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第一章 カナリアのデスゲーム
三ぺージ 貴方に贈るプレゼント
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大好きなクリスマス…。
一年に一度のこの時期に胸を躍らせてプレゼントを待つ子供達が多いだろう。
彼女もまたその一人だった。
大好きな両親と過ごす毎日、だけど彼女には何故か少しだけ孤独感があった。
幼い彼女の両親は仕事に追われ彼女との時間を作ることを疎かにしていた。
もっと遊んで欲しい、もっと私を見て欲しい。
だけど、幼い彼女の思いは両親に届く事はなかった。彼女は 一人でお留守番をしている時も涙を堪え、大きなウサギのぬいぐるみを抱きしめて毎日、両親の帰りを待ちわびていた。
そんな彼女の心の支えになったのは近所に住んでいた心の優しいお兄さんだった。
彼は両親の代わりに彼女の孤独感を埋めてくれる唯一の存在だった。
毎日、夕方になると近所の公園で待ち合わせをしては、お兄さんと暗くなるまで楽しく遊んだ。
お兄さんはカメラマンをしていて、旅をして撮った、見たこともない美しい景色を彼女に見せては彼女を幸せな気持ちにしてくれた。
とある年のクリスマスに近くなったある日、お兄さんは幼い彼女に優しく問いかけた。
『ねえ、まのちゃんクリスマスプレゼントは何がいい?』
幼い彼女は屈託のない笑みを浮かべて答えた。
「あのね、あのね、私、プレゼントは要らないからパパとママとずっと一緒に居たい!!!」
彼は彼女の願いを聞いて笑顔で答えた。
にかっと歯を見せて笑う愛らしい彼女の髪を優しく撫でながら優しい声色で彼女に答えた。
『そっか、まのちゃんのプレゼントはパパとママと一緒にいたい事か…よしっ、お兄さんサンタさんにお願いしてみるね!』
「うん!約束だよ!」
幼い彼女は彼と小さな小指を交わして笑顔で走り去った。
『まのちゃん…君を幸せにしてあげないとね…』
彼女の後ろ姿を見つめながら彼は優しい笑みを浮かべた。
あの日の彼女はまだ知らない…。
優しさが一つではないことも、これから失うものも、彼女を壊すのが大好きな彼だということも…。
『クリスマスなんて、大っ嫌い!!!』
少女は今年もこの時期を嫌う。
大好きな両親を失ったこのクリスマスを。
*「ん、まだ二時か…」
真夜中に昔の夢を見て眠れなくなった芙蓉はベッドから身体を起こして隣に眠る月華兎耳の幼い寝顔を眺めていた。
「……月華ちゃんもまのちゃんも幸せにならないといけないのに…」
芙蓉は月華の黒くて細い髪を指で掬ってはひらりと落とした。
牡丹さんが居なくなってから月華兎耳は毎日夜まで泣き疲れて眠るようになった。
元々、保護対象であろう彼女が此処にいるのは不似合いにも程がある。
初めて月華を見た時、芙蓉には月華があの時の少女と重なって、思わず声を掛けていた。
「ねぇ君、お名前は?」
「月華兎耳…お兄さんは…?」
「僕は芙蓉夏彦、カメラマンをしていたんだ」
「カメラマン?」
「そう、風景写真を撮りに色々な国に旅をしていたんだ」
「わぁぁぁ!すごい!ねぇ、月華に旅のお話聞かせて!」
懐かしい。そう思った。
月華の反応はあの時の彼女と重なる部分が多い。
孤独を抱えて誰にも話せずに押し潰されそうになっている。
芙蓉は月華に此処は危ないから自分と一緒に居た方が安全だと話をした。
孤独に怯える月華は芙蓉の提案に首を縦に振った。
芙蓉に懐いた彼女は覚えている記憶の全てを彼に話した。母国の事、母の事、日本に来てからの事、住んでいた家の事。そして、日本に来てから住んでいた場所を思い出そうとした彼女は涙ぐみながらその部分の記憶が欠如している事を芙蓉に伝えた。
「無理に思い出す必要はないよ、ゆっくりゆっくり思い出していこう、月華ちゃんが嫌なら思い出さなくてもいいんだ」
そう、思い出さない方が月華にとっても自分にとっても都合が良かった。
今晩のように手に掛けるには。
「月華ちゃん…」
隣で寝息を立てる月華は何も知らずに無垢な表情を向けている。
『お母さん…何で死んじゃったの…お母さん…会いたいよ…』
芙蓉は分かっていた。
彼女が何故、住んでいた場所についての記憶がないのか、その話をした時に涙を浮かべたのか。
それは、此処に来る原因がそこにあるからだろう。
芙蓉は倉庫から借りてきたヘリウムガスの缶を手に取った。
「月華ちゃん、今、お母さんに会わせてあげるからね…」
幸せはいくつかの与え方がある。
誰しもが同じ方法をとるとは限らない。
皆が眠りにつく中、幼い少女は永遠の眠りについた。柔らかな頬には、母を思う涙が月光に光っていた。
*「ふぁぁ、もう朝か…何だかまだ眠たいな…」
規則正しいアラームの音で目を覚ました僕はゆっくり身体を起こし、ベッドから地面に足を落とした。
大きな欠伸を一つすると身支度をしに洗面室に向かってゆっくりと歩き出した。洗面室に入り、鏡に映っただらしのない自分を見つめながら独り言を無意識に呟いた。
「一体僕は誰なんだろ…?何で何にも分からないんだろ…?」
自問自答しても、何か分かる訳もなく、静寂だけが僕を包んだ。簡単に身支度を済まして服を着替えていると、誰かが部屋の扉を軽快に叩いた。
「はい、咎愛です」
「おう、咎愛!何してんだよ?飯食い行くぞ」
「おはよう平、もしかして待たせてる?」
「かれこれ十分は待ってるな」
「ごめん、急いで行く!」
僕は慌てて身支度を整えると部屋の外に飛び出した。僕の部屋の前には平が立っていて僕の顔を見ると屈託のない笑みを浮かべた。
「おはよう平、ごめん!」
「別に気にするなよ、行こうぜ」
僕と平は食堂に向かって歩き出した。
平は僕にぽつりと呟いた。
「三日前の事が嘘みたいに感じるよな…」
「本当だよね」
「この中に誰かあんな事をした奴が紛れてるなんて信じられないよな…」
「うん…信じたくない…そういえばあの夜、平は牡丹さんの部屋に行ったの?」
三日前のあの日の話が僕達の間で話されるのは初めてだった。
僕はずっと気になっていた問いを平に投げかけてみた。平を疑うことはないけれど、あの日平は何をしていたのか気になってはいた。
「あの夜は結局、行かないことにしたんだ、生きて帰れる保証はなかったからな…そしたらあんな風になっちゃうんだもんな…」
「そっか…平が無事で安心したよ」
「俺は簡単には死なないから安心しろよな」
「うん」
「まあ、牡丹さんが日暮さんを殺して、牡丹さんを殺したのは誰かが分からないって事実はまだ残ってるから安心は出来ねーよな」
僕が頷くと、平は神妙な面持ちのまま口を開いた。
「まぁ、今は情報が足りなさすぎて何もわかんねー!取り敢えず飯でも食って元気出そうぜ!いつまでも辛気臭いのはごめんだからな!」
さっきまであんなに真剣な表情をしていたのに、まるで別人のように屈託のない笑みを浮かべる平を見て、僕の心には安心感が広がっていった。
「そういえば、あの事件の後、中庭の注射器を見に行ったんだけどさ、注射器がなくなってたんだよな…」
「それって、誰かが盗んだって事?それか櫓櫂さんが気が付いて回収したのかな?」
平は顎に手を当てて考える素振りをしてから口を開いた。
「もし、俺達以外の誰かが注射器を隠したのを見ていたら…そいつがそれを利用して牡丹さんを殺害するのに使ったって線も有り得るよな…もう一つは」
平は一呼吸置くと、僕の顔をまじまじと眺めて口を開いた。
「もう一つは?」
僕は言葉の続きを求めて平の顔を見つめ返した。平は僕の肩を優しく叩くとふっと吹き出した。
「ははっそんな顔すんなって、眉間に皺が寄ってるぜ!焦らさなくても話すからさ」
「気になるよ」
平は僕の眉間に人差し指を当てて笑いながら話を続けた。
「じゃあ話すけど、もう一つの可能性ってのは、俺と咎愛のどちらかが注射器を使って牡丹さんを殺害した線もあるよなって話」
僕か平のどちらかが牡丹さんを…。
あの日の前夜、平は牡丹さんの部屋には行っていないと僕に話した。僕も部屋で眠っていたし、僕等が殺人犯という可能性はあるのだろうか…。
だけど、実際に注射器のある場所を知っているのは僕等だし…。
一人で考え混んでいる僕に気が付いた平は僕の額を容赦なく人差し指でパチンと弾いた。
「イテッ!」
「咎愛、考え過ぎ!まぁ俺等の可能性はないだろうけど一応話しただけだから気にすんな!それに犯行に注射器を使ったかどうかは定かではないからな」
「うん、考え過ぎないようにするよ」
「よしっ腹減って死にそうだから早いとこ行こうぜ!」
平は僕の髪をぐしゃぐしゃになるまで掻き回した。
「わぁ、やめてよ!ただでさえ猫っ毛でボサボサなんだから」
「悪りぃ、悪りぃ、ついっ!」
こうして、戯れながら腹拵えをするために食堂に入った僕達は彼方さんと蝶番さん、黄瀬さん、それから芙蓉さんに笑顔で手招きされた。
「おはようございます皆さん」
「おはようございます」
僕達が四人の近くの席に着くと、蝶番さんが怪しげな笑みを浮かべた口を開いた。
「あんさんら良いところに来はりましたわ…」
「ん?」
「今、皆で情報交換してるところだったんや…あんさんらからも話聞きたいわぁ…」
「僕達に話せる情報があれば良いですけど…」
「まあ、なんや…気ぃ抜いてに話そうや」
「はい」「はい」
蝶番さんは見惚れてしまう程の美しい笑顔を向けると僕達に話し始めた。
「昨日、櫓櫂はんに会って来たんやけどな…三日前の事は知らん言うとったわ…だけど、牡丹はんの部屋に注射器が落ちとったところを見ると何かしらの関与は無いとは言い切れなくなった…まあうちは犯人探しがしたいんやなくてこの中に紛れとる悪魔を探したいのが一番の行動原理やから皆から話を聞いてるわけや…」
「…注射器、それは犯行に使われたんですか?やっぱりこの中に悪魔が…」
平が尋ねると皆は不安気な表情を浮かべて蝶番さんに視線を送った。
蝶番さんは皆の顔をゆっくり眺めると柔らかい笑みを浮かべた。
「それは分からんけどな…一つ可能性があるとしたら、ここに居る悪魔は噂の釘井の相方やろな…」
「蝶番さんなんでそう思うんだ?俺にはよく分からないし、俺は俺が生きてるなら別にそんな話に興味はねーな!!!じゃあな!」
蝶番さんの話に飽きたのか彼方さんは勢いよく立ち上がり食堂から姿を消した。
芙蓉さんと黄瀬さんは苦笑いでその様子を眺めていた。
「舞鶴さんが言いたいのは牡丹さんの死体を見て感じたことですよね?私もなんか変な感じがしたんです…茉里さんの死体と牡丹さんの死体は似てるような気がして…」
黄瀬さんが小さな声で蝶番さんの意見に補足を加えると蝶番さんは黄瀬さんの頭を優しく撫でた。
「ええ子やなぁ…そうや…死体が、死に方がうまく似せてあった…つまり例の噂の通りや…」
「それって歯には歯を…って話でしたよね?」
「そうやで…」
「牡丹さんは日暮さんと同じ殺され方をしたということですか?」
「愛美はんの言う通りや…」
「悪魔は牡丹はんを楽器にしたんやろな…余りにも残忍やったわぁ…まあ、釘井はんのお気に入りになるくらいの人間やからな…あんなこと気にせんとやるんやろな…」
「手段によっては釘井よりも残忍ですよね」
平の声には怒りが混じっている。
この場にいた誰もがそれを感じ取っていた。
「まあな…あらあら皆の話も聞きたいけど、あと小一時間で櫓櫂さんが来るで…うちは睨まれる前に移動するわ…またなぁ」
ひらひらと長い指を振り歩き去る蝶番さんに続いて黄瀬さんも僕達にぺこりと頭を下げると食堂を後にした。
残ったのは芙蓉さんと僕達の三人だけだった。
僕はふと、視界に入った芙蓉さんの隣に居るはずのシルエットがないことに違和感を覚えた。
いつも一緒にいる月華ちゃんの姿が見当たらないのだ。
「そういえば…芙蓉さん、月華ちゃんは?」
僕が聞こうとしているのを感じたのか平が先に口火を切った。
「ああ、月華ちゃんね…彼女、牡丹さんが居なくなってから泣きっぱなしで疲れて部屋で寝てるんだよ…」
