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1巻
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プロローグ 捨てられた王女
難しい婚姻だとはわかっていた。
それでも、少なからずこの結婚に夢を抱いていた自覚はある。
でも。どうして――初夜に寝所から他の女の声が聞こえてくるのか。
自分の夫となる人と、これまでまともに話したことはない。
結婚話が浮上してから、今日まであっという間だった。王族の結婚式とは思えないくらいに急な婚姻に戸惑わなかったと言えば嘘だ。
それでも、結婚式の場に現れた彼は素敵だった。
華やかな金色の髪に、透き通るような碧い瞳。まさにおとぎ話に出てくるような、理想の王子様そのもの。大国であるイオス王国王太子の名に恥じない、素敵な旦那様。
一方、セレスティナの出身国と言えば、隆盛していたのは過去の話だ。ただ長い歴史があるだけで、今やすっかり小国となったルヴォイア王国の第三王女でしかない自分とは、どう考えてもつり合わない。
それでもセレスティナは、この結婚に夢を抱き続けていた。
これは、望まれた婚姻のはずだから。
ルヴォイア王国の王族はその血により、必ず神の加護を色濃く受け継ぐ。当然、セレスティナもその恩恵を受けて生まれてきた。
ルヴォイア王女であるからには、必ず他国へ嫁がなければいけない。それがもう何代も続いてきた慣習だ。
いくら小国とはいえ、神の祝福を強く授かった娘は貴重だ。だから本来、嫁ぎ先に困ることはない。――セレスティナ以外は。
(わたしは、いつまで経っても半人前。それでもラルフレット様はわたしを必要としてくれた)
神の加護を受けた者の中でも、セレスティナは第一降神格と呼ばれる最も強い加護を受けた存在だ。それなのに十九歳になるまで嫁ぎ先が決まらなかったのには理由があった。
セレスティナに加護を授けた神が、半神だったためである。
〈処女神〉セレス。神話によれば、とある神に見初められ、強引に神に引き上げられただけの元人間だ。寿命だけを引き延ばされたものの、なんの特別な力も持っていないハズレ神である。
歴史を振り返っても、半神の加護を授かった者は存在しない。
生まれた瞬間、セレスティナは世界でたったひとりの半端者になったのだ。
〈処女神〉の加護など、授かったところで無意味だ。人並み以上の魔力だけは授かったものの、その魔力を使って特別なことができるわけでもない。
〈豊穣の神〉の加護を授かった一番上の姉のように大地を豊かにすることも、〈音の神〉の加護を授かった二番目の姉のように人々を魅了する音楽を奏でることもできない。ただ、使い道のない魔力を抱えているだけ。
それでも彼、ラルフレット・アム・イオスは、セレスティナを選んでくれた。
大国であるイオス王国の王太子なら、妃などよりどりみどりのはず。それなのに、ちっぽけな自分を選び、婚約が調うなり一日も待てないと言わんばかりに結婚を急いだ。
それほど彼に望まれている。その事実が、セレスティナを勇気づけてくれた。
政略結婚でも、姉たちのように愛され、大切にしてもらえる未来がある。
そんな幸福な夢を見ながら、夜、セレスティナは寝所に向かった。
プラチナブロンドと言うには色素が薄く、銀髪に見えなくもない浅い色の髪。紫水晶の瞳も珍しくはあるけれど、どこか華やかさの足りない自分。
それでも、侍女たちの手によって磨き上げられた今、それなりに見映えはするはず。
レースがたっぷりあしらわれたナイトドレスは、生地が薄くて心許ない。けれど、これが彼の心を擽るなら喜んで着よう。
夫に誠心誠意尽くして、愛し愛されるようになりたい。
この身の全てを、彼と、この国に捧げる覚悟はしてきた。そのためには、この初夜で自分の覚悟を示さなければいけない。
そう思ってきたはずなのに。
――寝室の扉を開けて、凍りついた。
