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最後の賭け
最後の賭け(6)
たった数歩。それなのにまるで何マイルもの道のりを駆けてきたかのように足がもつれそうになりながら、それでもまっすぐに彼の腕に飛び込んだ。
抱きとめられたと同時に、長い腕が背中に回される。
彼の背中のシャツをぎゅうっと握りしめると、さらにきつく抱きしめられた。
「希々花……」
安堵の息と混ざり合いながら耳元に落とされた名前。
少し高い体温とほのかに香る甘いムスク。
固く閉じたまぶたがじわりと熱を持つのを感じながら、しがみつくように腕に力を込めた時、背後から声が聞こえた。
「瞬殺やな」
ハッとして顔を上げようとしたら、体に巻き付いた腕がきゅっと締まる。まるで『よそ見をするな』とでも言うように。
「悪いが俺は彼女を誰にも譲る気はない。もちろんあなたにもだ、黒田部長」
「それは出世より彼女を取るっちゅうことですか、結城課長」
その問いにあたしの心臓がドクンと大きく鳴った。
出世を諦めるなんて課長がするはずない。彼が今まで積み上げてきた努力をあたしのために捨てるなんてそんなこと―――。
シャツを握っていた手から力が抜けて、パタンと横に落ちる。
今すぐ彼から離れて、黒田太牙にお願いしなきゃ。
『課長を陥れるなんてやめて』って。
そう口にしなきゃと思うのに、振り返るどころか顔を上げることすらできない。あたしの意識が少しでも黒田太牙に向くたび、彼の腕がきゅっと締まるから。
何も言い返せないでいると、黒田太牙の言葉が追い打ちをかけてきた。
「Tohmaのエリートともあろう人が、色恋沙汰で出世街道から転がり落ちてもいい、そうおっしゃる。――あんた、何のために関西くんだりまで来たんや」
最後は吐き捨てるように言われ、あまりの腹立たしさに奥歯を噛みしめた時。
「余計なお世話だ」
その声は地を這うように低く怒気を孕んでいて、自分に言われたわけじゃないのにあたしは反射的に身をすくませた。そんなあたしの背中を課長は軽くポンポンと叩いてから話し出した。
「俺が会社でどうなろうとあんたには関係ない――が、敢えて言う。俺はもう二度と、大事な存在と出世を天秤にかけたりしない。出世を諦める気は毛頭ないが、目の前の餌に飛びついた代償に大事な人を失うなんて愚行は犯さない」
「本当にええんですか?本社に戻れるはずがどっか知らん山奥とか、もっと言ったら海の向こうの僻地に左遷されるかも分かれへんで?」
これでもかと追い打ちをかける黒田太牙の言葉に、心臓がバクバクとうるさく騒ぐ。
何とかして穏便に収めてもらわないと、と思った時、頭上から「ふっ」と息を吐くように笑う声がした。
「望むところだ」
「は?」
「こいつと二人なら何処でもいい。山奥だろうと無人島だろうと砂漠のど真ん中だろうとな」
課長が高らかにそう言ったあと、周囲がシンと静まり返った。
彼の腕に抱きこまれているから周りのことは見えないのだけど、なんとなく嫌な予感。
ひょっとして他のお客さんからも注目を浴びているなんてこと……。
振り向きたいような振り向きたくないようなジレンマに悶えていると、「ぶっ」という吹き出すような音のあと、「くくくくっ」とかみ殺したような笑い声が聞こえてきた。
課長の腕の中でじりじりと顔だけを後ろに向けてみると。
「ちょっ、何笑っとぉと!?」
笑いをかみ殺すのに必死、という様相の男を睨みながらそう言った。
しばらくしてなんとか笑いを収めた黒田太牙は、顔を上げて口を開いた。
「あ~、思わず本気で笑ってしもうて、大変すみませんでした」
あっけらかんと言われた言葉に思わず目を丸くする。
「惨敗や。希々花ちゃん、きみこれでもまだ『自分は一番やない』、そう思うん?」
「え」
「こないにべたべたに想われとって、まだそない思うんやったら、さすがの僕も結城課長に同情するわ」
あたしが言葉を詰まらせると、頭上から「一番じゃない?」と低い声。
しまった、と思ったあたしが適当な言い訳を口にするより早く、黒田太牙がペラペラと「彼女、自分はカレシはんの想い人には勝てへんって、それはそれは嘆いとりましたで?」なんてしゃべりやがった。
このペラ口めがっ!