「そうだったんですか…」
「そうですよね…あんな光景を見ちゃったら…」
「うん…早く元気になってくれるといいんだけどね、よし!僕も用は済んだから部屋に戻ろうかな、じゃあね」
芙蓉さんはふわっとした柔らかい笑みを浮かべて立ち上がった。
芙蓉さんの右手には中身のないガラスの小瓶が握られていた。
「芙蓉さん、それは?」
「ああ、これかい?最近、昔の夢を見てちょっと大事な知り合いにプレゼントをあげたくなってね…丁度いい入れ物をアン君に探してもらってたら厨房に丁度いい物があってね、もらったんだ、今日は部屋でプレゼントと一緒に渡す手紙を認める予定なんだ、きっと喜んでくれるだろうな」
そう答えた芙蓉さんはどこか儚げな表情を浮かべていた。きっとプレゼントを贈りたい相手は芙蓉さんにとって特別な相手なのだろう。
「素敵ですね、プレゼントに手紙だなんてきっと喜んでくれますよ」
僕が芙蓉さんに言うと、芙蓉さんはふわっとした柔らかい笑顔を見せてくれた。
「ありがとう咎愛君、よしっ月華ちゃんも待たせてるから急ぐね、また!」
少し急ぎ足で立ち去った芙蓉さんを、平は怪訝な表情で見つめていた。もっとはっきり言ってしまうと、見つめていると言うよりは、睨みつけていた。
「平?どうかしたの?言いにくいんだけど…顔がすっごく怖いよ…」
僕の言葉を受けたからか、平は頬っぺたを両手で挟んで顔を潰してみせた。
「今度は怖くないけど変な顔になっちゃったよ…、せっかくのいい顔が台無しだよ」
「ははっ、咎愛は社交辞令が上手いな!悪りぃな怖い顔してて、ちょっと腑に落ちないことがあってさ」
「腑に落ちないこと?」
「ああ、芙蓉さん絡みだけど」
さっきの会話から違和感を抱いたりしなかったけど、平には何か気になることがあるらしい。僕は情けないけれどその腑に落ちない事柄を平に思い切って尋ねてみる。
「平が腑に落ちないことって何?僕にはさっぱり分からなくて…」
照れ隠しに頭を掻きながらそう呟いた僕に平は優しく微笑むと答えを与えてくれた。
「腑に落ちない事、その一…何故、月華ちゃんの分のご飯を持ち帰らなかったのか…ずっと寝てるにしても起きた時、お腹空いてたらどうするんだ?まぁ
ここに連れてくるのかもしれないけどさ…」
「確かに、その一って事は他にも何か気になってる事があるの?」
平は首を縦に振ると言葉を続けた。
「腑に落ちない事、その二…芙蓉さんは誰かにプレゼントを贈ろうとしている、ここにいるカナリアに対してじゃないのならどうやって渡すんだ?この施設内では自由の身だとしても、外部との接触は流石に許可は下りないんじゃないか?」
「確かにどうやって渡すんだろ?」
「だろ、芙蓉さんにはプランがあるのかもな…」
平の神妙な面持ちを見ていると次の言葉を聞くのを躊躇う自分がいた。
「プランと言うか、勝算があるならあんなに急いでプレゼントを用意する意味がわかるけど…」
「勝算?ここから出る為のって事?」
僕の言葉に頷いた平の表情は未だに変わらなかった。
「もしかしたら、全員を皆殺しにして勝ち残る気でいるのか、それとも当たり障りなく生活してここから出る気でいるのか…まぁ仮説だから信憑性も確信もないけどな」
平はそう言うけど、きっと何か確信めいたものがあるから僕に話をしたのだろう。
だけどまだ、完全に疑うには証拠が足りない、と言う状況なのは平の表情から読み取る事が出来た。
きっと平なら…。
「よしっ!さっさと食って証拠と情報集めに行くぞ!」
「そう平なら言うと思った!」
僕もだんだんに平のペースが掴めてきているのかもしれない。不思議な感覚。
友達と言う慣れない関係。
記憶がないからそう思うのか、それとも僕には友達と呼べる存在が居なかったのか…。
「おーい…咎愛?おーい…?」
「うわっ、」
「何だようわって、いきなり魂抜けたような顔してんじゃねーよ!」
「そっ、そんな顔してたかな?」
いつの間にか考え込んでしまっていた僕の顔を下から覗き込んで目が合った瞬間に平はふっと吹き出した。
「ふははっ咎愛が難しい顔をしてるの、似合わねーな!はははっ」
平が僕の顔を見て小さな子供のようにいつまでも笑っているのに対して、僕は笑われないように表情を変えることに必死になっていた。
「そっ、そんなに笑わないでよ!」
「咎愛って面白いよな、何つうか、思ってたより話しやすい奴だった」
「えっ!?話しやすいかな?」
平が零した言葉に理由のない違和感を抱いて思わず問い掛けていた。
「ああ、最初に話し掛けた時よりも大分印象変わった!なんかこう、最初は怖い奴だと思ってたけど、今はよく分かんない奴だから守ってやらないとって思ってる」
僕は平の言葉に苦笑いを返した。
「怖い奴って言うのもよく分からないけど…よく分からない奴って言うのも嬉しくないよ…僕は平の事優しくて頼れる存在だと思ってるよ!」
僕の言葉に平は少しだけ間を開けて笑みを浮かべた。そして僕の頭を優しく撫でると口を開いた。
「はぁっ、咎愛って変わってるな!お前と居るとつい、気が緩んじまうぜ…」
「えへへ、確かに僕には緊張感がないかも…」
平の言葉に照れ笑いをした僕等はこの話の発端をふとした瞬間に思い出し、二人で同じタイミングに声を上げた。
「あっ!早く食べないと櫓櫂さんが来る!!!!」
僕等は慌てて何を食べるか考え始めた。
二分程迷って後、平はハッと顔を上げて僕に向き直った。
「咎愛っ、俺はトーストにするけど、お前もそれでいいよな?手首見えないように気ぃ張っとけよ」
平の提案に笑顔で同意を示してから僕は手首に意識を集中させた。後は櫓櫂さんが来るまでに食事を終わらせなければならない。
「おっ、来た来た!急いで食おーぜ!」
食事が運ばれて来るまでに五分もかからなかった。
平の言葉を合図に、運ばれて来たトーストに噛り付いて僕のお腹は満たされた。
「ごちそうさまでした!」
平と僕は空になったお皿に手を合わせると食堂から大慌てで廊下へ飛び出した。
「ふうっ一安心、一安心!櫓櫂さんに睨まれずに済んだぜ」
額に薄っすらと浮かんだ汗を手の甲で拭いながら平は呟いた。僕も平も先程までの緊張感から開放され、自然と頬が緩んでしまうくらいの安心感に包まれていた。
「平、すっごく気の抜けた顔してるよ」
「咎愛もな!」
僕等はお互いの顔を見合わせて暫く笑い合った。
此処が何処なのか忘れてしまうくらいに…。
「よしっ、咎愛!確かめたい事があるから中庭に行こうぜ」
確かめたい事…。
敢えて聞かなくても大体予想はついた。
『中庭』『確かめる』
これだけで思い浮かぶ事は一つだけだった。
僕等は中庭に向けて歩き出した。施設内は空調で過ごしやすい気温になっているけれど中庭も温度は変わらなかった。僕は隣を歩く平に頭に浮かんだ疑問を問いかけてみた。
「ねぇ、平、施設内は空調で過ごしやすい気温になっているけど、中庭は何で気温の変化を感じないのかな?」
平は僕の問いに迷いなく回答を与えてくれた。
「きっと中庭から見える空は合成画像みたいな技術を使ってるんだと思う、俺達がみてる空は紛い物なんだ…本物の空はもう二度と目には映らないさ…」
「じゃあ、この施設は空を含めて全てが…」
「そう、紛い物さ…」
平の言葉には重みがあった。僕とは違って全てを知ってるから、平の言葉には重みがあるんだ。
少し重たい空気になった会話を明るいものに変えようと平は急に他愛もない会話を僕に向かって始めた。
「なぁ、咎愛は猫と犬どっちが好きだ?」
平は悪戯っぽく笑いながら僕の答えを待っている。
「何っ!?いきなり…どちらも好きだけど強いて言えば猫が好きかな…理由はないけど」
急な質問に戸惑いながらも僕は平に答えを返した。
「そっか…ちなみに俺は犬派!じゃあ次の質問、好きな女の髪型は?ロング、ショート?」
立て続けに平は訳のわからない質問をしてくるから僕は思わず声が裏返ってしまった。
それに、好きな女の子なんて言われても正直、今の僕には分からない。
「えっ!?そんなの分からないよっ!」
平は吹き出して笑いながら僕の肩をガシッと掴んで揺さぶった。
「わぁっ!何にするんだよ平、目が回るよ…」
「お前が真剣に悩んでるのが面白いから笑いが止まらないじゃねーか、笑わせんなよ」
「平が勝手に笑ってるだけでしょ…取り敢えず揺さぶるの止めて…」
「悪りぃ悪りぃ…はははっ」
そんな事をしているうちにいつの間にか僕等は中庭の入口に到着していた。さっきまでの重たい空気も何処かに去って行って僕等の間には何時ものような和やかな空気が漂っていた。
「よしっ、おふざけもここまでにして本題に入りますか!」
平の言葉に頷いた僕はまだふらつきの残る足取りで中庭へと踏み出した。
僕等の足は例の花壇へと向かっていた。
「本当にあの時の注射器が牡丹さんの部屋にあったものと一緒だったら…」
「さぁ、答え合わせだな!」
僕等は花壇に辿り着いた。花壇には小さなビオラが丁寧に植えられいて、紫や黄色の小さな花弁が僕等の視界に入り込んだ。
平は花壇に向かってしゃがみ込んで例の物を探し始めた。
「確か此処らへんにあったはず…」
花壇の端、煉瓦とビオラの隙間にそれは確かに存在していた。
「注射器…あった!!」
「しっー!咎愛、声が大きい…ん?」
「平?どうかしたの?」
平の動きが一瞬、止まったように感じて僕は平の肩を優しく叩いた。ゆっくり振り返った平は何でもないと答えると、注射器を元の場所に返して立ち上がった。
「確認完了っと、犯人が使った注射器は別物だったのかもな…はぁ、分からない事だらけだけど、話を聞きに行かないといけない人がいるのは少しだけ有難いかな」
平の言葉の意味が分からずに、僕は首を傾げた。
「誰に話を聞きに行くの?それに何の話?」
平は目を丸くしてから僕に向き直った。平のオレンジ色の髪が陽の光を浴びて艶々と輝いている。まるで平の感情によって光り方が変わるみたいだった。
「誰に話を聞くのかは、蝶番さん、何の話かは直接聞かせてやるから楽しみにしとけ!思い立ったら即行動だぜっ!」
そう言って中庭の中央部を目指して歩き始めた平を小走りで追い掛けると、いきなり目の前に平の背中が現れてぶつかりそうになる。
「うわっ、平!?いきなり立ち止まってどうしたの?」
「あれ、見ろよ!」
平が人差し指で指し示した方向には様々な花が咲き乱れている温室があり、その中に背の高い細身の男性のシルエットが窺えた。
「あれって…芙蓉さん?」
僕は髪型や仕草、服装で芙蓉さんだとすぐに分かったけど、平は目を細めたり、広げたりしてシルエットを未だに探っているように見える。
「咎愛って視力がいいんだな…俺、結構視力悪くてさ、実はコンタクトなんだぜ…昔は眼鏡だったし、チャラチャラしてるようでそうじゃないんだからな!って聞いてんのか?」
「ごめん、コンタクトの話までは聞いてた!それより芙蓉さんは何をしているんだろう?花を摘んでいるのかな?」
「んー、俺にはぼんやりとしか見えねーからな…よしっ、直接、芙蓉さんに聞きに行こうぜ!」
「うん」
僕等は芙蓉さんの居るビニールハウスみたいなドーム型の温室の中に入っていった。
中はじんわり暖かくて、それなりの湿度を肌で感じた。
「おやっ?愛美君に萩野目君、君達も何か用かい?」
僕と平は芙蓉さんに挨拶をすると芙蓉さんに何をしているのか尋ねてみた。
「芙蓉さんは何をされてるんですか?」
平の質問に芙蓉さんはふわっと柔らかい笑みを返すと色味の無い唇を動かした。
「今僕は、プレゼントに添える花を摘みに来たところさ…プレゼントだけじゃ何だか物足りなくて」
芙蓉さんの優しい笑顔を眺めながら、僕はふと気になった事を口に出してみた。
「芙蓉さんが用意したプレゼントって何なんですか?」
僕の質問に芙蓉さんは長く細い指を顎に添えながら考え込んでいた。用意できているのなら何故、すぐに回答してくれないのだろう?もしかして、聞いてはいけない事だったのかもしれない…。
様々な思いが胸を駆け巡って焦りを覚え始めた時、芙蓉さんはふわっと柔らかく微笑んでから優しい声色で呟いた。