部屋の奥には大きな天蓋付きのベッド。そこで、ひと組の男女が睦み合っている。
ひとりはセレスティナとよく似た色彩の女だった。銀髪に近いプラチナブロンドを振り乱し、騎乗位で激しく腰を振っている。
ただ、色彩こそ似ているが、印象はまるで異なる。華奢なセレスティナとは対照的に、身体のくびれがはっきりした妖艶な大人の女性だ。
そしてその下から彼女を突き上げている男性こそが、今夜、セレスティナと結ばれるはずの夫ラルフレットその人で――
「…………」
セレスティナは言葉を失った。
今、目の前でなにが起きているのか。
結婚式。ようやく会えた、素敵な旦那様。
今宵、彼とどんな夜を過ごすのだろうと考えると、胸がどきどきして、期待してどうしようもなかったはずなのに。
どうしてその旦那様が、自分とは別の女性を抱いているのか。
「――あら?」
先にセレスティナの存在に気がついたのは、女性のほうだった。
女はゆっくりとこちらを振り返り、妖艶な目を細める。その顔には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
まるでセレスティナが来るのがわかっていたかのような表情だ。額に浮かんだ汗は、これまで彼女がどれほど激しくラルフレットと交わっていたかを物語っている。
「いらっしゃいましたわよ、妃殿下が」
「妃殿下? ――ああ、アレか。こんな時にやってくるとは、随分と無粋な女だな」
底冷えのするような冷たい声だ。
興ざめだと言わんばかりの表情で、ラルフレットは上半身を起こす。
「初夜だからとやってくれば、私に抱いてもらえるとでも思ったか? 勘違いも甚だしい」
吐き捨てるように告げ、ラルフレットはすぐにセレスティナへの興味をなくした。そして、彼に寄り添う女性の背中を撫でる。
長い指が愛おしそうに彼女の身体をなぞり、やがて臀部に触れた。そのまま何度か揉みしだくと、女は「もう、殿下ったら!」と頬を赤く染める。さらに、セレスティナに見せつけるように、深いキスをした。
永遠にも感じる長い時間、セレスティナは縫いつけられたようにその場から動けなかった。
まともに呼吸すらできない。心臓の音が妙に速く聞こえるけれど、体温はゾッとするほどに冷たい。指先が凍えるほどに冷え、震える己の身体を抱きしめることもできない。
「出来損ないの半神の加護持ちなどいらん。汚らわしい」
結婚式の時の、誓いの言葉はなんだったのだろう。
あの穏やかな声は? 優しい眼差しは? 誓いの口づけは?
全部、嘘だったとでも言うのか。
「勘違いをするな。議会が第一降神格しか妃に認めぬと言うから、お前を迎えたにすぎん。――私の子種がもらえると期待でもしていたか?」
「まあ! 殿下ったら。それは酷ですわ!」
くすくすくす、と女が嘲笑する。
期待していたのに残念ね、と、彼女は蔑むような瞳を向けてきた。
セレスティナがいるのを気にすることなく、ラルフレットは腰を揺すりはじめる。それに伴い、女の声も甘やかになっていった。
肌がぶつかり合う音。今すぐにでもここから逃げたいのに、足が動かない。
どうして? どうすれば? そんな考えが頭の中を行ったり来たりする。
「まあ、お前は第一降神格であることと、その色彩を持っているだけで充分価値はあるからな」
「それは、どういう」
「リリアンと同じ色彩を持っているなら、都合がいいだろう?」
瞬間、血が逆流する心地がした。
リリアンというのは、目の前の女性のことか。
彼女と同じ色彩。そこにこだわる理由に思い至り、愕然とする。
「まさか」
「心配してくれるな。表向きには、お前は誉れ高きイオス王国の王子を産むという大義を果たすことになる。祖国にも顔向けできぬようなことはない」
「そんな……!」
それはつまり、セレスティナではなく目の前のリリアンと呼ばれた彼女に、子供を産ませるということだ。
この婚姻は、ラルフレットがリリアンと結ばれるための張りぼての結婚だったのだ。
(だったら、わたしは?)
