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6・甘い楔(くさび)と苦い逃亡
雨宮からの着信
しおりを挟む‟ピピピピピピピッ”
突如鳴り始めた電子音に、千紗子の体がビクリと跳ねあがった。
音はフローリングに無造作に置いた鞄の中から響いていた。
鳴り続ける着信音は千紗子に『早く出ろ』と催促してくる。
鞄の中から携帯電話を取り出した千紗子の動きが、ピタリと止まった。
明るく光る画面には、千紗子が逃げ出してきた、その人の名があった。
(どうしよう……出ることが出来ない……)
きっと目覚めたら千紗子の姿がどこにもなくて、電話を掛けて来たんだと思う。
きちんと雨宮に説明しなければならないことがあるのに、今は彼に何を言っていいのか分からなくて、千紗子は電話に出ることが出来ない。
言いくるめられて流されるように彼のところに戻るようなことにだけはしたくなかった。
そうこう考えている間に、ずいぶん長いこと鳴っていた着信は、とうとう鳴らなくなってしまった。
(きっと心配しているわよね……)
暗くなった画面を見つめながら、千紗子はため息をついた。
ここ数日の雨宮の言動からすると、千紗子のことを必死に探しているかもしれない。
そう思うと、居ても立ってもいられなくなるけれど、だからと言って掛けなおす勇気もない。
(せめて、これくらいは言わないと……)
雨宮は行きずりでも一晩のアバンチュールの相手でもなく、れっきとした自分の上司なのだ。今後も職場で毎日のように顔を合わせなければならない。
千紗子はなけなしの勇気を振り絞って、雨宮にメッセージを送った。
公休日の今日、本来ならば新しい住居に足りない生活用品を買い足したり、空っぽの冷蔵庫に食材を補充したりする用事をこなして過ごす予定だった。
けれど、外に出てうっかり雨宮と出会ってしまうことが怖くて、千紗子はほとんど部屋に籠って過ごした。
千紗子がやったことと言えば、シャワーを浴びて部屋の空気を入れ替え、すぐ側のコンビニで買えるものだけで、掃除用品を買って簡単な掃除をしたくらいだ。
何もしないでいると、千紗子の頭の中は雨宮との行為のことを思い出してしまって、その度に羞恥で熱くなったり、自分が情けなくて涙があふれたり、翌日からのことを考えて憂鬱になったり、とにかく自分の感情に振り回されて、どっと疲れてしまうのだ。
何も考えないために、せっせと掃除に励んだ千紗子は、昼過ぎから眠ってしまっていたようで、気付くと部屋には夕陽が差し込んでいたのだった。
「寝ちゃってたのね……」
部屋に備え付けのベッドに横になっていた千紗子は、体を起こして時間を確かめようと携帯に触れた。
明るくなった画面には『16:15』というデジタルの表示と共に、メッセージの受信を知らせるアイコンがついていた。
恐る恐るそれを開く。
【体は辛くないか?
倒れないように、ちゃんと食べて寝て。
千紗子が忘れたくても、俺は忘れたりしない。】
なんの断りもなく出て行った千紗子への非難の言葉は一つもなく、千紗子を慮る言葉ばかりが連ねてあり、短い文章の中から雨宮の想いが滲んで見える。
千紗子の胸がギュッと絞られたように痛んだ。
(私の心配ばっかり………)
雨宮からの着信を無視した後、千紗子が彼に送ったメッセージは我ながら酷いものだった。
【自分で契約した部屋にいます。
これまでお世話になりました。
昨夜のことは忘れてください。】
自分でも身勝手だとは思うけれど、他の言葉を書いては消し書いては消して、やっと送れたのがこれなのだ。
何を書いても言い訳や自分のことばかりになってしまい、千紗子は必要以上に言葉を連ねるのを諦めた結果だった。
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