「んーっと、わかりやすく言うならあの子に必要な物かな…具体的に言うととても綺麗で、繊細な物だよ」
「とても綺麗で繊細な物」
「そう、あの子にはそれが必要なんだ」
芙蓉さんの言う、あの子が誰を指しているのかは分からないけれど、先程から黙り込んでいる平は芙蓉さんの話とは対照的な言い表せないような雰囲気を纏っていた。
表情から見るに何か引っかかる事があるらしい。
「このくらいあれば大丈夫かな」
芙蓉さんは桃色のチューリップを幾つか手に持ち、束ねるようにして僕等に見せた。
「桃色のチューリップの花言葉は優しさ…僕が本当に贈りたいのは物よりも優しさなんだけどね…こればかりは直接会わないと贈れないから…」
普段見せないような芙蓉さんの表情に僕は目を外らせずに見つめていた。
儚気でだけど何か強い決意を感じるようなそんな表情。
「じゃあ、僕はそろそろ部屋に戻るよ」
「はい、お邪魔してすみませんでした!芙蓉さんのプレゼントが届く事を祈ってます!」
「僕も!」
平と僕は芙蓉さんに言葉を贈ると、芙蓉さんは柔らかい笑顔を浮かべながら歩き去った。
一体、芙蓉さんの用意したプレゼントとは何なのだろう。 芙蓉さんはやはり、優しくて笑顔が素敵で良い人だ。こんな場所に来てまで誰かの為に行動を起こせるなんて、尊敬してしまう。
僕がこう考えている時に、平は全く別の考察をしているなんて思いもしなかった。
「胡散臭いな…あの人、何考えてんだ?」
「あの人って芙蓉さんの事?」
「それ以外に誰がいるんだよ?」
平の言葉の意味が分からずに僕は首を傾げた。すると平は溜息を一つ吐いてから僕にも分かるように話をしてくれた。
「はぁっ、咎愛って奴は本当にカナリアなのか?!保護対象の可能性がまたまたアップしたぜ…じゃあ話すけど、芙蓉さんのプレゼント云々は別口として、おかしいと思わないか?」
「おかしい?」
「ああ、月華ちゃんの事だよ…泣き疲れて寝てるにしても食事も摂らずに部屋に置き去りで、こんな所で呑気にお花摘みなんて本当に月華ちゃんを思ってるのか?俺ならずっと側にいて、無理矢理でも何か食べさせるけどな…それと考えたくないんだけど、俺達が見てないだけで、三日前から月華ちゃんが食事を摂ってない可能性もある…」
確かに、僕と平が朝食を摂る時間は他のカナリア達とすれ違いの時間が多かった。
それに、芙蓉さんと月華ちゃんとは生活リズムが違うのか、なかなか姿を見ることはなかった。
だけど、今日は芙蓉さんも食堂に居た。
僕と平の中の違和感は段々に嫌なものに変わりつつあった。
「…まずは憶測よりも、証拠集めをしようぜ!取り敢えず蝶番さんに話を聞きに行こう!」
僕は平の言葉に首を縦に振った。
蝶番さんが何処にいるのか検討もつかない僕とは対照的に平はまるで行き先をナビゲートされているかのように迷わずには足を進めていた。
そんな平の横顔をちらりと気付かれないように見たつもりがあっさりと平に見つかってしまった。
「何だ咎愛?俺の顔になんか付いてるか?それとも俺の顔が格好良すぎて見惚れてたのか?」
僕は苦笑いをしながら平に言葉返した。
「どちらでもないよ、何で平は蝶番さんのいる場所が分かってるのかなって思って」
僕の言葉に一瞬、驚いたのか平の動きがピタリと止まったかと思うと、さっきより足早に歩き始めた。
「いっ、いや、別に蝶番さんから前にプールによく行くって聞いてたからさ、取り敢えずプールに向かって歩いてるだけだよ」
何かを誤魔化す様に足早になった平を追いかけるようにして僕等はプールに到着した。中庭からプールまでは三分程で移動出来た。
初日以来、初めて足を運んだプールは室内プールではなく外に設置されている大型のものだった。
施設から中庭を挟み、シャワー室や更衣室もきちんと設備されていた。
プール自体は水深が百三十センチの二十五メートルになっているとプールの縁に記載されていた。
更衣室を通り抜け、プールサイドを歩いていると平が懐かしみながら口を開いた。
「プールなんて子供の時以来だな、高校にはなかったし、なんかすげー懐かしい…咎愛?大丈夫か?」
「何が?」
平の心配を振り切ろうとしたけれど、自分でもどうにも出来ない程、プールというものに恐怖心を抱く自分が居た。
足が竦み、顔から血の気が引いていくのを感じだ頃には、僕の様子を見兼ねた平に肩を支えられていた。
「おいおい、水が嫌いなら言ってくれれば良かったのに」
平の言葉に僕は首を横に振った。
「分からないんだ…だけど…だけど、何でだろう…凄く怖いんだ…」
「あらまぁ、話し声がしたから来てみたら…萩野目はん…具合悪そうやなぁ…うちに会いに来たんやろ?…場所変えようか…」
僕等の前には、プールとは似つかわしくない和服姿の蝶番さんが立っていた。
僕等の話し声を聞いて様子を見に来たらしい。
それに、僕等の目的も把握しているようだ。
情けない事に僕は平と蝶番さんの肩を借りながらプールサイドから更衣室へと移動した。
更衣室に用意されている備え付けのベンチに腰を下ろすと、二人も僕を挟むようにして腰を下ろした。
「平も蝶番さんも迷惑かけてすみません…何か分からないけれど、凄く怖くて…」
僕の身体は漠然とした恐怖に小刻みに震えていた。蝶番さんは僕の背中を優しく、母の様に摩ってくれた。
「すみません…」
「えぇんよ…今は何も考えんとき…」
「はい」
僕の背中を摩り続けながら、蝶番さんは僕越しに平を見つめ声を掛けた。
「で、愛美はんはうちに話があるんやろ?」
平はゆっくり頷くと、僕の方を時折心配しながら口を開いた。
「幾つか聞きたいことがあるんですけど、聞いてもいいですか?」
蝶番さんは赤い紅を引いた形のいい唇を動かす。
「えぇよ…うちが話せることは何でも話すわ…あんさんらにはな…」
どうして蝶番さんは僕等に見返りもなく話をしてくれるのだろうか。それに、平と蝶番さんは言葉では表せないけれど心から信頼し合っている様な雰囲気が感じられた。だけど、そう感じるのは何故なのか、僕には分からなかった。
「じゃあ遠慮なく聞きますね、今朝、牡丹さんの部屋に注射器が落ちていたって話してたけど、三日前の事件の後、牡丹さんの部屋に入ったって事ですか?」
平の質問に対して、蝶番さんは怪しげに微笑んだ。
「そうやで…部屋の持ち主が居なくなった後、その部屋はどうなるんか気になって見に行ったんよ…そうしたら部屋は何もない状態に片付けられとったけど、部屋の入り口の隅に注射器が落ちとったんや…うちはそれを拾ってセキュリティハンターに渡したんや…」
「ふぅん、じゃあ注射器は…、それは分かったけど、今度は別の質問」
「はいはい、どうぞ…」
平の喰いつき気味の勢に蝶番さんは嫌な顔を一つせずに耳を傾けている。
「芙蓉さんが月華ちゃんをいつから連れていないか知りたいんだ、少なくとも今朝は月華ちゃんの姿を見かけなかった、俺等は芙蓉さんと朝食の時間が被ることが少ないから蝶番さんなら知っているかと思って」
蝶番さんの表情は変わらない。
だけど、僕には何故かそれが僕の不安を煽っていた。
「うちは少なくとも三日前、あの日から月華はんの姿は見てないなぁ…芙蓉はんが月華はんの食事の心配してるのも確認してへんし…もしかしたらもう手遅れなんやないの…?」
僕等は蝶番さんの言葉に何も言い返せず、押し黙った。先程まで勢よく質問を繰り出していた平は唇を噛んで俯いていた。
「まぁ、飽くまで憶測やで…事実が分かるまでは本気にしたらあかんよ…」
蝶番さんはちらりと僕に視線を移してから怪しげに微笑んだ。
何故だろう。理由は分からないけれど僕に向けられた笑みを見た途端、まるで心臓を掴まれているような、そんな不気味な気分を味わった。
「あんさんらも気ぃつけや、悪魔はちゃんと此処におるで…もう用は済んだやろか…?うち今日は黄瀬はんと話する約束してるんよ…」
「もう大丈夫、ありがとう蝶番さん」
蝶番さんはそっと腰を上げると、和服の乱れを整えて僕等に長い指をひらひらと振りながらこの場を去って行った。
この場に取り残された僕等は暫くの沈黙の後、お互いの様子を探りながら声を発した。 僕より先に声を発したのは平だった。
「あのさ、咎愛」
「何?」
「さっきの話が本当なら月華ちゃんはもう…」
平の言葉の先を聞くのが怖くて思わず足元に視線を落とした。平だってこんな事を考えたくもなければ言いたくもないはずなのに、こうやって現実から逃げようとしてるのは僕だけだ。
「信じたくないよな…」
「僕はまだ信じられないよ…」
「そうだよな、信じたらいけないんだ!咎愛、行こうぜ、憶測で判断するのはまだ早いな!分かった事もあったし今日は色々考え過ぎるのはよしとこうぜ」
きっと平は僕の事を元気付けようとしてくれてるんだ。平だって不安なはずなのに、平は本当に優しい人だな。この時の僕はそんな事を考えていた。そしてその事を平に直接伝えてみる。
「平は優しいね、なのに、僕は平に何も出来ない…平の優しさに甘えてばっかりだ…僕が平の足を引っ張ってるのに…」
平は僕の頭をぐしゃぐしゃになるまで撫で回した。逃げようとすればするほど平の手はスピードを増して僕のブラウンの髪の毛は滅茶苦茶にされてしまった。
「咎愛!次、俺に気を遣ったら髪の毛ぐしゃぐしゃだけじゃ済まないからな!次はそうだな…窒息するまで擽ってやるからな!」
にかっと歯を見せて笑う平に僕も笑顔を作った。
「参りました…擽られるのは避けたいな…」
「分かればよしっ!さぁて行こうか!」
「うんっ!」
平はゆっくり立ち上がると僕に向かって手を差し出した。僕は手首が見えないように気をつけながら平の手を取り立ち上がった。
「おっ、そうだ!咎愛に面白い話があるんだ、取り敢えず俺の部屋に行くぞ」
「うん、聞かせて」
僕等は更衣室の外へ出て、平の部屋を目指して歩き出した。プールから五分程で着いた平の部屋は自分の部屋に居るよりも理由のない安心感があった。
「まぁ、座れよな」
僕をベッドに座らせると、平は備え付けの質素な机からノートと筆記用具を取り出した。取り出したノートをパラパラと手際よく捲り目当てのページに辿り着くと、それを僕の前に広げて見せた。
『悪魔のカナリア…』そうタイトルが付けられたメモ書きに僕は目を走らせた。
平の書いた文字に目を通すとそこには僕の知らない事ばかりが記載されていた。
「これって何処から集めた情報なの?」
ふと気になってノートから顔を上げると、平は僕の方を見ていたらしくばちりと視線が絡んだ。
「蝶番さんから前に話聞いたことあったろ?実はその話は此処に収監されたばかりの頃に聞いたことあったんだ、釘井とペアで動いている恐ろしい執行人のことを…そいつの呼び名は『茶トラ』」
茶トラ…。平の口から出た可愛らしい響きに思わず拍子抜けしてしまう。
「『茶トラ?』それって猫の模様?」
僕の出した答えに平は嬉しそうに手を叩きながら続けた。
「御名答!まぁ、そう呼ばれる訳は幾つかあるんだけれど、一番の理由はそいつが茶トラの猫のお面を被って死刑をする事にあるみたいだ」
「えっ!?」
「悪魔のカナリア達は皆、顔を隠して行動している…その素顔を見たカナリアは中々いないんじゃないか…」
「本当に存在するのかな?都市伝説みたいな話じゃないの?」
僕が少しだけ茶化したように言うと、平は僕の顔をじっと見た後に口を開いた。
「いるさ…」
「平…?」
いきなり真剣なトーンになった平の声色に自然と僕は緊張感を抱き始める。これは悪魔のカナリアの恐ろしさ故なのだろうか。
「咎愛は記憶がないから仕方がないけれど、他のカナリアの前で悪魔のカナリアを否定しない方がいいぞ…なんてなっ」
「脅かさないでよね…」
「悪りぃ、つい揶揄いたくなっちまった!」
僕の反応を見て悪戯っぽく笑う平はふと笑みを消すと再び話を戻した。僕も平の話に合わせて再びノートに視線を落とした。
「俺が調べた限りでは釘井達の他にも悪魔のカナリアは存在するんだ」
「他にも?」
「ああ、クレイジージェミニ、双子の兄弟のジルとジン、そして奴等のトップに立つのがブラッドマザー…ロゼッタ・アルティメリア」