いらなくなったセレスティナは、どう生きればいいと言うのか。
「心配せずとも、お前の魔力は存分に使ってやるさ。――誇っていいぞ。お前は、このイオス王国の発展に欠かせない存在になるからな」
チリンチリン、と、ラルフレットがベッド脇に置いていた鈴を鳴らした。
やってきたのは侍従でも侍女でもなく、大勢の騎士たちだった。この状況になると最初からわかっていたかのように、すぐ外に待機していたらしい。
「初夜に邪魔をした不届き者を連れていけ。――ああ、例の部屋で丁重に繋いでおくように。いいな?」
ラルフレットの命令に、騎士たちは「はっ!」と一礼し、セレスティナを捕らえる。
最初に感じたのは、手首に巻きついた金属の感触。その冷たさに包まれた瞬間、身体中の魔力の感覚が切り替わった。
(魔封じ……!?)
ゾッとした。これは、罪人につけるものではないか!
「どうして!? 嫌!」
どれだけ叫ぼうと、魔力を封じられたセレスティナに抵抗する手段はない。両脇を掴まれ、後ろに引きずられる。
「待って! ラルフレット様、お願い!」
必死で夫の名前を呼ぶけれど、彼は不機嫌そうに顔を歪めるだけだ。
「見知らぬ女に、名前を呼ばれる謂れはない。不愉快だ。疾く失せろ」
そう言って彼はすぐにセレスティナから意識を外し、目の前のリリアンに視線を注ぐ。
「――待たせたな。リリアン。ほら、私に集中して?」
「ぁ、あん! 殿下ったら! 激しいんだから」
「今日は初夜なんだ。どうして君を愛さずにいられる?」
本来、セレスティナに向けられたかもしれない愛情を別の女に捧げながら、ラルフレットは彼女を押し倒す。
ふたりの紡ぐ甘い嬌声が、いつまでもセレスティナの耳から離れない。
日も差さぬ地下室に連れていかれ、鎖に繋がれてからも、いつまでも、いつまでも――
第一章 疎まれた再婚
セレスティナ・セレス・エン・ルヴォイアは、ルヴォイア王族の中でも特殊な位置付けの王女だった。
彼女にはひとりの兄とふたりの姉がいる。いずれも素晴らしい神の加護を授かる第一降神格だ。
しかし、セレスティナだけが皆とは違った。同じ第一降神格でも、彼女が授かったのは半神の加護でしかなかったから。
それでも、家族はセレスティナを愛してくれた。
どの神の加護かなど関係ない。そう言い切って、たっぷりと愛情を注いで育ててくれた。
温かな家族の愛に恵まれて、セレスティナは真っ直ぐに育った。
しかし、セレスティナに特別な力がないのは事実だ。
魔力以外に能のない加護など、あってないようなもの。ないならないなりに、力と知識を蓄えなければいけない。いずれ嫁いだ時に、加護の恩恵なしでもやっていけるように。
魔力さえあれば使える基礎魔法を可能な限り習得し、主要な言語をいくつも身につけたほか、各国の文化やマナーも積極的に覚えた。
さらに日頃から社交に精を出し、誰とでも円滑な人間関係を築けるように努力した。――まあ、人間関係に関しては、持って生まれた朗らかさにより自然とできあがったものではあるが。
十九歳になった頃には、セレスティナは実に利発な王女だと言われるようになった。同時に、そこに立っているだけで誰もが笑顔になるような、朗らかで優しい人柄に育っていた。
それもこれも全部、家族のおかげだとセレスティナは思っている。彼らが愛情深く育ててくれたから、今の自分がある。
『〈処女神〉セレスの一番の加護は、神が見初めるような心の温かさだったのかもしれないね』
家族は皆、そう言ってくれた。
だから、セレスティナはいつでも自分らしくあり続けようと胸を張った。それがきっと自分の長所なのだろうと、皆の言葉を信じて。
たくさんの愛情を注いでくれた家族のためにも、セレスティナはルヴォイア王女としての役割を果たさなければいけない。すなわち、他国との政略結婚である。
しかし、半神の加護しかないセレスティナに、縁談など来なかった。
やがて他国に嫁ぐこと。それがルヴォイア王女の存在意義だったはずなのに。
ルヴォイア王国――かつての国名は、ルヴォイア神皇国。
