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新天地
[2]ー1
しおりを挟む「お嬢様、もう二度とおひとりで街まで行かれたりしないでくださいませ。マノンの心臓がいくつあっても足りませんわ」
マノンはリリィの足に冷水を絞った布を当てながら目を三角に尖らせた。
「アルがいなかったらどうなっていたことか」
「ごめんなさい」
足の捻挫は数日で治まりそうだが、マノンに心配をかけてしまったのは事実だ。
しゅんとうなだれた後、ちらりと視線だけを上げる。
斜め前のソファーでは長い足を組み悠々と紅茶を飲んでいるのは、街でリリィを助けてくれた男性アルだ。
彼が足をくじいたリリィを抱えて坂道の半分近くを歩いてくれた。
『下ろして』
『断る』
『歩けますから』
『日が暮れる』
そんなやり取りをくり返しながら坂道を三分の一ほど上ったところで、前から馬車がやって来た。
『お嬢様!』
血相を欠いたマノンが飛び出すように降りてきて、アルに『お嬢様になにを!』と食って掛かったので、慌てて誤解を解いた。詳しいことは屋敷に帰ってから説明するからと、全員で馬車に乗って戻ってきたのだ。
「ねえちゃん、これうまいな!」
靴磨きの少年ジャンが、出された焼き菓子を頬張りながら言う。屋敷に着くなり腹の虫が大きく鳴いた彼に、軽食を取りながら話をすることにした。
「ねえちゃんじゃございません。お嬢様とお呼びなさい」
マノンに厳しい口調で言われ、ジャンが肩を竦める。
「リリィでいいわよ、ジャン。お代わりもあるからゆっくりお食べなさいね」
ジャンは「うん!」と返事をしたそばから夢中で食べ始めた。
「確かにこれはうまい。伯爵家にはずいぶんと腕のいいシェフがいるんだな」
「いえ、これはシェフが作ったものではなくて……」
リリィは視線をさ迷わせながら言葉を濁したが、すぐさまマノンが得意げに言った。
「これはお嬢様がお作りになったものです」
目を見張ったアルを見て、リリィは苦笑した。驚くのも当然だろう。あるじたる令嬢が自ら料理をするなんて普通有り得ない。もともとは専属の料理人もいたが、悪女のうわさのせいで辞めてしまった。
それを聞いたとき、リリィはひそかに狂喜乱舞した。
夢は自分で育てた食材を使って好きな料理を作ること。前世では料理はよくやっていたが、畑仕事は都会住まいで無理だった。仕事が忙しくてベランダ栽培もままならず、野菜作りは老後の楽しみに取っておこうと思っていたのだ。老後どころかまさか転生後になるとは。
「たいして難しいものではございませんわ」
アルとジャンに出したのは、フィナンシェだ。プレーンのものと、紅茶生地にレモンのスライスを乗せたものの二種類がある。膨らし粉を使わないレシピのしっとり触感が好きで、前世でもよく作っていた。
そういえばこのレシピは、パティシエの元カレが教えてくれたものだった。
「それはそうと、この屋敷にはえらく人が少ないみたいだが、出払っているのか?」
「いえ……」
なんと説明したらいいのか逡巡していると、マノンが取って代わるように口を開いた。
「この屋敷はこれが通常通りでございます」
マノンは、憤まんやるかたなしといった態度でベルナール伯爵家別邸の現状を語った。
リリィがここにやってくるとわかったときに、料理人と同じく使用人達もほとんどがやめてしまった。残ったのは、掃除洗濯などの下働きをする通いの使用人だけ。広い屋敷にリリィとマノンとふたり暮らし同然なのだ。
幸い前世のおかげでひと通りの家事はできる。
リリィが料理担当を志願するとマノンから大反対にあったが、その後彼女は料理が壊滅的に苦手だということがわかり、渋々ながらも了承を得ることができた。
半ヒモ状態のカレシにせっせと食事を作ってやったのが転生後で生きるなんて。人生無駄な努力なんてないわね、などとしみじみ考えていると、アルが呆れたように息をついた。
「婦女子だけで暮らすのはあまり賢明とは言えないな。なにかあったらどうするんだ」
「その通りです。ですから今、護衛人を雇おうと探しているところなのですが、なかなか」
マノンが頬に手を当てて「ふう」と息をついた。
悪女のうわさが広まる前に新しい使用人を雇おうと思っていたのだが、もしかしたらすでに遅かったのかもしれない。
客間が一瞬しんと静まった。するとどこからともなくガサガサと物音がしてきた。マノンがびくりと肩を跳ねさせ、ドアの方を見る。
「なんの音でしょうか」
今この屋敷にいる人間は全員がこの客間に集まっている。来客があれば呼び鈴が鳴るだろうし、物音がしたのは玄関ホールではなく食堂に繋がるドアの方だ。
「ネズミでも出たのかしら? ちょっと見てまいりますわね」
「おやめくださいお嬢様! 万が一のことがあったらどうするのですか」
ソファーから腰を上げかけたが、慌てたマノンに止められる。するとアルがすっと立ち上がった。
「俺が見て来よう」
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