チャラ坊々の次は、ペラ坊々って呼びまひょかぁ!?
「希々花」
低く名前を呼ばれてピクリと肩が跳ねる。冷たい汗が額に滲みかけたところで、あたしは大事なことを思い出した。
「黒田太牙っ!」
いきなりそう呼ばれた黒田太牙がこっちを見る。
「賭けはあたしの勝ちばい! やけんあたしの言うこと聞いてくれるんよね!?」
「……ああ、そやったな。約束は約束や。ちゃんと守るわ」
「じゃあ、今回の返品のことは不問にして! 次からはそうならんよう気ぃ付けるし、あんたんとこ商品ばもっとガッツリ売れるように考える! やけん、上の人に報告ばせんどって!」
必死にそう言い募ったあたしに、黒田太牙はなぜか「クッ」と小さく笑いをかみ殺してから「ええよ」と言った。
ホッと胸を撫でおろすと同時に背中にあった解かれ、「帰るぞ」と言われる。
頷いてから素早く荷物を取りに行き、課長のもとへと戻りかけた時。
「そうや、希々花ちゃん」と声をかけられた。
振り向くと同時に、ひょいっと何かを投げられる。反射的に両手でそれをキャッチすると、声も飛んできた。
「あげるわ、それ! 賭けの景品や!」
両手を開いてみると――。
「あ……」
「好きに使てもろてええけど、支払いはそのエリートカレシにしてもろうてな」
そう言ってひらひらと手を振る黒田太牙を残し、あたしと課長はその場を後にした。
抱きとめられたと同時に、長い腕が背中に回される。
彼の背中のシャツをぎゅうっと握りしめると、さらにきつく抱きしめられた。
「希々花……」
安堵の息と混ざり合いながら耳元に落とされた名前。
少し高い体温とほのかに香る甘いムスク。
固く閉じたまぶたがじわりと熱を持つのを感じながら、しがみつくように腕に力を込めた時、背後から声が聞こえた。
「瞬殺やな」
ハッとして顔を上げようとしたら、体に巻き付いた腕がきゅっと締まる。まるで『よそ見をするな』とでも言うように。
「悪いが俺は彼女を誰にも譲る気はない。もちろんあなたにもだ、黒田部長」
「それは出世より彼女を取るっちゅうことですか、結城課長」
その問いにあたしの心臓がドクンと大きく鳴った。
出世を諦めるなんて課長がするはずない。彼が今まで積み上げてきた努力をあたしのために捨てるなんてそんなこと―――。
シャツを握っていた手から力が抜けて、パタンと横に落ちる。
今すぐ彼から離れて、黒田太牙にお願いしなきゃ。
『課長を陥れるなんてやめて』って。
そう口にしなきゃと思うのに、振り返るどころか顔を上げることすらできない。あたしの意識が少しでも黒田太牙に向くたび、彼の腕がきゅっと締まるから。
何も言い返せないでいると、黒田太牙の言葉が追い打ちをかけてきた。
「Tohmaのエリートともあろう人が、色恋沙汰で出世街道から転がり落ちてもいい、そうおっしゃる。――あんた、何のために関西くんだりまで来たんや」
最後は吐き捨てるように言われ、あまりの腹立たしさに奥歯を噛みしめた時。
「余計なお世話だ」
その声は地を這うように低く怒気を孕んでいて、自分に言われたわけじゃないのにあたしは反射的に身をすくませた。そんなあたしの背中を課長は軽くポンポンと叩いてから話し出した。
「俺が会社でどうなろうとあんたには関係ない――が、敢えて言う。俺はもう二度と、大事な存在と出世を天秤にかけたりしない。出世を諦める気は毛頭ないが、目の前の餌に飛びついた代償に大事な人を失うなんて愚行は犯さない」
