“私だけに”優しい上司と焼肉に行くまで

植木苗

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チャポン。

湯船の温もりが、今日は一段と温かく感じる。

課長は二年前、不倫されて離婚。そして、ちょっと前から“私だけに”優しい。多分一年くらい前から。

「はぅ……」

嬉しくなって、思わず変な声が出る。不倫にならなくて、本当に良かった……

でもさ、でもさ、私にだけ優しいからって、それが好きとは限らないはずだ。

私って、こう見えて自惚れ屋さんなのだから……

頭の中で、高校生の時の悪夢のような思い出が蘇る。

私には、好きな男子がいた。野球部のキャプテンで、遠投姿がかっこよかった。遠くにボールを投げる肩の強さ。そんな彼に、惚れたのだ。

ある日、彼に聞いた。

「好きな人っている?」

彼はモジモジしながら「え? 西山にもいるの?」と聞いてきた。

それから私は、彼と好きな人当てっこゲームをした。何と微笑ましいゲームだろう。

彼からのヒントは

──席が近い。
──フルネームが七文字。
──ショートヘア。
──明るい。

全て私に当てはまる……これもう、私じゃん! なんと積極的なのだろう。

やっぱり、野球部は肉食系なのか。そして、当時の私も若さゆえに、超肉食系だった。肉しか見えていない。

「それってさ。私のこと?」

前のめりで聞いた。

「え? 違う……東のことだけど」

彼の言葉に凍りつく私。

後ろの席に座る、東桜子。彼の好きな人は彼女だった。自意識過剰すぎる自分を恨んだ。

その後、何もなかったように笑い飛ばして、帰り道で泣いた。

私はこういうことを、やってのける女なのだ。

いくら、さゆりが「あいりに対する課長の態度が違う」と言っても、やはり信じられない。

とりあえず、一つ一つ。じっくりと確認するしか……

あぁ……もう一日中、課長のことを考えてるじゃんか……

頭のてっぺんまで湯船に入る。あぁ……本当、まいったな……

◇◇◇

「西山さん、おはよう」

「おはようございます」

はぁ、課長の後ろ姿が憎い。スーツ似合いすぎだろ、もう。

いつも通り、オープンスペースに行ってミルクティーを飲んでいると、同期の栗田くりた洋平が話しかけてきた。

「西山、おはよ!」

「おお! 久しぶりだね」

栗田とは、当初同じWEBマーケティング課に配属された。そこで五年くらい、すったもんだあって、まぁ今は友達だ。

「あのさ。西山って、肉好きだよな?」

「うん。好きだけど」

「今日、焼肉行かない?」

「いや、今日何日だと思ってるの? 二十三日だよ? 給料日、目前の私が焼肉に行けると思う?」

「はははっ。お前らしいな。今日は奢るよ。なっ行こうぜ」

うーん。焼肉は行きたい。奢られる焼肉はもっと好きだ。しかし……

「叙々苑! これならどうだ?」

「それはもう……行きます!」

「単純過ぎだろ?」

急に奢ると言われると、身構えてしまうのだが、叙々苑は行っておいて損はない。それでも急に、一体どうしたんだろうか。

◇◇◇

「美味い! こんなお肉、久しぶりに食べたよ~」

「ちょっとは気使えよ。俺とお前、給料同じくらいなんだから……」

──人の金で食べる肉ほど、美味いもんはない。

これもまた、後世に伝えたい言葉である。

「なぁ。俺が急に焼肉を奢る理由とか、知りたくないわけ?」

「え? 別に? お金余ってんじゃないの?」

「いやいや。そんな訳ないだろ」

栗田が奢ってくれる理由なんて、わかっている。女を紹介しろとか言うんだろう。

「別れたんでしょ? 彼女と」

「おぉ! さすが西山」

「でもさ、もう紹介できる人いないよ。みんな結婚してるんだから」

「いや。そうじゃなくてさ」

栗田がいつになく真面目な顔をする。故郷にでも帰るのか?

「西山も今、彼氏いないんだろ?」

「うん……」

「俺たち、付き合わない?」

「んっ……ゴホンゴホン」

思わず肉が喉に詰まる。あぁ、一皿三千円のお肉が……

「何言ってんの? 最初に断ったのは、栗田のほうじゃん」

私と栗田は入社してすぐに、意気投合した。週三で飲みに行っていたと思う。

そんなある日、栗田が「俺の家で飲まないか?」と提案してきた。これはもう、そういうことだ。

私だって子どもじゃない。実際、栗田のことは好きだったし、このまま付き合っていいと覚悟の上で行ったのだ。

そしたら、栗田のやつ。

「ごめん。やっぱりできない。俺、西山とは友達でいたいんだ」

そう言った。ふざけんなと思ったが、当時の私はまだウブだった。

「全然大丈夫! じゃあ、友達として仲良くしよう」

ということになったのだ。あれからお互い恋人がいない時に、遊びに行く程度の仲に。まぁ、普通の友達に戻ったということ。

「いや、違う。あの時はさ。西山と付き合えば、別れる可能性もあるから、それなら、ずっと友達のほうがいいって考えたんだよ。俺もバカだったと、反省してる」

「いやいや。それは、流石に今更だよ」

「30歳でお互い独身なら、結婚しようって、約束しただろ?」

「は? そんな約束してないし! 勝手に作らないでよ! そもそも、うちらは、もう32歳だから!」

バカなこと言うなよ。せっかくの叙々苑が……

そこに私のスマホが鳴った。画面には「河村課長」と書かれている。

栗田が私のスマホを盗み見る。不愉快そうな表情を浮かべた。

「絶対喋らないでよね……」私は小声でそう言って、電話に出た。

「もしもし。お疲れ様です。西山です」

「あ、ごめん。河村です。えっと……今、何してる?」

「え? 今ですか?」

「うん」

「焼肉、食べています……」

「おーい! 西山ぁ! お酒のおかわりいるかぁ?」

栗田がわざと、大声で話しかけてきた。もう、最悪だ。私は席を立つ。

「えっと。誰かと一緒?」

「はい……同期の、栗田です……」

廊下に逃げようとするも、栗田は通してくれない。付け足すように、スマホに向かって、こう言った。

「おーい! デート中に電話すんなよー。西山!」

私は栗田におしぼりを投げつける。もう、本当にうるさい。

「そっか……デート中に悪い。じゃ、また会社で」

「違います! 違います! 課長!」

──プープープー。

電話はすでに切れていた。あぁ、もう本当、最悪。

「喋るなって言ったじゃん!」

「お前さ。河村課長が好きなの?」

私は咄嗟に目を逸らした。好きだけど、こいつに言う必要はない。

「やめとけよ。あんなおじさん。バツイチだろ? 若けりゃ誰だっていいんだって。騙されてるよ」

「もう! 何なの? うるさいな」

私は財布から一万円札を取り出し、テーブルの上にドンと置いた。せっかくの叙々苑……そして、貴重な食費、一万円。さようなら……

すぐにその場から立ち去る。

「おい! 西山!」
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