【完結】君が好きで彼も好き

SAI

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29. 泉の不在

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 いつもの日常というのは決して当たり前ではなくて、少しのきっかけで崩れてしまう。僕はそのことをすっかり忘れていて、今日と同じような明日が来るとばかり思っていた。



 いつもの日常というのは決して当たり前ではなくて、少しのきっかけで崩れてしまう。僕はそのことをすっかり忘れていて、今日と同じような明日が来るとばかり思っていた。



【ちょっと暫く帰れない。でも必ず帰るから待ってて欲しい】

泉からそんなメールが届いたのはアンクレットを買いに行ってから6日後のことだった。今朝いつものように話をしていた時には何も言わなかったのに。

「皐月さん、なんか聞いてます?」

仕事から帰ってきた皐月さんに聞いてみる。

「聞いてないよ。お店にもしばらく休ませて欲しいって連絡来たってオーナーが言ってたけど」

「なんかあったのかな……」
「どうかな。ま、今の現状であれこれ考えても仕方ないし、帰って来るって言ってるんだから待っていようよ」

皐月さんの言葉に頷いた。

 
 泉がいない日常、一日ならまだ日常の範囲内。それが三日になり、一週間になると寂しさが募ってくる。

「エインの返事もないし、泉、何してるんだろ」

一緒に暮らしているから泉とエインのやりとりをしたことはそんなに多くはない。それでも3日目には新しいコーヒー豆を買ってそれがとても美味しいことをエインしたし、4日目には大丈夫かと心配するエインを送った。

既読にはなるけれど返事は一度も帰ってこない。何かあったのではないかと心配する気持ちにこのまま帰って来ないのではないかという不安が混じる。

【泉、会いたい。声だけでも聴きたい】

お酒の力を借りたエインを送ったその翌日になっても泉から返事が届くことはなかった。


 バイトから帰宅してから皐月さんが帰って来るまではいつも部屋で勉強をする。それは泉がいた頃も今も変わらない。新しい知識を覚えるというよりも忘れないようにするという意味合いの方が大きい勉強で、だから余計に気持ちが泉の方へと削がれてしまう。

僕、1時間の間に7回も携帯電話を確認してる。

「どうしたんだよ、泉」

元気だよとか、もう少し帰れそうにないとか、何でもいいから一言返信があればこんなに気になることはないのに。考えれば考えるほど不安になって泣きそうになる。

「だめだ、お茶でも飲もう……」

「ただいま、あ」

皐月さんが帰ってきたタイミングと僕が部屋を出たタイミングが被って皐月さんが驚いたように目を大きくした。

「お帰りなさい」
「もしかして泣いた?」
「な、泣いてないです」
「泉がいないと寂しい?」

うん、と頷く。

「エインしても既読にはなるのに返信が無くて。大変なんだろうとか心配な気持ちもあるんですけど、僕のこと嫌になったのかなぁなんて」

不安を言葉にすると負の感情がどんどんせり上がってくる。

「一緒に寝る?」
僕は静かに首を振った。

「大丈夫です。一人で寝ます」

「寂しくなったらいつでも来ていいからね。俺は楓君と眠るのは嬉しいから」

皐月さんは優しい。甘くて優しくて、その温もりに包まれたまま眠りたいと思ってしまう。でも、泉がいない寂しさを皐月さんにぶつけるのは、何か違うと思った。

「ありがとうございます」


 起きて一番にすることは携帯電話のエインをチェックすること、泉が帰って来なくなってから毎日チェックしていて毎日エインはゼロ件、たまにあっても以前利用したお店の広告エインだ。でも今日はメールが1件届いていて、その件名の欄に書かれている文字に手が止まった。

