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5・オンとオフ

千紗子のお怒り

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 「千紗子?」

 黙ったまま部屋の奥を凝視する千紗子を怪しんだ雨宮が、その視線の先を追って振り返る。
 二人の視線の先には、ラグが敷かれた一角にあるブランケットとクッションが有った。

 「雨宮さん………」

 「なに?千紗子」

 雨宮は千紗子が何を言うかをあらかじめ知っているみたいに、飄々としている。

 「あそこで寝ているんですか?」

 「………そうだけど?」

 「敷布団とかは?」

 「うちはベッドだけで、客用の分はない」

 この書斎には幅が小さいクロゼットしかなく、布団が入っていそうにはない。そもそも、客用布団があれば最初から千紗子に貸しているだろう。

 「ダメですっ」

 「え?」
 
 「そんなところで寝ていたら、雨宮さんのほうが体を壊してしまいます」

 エアコンがあるから部屋は暖かい。けれど、ラグ一枚の上に寝ていれば体は痛くなるだろうし疲れも取れるはずはない。

 「やっぱり私、ソファーで」

 「それはダメだ」

 「でもっ、」

 長身の雨宮なら収まりきれないソファーも、千紗子なら何とか眠れるだろうと思う。
 なのに、雨宮は頑として首を縦に振らない。

 「千紗子はベッドで寝ること。俺なら大丈夫だ」

 駄々をこねる子どもを叱るみたいに、強めに言い聞かせられて、千紗子は口を噤んだ。
 雨宮の瞳は揺らがず、仕事の時みたいに迷いはない。

 (なんだか私の方が無茶を言ってるみたいになってる………)

 両脇に垂らした手をグッと握った。

 千紗子よりずっと責任のある仕事を担っている雨宮は、本当は疲れているはずだ。
 今日は特に開館前から閉館までの十時間、職場に居たことになる。

 (私のことばっかり心配して、雨宮さんは自分のことはなおざりにしてる)

 「私、帰ります」

 「え?」

 「今から自分のマンションに帰ります」

 言うなり、踵を返した千紗子の腕を、雨宮は反射的に掴んだ。

 「待て。どうした?もう夜中だ。何かあったらどうする」

 「タクシーで帰りますから」

 腕は掴まれているけれど、雨宮の方を振り返らずに千紗子は言った。
 
 千紗子の声が、いつになく硬い。
 これまで聞いたことのないその声色に、千紗子がいつもと違うことに雨宮は気付いた。

 (千紗子は怒っているのか?どうして?)
 
 戸惑ったり焦ったりする千紗子の姿はここ数日の間よく見かけたし、一度叱られもしたけれど、本気で怒ったところは見たことがない。
 そもそも千紗子はあまり喜怒哀楽の激しい方ではない上に、『怒』の姿を他人に見せることはほとんどないのだ。
 
 「千紗子。俺が何か君を不愉快にさせることをしたなら謝る」

 「………」

 口を噤んだままの千紗子の背に、雨宮はもう一度問う。

 「何かあるなら言葉にして言ってくれ。俺は君の気持ちを知りたい」

 掴んだ腕をゆるく引くと、千紗子の体が半分だけ雨宮の方を向く。けれど、顔はまだ伏せられたままだ。

 「俺は怒ったりしないよ?千紗子」

 それだけ言ってじっと待っていると、千紗子の体がぎこちなく雨宮の方に向き直った。
 千紗子の顔は伏せられていて、長身の雨宮からは見えない。
 雨宮は彼女の腕を掴んでいるのとは反対の手で、千紗子の頭をそっと撫でた。

 「雨宮さんが……うのが…、んです」 
 
 俯いた千紗子の声が小さくて雨宮には聞き取れない。
 
 「え?俺が何?」
 
 雨宮が聞き返すと、千紗子の顔が上を向いた。

 「雨宮さんがご自分のことを適当に扱うのが、嫌なんです」

 今度は雨宮を見上げながら千紗子は、ハッキリとそう言った。

 言い切った途端、頭からシューっと空気が抜けるみたいに、千紗子の怒りも収まっていく。
 
 本当はこんな風に怒りを態度に出したり、言葉で気持ちを説明するのが苦手だ。
 口に出すのは勇気が要ったけれど、結果的に言葉に出したことで自分の感情が落ち着いて行くのを千紗子は感じていた。

 「…ほんと、君って子は」

 一人スッキリとした気持ちでいる千紗子の頭の上から、呆れたような声が降ってきた。

 (あ。やだ。勝手に自己完結して、雨宮さんは困っているかも)

 慌てて次の言葉を探していると、突然千紗子の体が温かいものに包まれた。

 (え………)

 千紗子は訳が分からず、目を見開いて固まった。
 自分を覆うように、雨宮に抱きしめられているからだ。

 「君って子は…そんな可愛いことを言って、俺を試してるのか?」

 (えぇっ!どうして、私何も可愛いことなんて、)

 「俺のことを心配してくれたんだろ?それで怒るなんて、千紗子は優しい」

 (優しくなんて、…)

 「優しいよ。千紗子は優しい」

 雨宮の手が、千紗子の黒髪をスルスルと撫でる。頭から背中へ、幾度も優しく撫でられていくうちに、千紗子の緊張が少しほぐれていく。

 「でも、帰るなんて言わないでくれ。朝食と弁当を作ってくれるんだろう?楽しみにしてるんだからな」
 
 耳をくすぐるバリトンボイスが甘い。
 柔らかな灯が心の隅を照らすように、千紗子の胸の内側がぼうっと温かくなっていく。
 
 雨宮の腕の中で、千紗子は小さく頷いた。

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