この世界を統べる七十三神の中でも最高神である、〈天空神〉ルヴォイアスの強い加護を授かった初代神皇が興した国である。
不思議なことに、この国の王族は必ず神の加護、それも第一降神格と呼ばれる最上級の加護を授かって生まれるのだ。
ルヴォイア王国内にいると感覚が麻痺するが、第一降神格は世界でも数えるほどしかいない。
その奇跡に等しい存在を、一国に偏らせるわけにはいかない。だから王女は必ず国外の、第一降神格の存在しない国の王族に嫁ぐ決まりがあった。
しかし、第一降神格でありながら半神の加護しかないセレスティナは、いわばハズレ姫だ。
貴重な第一降神格を娶るための枠を、特別な加護を持たない王女で潰す国などあるはずがない。
そんな中で手を挙げてくれたのが、イオス王国だった。
ルヴォイア王国の東側に面し、広い国土と豊かな資源を持つ一方で、第一降神格どころか、第二降神格すらほとんど存在しない。神の加護を豊富に授かるルヴォイア王国とは対照的な国だった。
だから、ひとりでも第一降神格を確保しておきたい。そんな思惑もあったのかもしれない。
――けれど。
(ラルフレット様――このわたしを必要としてくれた方)
誰かに必要とされたかったセレスティナにとって、その事実は煌めいて見えた。
ラルフレットのことは、国際会議で見たことがある。
どこよりも歴史が長く、神に愛されたこのルヴォイア王国は完全中立国である。それゆえに、五年に一度開催される国際会議は必ずこの国で行われることになっていた。
その時、隣国の使節団にかの王太子ラルフレットの姿もあったのだ。物腰柔らかな、まさに物語の王子様といった雰囲気は、セレスティナの目に印象的に残った。
好みかと問われれば、よくわからない。
しかし、あの王子様がセレスティナを欲してくれた。
恋をするには、それで充分だった。
セレスティナはひたすら、自分を欲してくれる誰かを待っていたのだから。なのに――
――今は昼だろうか。それとも夜?
何度、朝が来て昼となり、夜が訪れたかもわからない。
まともに食事も与えられず、この細い腕、細い足には力が入らない。だから逃げることなんてできるはずもないのに、セレスティナはこの地下の牢で鎖に繋がれたまま。
以前の花が綻ぶような笑顔はどこにもない。見る影もないほどにやつれてしまっている。
風呂にすら入れてもらえず、たまに洗浄と称して水を浴びせられるだけ。
爪はいくつも節ができて、肌もボロボロ。元々淡かったプラチナブロンドの髪は色素が抜けて真っ白になり、引っ張ると簡単にちぎれてしまうほどに傷んでいる。
最低限、生かされてきた王女の末路がこれだ。
淡い夢を抱いてこの国にやってきて、たった一日でその夢は粉々に砕け散った。
セレスティナの存在価値など、あのリリアンという女と同じ色彩であることだけだった。
十九年、どこの国に嫁いでも恥ずかしくないように重ねた努力は、なんの意味もなさなかった。
すべてが無意味。セレスティナという人間など、そもそもが無価値だったのだ。
(〈処女神〉セレス様と同じね)
〈処女神〉セレスは〈糸の神〉ジグレルに見初められ、人間から神に引き上げられた半神だ。
夫になるはずだった〈糸の神〉ジグレルは、元は生命の糸を繋ぐ神だった。しかし、人を安易に神にしたことを咎められ、冥界に閉じ込められたのだ。
やがて彼は生命の糸を断ち切る死神となり、冥王として君臨するわけだが、その後の物語にセレスは登場しない。
家族と引き離されたセレスは神に引き上げられるだけ引き上げられ、そのまま捨てられたのだ。
見初められたものの結局初夜を迎えることすらなかった、まさに〈処女神〉。
(わたしにピッタリ。かの神の加護を授かったのも納得だわ……)
自嘲したい気持ちになるが、もはや身体に力は入らず、口角すら上がらない。
この地下牢に囚われ、遥か――遥か長い月日。結婚してからいくつか季節が巡り、一年か、もしかしたら二年くらい経っているのかもしれない。
日の光を一切浴びることなく、誰かと語ることも叶わず、ただただ魔力を搾り取られる。
