次へと落ちてくる。どうしよう、どうしよう。
「藤堂、泣き止んだら、今から言うこと忘れろ」
伸びてきた手が私の後頭部に回って抱き寄せた。目の前には滝沢の胸。翔さんとは違う匂い。
「俺ならお前を泣かせない」
耳元で、滝沢の声が響く。息ができないほど、涙が零れて。
「俺と一緒に……」
滝沢にしがみついた。だって、翔さん今まで女の人には優しいのに一歩距離を置いているのが分かった。壁を作って、気を許していないような。でも、あの人には違った。心からの笑顔だった。あの人は特別なんだってすぐに分かった。声を上げて泣く私を、滝沢はずっと支えてくれていた。
その日の深夜、翔さんから電話がかかってきた。その時には随分落ち着いていて、普通に出られたと思う。
『すずちゃんが心配するようなことは何もないんだ。彼女は高校の同級生で、悠介も仲がよかった子で……』
翔さんが必死で言い訳をしているように聞こえた。私はぼんやりとしたままその声を聞いていた。相槌を打ったかは覚えていない。
「あの人のこと、好きだったんですか?」
無意識の質問に、翔さんが詰まった。……ああ、そうなんだ。答えを聞かなくても分かった。
『すずちゃん、あのさ、』
携帯を取り上げられ、そのまま翔さんの声が聞こえなくなった。ゆっくりと顔を上げたら滝沢が私を怒ったように見ていた。
「わざわざ傷付くようなこと聞くな馬鹿。とりあえず寝ろ」
頭を撫でられ、目を閉じる。ベッドの横に座っていた滝沢が、手を握ったままでいてくれた。
***
「……あ」
藤堂が眠って、朝までついていた。一睡もできなかった。あんなに不安定な藤堂を見たのは初めてだった。
朝になり、コンビニにでも行こうかとアパートの階段を降りたところで、見慣れた後ろ姿が座り込んでいるのを見つけた。俺の声にその人が顔を上げる。
「智輝……」
まぁ、やましいことはないとは言え一晩一緒にいたのは事実で。何となく気まずくて目を逸らすと、翔さんは虚ろな目で言った。
「すずちゃん、泣いてた?」
「……」
沈黙は肯定。何も言えない俺に、翔さんは自嘲するように笑った。
「……何やってんだろ、俺……」
くしゃっと前髪を握り、弱弱しく呟いた翔さんに、俺は尋ねた。あの人とはどういう関係なのかと。
「……唯一、好きになれるかもしれないと思えた人なんだ。もちろんすずちゃんと出会う前だけど」
「……」
「俺に何も求めずに、ただそばにいてくれた。俺のことが好きだってまっすぐに言ってくれた。嬉しかった。俺も彼女の気持ちに応えたいと思った。……でも結局、無理だった。俺が何もできないまま、彼女は離れていった」
「……」
「今、すずちゃんと出会って初めて人を愛しいと思って。でも小春ちゃんが困ってるの、放っとけないと思った。今小春ちゃん、好きでもない人と結婚させられそうになってるらしくて。助けてあげたいって……」
「……」
「あの頃何もできなかったからどうにかしてあげたいって……」
「何をするんですか?藤堂を傷付けてまで」
俺の言葉に、翔さんは目を見開いた。
「あの人を助けるって、じゃああの人と結婚してあげるんですか?」
「……っ」
「藤堂泣いてました。翔さんがもう戻ってこないかもしれないって。いいんですね、俺、アイツのこと連れて行きたいんですけど」
「え……」
いいと思った。アイツが幸せなら。でも、こんなことがあるなら。翔さんがアイツを傷付けるなら、
「……ダメ。ごめん。絶対ダメ。すずちゃんは絶対渡せない」
「じゃあフラフラすんな」
「……うん、ごめん。智輝、本当にごめん」
「謝んのはアイツでしょ」
「うん、そうだね」
隣できのこを生やしそうなほどジメジメ落ち込んでいる翔さんに、ため息を吐く。ちょっとでも隙見せたら奪ってやるからなと思いながら。
***
「私、翔くんじゃなきゃ無理なの」
悠介と三人で飲みに行った帰り、小春ちゃんがそう言った。小春ちゃんがお店に来る前、小春ちゃんからメールで相談を受けていた。親の都合で好きでもない人と結婚させられそうになっていると。助けてあげたいと思った。あの頃は何もしてあげられなかったけど、今なら助けてあげられるかもしれないと思った。お店に来た時は驚いた。すずちゃんもいたから、何となく焦った気持ちもあった。
「……ごめん、俺彼女いる」
そう、俺にはすずちゃんがいる。すずちゃんのことは絶対に離したくない。でも小春ちゃんのことも助けたい。そんな中途半端な気持ちのまま、俺はすずちゃんの家に行った。電話の向こうの声は少し震えているようだった。泣かせたのは俺だ。どうしてもすずちゃんに会いに行けなくて、アパートの階段の下に座り込んでいた。