「奴等のトップ!?ブラッドマザーって事は女性?」
平はゆっくり頷いた。
「悪魔の鳥籠の実態がどうなってんのか分からないけど、あいつ等を執行官として雇ってるのはネジが外れた奴としか思えないな…」
「執行官…」
「俺はカナリアの悪魔の存在事実を此処から出たら公表したい、それが先輩の為にもなるんだろうから」
平の決意、平の成し遂げたい事が僕の心に直接的に届いた一言だった気がした。
「平なら成し遂げられるよ」
「だといいけどな」
平なら大丈夫。
心からそう思えた。
この日、僕等は昼食後も共に時間を過ごして、午後九時頃、また明日会える事を信じて部屋へ戻った。
僕はシャワーを浴びてから日記を書く為に机に向かっていた。今日の出来事を日記に綴り終えた僕は思い立ってメモ書きの欄に新しい自分の情報を書き足した。
『爬虫類が好き、見覚えがある』
と、書かれた下に新しく、『プールが怖い』の文字を付け足した。
何だか、自分を知れば知る程、情けない奴なのが分かってしまう。全てを知った時、拍子抜けしてしまいそうな気がしてきた。
「はぁ…僕は平とは違うんだ…平は格好いいよな…何だろう、悲しくなってきちゃった今日はもう横になろう」
誰もいない部屋にぶつぶつと呟く僕の声が小さい響き、間抜けな僕を更に引き立たせた。僕はベッドに横になり、柔らかい掛け布団とマットレスに挟まれて幸福感を感じた。布団が体温で温まる頃、僕の意識は既に薄れ始めていた。
*愛らしい少女の死から三日経った。 誰も知らないまま、彼女はキラキラした瞳を暗闇に変え、眠りについている。永遠の眠りに。
男、芙蓉夏彦は冷たくなった少女の遺体を部屋の隅に寝かせたままにしていた。
「月華ちゃん…月華ちゃんのお陰で素敵なプレゼントが出来そうだよ」
芙蓉はそう言うと、月華の遺体にそっと近寄り、瞼を長く細い二本の指で持ち上げた。
粘り気のある粘膜が彼の指を湿らせて彼の高揚感を煽り始める。
「ありがとう…月華ちゃん…きっとまのちゃんも喜んでくれるよ…」
芙蓉はファーのついたコートのポケットから小さな折り畳みナイフを取り出すと、月華の持ち上げられた瞼の間にある闇を見つめて動かなくなった瞳に当てがった。
ナイフを縦にしてそっと眼球に突き刺すと、周りをくり抜くようにしながら丁寧に眼球を持ち上げる。
ぐちゅ、ぐちゅりと粘膜を指に感じながら不気味な音を響かせて彼は神経と繋がったままの眼球を手に笑顔を浮かべた。
その笑顔は不気味な程優しく、不気味な程人に幸福にしてしまいそうな、柔らかいものだった。
芙蓉は戸惑う事なく、眼球をナイフで神経から器用に外していく。
ぶちぶちと聞き慣れない音が部屋に小さく響き手についた月華の一部だった部分を払い落とすと、眼球を用意してあった小瓶の中にコロンと優しく落とした。
『手際が良いですね、尊敬しちゃうな』
「誰?!あれっ、何で君が此処に?」
芙蓉が声のした方を振り返ると、そこには悪魔が歪な笑みを浮かべながら立っていた。手には恐ろしい仮面に持って…。
芙蓉は考える余裕を失っていた。
鍵は掛かっていた筈、何故、悪魔が此処に、何て悪魔の持つ仮面を見れば口を開くことが出来なかった。
『見に来たんです、プレゼントが気になって、そっかぁそうだったんだ、それを外の世界の女の子にプレゼントするんですか…ちょっと変わった趣味ですね』
ふふっと悪魔が不気味に笑った。
芙蓉は戸惑いながらも悪魔に対して口を開いた。
「×××、勝手に部屋に入って来たら駄目じゃないか、それと、手に持ってるそれ笑えないよ…」
『あれっ?此処は何でも許される…人殺しが許されて、不法侵入は咎められるなんて、馬鹿げた話がありますか?』
芙蓉は長い指で口元を覆い、笑い声が上がるのを最小限に止めようと努力した。
「はははっ、×××の言う通りだよ、確かに僕は人を殺した、だけどこれは優しさなんだよ?このまま、月華ちゃんが生きていて、彼女は幸せだったかな?きっとこのまま生きていても毎日死の恐怖に怯え、他のカナリア達から目を付けられ、幸せではなかったんじゃないかな?」
芙蓉の言葉を悪魔は相槌も打たなければ反応もせずに聞いていた。芙蓉は柔らかい笑みを浮かべたまま続ける。
「僕は彼女、月華ちゃんの願いを叶えただけさ…お母さんに会いたいって彼女は言ったんだ、それにはまず此処から出ないと願いは叶わない、だったら彼女を殺して、母親に会わせてあげた方が得策じゃないか?だって彼女の状況を見るに母親は殺されている確率の方が高いんだ、きっと今頃、月華ちゃんは天国で母親と再会してるんじゃないかな?僕の選択は間違ってないよ、だって僕はただ彼女を幸せにしてあげただけなんだから」
悪魔は芙蓉の言葉に乾いた拍手を送った。
『素晴らしいインモラルな持論ですね、はぁ…馬鹿らしい…あんたみたいな偽善者、見てるだけで反吐がでる…』
悪魔は芙蓉に一歩近づいた。
『さぁて、つまらないからそろそろ死んで?』
悪魔は不気味な笑みを浮かべて持っていた仮面を身に付けた。
『さて、私、×××が芙蓉夏彦の死刑を執行致します』
「死刑執行…ね、君が噂の茶トラさんだったのか…これはもう諦めた方が良さそうだね」
芙蓉は自身の死を覚悟すると、持っていた折り畳みナイフを床に向かって投げ捨てた。
悪魔は芙蓉に近づくと芙蓉の首をゆっくりと締め上げた。
『あんたの歪んだ優しさはもう誰も必要ないんだ、あんたのプレゼントは完成させてやるよ、まぁ、届く事はないけれど』
芙蓉の首が不気味な音を立てて人形のように崩れ落ちた。
芙蓉夏彦が笑顔を見せる事はもう無い。
彼が自分勝手な優しさを他人に贈ることももう二度と無い。
悪魔は大きな溜息を一つ吐くと芙蓉の使っていた折り畳みナイフを拾い上げると芙蓉の瞼を乱暴に開いて躊躇いもなく眼球に突き立てた。
悪魔はナイフを眼球から抜き取ると、血液と混じった粘液に顔を歪めた。
『はぁ…ベタべタするのは嫌いなんだよな…』
悪魔はぐちゃぐちゃになった芙蓉の眼球を月華の眼球の上から小瓶の中に入れた。
手に持っていた折り畳みナイフで芙蓉の身体を器用に開くと、その中に折り畳みナイフを適当に埋め込んだ。
血に塗れた手で小瓶を机の上に運びながら一人悩ましい声で呟く。
『んー、プレゼントとか贈ったことないからな、いまいちよく分かんないけど…』
机の上には血の付いた小瓶と芙蓉が摘んだ桃色のチューリップが置かれていた。その横にはプレゼントと一緒に渡す予定だったのか白い封筒が置かれていた。
『優しさ…か、あんたのは優しさじゃなかった…偽善者に過ぎなかった』
悪魔は桃色のチューリップを小瓶の横に添えるようにして並べた。
悪魔は部屋を見渡しているうちに床に落ちていたヘリウムガスに気が付き、手に取った。
『これで月華兎耳を外傷もなく殺したのか…これはいい物を見つけたな…』
悪魔はパタンと部屋の戸を閉めて歩き出す。
『また一つ花が散る…仕事は順調に進んでるよ…釘井さん』
悪魔は不気味に笑いながらその姿を変えていく。
今日もまた誰かの涙が流れる日になってしまった。
悪魔は消える…闇の中に…。
*翌朝、悲劇のアラームがカナリア達を睡眠から目覚めさせた。
「ん…」
聞こえてくるはずだったアラーム音とは違うメロディに僕は目眩すら覚えた。
「この音は…」
ただのメールであってほしい。そう願いながら端末を右手の人差し指で動かした。
メールが二件受信されていた。
ドキドキと不気味に体内から警鐘を鳴らす心臓を鎮めようと、深呼吸をしてみるも効果は現れなかった。恐怖から目を逸らしたい一心に駆られながらも僕は恐る恐るメールを開いてみた。
だけど、僕の小さな希望はすぐに打ち消され、絶望が目の前に現れる事になった。
『月華兎耳 十歳 囚人番号百五番 保護対象
制約、一日に一度髪の毛を誰かに結ってもらう
彼女の母親は旦那と離婚した後、仕事を探して日本へやって来た。日本の田舎に生活拠点を移した二人には恐ろしい出来事が待ち侘びていた。
それは、彼女達を外国人という理由だけで差別する村人からの迫害だった。
それでも二人は生きる為に差別に耐えながら生活を続けていた。彼女の母親は彼女を養う為に身を粉にして働き、彼女も母親に少しでも楽をさせたい一心で、家事を手伝ったりしていた。
彼女達が日本へ移り住んで約一年が経つ頃、恐ろしい出来事が遂に幕を開ける。
とある真冬の深夜、村人の男性が二人を追い払う為に二人の住んでいた古民家に火を放ったのだ。
乾燥した空気の中、家は簡単に燃え広がり異変に気が付き逃げ出した二人を待ち構えていた村人達は鍬や鎌などを使い、彼女達に襲いかかった。
彼女の母親は、彼女を捨て身で庇い、警察が駆けつけた頃には血塗れだけでは言い表せない姿に変わり果てていた。
母親に守られて生き延びた兎耳は身体こそ無傷で済んだが心に大きな傷を負い、外界では生きていけない精神状態になってしまった。
施設に収監され記憶を削除されてからは少しずつ覇気を取り戻し日常生活を送ることが出来る程に回復を見せていた。』
僕は端末を見ていた自分の目から涙が溢れている事に気が付いて指の腹でそれを拭った。
二件目のメールに目を通すまで何回も深呼吸を繰り返した。もう誰も死んでほしくないのに、現実は僕の願いを悉く裏切っていく。
『芙蓉夏彦 二十九歳 囚人番号四百七十八
制約、誰かと食事を摂ること
彼はカメラマンとして各地を転々として風景や人物の写真を撮影していた。
持ち前の人の良さから旅先でも地元の人々から歓迎されるような生活を送っていた。
だが、彼には裏の顔が存在していた、彼には病弱な弟がおり、両親の弟に対する過保護な対応を見て育ったせいか、優しさという概念が捻じ曲がっていたのだ。彼は人を幸せにする為ならどんな手段も選ばなかった。
旅先で悲しそうな顔をしている人、悩みを抱えている人を見つけ、声を掛けては彼の思う優しさを与え、無理矢理にでも幸せに変えて来た。
彼の優しさは度を超えており、幸せの為なら殺人さえも厭わなかった。
彼が収監されるきっかけになったのが、彼の旅先で親しくしていた少女の両親の殺害だった。
彼はクリスマスプレゼントとを家に用意したと彼女に言い残して街から去って行った。
クリスマスの日に芙蓉と近くの公園で別れた後、帰宅した少女は目を疑う光景に出会ってしまう。
それは、リビングで変わり果てた両親の姿だった。
彼女は泣き叫び、両親の亡骸に歩み寄った。
リビングの机には芙蓉からの手紙とガラスの小瓶が一つ置かれていた。
小瓶の中身は彼女の両親の眼球だった。
父、母、一つずつ抜き取られた眼球は彼女宛のクリスマスプレゼントだった。
彼は逃亡先で別の事件の参考人として捉えられ、数々の事件が発覚、カナリアとして収監された。』
「そんな…芙蓉さんが…」
様々な思いが僕の脳内を駆け巡っては消えていった。もう、二人は帰ってこない…。
月華ちゃんの太陽のようなキラキラした笑顔も、芙蓉さんの優しい声も見ることも、聞くこともなくなったんだ。
三件目のメールは誰から来たものか、予想がついた。
『生き延びているカナリア諸君…またしても二人が命を落としました。
残るカナリアは八名…。
次は貴方が死ぬかもしれませんよ…。』
ガエリゴからのメールはまるで感情がなくて、僕の身体は怒りや恐怖から小刻みに震えていた。
次はなんて、簡単に言うなよ…。
見えない恐怖は僕等を包んでいた。
もう二度と、なんて簡単には言えない世界…。
僕等はもう引き返せない。
カナリアのデスゲームはまだまだ続くんだ。
*澄んだ空気に白い息を弾ませては、無邪気にはしゃぐ子供達をちらりと通りすがりに横目で眺める。
学校帰りの見慣れた風景も、クリスマスという冬の行事に合わせてキラキラと飾り付けられていた。
街は白い雪化粧を施し、まるで絵本の世界に来たみたいな幻想を抱かせた。
そんな街並みを長い髪をサイドに一つに結った少女が一人、履き慣れたローファーで雪を蹴りながら進んでいた。
少女は一人、街の雰囲気とは似つかわしくない悲しみを込めた眼差しを空へと注いだ。
『クリスマスなんて…大嫌いよ…クリスマスなんて来なければよかったのに…』