ここは貴族の大罪人を閉じ込めるための牢屋で、そういった大罪人の行く末は大抵が、魔力を生み続けるだけの生ける屍となることらしい。
この部屋に仕掛けでも施されているのか、セレスティナは生命を維持できるギリギリまで魔力を搾取され続けてきた。
しかし、それも何年も続くと限界が来る。
視界は霞み、なにも映らない。瞼を持ち上げることも難しく、毎日与えられる水を口に含むことすらできなくなってきた。
全身が凍りつくほどに冷たく、いよいよ自分の死を強く感じた。
(――ああ。わたしの人生はここで終わるのね)
なんと虚しい人生だったのかと、セレスティナは思う。
昔はよかった。祖国にいた頃は、温かな家族に包まれて。皆と毎日笑い合って、穏やかに暮らしていた。
小さくとも、伝統ある国だ。
様々な国からの訪問客が絶えず、それを出迎えるのがセレスティナの役目だった。
国の顔として恥ずかしくない王女たらんと自分を律し、様々な国の文化を学び、対応するのが楽しみだった。
異国の人々と話すと、小さな国の中にいても、セレスティナの世界はどこまでも広がり、世界中を旅しているような気持ちになった。
お客様に褒めてもらえるたびに、自分でも国の役に立てるのだと誇らしい気持ちになったものだ。
けれども、イオス王国でだけは、うまくいかなかった。
セレスティナは己の能力を発揮する機会すら与えられず、暗い牢に閉じ込められ。
やがて、呼吸すら、できなくなり――……
……――ふと。
目を覚ますと、天井が歪んで見えた。
どれくらい時間が経ったのかはわからない。
でも、おかしい。あの暗い部屋で、天井なんて見えなかった。そこにあったのは真っ暗な闇だけ。
そもそもセレスティナの目にはもう、なにも映らないはずなのに。
「――ティナ! セレスティナ姫!」
赤いなにかが視界の端に映る。
必死にこちらに呼びかける、男性の声だ。
その声はどこか懐かしく、セレスティナは目を閉じる。
(あなたは、だれ?)
問いかけたくとも、言葉にならなかった。
ボロボロの身体を誰かに抱かれて――その体温。そう、温かい。
誰かが抱きしめてくれている。
人肌の温かさを、まだ、この身体は覚えていた。
生きている。ううん、死んでいるのか。もしかしたらここは、死後の世界なのかもしれない。
そんなことを思いながら、セレスティナは再び目を閉じる。
自分の名前を呼ぶ、誰かの声を聞きながら。
――三年。
かの国からセレスティナが救われるまで二年、さらにルヴォイア王国に戻ってきてから一年もの時が流れていた。
その間のほとんどの記憶が曖昧だ。
少なくとも、セレスティナはイオス王国王太子妃という身分ではなくなったらしい。
重篤な病に見舞われ、王太子妃としての責任に耐えられないと、セレスティナ自ら離縁を申し出たことになっているそうだ。
セレスティナが子を孕めないせいで離縁されたのではと勘ぐる目も向けられているようだが、あの国での評判などもう知らない。どうなってもいい。
セレスティナにあの国での記憶はない。
イオス王国での日々のことを思い出そうとするだけで、頭の中に霧がかかったようにぼーっとしてしまう。
さらに祖国ルヴォイア王国に戻ってきてから、生きているのか死んでいるのかわからないまま眠って過ごし、ようやく起き上がれるようになるまで半年。そこから誰かとまともに会話できるようになるまで、さらに半年を要したのである。
(わたし、もう二十二歳なのよね。……不思議な感じ)
セレスティナの時間は嫁いだ十九歳の時から止まったまま、周囲の時間だけが動いている。
まだ、外に出ることは億劫だ。それでも、現実は待ってくれない。
「ティナ、話がある」
それは、よく晴れた日のことだった。
その日はセレスティナも体調がよく、王族のみが立ち入りを許される中庭でお茶を楽しんでいた。そこにセレスティナの父であり、この国の国王ディオラル自らが会いに来たのである。
「こんなわたしに、再婚話でも来たのでしょうか」
セレスティナは自嘲気味に微笑んだ。
わかっている。セレスティナはもう二十二歳。その年齢が、現実として押し寄せる。