「本当にええんですか?本社に戻れるはずがどっか知らん山奥とか、もっと言ったら海の向こうの僻地に左遷されるかも分かれへんで?」
これでもかと追い打ちをかける黒田太牙の言葉に、心臓がバクバクとうるさく騒ぐ。
何とかして穏便に収めてもらわないと、と思った時、頭上から「ふっ」と息を吐くように笑う声がした。
「望むところだ」
「は?」
「こいつと二人なら何処でもいい。山奥だろうと無人島だろうと砂漠のど真ん中だろうとな」
課長が高らかにそう言ったあと、周囲がシンと静まり返った。
彼の腕に抱きこまれているから周りのことは見えないのだけど、なんとなく嫌な予感。
ひょっとして他のお客さんからも注目を浴びているなんてこと……。
振り向きたいような振り向きたくないようなジレンマに悶えていると、「ぶっ」という吹き出すような音のあと、「くくくくっ」とかみ殺したような笑い声が聞こえてきた。
課長の腕の中でじりじりと顔だけを後ろに向けてみると。
「ちょっ、何笑っとぉと!?」
笑いをかみ殺すのに必死、という様相の男を睨みながらそう言った。
しばらくしてなんとか笑いを収めた黒田太牙は、顔を上げて口を開いた。
「あ~、思わず本気で笑ってしもうて、大変すみませんでした」
あっけらかんと言われた言葉に思わず目を丸くする。
「惨敗や。希々花ちゃん、きみこれでもまだ『自分は一番やない』、そう思うん?」
「え」
「こないにべたべたに想われとって、まだそない思うんやったら、さすがの僕も結城課長に同情するわ」
あたしが言葉を詰まらせると、頭上から「一番じゃない?」と低い声。
しまった、と思ったあたしが適当な言い訳を口にするより早く、黒田太牙がペラペラと「彼女、自分はカレシはんの想い人には勝てへんって、それはそれは嘆いとりましたで?」なんてしゃべりやがった。
このペラ口めがっ!
チャラ坊々の次は、ペラ坊々って呼びまひょかぁ!?
「希々花」
低く名前を呼ばれてピクリと肩が跳ねる。冷たい汗が額に滲みかけたところで、あたしは大事なことを思い出した。
「黒田太牙っ!」
いきなりそう呼ばれた黒田太牙がこっちを見る。
「賭けはあたしの勝ちばい! やけんあたしの言うこと聞いてくれるんよね!?」
「……ああ、そやったな。約束は約束や。ちゃんと守るわ」
「じゃあ、今回の返品のことは不問にして! 次からはそうならんよう気ぃ付けるし、あんたんとこ商品ばもっとガッツリ売れるように考える! やけん、上の人に報告ばせんどって!」
必死にそう言い募ったあたしに、黒田太牙はなぜか「クッ」と小さく笑いをかみ殺してから「ええよ」と言った。
ホッと胸を撫でおろすと同時に背中にあった解かれ、「帰るぞ」と言われる。
頷いてから素早く荷物を取りに行き、課長のもとへと戻りかけた時。
「そうや、希々花ちゃん」と声をかけられた。
振り向くと同時に、ひょいっと何かを投げられる。反射的に両手でそれをキャッチすると、声も飛んできた。
「あげるわ、それ! 賭けの景品や!」
両手を開いてみると――。
「あ……」
「好きに使てもろてええけど、支払いはそのエリートカレシにしてもろうてな」
そう言ってひらひらと手を振る黒田太牙を残し、あたしと課長はその場を後にした。
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