少女は誰にも聞こえない声で呟く。今年も、来年も…。少女の幸せを奪った彼を憎みながら…。
一年に一度のこの時期に胸を躍らせてプレゼントを待つ子供達が多いだろう。
彼女もまたその一人だった。
大好きな両親と過ごす毎日、だけど彼女には何故か少しだけ孤独感があった。
幼い彼女の両親は仕事に追われ彼女との時間を作ることを疎かにしていた。
もっと遊んで欲しい、もっと私を見て欲しい。
だけど、幼い彼女の思いは両親に届く事はなかった。彼女は 一人でお留守番をしている時も涙を堪え、大きなウサギのぬいぐるみを抱きしめて毎日、両親の帰りを待ちわびていた。
そんな彼女の心の支えになったのは近所に住んでいた心の優しいお兄さんだった。
彼は両親の代わりに彼女の孤独感を埋めてくれる唯一の存在だった。
毎日、夕方になると近所の公園で待ち合わせをしては、お兄さんと暗くなるまで楽しく遊んだ。
お兄さんはカメラマンをしていて、旅をして撮った、見たこともない美しい景色を彼女に見せては彼女を幸せな気持ちにしてくれた。
とある年のクリスマスに近くなったある日、お兄さんは幼い彼女に優しく問いかけた。
『ねえ、まのちゃんクリスマスプレゼントは何がいい?』
幼い彼女は屈託のない笑みを浮かべて答えた。
「あのね、あのね、私、プレゼントは要らないからパパとママとずっと一緒に居たい!!!」
彼は彼女の願いを聞いて笑顔で答えた。
にかっと歯を見せて笑う愛らしい彼女の髪を優しく撫でながら優しい声色で彼女に答えた。
『そっか、まのちゃんのプレゼントはパパとママと一緒にいたい事か…よしっ、お兄さんサンタさんにお願いしてみるね!』
「うん!約束だよ!」
幼い彼女は彼と小さな小指を交わして笑顔で走り去った。
『まのちゃん…君を幸せにしてあげないとね…』
彼女の後ろ姿を見つめながら彼は優しい笑みを浮かべた。
あの日の彼女はまだ知らない…。
優しさが一つではないことも、これから失うものも、彼女を壊すのが大好きな彼だということも…。
『クリスマスなんて、大っ嫌い!!!』
少女は今年もこの時期を嫌う。
大好きな両親を失ったこのクリスマスを。
*「ん、まだ二時か…」
真夜中に昔の夢を見て眠れなくなった芙蓉はベッドから身体を起こして隣に眠る月華兎耳の幼い寝顔を眺めていた。
「……月華ちゃんもまのちゃんも幸せにならないといけないのに…」
芙蓉は月華の黒くて細い髪を指で掬ってはひらりと落とした。
牡丹さんが居なくなってから月華兎耳は毎日夜まで泣き疲れて眠るようになった。
元々、保護対象であろう彼女が此処にいるのは不似合いにも程がある。
初めて月華を見た時、芙蓉には月華があの時の少女と重なって、思わず声を掛けていた。
「ねぇ君、お名前は?」
「月華兎耳…お兄さんは…?」
「僕は芙蓉夏彦、カメラマンをしていたんだ」
「カメラマン?」
「そう、風景写真を撮りに色々な国に旅をしていたんだ」
「わぁぁぁ!すごい!ねぇ、月華に旅のお話聞かせて!」
懐かしい。そう思った。
月華の反応はあの時の彼女と重なる部分が多い。
孤独を抱えて誰にも話せずに押し潰されそうになっている。
芙蓉は月華に此処は危ないから自分と一緒に居た方が安全だと話をした。
孤独に怯える月華は芙蓉の提案に首を縦に振った。
芙蓉に懐いた彼女は覚えている記憶の全てを彼に話した。母国の事、母の事、日本に来てからの事、住んでいた家の事。そして、日本に来てから住んでいた場所を思い出そうとした彼女は涙ぐみながらその部分の記憶が欠如している事を芙蓉に伝えた。
「無理に思い出す必要はないよ、ゆっくりゆっくり思い出していこう、月華ちゃんが嫌なら思い出さなくてもいいんだ」
そう、思い出さない方が月華にとっても自分にとっても都合が良かった。
今晩のように手に掛けるには。
「月華ちゃん…」
隣で寝息を立てる月華は何も知らずに無垢な表情を向けている。
『お母さん…何で死んじゃったの…お母さん…会いたいよ…』
芙蓉は分かっていた。
彼女が何故、住んでいた場所についての記憶がないのか、その話をした時に涙を浮かべたのか。
それは、此処に来る原因がそこにあるからだろう。
芙蓉は倉庫から借りてきたヘリウムガスの缶を手に取った。
「月華ちゃん、今、お母さんに会わせてあげるからね…」
幸せはいくつかの与え方がある。
誰しもが同じ方法をとるとは限らない。
皆が眠りにつく中、幼い少女は永遠の眠りについた。柔らかな頬には、母を思う涙が月光に光っていた。
*「ふぁぁ、もう朝か…何だかまだ眠たいな…」
規則正しいアラームの音で目を覚ました僕はゆっくり身体を起こし、ベッドから地面に足を落とした。
大きな欠伸を一つすると身支度をしに洗面室に向かってゆっくりと歩き出した。洗面室に入り、鏡に映っただらしのない自分を見つめながら独り言を無意識に呟いた。
「一体僕は誰なんだろ…?何で何にも分からないんだろ…?」
自問自答しても、何か分かる訳もなく、静寂だけが僕を包んだ。簡単に身支度を済まして服を着替えていると、誰かが部屋の扉を軽快に叩いた。
「はい、咎愛です」
「おう、咎愛!何してんだよ?飯食い行くぞ」
「おはよう平、もしかして待たせてる?」
「かれこれ十分は待ってるな」
「ごめん、急いで行く!」
僕は慌てて身支度を整えると部屋の外に飛び出した。僕の部屋の前には平が立っていて僕の顔を見ると屈託のない笑みを浮かべた。
「おはよう平、ごめん!」
「別に気にするなよ、行こうぜ」
僕と平は食堂に向かって歩き出した。
平は僕にぽつりと呟いた。
「三日前の事が嘘みたいに感じるよな…」
「本当だよね」
「この中に誰かあんな事をした奴が紛れてるなんて信じられないよな…」
「うん…信じたくない…そういえばあの夜、平は牡丹さんの部屋に行ったの?」
三日前のあの日の話が僕達の間で話されるのは初めてだった。
僕はずっと気になっていた問いを平に投げかけてみた。平を疑うことはないけれど、あの日平は何をしていたのか気になってはいた。
「あの夜は結局、行かないことにしたんだ、生きて帰れる保証はなかったからな…そしたらあんな風になっちゃうんだもんな…」
「そっか…平が無事で安心したよ」
「俺は簡単には死なないから安心しろよな」
「うん」
「まあ、牡丹さんが日暮さんを殺して、牡丹さんを殺したのは誰かが分からないって事実はまだ残ってるから安心は出来ねーよな」
僕が頷くと、平は神妙な面持ちのまま口を開いた。
「まぁ、今は情報が足りなさすぎて何もわかんねー!取り敢えず飯でも食って元気出そうぜ!いつまでも辛気臭いのはごめんだからな!」
さっきまであんなに真剣な表情をしていたのに、まるで別人のように屈託のない笑みを浮かべる平を見て、僕の心には安心感が広がっていった。
「そういえば、あの事件の後、中庭の注射器を見に行ったんだけどさ、注射器がなくなってたんだよな…」
「それって、誰かが盗んだって事?それか櫓櫂さんが気が付いて回収したのかな?」
平は顎に手を当てて考える素振りをしてから口を開いた。
「もし、俺達以外の誰かが注射器を隠したのを見ていたら…そいつがそれを利用して牡丹さんを殺害するのに使ったって線も有り得るよな…もう一つは」
平は一呼吸置くと、僕の顔をまじまじと眺めて口を開いた。
「もう一つは?」
僕は言葉の続きを求めて平の顔を見つめ返した。平は僕の肩を優しく叩くとふっと吹き出した。
「ははっそんな顔すんなって、眉間に皺が寄ってるぜ!焦らさなくても話すからさ」
「気になるよ」
平は僕の眉間に人差し指を当てて笑いながら話を続けた。
「じゃあ話すけど、もう一つの可能性ってのは、俺と咎愛のどちらかが注射器を使って牡丹さんを殺害した線もあるよなって話」
僕か平のどちらかが牡丹さんを…。
あの日の前夜、平は牡丹さんの部屋には行っていないと僕に話した。僕も部屋で眠っていたし、僕等が殺人犯という可能性はあるのだろうか…。
だけど、実際に注射器のある場所を知っているのは僕等だし…。
一人で考え混んでいる僕に気が付いた平は僕の額を容赦なく人差し指でパチンと弾いた。
「イテッ!」
「咎愛、考え過ぎ!まぁ俺等の可能性はないだろうけど一応話しただけだから気にすんな!それに犯行に注射器を使ったかどうかは定かではないからな」
「うん、考え過ぎないようにするよ」
「よしっ腹減って死にそうだから早いとこ行こうぜ!」
平は僕の髪をぐしゃぐしゃになるまで掻き回した。
「わぁ、やめてよ!ただでさえ猫っ毛でボサボサなんだから」
「悪りぃ、悪りぃ、ついっ!」
こうして、戯れながら腹拵えをするために食堂に入った僕達は彼方さんと蝶番さん、黄瀬さん、それから芙蓉さんに笑顔で手招きされた。
「おはようございます皆さん」
「おはようございます」
僕達が四人の近くの席に着くと、蝶番さんが怪しげな笑みを浮かべた口を開いた。
「あんさんら良いところに来はりましたわ…」
「ん?」
「今、皆で情報交換してるところだったんや…あんさんらからも話聞きたいわぁ…」
「僕達に話せる情報があれば良いですけど…」
「まあ、なんや…気ぃ抜いてに話そうや」
「はい」「はい」
蝶番さんは見惚れてしまう程の美しい笑顔を向けると僕達に話し始めた。
「昨日、櫓櫂はんに会って来たんやけどな…三日前の事は知らん言うとったわ…だけど、牡丹はんの部屋に注射器が落ちとったところを見ると何かしらの関与は無いとは言い切れなくなった…まあうちは犯人探しがしたいんやなくてこの中に紛れとる悪魔を探したいのが一番の行動原理やから皆から話を聞いてるわけや…」
「…注射器、それは犯行に使われたんですか?やっぱりこの中に悪魔が…」
平が尋ねると皆は不安気な表情を浮かべて蝶番さんに視線を送った。
蝶番さんは皆の顔をゆっくり眺めると柔らかい笑みを浮かべた。
「それは分からんけどな…一つ可能性があるとしたら、ここに居る悪魔は噂の釘井の相方やろな…」
「蝶番さんなんでそう思うんだ?俺にはよく分からないし、俺は俺が生きてるなら別にそんな話に興味はねーな!!!じゃあな!」
蝶番さんの話に飽きたのか彼方さんは勢いよく立ち上がり食堂から姿を消した。
芙蓉さんと黄瀬さんは苦笑いでその様子を眺めていた。
「舞鶴さんが言いたいのは牡丹さんの死体を見て感じたことですよね?私もなんか変な感じがしたんです…茉里さんの死体と牡丹さんの死体は似てるような気がして…」
黄瀬さんが小さな声で蝶番さんの意見に補足を加えると蝶番さんは黄瀬さんの頭を優しく撫でた。
「ええ子やなぁ…そうや…死体が、死に方がうまく似せてあった…つまり例の噂の通りや…」
「それって歯には歯を…って話でしたよね?」
「そうやで…」
「牡丹さんは日暮さんと同じ殺され方をしたということですか?」
「愛美はんの言う通りや…」
「悪魔は牡丹はんを楽器にしたんやろな…余りにも残忍やったわぁ…まあ、釘井はんのお気に入りになるくらいの人間やからな…あんなこと気にせんとやるんやろな…」
「手段によっては釘井よりも残忍ですよね」
平の声には怒りが混じっている。
この場にいた誰もがそれを感じ取っていた。
「まあな…あらあら皆の話も聞きたいけど、あと小一時間で櫓櫂さんが来るで…うちは睨まれる前に移動するわ…またなぁ」
ひらひらと長い指を振り歩き去る蝶番さんに続いて黄瀬さんも僕達にぺこりと頭を下げると食堂を後にした。
残ったのは芙蓉さんと僕達の三人だけだった。
僕はふと、視界に入った芙蓉さんの隣に居るはずのシルエットがないことに違和感を覚えた。
いつも一緒にいる月華ちゃんの姿が見当たらないのだ。
「そういえば…芙蓉さん、月華ちゃんは?」
僕が聞こうとしているのを感じたのか平が先に口火を切った。
「ああ、月華ちゃんね…彼女、牡丹さんが居なくなってから泣きっぱなしで疲れて部屋で寝てるんだよ…」
「そうだったんですか…」
「そうですよね…あんな光景を見ちゃったら…」
「うん…早く元気になってくれるといいんだけどね、よし!僕も用は済んだから部屋に戻ろうかな、じゃあね」
芙蓉さんはふわっとした柔らかい笑みを浮かべて立ち上がった。