「何をしてあげるんですか?藤堂を傷付けてまで」
智輝に言われてようやく気付いた。そうだ、俺は小春ちゃんに何もしてあげられない。中途半端に優しくしたって更に傷付けるだけ。俺に必要なのは、すずちゃんだけなのに。
次の日、小春ちゃんに会った。夜の公園、街灯の下。微笑む彼女は綺麗だった。
「……そう。分かった」
「ごめん、中途半端に優しくして。無理なんだ。俺、すずちゃんだけは離したくない。だから君には何もしてあげられない」
「出来たんだね。心の底から好きな人」
「……うん」
ポツポツと雨が降り出した。彼女は傘を持っていて、家まで送ると言ってくれた。でも俺はこれからすずちゃんに会いに行きたいと思っていたから、断ろうとした。
その時。公園の向こうの道路で赤い傘が揺れた。
「すずちゃん?」
声が震えた。誤解されたかもしれない。すずちゃんは俺を置いて走って行く。
赤い傘。公園。あの日の記憶。
「……嫌だ」
「え?」
駆け寄ってきた小春ちゃんが首を傾げる。でも、俺の口からは勝手に言葉が零れた。
「一人にしないで」
大切な人は、俺の前から姿を消す運命なのかもしれないと思った。
***
ハッとして立ち止まった。いつの間にか本降りになった雨が容赦なく私に打ち付ける。滝沢から翔さんの話を聞いて、会いに行こうと思った。自分の中で完結させずにちゃんと話を聞きたいと。でも公園で相合傘をする二人を見て、思わず逃げてしまった。何てタイミングが悪いんだろうと自分を呪いたくなった。
でも、走っているうちに唐突に頭の中に蘇ってきた。夜の公園。赤い傘。降りしきる雨。……翔さんがお母さんに、最後に会った日。
私は来た道を戻っていた。無意識だった。今まで翔さんと過ごしてきた日々。くれた言葉。全部全部夢なんかじゃない。勘違いでもない。確かに、二人で歩んできた日々。
公園で、翔さんは一人立ち尽くしていた。あの人はいなかった。落ちていた傘を拾うと、翔さんが顔を上げた。
「すずちゃん」
目を見開いて、私を抱き締める。きつく、きつく。
「ごめん、謝るからどこにも行かないで、ごめん、すずちゃん、本当に愛してる、お願い、どこにも行かないで、俺を一人にしないで、好きなんだ」
何度も何度も、同じ言葉を繰り返す。壊れたおもちゃのように、何度も。
「……翔さん、」
「ごめん。傷付けてごめん。泣かせてごめん。愛してる。どこにも行かないで」
何度もキスをした。優しくも甘くもない、苦しいだけのキス。でもそれでよかった。だって、どうせ離れられないのだ。もし翔さんが浮気をしたって、私は翔さんから離れられない。どうしても、私はこの人が愛しい。
「俺にはすずちゃんだけ。今までも、これからも。すずちゃんだけを愛してる」
苦しいほどの愛情に、私たちは一緒に溺れる。抜け出せない、底なし沼。優しく、甘美で濃密な世界。二人だけの、世界。私たちは一緒に堕ちていくのだ。その向こうに。
次の日、バイトに行くとたまたま滝沢と一緒になった。
「落ち着いてよかったな」
「……うん、ありがとう滝沢」
泣き止んだら忘れろって言われたから何も言わないほうがいいよね、きっと。でも滝沢がいてくれてよかったと本当に思う。翔さんにも色々言ってくれたみたいだし。
「ねぇ、日本に帰ってくることがあったら遊びに来てね。あ、結婚式……」
「行かねぇよ」
「……そっか」
「二度と会わない。俺はお前の幸せの邪魔はしない」
泣きそうになって、ぐっと飲み込んだ。泣いちゃいけない。
「ま、まだバイトもあるし大学もあるし。これからもよろしくな」
ぐしゃっと髪を撫でられて、私は微笑んだ。
「すずちゃん」
滝沢がお店に入ったと同時、ふわっと後ろから抱き締められる。あれから翔さんとは普通に戻った。また不安になることもあるかもしれない。でも、大丈夫。
「……翔さん」
「なに?」
「次フラフラしたら一ケ月おさわり禁止だからね」
「っ、すずちゃん!俺フラフラなんてしてないよ?!俺ずっとすずちゃん一筋!ちょっと女の子に優しくしちゃっただけ!小春ちゃんは友達だから!だからそんなこと言わないで……!」
本当に、絶望の淵に立ったような顔で翔さんが落ち込むから、笑ってしまった。私たちは離れられない。何があってもきっと。甘い世界の向こう側に、二人で堕ちてしまったのだから。
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