【佐久田です】

佐久田? 脳裏に浮かんだのはアンクレットを買いに行ったときに会ったあの男性だ。確か泉が佐久田、と呼んでいた。

【泉さんのことで話があります。明日、18時以降にお時間ありますか?】

泉のことで!? 
僕は直ぐにバイト先に電話をして明日の休みをもぎ取ると佐久田さんに18時以降どの時間でも大丈夫だという旨のメールを送った。


 佐久田さんが指定したのは5駅先にあるチェーン店のカフェだった。店内にそれらしい人はおらず、僕は窓際の席に座ってコーヒーを注文した。そして時間を10分ほど過ぎた頃、佐久田さんは現れた。

「すみません、お待たせして」
「いえ」

佐久田さんはアメリカンコーヒーを注文すると僕に向き直った。

「佐久田和幸です」
「あ、那須川楓です」

佐久田さんは僕よりも少し低い身長、くっきりとした二重に淡い栗色の髪の毛をしており中世的な雰囲気をしていた。

「単刀直入に言います。今、泉さんは僕と一緒に暮らしています」

「え?」

「僕たち、昔付き合っていて別れたんですけど、よりを戻すことにしたんです。だからあなたの元へは帰りません」

「ちょ、ちょっと待ってよ。泉はそんなこと一言も言わなかったよ。そんな素振りも見せなかったし」

「でも、あなたからのエインに返信はしていないでしょう? 返信が面倒になるくらいあなたのことはどうでもよくなったんですよ」

自分でも顔が引きつっていくのが分かる。返信が面倒なんて泉にとってそんなはずは……。

「嘘……嘘だ」

声が震えて目頭が熱くなる。でも泣いたら負けのような気がして、僕は必死に涙をこらえていた。

「あなたにはもう一人付き合っている方がいますよね。この際だからその人ひとりに絞ったらどうですか? 泉さんもその人もなんて泉さんに失礼ですよ」

「それは……」

「とにかくもう泉さんには近づかないで。エインも電話もしないでくださいね。迷惑ですから」

迷惑……。
頭に心がついて行かない。言葉を受け入れるのも難しくて呆然としていると佐久田さんは伝票を持って立った。

「話は以上です。二人いないと満足できないなんてとんだ淫乱。泉さんが可愛そう」

佐久田さんはそう言い捨てると店を出て行った。僕はその場に残って、ジーンズの太ももの辺りの布を握りしめて泣かない様にと目を見開いたままコーヒーを飲み干した。


 こんなにも家が遠いと思ったことはなかった。佐久田さんの言葉のどれもが僕の胸に突き刺さって胸元を握りしめたまま玄関でしゃがみ込んだ。

泉がもう帰って来ない。僕からのエインも電話も迷惑でしかなくて、彼と……佐久田さんと付き合う。

「うぅ……う……はっ、いずみ……うぅ、嘘だ、ろ……いずみ……」

後から後からとめどなく涙が溢れた。もう涙を我慢しなくてもいい。泣いてもいいというほっとした気持ちと胸を押しつぶされるような息苦しさ、感情がぐちゃぐちゃだ。

「楓、好きだよ」と何度も伝えてくれた泉が走馬灯のように思い起こされる。泉の料理を食べる僕を嬉しそうに見る姿とか、ホストの時のカッコいい姿、焼餅を焼いて拗ねた顔、一刻も早くつけたいって寒いベンチに僕を座らせてアンクレットをつけた姿。

「アンクレット……僕のこと繋いでいてくれるんじゃなかったのかよ」

靴を脱ぎ捨てて、靴下も脱ぎ捨てて二重に巻いた鎖に触れた。泉が僕に巻いてくれた鎖。そう言えばなんて文字を書いたんだろう。あの時、泉は何を刻んだか教えてはくれなかった。プレートをひっくり返して刻まれた文字を見る。

【You are mine】
あなたは俺のもの。

「う、うわあああ、泉のバカ……バカ、うぅ……うぅ」

その日はお風呂にも入らず部屋に閉じこもって泣いた。泣いて、泣きじゃくって頭が痛くなって、皐月さんが帰って来る前に寝落ちした。


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