芙蓉さんの右手には中身のないガラスの小瓶が握られていた。
「芙蓉さん、それは?」
「ああ、これかい?最近、昔の夢を見てちょっと大事な知り合いにプレゼントをあげたくなってね…丁度いい入れ物をアン君に探してもらってたら厨房に丁度いい物があってね、もらったんだ、今日は部屋でプレゼントと一緒に渡す手紙を認める予定なんだ、きっと喜んでくれるだろうな」
そう答えた芙蓉さんはどこか儚げな表情を浮かべていた。きっとプレゼントを贈りたい相手は芙蓉さんにとって特別な相手なのだろう。
「素敵ですね、プレゼントに手紙だなんてきっと喜んでくれますよ」
僕が芙蓉さんに言うと、芙蓉さんはふわっとした柔らかい笑顔を見せてくれた。
「ありがとう咎愛君、よしっ月華ちゃんも待たせてるから急ぐね、また!」
少し急ぎ足で立ち去った芙蓉さんを、平は怪訝な表情で見つめていた。もっとはっきり言ってしまうと、見つめていると言うよりは、睨みつけていた。
「平?どうかしたの?言いにくいんだけど…顔がすっごく怖いよ…」
僕の言葉を受けたからか、平は頬っぺたを両手で挟んで顔を潰してみせた。
「今度は怖くないけど変な顔になっちゃったよ…、せっかくのいい顔が台無しだよ」
「ははっ、咎愛は社交辞令が上手いな!悪りぃな怖い顔してて、ちょっと腑に落ちないことがあってさ」
「腑に落ちないこと?」
「ああ、芙蓉さん絡みだけど」
さっきの会話から違和感を抱いたりしなかったけど、平には何か気になることがあるらしい。僕は情けないけれどその腑に落ちない事柄を平に思い切って尋ねてみる。
「平が腑に落ちないことって何?僕にはさっぱり分からなくて…」
照れ隠しに頭を掻きながらそう呟いた僕に平は優しく微笑むと答えを与えてくれた。
「腑に落ちない事、その一…何故、月華ちゃんの分のご飯を持ち帰らなかったのか…ずっと寝てるにしても起きた時、お腹空いてたらどうするんだ?まぁ
ここに連れてくるのかもしれないけどさ…」
「確かに、その一って事は他にも何か気になってる事があるの?」
平は首を縦に振ると言葉を続けた。
「腑に落ちない事、その二…芙蓉さんは誰かにプレゼントを贈ろうとしている、ここにいるカナリアに対してじゃないのならどうやって渡すんだ?この施設内では自由の身だとしても、外部との接触は流石に許可は下りないんじゃないか?」
「確かにどうやって渡すんだろ?」
「だろ、芙蓉さんにはプランがあるのかもな…」
平の神妙な面持ちを見ていると次の言葉を聞くのを躊躇う自分がいた。
「プランと言うか、勝算があるならあんなに急いでプレゼントを用意する意味がわかるけど…」
「勝算?ここから出る為のって事?」
僕の言葉に頷いた平の表情は未だに変わらなかった。
「もしかしたら、全員を皆殺しにして勝ち残る気でいるのか、それとも当たり障りなく生活してここから出る気でいるのか…まぁ仮説だから信憑性も確信もないけどな」
平はそう言うけど、きっと何か確信めいたものがあるから僕に話をしたのだろう。
だけどまだ、完全に疑うには証拠が足りない、と言う状況なのは平の表情から読み取る事が出来た。
きっと平なら…。
「よしっ!さっさと食って証拠と情報集めに行くぞ!」
「そう平なら言うと思った!」
僕もだんだんに平のペースが掴めてきているのかもしれない。不思議な感覚。
友達と言う慣れない関係。
記憶がないからそう思うのか、それとも僕には友達と呼べる存在が居なかったのか…。
「おーい…咎愛?おーい…?」
「うわっ、」
「何だようわって、いきなり魂抜けたような顔してんじゃねーよ!」
「そっ、そんな顔してたかな?」
いつの間にか考え込んでしまっていた僕の顔を下から覗き込んで目が合った瞬間に平はふっと吹き出した。
「ふははっ咎愛が難しい顔をしてるの、似合わねーな!はははっ」
平が僕の顔を見て小さな子供のようにいつまでも笑っているのに対して、僕は笑われないように表情を変えることに必死になっていた。
「そっ、そんなに笑わないでよ!」
「咎愛って面白いよな、何つうか、思ってたより話しやすい奴だった」
「えっ!?話しやすいかな?」
平が零した言葉に理由のない違和感を抱いて思わず問い掛けていた。
「ああ、最初に話し掛けた時よりも大分印象変わった!なんかこう、最初は怖い奴だと思ってたけど、今はよく分かんない奴だから守ってやらないとって思ってる」
僕は平の言葉に苦笑いを返した。
「怖い奴って言うのもよく分からないけど…よく分からない奴って言うのも嬉しくないよ…僕は平の事優しくて頼れる存在だと思ってるよ!」
僕の言葉に平は少しだけ間を開けて笑みを浮かべた。そして僕の頭を優しく撫でると口を開いた。
「はぁっ、咎愛って変わってるな!お前と居るとつい、気が緩んじまうぜ…」
「えへへ、確かに僕には緊張感がないかも…」
平の言葉に照れ笑いをした僕等はこの話の発端をふとした瞬間に思い出し、二人で同じタイミングに声を上げた。
「あっ!早く食べないと櫓櫂さんが来る!!!!」
僕等は慌てて何を食べるか考え始めた。
二分程迷って後、平はハッと顔を上げて僕に向き直った。
「咎愛っ、俺はトーストにするけど、お前もそれでいいよな?手首見えないように気ぃ張っとけよ」
平の提案に笑顔で同意を示してから僕は手首に意識を集中させた。後は櫓櫂さんが来るまでに食事を終わらせなければならない。
「おっ、来た来た!急いで食おーぜ!」
食事が運ばれて来るまでに五分もかからなかった。
平の言葉を合図に、運ばれて来たトーストに噛り付いて僕のお腹は満たされた。
「ごちそうさまでした!」
平と僕は空になったお皿に手を合わせると食堂から大慌てで廊下へ飛び出した。
「ふうっ一安心、一安心!櫓櫂さんに睨まれずに済んだぜ」
額に薄っすらと浮かんだ汗を手の甲で拭いながら平は呟いた。僕も平も先程までの緊張感から開放され、自然と頬が緩んでしまうくらいの安心感に包まれていた。
「平、すっごく気の抜けた顔してるよ」
「咎愛もな!」
僕等はお互いの顔を見合わせて暫く笑い合った。
此処が何処なのか忘れてしまうくらいに…。
「よしっ、咎愛!確かめたい事があるから中庭に行こうぜ」
確かめたい事…。
敢えて聞かなくても大体予想はついた。
『中庭』『確かめる』
これだけで思い浮かぶ事は一つだけだった。
僕等は中庭に向けて歩き出した。施設内は空調で過ごしやすい気温になっているけれど中庭も温度は変わらなかった。僕は隣を歩く平に頭に浮かんだ疑問を問いかけてみた。
「ねぇ、平、施設内は空調で過ごしやすい気温になっているけど、中庭は何で気温の変化を感じないのかな?」
平は僕の問いに迷いなく回答を与えてくれた。
「きっと中庭から見える空は合成画像みたいな技術を使ってるんだと思う、俺達がみてる空は紛い物なんだ…本物の空はもう二度と目には映らないさ…」
「じゃあ、この施設は空を含めて全てが…」
「そう、紛い物さ…」
平の言葉には重みがあった。僕とは違って全てを知ってるから、平の言葉には重みがあるんだ。
少し重たい空気になった会話を明るいものに変えようと平は急に他愛もない会話を僕に向かって始めた。
「なぁ、咎愛は猫と犬どっちが好きだ?」
平は悪戯っぽく笑いながら僕の答えを待っている。
「何っ!?いきなり…どちらも好きだけど強いて言えば猫が好きかな…理由はないけど」
急な質問に戸惑いながらも僕は平に答えを返した。
「そっか…ちなみに俺は犬派!じゃあ次の質問、好きな女の髪型は?ロング、ショート?」
立て続けに平は訳のわからない質問をしてくるから僕は思わず声が裏返ってしまった。
それに、好きな女の子なんて言われても正直、今の僕には分からない。
「えっ!?そんなの分からないよっ!」
平は吹き出して笑いながら僕の肩をガシッと掴んで揺さぶった。
「わぁっ!何にするんだよ平、目が回るよ…」
「お前が真剣に悩んでるのが面白いから笑いが止まらないじゃねーか、笑わせんなよ」
「平が勝手に笑ってるだけでしょ…取り敢えず揺さぶるの止めて…」
「悪りぃ悪りぃ…はははっ」
そんな事をしているうちにいつの間にか僕等は中庭の入口に到着していた。さっきまでの重たい空気も何処かに去って行って僕等の間には何時ものような和やかな空気が漂っていた。
「よしっ、おふざけもここまでにして本題に入りますか!」
平の言葉に頷いた僕はまだふらつきの残る足取りで中庭へと踏み出した。
僕等の足は例の花壇へと向かっていた。
「本当にあの時の注射器が牡丹さんの部屋にあったものと一緒だったら…」
「さぁ、答え合わせだな!」
僕等は花壇に辿り着いた。花壇には小さなビオラが丁寧に植えられいて、紫や黄色の小さな花弁が僕等の視界に入り込んだ。
平は花壇に向かってしゃがみ込んで例の物を探し始めた。
「確か此処らへんにあったはず…」
花壇の端、煉瓦とビオラの隙間にそれは確かに存在していた。
「注射器…あった!!」
「しっー!咎愛、声が大きい…ん?」
「平?どうかしたの?」
平の動きが一瞬、止まったように感じて僕は平の肩を優しく叩いた。ゆっくり振り返った平は何でもないと答えると、注射器を元の場所に返して立ち上がった。
「確認完了っと、犯人が使った注射器は別物だったのかもな…はぁ、分からない事だらけだけど、話を聞きに行かないといけない人がいるのは少しだけ有難いかな」
平の言葉の意味が分からずに、僕は首を傾げた。
「誰に話を聞きに行くの?それに何の話?」
平は目を丸くしてから僕に向き直った。平のオレンジ色の髪が陽の光を浴びて艶々と輝いている。まるで平の感情によって光り方が変わるみたいだった。
「誰に話を聞くのかは、蝶番さん、何の話かは直接聞かせてやるから楽しみにしとけ!思い立ったら即行動だぜっ!」
そう言って中庭の中央部を目指して歩き始めた平を小走りで追い掛けると、いきなり目の前に平の背中が現れてぶつかりそうになる。
「うわっ、平!?いきなり立ち止まってどうしたの?」
「あれ、見ろよ!」
平が人差し指で指し示した方向には様々な花が咲き乱れている温室があり、その中に背の高い細身の男性のシルエットが窺えた。
「あれって…芙蓉さん?」
僕は髪型や仕草、服装で芙蓉さんだとすぐに分かったけど、平は目を細めたり、広げたりしてシルエットを未だに探っているように見える。
「咎愛って視力がいいんだな…俺、結構視力悪くてさ、実はコンタクトなんだぜ…昔は眼鏡だったし、チャラチャラしてるようでそうじゃないんだからな!って聞いてんのか?」
「ごめん、コンタクトの話までは聞いてた!それより芙蓉さんは何をしているんだろう?花を摘んでいるのかな?」
「んー、俺にはぼんやりとしか見えねーからな…よしっ、直接、芙蓉さんに聞きに行こうぜ!」
「うん」
僕等は芙蓉さんの居るビニールハウスみたいなドーム型の温室の中に入っていった。
中はじんわり暖かくて、それなりの湿度を肌で感じた。
「おやっ?愛美君に萩野目君、君達も何か用かい?」
僕と平は芙蓉さんに挨拶をすると芙蓉さんに何をしているのか尋ねてみた。
「芙蓉さんは何をされてるんですか?」
平の質問に芙蓉さんはふわっと柔らかい笑みを返すと色味の無い唇を動かした。
「今僕は、プレゼントに添える花を摘みに来たところさ…プレゼントだけじゃ何だか物足りなくて」
芙蓉さんの優しい笑顔を眺めながら、僕はふと気になった事を口に出してみた。
「芙蓉さんが用意したプレゼントって何なんですか?」
僕の質問に芙蓉さんは長く細い指を顎に添えながら考え込んでいた。用意できているのなら何故、すぐに回答してくれないのだろう?もしかして、聞いてはいけない事だったのかもしれない…。
様々な思いが胸を駆け巡って焦りを覚え始めた時、芙蓉さんはふわっと柔らかく微笑んでから優しい声色で呟いた。
「んーっと、わかりやすく言うならあの子に必要な物かな…具体的に言うととても綺麗で、繊細な物だよ」
「とても綺麗で繊細な物」
「そう、あの子にはそれが必要なんだ」
芙蓉さんの言う、あの子が誰を指しているのかは分からないけれど、先程から黙り込んでいる平は芙蓉さんの話とは対照的な言い表せないような雰囲気を纏っていた。