あと二年もすれば行き遅れの年齢だ。
痩せぎすだった身体はある程度肉がつき、女性らしさが戻ってきた。慣れ親しんだ相手なら普通に会話もできる。だから、いつまでも実家にしがみついているわけにはいかない。
一応、一度は結婚したわけだし、世間では「病気で王太子妃の座を退いたワケアリ」だ。そんなセレスティナに再婚話ということは、半神の加護でもいいと言ってくれる相手が見つかったということだ。
ろくでもない相手であることは想像に難くないが、嫁がない選択肢はない。それがルヴォイア王女としての矜持である。
(ただ……)
今の自分に、本当に、ほんの少しでも価値はあるのだろうか。
(わたしにはもう、魔力すらない)
死ぬ間際まで魔力を搾り取られた後遺症か、身体が回復してきた今も魔力だけは枯渇したまま、回復の兆しがまったく見えない。
だからイオス王国も、魔力供給源としての役割を果たさなくなったセレスティナは用済みだったのだろう。
体調も万全とは言えなかった。すぐに寝込んでしまうこの身体では、妻としての仕事もできそうにない。
しかし驚くべきことに、本当に今のセレスティナでもいいと言う酔狂な存在がいるらしい。
セレスティナの事情は調べているらしく、魔力が枯渇しているだけでなく、ほとんど起き上がることすらできない状態であったことも了承済みだった。
にわかには信じがたい話ではあるが、そこまで熱心に打診されると、ルヴォイア王国としても無下にはできない。
結果、セレスティナのもとまで話が持ってこられたわけだが――
「フォルヴィオン帝国、ですか……?」
あまりの相手に絶句した。
フォルヴィオン帝国といえば、世界でも一、二を争う大国だ。イオス王国よりもさらに国土が広く、豊かな国である。
予想すらしていなかった大国の名が出てきて、セレスティナは口を開けた。
「しかし、あの国は第一降神格がすでに」
難しい婚姻だとはわかっていた。
それでも、少なからずこの結婚に夢を抱いていた自覚はある。
でも。どうして――初夜に寝所から他の女の声が聞こえてくるのか。
自分の夫となる人と、これまでまともに話したことはない。
結婚話が浮上してから、今日まであっという間だった。王族の結婚式とは思えないくらいに急な婚姻に戸惑わなかったと言えば嘘だ。
それでも、結婚式の場に現れた彼は素敵だった。
華やかな金色の髪に、透き通るような碧い瞳。まさにおとぎ話に出てくるような、理想の王子様そのもの。大国であるイオス王国王太子の名に恥じない、素敵な旦那様。
一方、セレスティナの出身国と言えば、隆盛していたのは過去の話だ。ただ長い歴史があるだけで、今やすっかり小国となったルヴォイア王国の第三王女でしかない自分とは、どう考えてもつり合わない。
それでもセレスティナは、この結婚に夢を抱き続けていた。
これは、望まれた婚姻のはずだから。
ルヴォイア王国の王族はその血により、必ず神の加護を色濃く受け継ぐ。当然、セレスティナもその恩恵を受けて生まれてきた。
ルヴォイア王女であるからには、必ず他国へ嫁がなければいけない。それがもう何代も続いてきた慣習だ。
いくら小国とはいえ、神の祝福を強く授かった娘は貴重だ。だから本来、嫁ぎ先に困ることはない。――セレスティナ以外は。
(わたしは、いつまで経っても半人前。それでもラルフレット様はわたしを必要としてくれた)
神の加護を受けた者の中でも、セレスティナは第一降神格と呼ばれる最も強い加護を受けた存在だ。それなのに十九歳になるまで嫁ぎ先が決まらなかったのには理由があった。
セレスティナに加護を授けた神が、半神だったためである。
〈処女神〉セレス。神話によれば、とある神に見初められ、強引に神に引き上げられただけの元人間だ。寿命だけを引き延ばされたものの、なんの特別な力も持っていないハズレ神である。
歴史を振り返っても、半神の加護を授かった者は存在しない。
生まれた瞬間、セレスティナは世界でたったひとりの半端者になったのだ。
