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−初秋−
1−17 あの桜の花が散るころまでに(5)
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「そんなに帰りたいのか?」
「当たり前だろうっ!」
「…………捕虜の返還は、そう遅くはないだろうな」
「ああ」
「交渉はこれからだから、早くて冬……いや、軻皇国は冬はあまり動かないからな。春とみるのが妥当か」
「春……」
開かれた扉の向こう――北の空を見る。
国境の砦を挟んで北と南。ここから北――目に映る山々は、すべて軻皇国の領地だ。
門の南側には桜の木が植えられているようだった。
(桜……)
そんな故郷の気配を感じられる場所からも、いまから引き離されてしまう。
「春……か……」
それは、途方もないほどに先の未来に思えた。
今は秋。冬を越すとなると、最低でも四ヶ月以上はシルギアで――そう、この男のもとで暮らすことになるわけで。
ちらりと、ディルの顔を見た。
先ほどまで包帯とにらめっこしながら真剣な顔をしていたのに、サヨと目があうと、少し寂しそうに、くしゃりと笑う。
百戦錬磨の英雄が、サヨみたいに可愛げのない小娘を前にして、ひとりの紳士に戻る。
普段は適当な物言いをする男だろうに、サヨには優しい。
全てにおいてサヨを優先してくれて、ことあるごとに愛の言葉を囁きかける。そんな男性、今まで出会ったことがなかった。
胸が痛い。
苦しくて、つらい。
こんなにもこの男に惑わせられながら、春まで耐えなければいけないのだ。
これ以上この男に近づかれたら、サヨはもう、自分がどうなってしまうのかわからなかった。
「…………長い、な」
「帰す気がないと言ったら?」
「いやだ! 帰る!」
「そもそもサヨにそれを決める権限はないだろう」
「っ! それは、そうだが……」
ぶるぶる震える両手を握りしめて、サヨは俯いた。
長い沈黙がふたりの間に落ちる。
ディルの言葉はもっともで、何も返せない自分を歯がゆく思った。
「……なんてな。オレだって、君を泣かせたいわけじゃない」
そうだな――と、彼が続ける。
「わかった。では、こうしよう、サヨ。ひとつ勝負といこうじゃないか」
「?」
「つまりだ。春になるまでに、君が帰りたくなくなるように、オレが君の心を掴めばいいだけの話だろう? ――だからそんな顔をするな。
期間を決めて、決着をつけよう。終わりが見えるならば、君だって希望が持てるだろう?」
ほら、こういうところ。
やろうと思えば一生逃がさないこともできるだろうに、この男はサヨの気持ちを汲み取ってくれる。
自分にとって都合の悪い条件も、潔く飲み込み、それでも悠然と構えている。
サヨだってわかっている。
この男のことは、けっして嫌いになれそうもない。
「春、まで」
「そうだ。オレも男だ。それまでに君の心を掴めなければ、スッパリ諦める」
「……っ」
サヨは驚きに目を丸めた。
なんと潔いのだろうか。自分の方が優位な立場であるくせに、サヨにとって破格の条件を出してくれるのだ。
つきり、と。また胸が痛んだ。
なぜ? と自身に問いかける。
春になったらこの男のもとを離れるのだ。サヨはもう決めたのに、どうしてこんなに苦しいのか。
「サヨ。いいか、これは仕合だ。オレはオレで君を全力で口説く。だから、この勝負を受けると言うなら、君はオレから逃げるな。ちゃんと向き合え。それが勝負を受ける者の義務だろう? 違うか?」
真剣に話すディルの言葉を否定することはできなかった。確かに、彼の言う通りだ。こんなにも正々堂々とした彼の言い分を無碍にすることなどサヨにはできない。
――全力で口説く、か。
ぶるりと、全身が震えた。
感じたことのない類の恐怖だ。肌が火照り、胸が疼く。
この勝負を受けてしまったら自分はどうなってしまうのだろうか。不安の奥底に疼くような期待が垣間見えて、サヨは首を横に振る。
だめだだめだ! 心を強く持って、耐えるだけでいいのだ。楽勝ではないか!