表情から見るに何か引っかかる事があるらしい。
「このくらいあれば大丈夫かな」
芙蓉さんは桃色のチューリップを幾つか手に持ち、束ねるようにして僕等に見せた。
「桃色のチューリップの花言葉は優しさ…僕が本当に贈りたいのは物よりも優しさなんだけどね…こればかりは直接会わないと贈れないから…」
普段見せないような芙蓉さんの表情に僕は目を外らせずに見つめていた。
儚気でだけど何か強い決意を感じるようなそんな表情。
「じゃあ、僕はそろそろ部屋に戻るよ」
「はい、お邪魔してすみませんでした!芙蓉さんのプレゼントが届く事を祈ってます!」
「僕も!」
平と僕は芙蓉さんに言葉を贈ると、芙蓉さんは柔らかい笑顔を浮かべながら歩き去った。
一体、芙蓉さんの用意したプレゼントとは何なのだろう。 芙蓉さんはやはり、優しくて笑顔が素敵で良い人だ。こんな場所に来てまで誰かの為に行動を起こせるなんて、尊敬してしまう。
僕がこう考えている時に、平は全く別の考察をしているなんて思いもしなかった。
「胡散臭いな…あの人、何考えてんだ?」
「あの人って芙蓉さんの事?」
「それ以外に誰がいるんだよ?」
平の言葉の意味が分からずに僕は首を傾げた。すると平は溜息を一つ吐いてから僕にも分かるように話をしてくれた。
「はぁっ、咎愛って奴は本当にカナリアなのか?!保護対象の可能性がまたまたアップしたぜ…じゃあ話すけど、芙蓉さんのプレゼント云々は別口として、おかしいと思わないか?」
「おかしい?」
「ああ、月華ちゃんの事だよ…泣き疲れて寝てるにしても食事も摂らずに部屋に置き去りで、こんな所で呑気にお花摘みなんて本当に月華ちゃんを思ってるのか?俺ならずっと側にいて、無理矢理でも何か食べさせるけどな…それと考えたくないんだけど、俺達が見てないだけで、三日前から月華ちゃんが食事を摂ってない可能性もある…」
確かに、僕と平が朝食を摂る時間は他のカナリア達とすれ違いの時間が多かった。
それに、芙蓉さんと月華ちゃんとは生活リズムが違うのか、なかなか姿を見ることはなかった。
だけど、今日は芙蓉さんも食堂に居た。
僕と平の中の違和感は段々に嫌なものに変わりつつあった。
「…まずは憶測よりも、証拠集めをしようぜ!取り敢えず蝶番さんに話を聞きに行こう!」
僕は平の言葉に首を縦に振った。
蝶番さんが何処にいるのか検討もつかない僕とは対照的に平はまるで行き先をナビゲートされているかのように迷わずには足を進めていた。
そんな平の横顔をちらりと気付かれないように見たつもりがあっさりと平に見つかってしまった。
「何だ咎愛?俺の顔になんか付いてるか?それとも俺の顔が格好良すぎて見惚れてたのか?」
僕は苦笑いをしながら平に言葉返した。
「どちらでもないよ、何で平は蝶番さんのいる場所が分かってるのかなって思って」
僕の言葉に一瞬、驚いたのか平の動きがピタリと止まったかと思うと、さっきより足早に歩き始めた。
「いっ、いや、別に蝶番さんから前にプールによく行くって聞いてたからさ、取り敢えずプールに向かって歩いてるだけだよ」
何かを誤魔化す様に足早になった平を追いかけるようにして僕等はプールに到着した。中庭からプールまでは三分程で移動出来た。
初日以来、初めて足を運んだプールは室内プールではなく外に設置されている大型のものだった。
施設から中庭を挟み、シャワー室や更衣室もきちんと設備されていた。
プール自体は水深が百三十センチの二十五メートルになっているとプールの縁に記載されていた。
更衣室を通り抜け、プールサイドを歩いていると平が懐かしみながら口を開いた。
「プールなんて子供の時以来だな、高校にはなかったし、なんかすげー懐かしい…咎愛?大丈夫か?」
「何が?」
平の心配を振り切ろうとしたけれど、自分でもどうにも出来ない程、プールというものに恐怖心を抱く自分が居た。
足が竦み、顔から血の気が引いていくのを感じだ頃には、僕の様子を見兼ねた平に肩を支えられていた。
「おいおい、水が嫌いなら言ってくれれば良かったのに」
平の言葉に僕は首を横に振った。
「分からないんだ…だけど…だけど、何でだろう…凄く怖いんだ…」
「あらまぁ、話し声がしたから来てみたら…萩野目はん…具合悪そうやなぁ…うちに会いに来たんやろ?…場所変えようか…」
僕等の前には、プールとは似つかわしくない和服姿の蝶番さんが立っていた。
僕等の話し声を聞いて様子を見に来たらしい。
それに、僕等の目的も把握しているようだ。
情けない事に僕は平と蝶番さんの肩を借りながらプールサイドから更衣室へと移動した。
更衣室に用意されている備え付けのベンチに腰を下ろすと、二人も僕を挟むようにして腰を下ろした。
「平も蝶番さんも迷惑かけてすみません…何か分からないけれど、凄く怖くて…」
僕の身体は漠然とした恐怖に小刻みに震えていた。蝶番さんは僕の背中を優しく、母の様に摩ってくれた。
「すみません…」
「えぇんよ…今は何も考えんとき…」
「はい」
僕の背中を摩り続けながら、蝶番さんは僕越しに平を見つめ声を掛けた。
「で、愛美はんはうちに話があるんやろ?」
平はゆっくり頷くと、僕の方を時折心配しながら口を開いた。
「幾つか聞きたいことがあるんですけど、聞いてもいいですか?」
蝶番さんは赤い紅を引いた形のいい唇を動かす。
「えぇよ…うちが話せることは何でも話すわ…あんさんらにはな…」
どうして蝶番さんは僕等に見返りもなく話をしてくれるのだろうか。それに、平と蝶番さんは言葉では表せないけれど心から信頼し合っている様な雰囲気が感じられた。だけど、そう感じるのは何故なのか、僕には分からなかった。
「じゃあ遠慮なく聞きますね、今朝、牡丹さんの部屋に注射器が落ちていたって話してたけど、三日前の事件の後、牡丹さんの部屋に入ったって事ですか?」
平の質問に対して、蝶番さんは怪しげに微笑んだ。
「そうやで…部屋の持ち主が居なくなった後、その部屋はどうなるんか気になって見に行ったんよ…そうしたら部屋は何もない状態に片付けられとったけど、部屋の入り口の隅に注射器が落ちとったんや…うちはそれを拾ってセキュリティハンターに渡したんや…」
「ふぅん、じゃあ注射器は…、それは分かったけど、今度は別の質問」
「はいはい、どうぞ…」
平の喰いつき気味の勢に蝶番さんは嫌な顔を一つせずに耳を傾けている。
「芙蓉さんが月華ちゃんをいつから連れていないか知りたいんだ、少なくとも今朝は月華ちゃんの姿を見かけなかった、俺等は芙蓉さんと朝食の時間が被ることが少ないから蝶番さんなら知っているかと思って」
蝶番さんの表情は変わらない。
だけど、僕には何故かそれが僕の不安を煽っていた。
「うちは少なくとも三日前、あの日から月華はんの姿は見てないなぁ…芙蓉はんが月華はんの食事の心配してるのも確認してへんし…もしかしたらもう手遅れなんやないの…?」
僕等は蝶番さんの言葉に何も言い返せず、押し黙った。先程まで勢よく質問を繰り出していた平は唇を噛んで俯いていた。
「まぁ、飽くまで憶測やで…事実が分かるまでは本気にしたらあかんよ…」
蝶番さんはちらりと僕に視線を移してから怪しげに微笑んだ。
何故だろう。理由は分からないけれど僕に向けられた笑みを見た途端、まるで心臓を掴まれているような、そんな不気味な気分を味わった。
「あんさんらも気ぃつけや、悪魔はちゃんと此処におるで…もう用は済んだやろか…?うち今日は黄瀬はんと話する約束してるんよ…」
「もう大丈夫、ありがとう蝶番さん」
蝶番さんはそっと腰を上げると、和服の乱れを整えて僕等に長い指をひらひらと振りながらこの場を去って行った。
この場に取り残された僕等は暫くの沈黙の後、お互いの様子を探りながら声を発した。 僕より先に声を発したのは平だった。
「あのさ、咎愛」
「何?」
「さっきの話が本当なら月華ちゃんはもう…」
平の言葉の先を聞くのが怖くて思わず足元に視線を落とした。平だってこんな事を考えたくもなければ言いたくもないはずなのに、こうやって現実から逃げようとしてるのは僕だけだ。
「信じたくないよな…」
「僕はまだ信じられないよ…」
「そうだよな、信じたらいけないんだ!咎愛、行こうぜ、憶測で判断するのはまだ早いな!分かった事もあったし今日は色々考え過ぎるのはよしとこうぜ」
きっと平は僕の事を元気付けようとしてくれてるんだ。平だって不安なはずなのに、平は本当に優しい人だな。この時の僕はそんな事を考えていた。そしてその事を平に直接伝えてみる。
「平は優しいね、なのに、僕は平に何も出来ない…平の優しさに甘えてばっかりだ…僕が平の足を引っ張ってるのに…」
平は僕の頭をぐしゃぐしゃになるまで撫で回した。逃げようとすればするほど平の手はスピードを増して僕のブラウンの髪の毛は滅茶苦茶にされてしまった。
「咎愛!次、俺に気を遣ったら髪の毛ぐしゃぐしゃだけじゃ済まないからな!次はそうだな…窒息するまで擽ってやるからな!」
にかっと歯を見せて笑う平に僕も笑顔を作った。
「参りました…擽られるのは避けたいな…」
「分かればよしっ!さぁて行こうか!」
「うんっ!」
平はゆっくり立ち上がると僕に向かって手を差し出した。僕は手首が見えないように気をつけながら平の手を取り立ち上がった。
「おっ、そうだ!咎愛に面白い話があるんだ、取り敢えず俺の部屋に行くぞ」
「うん、聞かせて」
僕等は更衣室の外へ出て、平の部屋を目指して歩き出した。プールから五分程で着いた平の部屋は自分の部屋に居るよりも理由のない安心感があった。
「まぁ、座れよな」
僕をベッドに座らせると、平は備え付けの質素な机からノートと筆記用具を取り出した。取り出したノートをパラパラと手際よく捲り目当てのページに辿り着くと、それを僕の前に広げて見せた。
『悪魔のカナリア…』そうタイトルが付けられたメモ書きに僕は目を走らせた。
平の書いた文字に目を通すとそこには僕の知らない事ばかりが記載されていた。
「これって何処から集めた情報なの?」
ふと気になってノートから顔を上げると、平は僕の方を見ていたらしくばちりと視線が絡んだ。
「蝶番さんから前に話聞いたことあったろ?実はその話は此処に収監されたばかりの頃に聞いたことあったんだ、釘井とペアで動いている恐ろしい執行人のことを…そいつの呼び名は『茶トラ』」
茶トラ…。平の口から出た可愛らしい響きに思わず拍子抜けしてしまう。
「『茶トラ?』それって猫の模様?」
僕の出した答えに平は嬉しそうに手を叩きながら続けた。
「御名答!まぁ、そう呼ばれる訳は幾つかあるんだけれど、一番の理由はそいつが茶トラの猫のお面を被って死刑をする事にあるみたいだ」
「えっ!?」
「悪魔のカナリア達は皆、顔を隠して行動している…その素顔を見たカナリアは中々いないんじゃないか…」
「本当に存在するのかな?都市伝説みたいな話じゃないの?」
僕が少しだけ茶化したように言うと、平は僕の顔をじっと見た後に口を開いた。
「いるさ…」
「平…?」
いきなり真剣なトーンになった平の声色に自然と僕は緊張感を抱き始める。これは悪魔のカナリアの恐ろしさ故なのだろうか。
「咎愛は記憶がないから仕方がないけれど、他のカナリアの前で悪魔のカナリアを否定しない方がいいぞ…なんてなっ」
「脅かさないでよね…」
「悪りぃ、つい揶揄いたくなっちまった!」
僕の反応を見て悪戯っぽく笑う平はふと笑みを消すと再び話を戻した。僕も平の話に合わせて再びノートに視線を落とした。
「俺が調べた限りでは釘井達の他にも悪魔のカナリアは存在するんだ」
「他にも?」
「ああ、クレイジージェミニ、双子の兄弟のジルとジン、そして奴等のトップに立つのがブラッドマザー…ロゼッタ・アルティメリア」
「奴等のトップ!?ブラッドマザーって事は女性?」
平はゆっくり頷いた。
「悪魔の鳥籠の実態がどうなってんのか分からないけど、あいつ等を執行官として雇ってるのはネジが外れた奴としか思えないな…」
「執行官…」