〈処女神〉の加護など、授かったところで無意味だ。人並み以上の魔力だけは授かったものの、その魔力を使って特別なことができるわけでもない。
〈豊穣の神〉の加護を授かった一番上の姉のように大地を豊かにすることも、〈音の神〉の加護を授かった二番目の姉のように人々を魅了する音楽を奏でることもできない。ただ、使い道のない魔力を抱えているだけ。
それでも彼、ラルフレット・アム・イオスは、セレスティナを選んでくれた。
大国であるイオス王国の王太子なら、妃などよりどりみどりのはず。それなのに、ちっぽけな自分を選び、婚約が調うなり一日も待てないと言わんばかりに結婚を急いだ。
それほど彼に望まれている。その事実が、セレスティナを勇気づけてくれた。
政略結婚でも、姉たちのように愛され、大切にしてもらえる未来がある。
そんな幸福な夢を見ながら、夜、セレスティナは寝所に向かった。
プラチナブロンドと言うには色素が薄く、銀髪に見えなくもない浅い色の髪。紫水晶の瞳も珍しくはあるけれど、どこか華やかさの足りない自分。
それでも、侍女たちの手によって磨き上げられた今、それなりに見映えはするはず。
レースがたっぷりあしらわれたナイトドレスは、生地が薄くて心許ない。けれど、これが彼の心を擽るなら喜んで着よう。
夫に誠心誠意尽くして、愛し愛されるようになりたい。
この身の全てを、彼と、この国に捧げる覚悟はしてきた。そのためには、この初夜で自分の覚悟を示さなければいけない。
そう思ってきたはずなのに。
――寝室の扉を開けて、凍りついた。
部屋の奥には大きな天蓋付きのベッド。そこで、ひと組の男女が睦み合っている。
ひとりはセレスティナとよく似た色彩の女だった。銀髪に近いプラチナブロンドを振り乱し、騎乗位で激しく腰を振っている。
ただ、色彩こそ似ているが、印象はまるで異なる。華奢なセレスティナとは対照的に、身体のくびれがはっきりした妖艶な大人の女性だ。
そしてその下から彼女を突き上げている男性こそが、今夜、セレスティナと結ばれるはずの夫ラルフレットその人で――
「…………」
セレスティナは言葉を失った。
今、目の前でなにが起きているのか。
結婚式。ようやく会えた、素敵な旦那様。
今宵、彼とどんな夜を過ごすのだろうと考えると、胸がどきどきして、期待してどうしようもなかったはずなのに。
どうしてその旦那様が、自分とは別の女性を抱いているのか。
「――あら?」
先にセレスティナの存在に気がついたのは、女性のほうだった。
女はゆっくりとこちらを振り返り、妖艶な目を細める。その顔には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
まるでセレスティナが来るのがわかっていたかのような表情だ。額に浮かんだ汗は、これまで彼女がどれほど激しくラルフレットと交わっていたかを物語っている。
「いらっしゃいましたわよ、妃殿下が」
「妃殿下? ――ああ、アレか。こんな時にやってくるとは、随分と無粋な女だな」
底冷えのするような冷たい声だ。
興ざめだと言わんばかりの表情で、ラルフレットは上半身を起こす。
「初夜だからとやってくれば、私に抱いてもらえるとでも思ったか? 勘違いも甚だしい」
吐き捨てるように告げ、ラルフレットはすぐにセレスティナへの興味をなくした。そして、彼に寄り添う女性の背中を撫でる。
長い指が愛おしそうに彼女の身体をなぞり、やがて臀部に触れた。そのまま何度か揉みしだくと、女は「もう、殿下ったら!」と頬を赤く染める。さらに、セレスティナに見せつけるように、深いキスをした。
永遠にも感じる長い時間、セレスティナは縫いつけられたようにその場から動けなかった。
まともに呼吸すらできない。心臓の音が妙に速く聞こえるけれど、体温はゾッとするほどに冷たい。指先が凍えるほどに冷え、震える己の身体を抱きしめることもできない。
「出来損ないの半神の加護持ちなどいらん。汚らわしい」
結婚式の時の、誓いの言葉はなんだったのだろう。
あの穏やかな声は? 優しい眼差しは? 誓いの口づけは?