好条件すぎる勝負の内容に、逃げては武人の名折れだろうとサヨは自分に言い聞かせる。
「――わかった。勝負を受けよう、将軍。
…………春。……そうだな。では、あの桜の花が――散るころまでに」
「桜、か。さすが軻人だな。風情がある。オレもそれでいい」
「……ああ」
ぶるりと身震いした。
けれども同時に、どこかすっきりとした気持ちもある。
ひとつの指標が示されて、漠然とした囚われの日々に、たしかに希望が見えた。
「領都の城にも桜は植えてある。ちょうどいいだろう?」
「……ああ」
ふ、と笑ってディルは、桶やら手ぬぐいやらを外の兵に渡す。そのまま外の桜の木に一度視線を送ってから、馬車の扉を閉めるように命令した。
がしゃん。
その重たい音が、すべての始まりのように感じた。
ディルとの、長い仕合のはじまりだ。
そして馬車がゆっくりと動きはじめた。南に向かって。
「まあ、肩の力を抜いてくれ。うちの桜は少し見物だぞ? ――その昔な。アキフネ――ああ、君の父君から贈られたものでな」
「父上が?」
「洒落た男だろう? 敵に、桜の苗木を贈るだなんてな。戦で対峙すると肝が冷えるが、気持ちのいい男だな、君の父君は。
――だから、娘が君のように育つのも頷ける」
なんて、こうしてサヨの緊張をさっそく解そうとしてくるのだからこの男は侮れない。
うまく返事のできないサヨに対して彼は、ゆっくりと語り続けた。
尊敬してやまないアキフネの――サヨの父の話を。
「私などまだまだ。だが――尊敬する父だ」
すぐに自覚した。
この男はこうしていとも簡単に、サヨの頑なな心を解してしまう。
好いてはいけない。嫌わなければとも思うのに、難しい。
ディルヴェルト・ディーテンハイクという男から目が離せない。
矮小な自分とはちがって、懐が広く、情が深い。そんな彼がどうして自分などを欲してくれたのかさっぱりわからない。
「……」
小さな窓から、北の空を見る。
どんどんと離れていくのを感じながら、サヨは己に言い聞かせる。
かならず。
かならずトキノオに帰るのだと。
「当たり前だろうっ!」
「…………捕虜の返還は、そう遅くはないだろうな」
「ああ」
「交渉はこれからだから、早くて冬……いや、軻皇国は冬はあまり動かないからな。春とみるのが妥当か」
「春……」
開かれた扉の向こう――北の空を見る。
国境の砦を挟んで北と南。ここから北――目に映る山々は、すべて軻皇国の領地だ。
門の南側には桜の木が植えられているようだった。
(桜……)
そんな故郷の気配を感じられる場所からも、いまから引き離されてしまう。
「春……か……」
それは、途方もないほどに先の未来に思えた。
今は秋。冬を越すとなると、最低でも四ヶ月以上はシルギアで――そう、この男のもとで暮らすことになるわけで。
ちらりと、ディルの顔を見た。
先ほどまで包帯とにらめっこしながら真剣な顔をしていたのに、サヨと目があうと、少し寂しそうに、くしゃりと笑う。
百戦錬磨の英雄が、サヨみたいに可愛げのない小娘を前にして、ひとりの紳士に戻る。
普段は適当な物言いをする男だろうに、サヨには優しい。
全てにおいてサヨを優先してくれて、ことあるごとに愛の言葉を囁きかける。そんな男性、今まで出会ったことがなかった。
胸が痛い。
苦しくて、つらい。
こんなにもこの男に惑わせられながら、春まで耐えなければいけないのだ。
これ以上この男に近づかれたら、サヨはもう、自分がどうなってしまうのかわからなかった。
「…………長い、な」
「帰す気がないと言ったら?」
「いやだ! 帰る!」
「そもそもサヨにそれを決める権限はないだろう」
「っ! それは、そうだが……」
ぶるぶる震える両手を握りしめて、サヨは俯いた。
長い沈黙がふたりの間に落ちる。
ディルの言葉はもっともで、何も返せない自分を歯がゆく思った。
「……なんてな。オレだって、君を泣かせたいわけじゃない」
そうだな――と、彼が続ける。
「わかった。では、こうしよう、サヨ。ひとつ勝負といこうじゃないか」