「俺はカナリアの悪魔の存在事実を此処から出たら公表したい、それが先輩の為にもなるんだろうから」
平の決意、平の成し遂げたい事が僕の心に直接的に届いた一言だった気がした。
「平なら成し遂げられるよ」
「だといいけどな」
平なら大丈夫。
心からそう思えた。
この日、僕等は昼食後も共に時間を過ごして、午後九時頃、また明日会える事を信じて部屋へ戻った。
僕はシャワーを浴びてから日記を書く為に机に向かっていた。今日の出来事を日記に綴り終えた僕は思い立ってメモ書きの欄に新しい自分の情報を書き足した。
『爬虫類が好き、見覚えがある』
と、書かれた下に新しく、『プールが怖い』の文字を付け足した。
何だか、自分を知れば知る程、情けない奴なのが分かってしまう。全てを知った時、拍子抜けしてしまいそうな気がしてきた。
「はぁ…僕は平とは違うんだ…平は格好いいよな…何だろう、悲しくなってきちゃった今日はもう横になろう」
誰もいない部屋にぶつぶつと呟く僕の声が小さい響き、間抜けな僕を更に引き立たせた。僕はベッドに横になり、柔らかい掛け布団とマットレスに挟まれて幸福感を感じた。布団が体温で温まる頃、僕の意識は既に薄れ始めていた。
*愛らしい少女の死から三日経った。 誰も知らないまま、彼女はキラキラした瞳を暗闇に変え、眠りについている。永遠の眠りに。
男、芙蓉夏彦は冷たくなった少女の遺体を部屋の隅に寝かせたままにしていた。
「月華ちゃん…月華ちゃんのお陰で素敵なプレゼントが出来そうだよ」
芙蓉はそう言うと、月華の遺体にそっと近寄り、瞼を長く細い二本の指で持ち上げた。
粘り気のある粘膜が彼の指を湿らせて彼の高揚感を煽り始める。
「ありがとう…月華ちゃん…きっとまのちゃんも喜んでくれるよ…」
芙蓉はファーのついたコートのポケットから小さな折り畳みナイフを取り出すと、月華の持ち上げられた瞼の間にある闇を見つめて動かなくなった瞳に当てがった。
ナイフを縦にしてそっと眼球に突き刺すと、周りをくり抜くようにしながら丁寧に眼球を持ち上げる。
ぐちゅ、ぐちゅりと粘膜を指に感じながら不気味な音を響かせて彼は神経と繋がったままの眼球を手に笑顔を浮かべた。
その笑顔は不気味な程優しく、不気味な程人に幸福にしてしまいそうな、柔らかいものだった。
芙蓉は戸惑う事なく、眼球をナイフで神経から器用に外していく。
ぶちぶちと聞き慣れない音が部屋に小さく響き手についた月華の一部だった部分を払い落とすと、眼球を用意してあった小瓶の中にコロンと優しく落とした。
『手際が良いですね、尊敬しちゃうな』
「誰?!あれっ、何で君が此処に?」
芙蓉が声のした方を振り返ると、そこには悪魔が歪な笑みを浮かべながら立っていた。手には恐ろしい仮面に持って…。
芙蓉は考える余裕を失っていた。
鍵は掛かっていた筈、何故、悪魔が此処に、何て悪魔の持つ仮面を見れば口を開くことが出来なかった。
『見に来たんです、プレゼントが気になって、そっかぁそうだったんだ、それを外の世界の女の子にプレゼントするんですか…ちょっと変わった趣味ですね』
ふふっと悪魔が不気味に笑った。
芙蓉は戸惑いながらも悪魔に対して口を開いた。
「×××、勝手に部屋に入って来たら駄目じゃないか、それと、手に持ってるそれ笑えないよ…」
『あれっ?此処は何でも許される…人殺しが許されて、不法侵入は咎められるなんて、馬鹿げた話がありますか?』
芙蓉は長い指で口元を覆い、笑い声が上がるのを最小限に止めようと努力した。
「はははっ、×××の言う通りだよ、確かに僕は人を殺した、だけどこれは優しさなんだよ?このまま、月華ちゃんが生きていて、彼女は幸せだったかな?きっとこのまま生きていても毎日死の恐怖に怯え、他のカナリア達から目を付けられ、幸せではなかったんじゃないかな?」
芙蓉の言葉を悪魔は相槌も打たなければ反応もせずに聞いていた。芙蓉は柔らかい笑みを浮かべたまま続ける。
「僕は彼女、月華ちゃんの願いを叶えただけさ…お母さんに会いたいって彼女は言ったんだ、それにはまず此処から出ないと願いは叶わない、だったら彼女を殺して、母親に会わせてあげた方が得策じゃないか?だって彼女の状況を見るに母親は殺されている確率の方が高いんだ、きっと今頃、月華ちゃんは天国で母親と再会してるんじゃないかな?僕の選択は間違ってないよ、だって僕はただ彼女を幸せにしてあげただけなんだから」
悪魔は芙蓉の言葉に乾いた拍手を送った。
『素晴らしいインモラルな持論ですね、はぁ…馬鹿らしい…あんたみたいな偽善者、見てるだけで反吐がでる…』
悪魔は芙蓉に一歩近づいた。
『さぁて、つまらないからそろそろ死んで?』
悪魔は不気味な笑みを浮かべて持っていた仮面を身に付けた。
『さて、私、×××が芙蓉夏彦の死刑を執行致します』
「死刑執行…ね、君が噂の茶トラさんだったのか…これはもう諦めた方が良さそうだね」
芙蓉は自身の死を覚悟すると、持っていた折り畳みナイフを床に向かって投げ捨てた。
悪魔は芙蓉に近づくと芙蓉の首をゆっくりと締め上げた。
『あんたの歪んだ優しさはもう誰も必要ないんだ、あんたのプレゼントは完成させてやるよ、まぁ、届く事はないけれど』
芙蓉の首が不気味な音を立てて人形のように崩れ落ちた。
芙蓉夏彦が笑顔を見せる事はもう無い。
彼が自分勝手な優しさを他人に贈ることももう二度と無い。
悪魔は大きな溜息を一つ吐くと芙蓉の使っていた折り畳みナイフを拾い上げると芙蓉の瞼を乱暴に開いて躊躇いもなく眼球に突き立てた。
悪魔はナイフを眼球から抜き取ると、血液と混じった粘液に顔を歪めた。
『はぁ…ベタべタするのは嫌いなんだよな…』
悪魔はぐちゃぐちゃになった芙蓉の眼球を月華の眼球の上から小瓶の中に入れた。
手に持っていた折り畳みナイフで芙蓉の身体を器用に開くと、その中に折り畳みナイフを適当に埋め込んだ。
血に塗れた手で小瓶を机の上に運びながら一人悩ましい声で呟く。
『んー、プレゼントとか贈ったことないからな、いまいちよく分かんないけど…』
机の上には血の付いた小瓶と芙蓉が摘んだ桃色のチューリップが置かれていた。その横にはプレゼントと一緒に渡す予定だったのか白い封筒が置かれていた。
『優しさ…か、あんたのは優しさじゃなかった…偽善者に過ぎなかった』
悪魔は桃色のチューリップを小瓶の横に添えるようにして並べた。
悪魔は部屋を見渡しているうちに床に落ちていたヘリウムガスに気が付き、手に取った。
『これで月華兎耳を外傷もなく殺したのか…これはいい物を見つけたな…』
悪魔はパタンと部屋の戸を閉めて歩き出す。
『また一つ花が散る…仕事は順調に進んでるよ…釘井さん』
悪魔は不気味に笑いながらその姿を変えていく。
今日もまた誰かの涙が流れる日になってしまった。
悪魔は消える…闇の中に…。
*翌朝、悲劇のアラームがカナリア達を睡眠から目覚めさせた。
「ん…」
聞こえてくるはずだったアラーム音とは違うメロディに僕は目眩すら覚えた。
「この音は…」
ただのメールであってほしい。そう願いながら端末を右手の人差し指で動かした。
メールが二件受信されていた。
ドキドキと不気味に体内から警鐘を鳴らす心臓を鎮めようと、深呼吸をしてみるも効果は現れなかった。恐怖から目を逸らしたい一心に駆られながらも僕は恐る恐るメールを開いてみた。
だけど、僕の小さな希望はすぐに打ち消され、絶望が目の前に現れる事になった。
『月華兎耳 十歳 囚人番号百五番 保護対象
制約、一日に一度髪の毛を誰かに結ってもらう
彼女の母親は旦那と離婚した後、仕事を探して日本へやって来た。日本の田舎に生活拠点を移した二人には恐ろしい出来事が待ち侘びていた。
それは、彼女達を外国人という理由だけで差別する村人からの迫害だった。
それでも二人は生きる為に差別に耐えながら生活を続けていた。彼女の母親は彼女を養う為に身を粉にして働き、彼女も母親に少しでも楽をさせたい一心で、家事を手伝ったりしていた。
彼女達が日本へ移り住んで約一年が経つ頃、恐ろしい出来事が遂に幕を開ける。
とある真冬の深夜、村人の男性が二人を追い払う為に二人の住んでいた古民家に火を放ったのだ。
乾燥した空気の中、家は簡単に燃え広がり異変に気が付き逃げ出した二人を待ち構えていた村人達は鍬や鎌などを使い、彼女達に襲いかかった。
彼女の母親は、彼女を捨て身で庇い、警察が駆けつけた頃には血塗れだけでは言い表せない姿に変わり果てていた。
母親に守られて生き延びた兎耳は身体こそ無傷で済んだが心に大きな傷を負い、外界では生きていけない精神状態になってしまった。
施設に収監され記憶を削除されてからは少しずつ覇気を取り戻し日常生活を送ることが出来る程に回復を見せていた。』
僕は端末を見ていた自分の目から涙が溢れている事に気が付いて指の腹でそれを拭った。
二件目のメールに目を通すまで何回も深呼吸を繰り返した。もう誰も死んでほしくないのに、現実は僕の願いを悉く裏切っていく。
『芙蓉夏彦 二十九歳 囚人番号四百七十八
制約、誰かと食事を摂ること
彼はカメラマンとして各地を転々として風景や人物の写真を撮影していた。
持ち前の人の良さから旅先でも地元の人々から歓迎されるような生活を送っていた。
だが、彼には裏の顔が存在していた、彼には病弱な弟がおり、両親の弟に対する過保護な対応を見て育ったせいか、優しさという概念が捻じ曲がっていたのだ。彼は人を幸せにする為ならどんな手段も選ばなかった。
旅先で悲しそうな顔をしている人、悩みを抱えている人を見つけ、声を掛けては彼の思う優しさを与え、無理矢理にでも幸せに変えて来た。
彼の優しさは度を超えており、幸せの為なら殺人さえも厭わなかった。
彼が収監されるきっかけになったのが、彼の旅先で親しくしていた少女の両親の殺害だった。
彼はクリスマスプレゼントとを家に用意したと彼女に言い残して街から去って行った。
クリスマスの日に芙蓉と近くの公園で別れた後、帰宅した少女は目を疑う光景に出会ってしまう。
それは、リビングで変わり果てた両親の姿だった。
彼女は泣き叫び、両親の亡骸に歩み寄った。
リビングの机には芙蓉からの手紙とガラスの小瓶が一つ置かれていた。
小瓶の中身は彼女の両親の眼球だった。
父、母、一つずつ抜き取られた眼球は彼女宛のクリスマスプレゼントだった。
彼は逃亡先で別の事件の参考人として捉えられ、数々の事件が発覚、カナリアとして収監された。』
「そんな…芙蓉さんが…」
様々な思いが僕の脳内を駆け巡っては消えていった。もう、二人は帰ってこない…。
月華ちゃんの太陽のようなキラキラした笑顔も、芙蓉さんの優しい声も見ることも、聞くこともなくなったんだ。
三件目のメールは誰から来たものか、予想がついた。
『生き延びているカナリア諸君…またしても二人が命を落としました。
残るカナリアは八名…。
次は貴方が死ぬかもしれませんよ…。』
ガエリゴからのメールはまるで感情がなくて、僕の身体は怒りや恐怖から小刻みに震えていた。
次はなんて、簡単に言うなよ…。
見えない恐怖は僕等を包んでいた。
もう二度と、なんて簡単には言えない世界…。
僕等はもう引き返せない。
カナリアのデスゲームはまだまだ続くんだ。
*澄んだ空気に白い息を弾ませては、無邪気にはしゃぐ子供達をちらりと通りすがりに横目で眺める。
学校帰りの見慣れた風景も、クリスマスという冬の行事に合わせてキラキラと飾り付けられていた。
街は白い雪化粧を施し、まるで絵本の世界に来たみたいな幻想を抱かせた。
そんな街並みを長い髪をサイドに一つに結った少女が一人、履き慣れたローファーで雪を蹴りながら進んでいた。
少女は一人、街の雰囲気とは似つかわしくない悲しみを込めた眼差しを空へと注いだ。
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少女は誰にも聞こえない声で呟く。今年も、来年も…。少女の幸せを奪った彼を憎みながら…。
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