「?」
「つまりだ。春になるまでに、君が帰りたくなくなるように、オレが君の心を掴めばいいだけの話だろう? ――だからそんな顔をするな。
期間を決めて、決着をつけよう。終わりが見えるならば、君だって希望が持てるだろう?」
ほら、こういうところ。
やろうと思えば一生逃がさないこともできるだろうに、この男はサヨの気持ちを汲み取ってくれる。
自分にとって都合の悪い条件も、潔く飲み込み、それでも悠然と構えている。
サヨだってわかっている。
この男のことは、けっして嫌いになれそうもない。
「春、まで」
「そうだ。オレも男だ。それまでに君の心を掴めなければ、スッパリ諦める」
「……っ」
サヨは驚きに目を丸めた。
なんと潔いのだろうか。自分の方が優位な立場であるくせに、サヨにとって破格の条件を出してくれるのだ。
つきり、と。また胸が痛んだ。
なぜ? と自身に問いかける。
春になったらこの男のもとを離れるのだ。サヨはもう決めたのに、どうしてこんなに苦しいのか。
「サヨ。いいか、これは仕合だ。オレはオレで君を全力で口説く。だから、この勝負を受けると言うなら、君はオレから逃げるな。ちゃんと向き合え。それが勝負を受ける者の義務だろう? 違うか?」
真剣に話すディルの言葉を否定することはできなかった。確かに、彼の言う通りだ。こんなにも正々堂々とした彼の言い分を無碍にすることなどサヨにはできない。
――全力で口説く、か。
ぶるりと、全身が震えた。
感じたことのない類の恐怖だ。肌が火照り、胸が疼く。
この勝負を受けてしまったら自分はどうなってしまうのだろうか。不安の奥底に疼くような期待が垣間見えて、サヨは首を横に振る。
だめだだめだ! 心を強く持って、耐えるだけでいいのだ。楽勝ではないか!
好条件すぎる勝負の内容に、逃げては武人の名折れだろうとサヨは自分に言い聞かせる。
「――わかった。勝負を受けよう、将軍。
…………春。……そうだな。では、あの桜の花が――散るころまでに」
「桜、か。さすが軻人だな。風情がある。オレもそれでいい」
「……ああ」
ぶるりと身震いした。
けれども同時に、どこかすっきりとした気持ちもある。
ひとつの指標が示されて、漠然とした囚われの日々に、たしかに希望が見えた。
「領都の城にも桜は植えてある。ちょうどいいだろう?」
「……ああ」
ふ、と笑ってディルは、桶やら手ぬぐいやらを外の兵に渡す。そのまま外の桜の木に一度視線を送ってから、馬車の扉を閉めるように命令した。
がしゃん。
その重たい音が、すべての始まりのように感じた。
ディルとの、長い仕合のはじまりだ。
そして馬車がゆっくりと動きはじめた。南に向かって。
「まあ、肩の力を抜いてくれ。うちの桜は少し見物だぞ? ――その昔な。アキフネ――ああ、君の父君から贈られたものでな」
「父上が?」
「洒落た男だろう? 敵に、桜の苗木を贈るだなんてな。戦で対峙すると肝が冷えるが、気持ちのいい男だな、君の父君は。
――だから、娘が君のように育つのも頷ける」
なんて、こうしてサヨの緊張をさっそく解そうとしてくるのだからこの男は侮れない。
うまく返事のできないサヨに対して彼は、ゆっくりと語り続けた。
尊敬してやまないアキフネの――サヨの父の話を。
「私などまだまだ。だが――尊敬する父だ」
すぐに自覚した。
この男はこうしていとも簡単に、サヨの頑なな心を解してしまう。
好いてはいけない。嫌わなければとも思うのに、難しい。
ディルヴェルト・ディーテンハイクという男から目が離せない。
矮小な自分とはちがって、懐が広く、情が深い。そんな彼がどうして自分などを欲してくれたのかさっぱりわからない。
「……」
小さな窓から、北の空を見る。
どんどんと離れていくのを感じながら、サヨは己に言い聞かせる。
かならず。
かならずトキノオに帰るのだと。
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