全部、嘘だったとでも言うのか。
「勘違いをするな。議会が第一降神格しか妃に認めぬと言うから、お前を迎えたにすぎん。――私の子種がもらえると期待でもしていたか?」
「まあ! 殿下ったら。それは酷ですわ!」
くすくすくす、と女が嘲笑する。
期待していたのに残念ね、と、彼女は蔑むような瞳を向けてきた。
セレスティナがいるのを気にすることなく、ラルフレットは腰を揺すりはじめる。それに伴い、女の声も甘やかになっていった。
肌がぶつかり合う音。今すぐにでもここから逃げたいのに、足が動かない。
どうして? どうすれば? そんな考えが頭の中を行ったり来たりする。
「まあ、お前は第一降神格であることと、その色彩を持っているだけで充分価値はあるからな」
「それは、どういう」
「リリアンと同じ色彩を持っているなら、都合がいいだろう?」
瞬間、血が逆流する心地がした。
リリアンというのは、目の前の女性のことか。
彼女と同じ色彩。そこにこだわる理由に思い至り、愕然とする。
「まさか」
「心配してくれるな。表向きには、お前は誉れ高きイオス王国の王子を産むという大義を果たすことになる。祖国にも顔向けできぬようなことはない」
「そんな……!」
それはつまり、セレスティナではなく目の前のリリアンと呼ばれた彼女に、子供を産ませるということだ。
この婚姻は、ラルフレットがリリアンと結ばれるための張りぼての結婚だったのだ。
(だったら、わたしは?)
いらなくなったセレスティナは、どう生きればいいと言うのか。
「心配せずとも、お前の魔力は存分に使ってやるさ。――誇っていいぞ。お前は、このイオス王国の発展に欠かせない存在になるからな」
チリンチリン、と、ラルフレットがベッド脇に置いていた鈴を鳴らした。
やってきたのは侍従でも侍女でもなく、大勢の騎士たちだった。この状況になると最初からわかっていたかのように、すぐ外に待機していたらしい。
「初夜に邪魔をした不届き者を連れていけ。――ああ、例の部屋で丁重に繋いでおくように。いいな?」
ラルフレットの命令に、騎士たちは「はっ!」と一礼し、セレスティナを捕らえる。
最初に感じたのは、手首に巻きついた金属の感触。その冷たさに包まれた瞬間、身体中の魔力の感覚が切り替わった。
(魔封じ……!?)
ゾッとした。これは、罪人につけるものではないか!
「どうして!? 嫌!」
どれだけ叫ぼうと、魔力を封じられたセレスティナに抵抗する手段はない。両脇を掴まれ、後ろに引きずられる。
「待って! ラルフレット様、お願い!」
必死で夫の名前を呼ぶけれど、彼は不機嫌そうに顔を歪めるだけだ。
「見知らぬ女に、名前を呼ばれる謂れはない。不愉快だ。疾く失せろ」
そう言って彼はすぐにセレスティナから意識を外し、目の前のリリアンに視線を注ぐ。
「――待たせたな。リリアン。ほら、私に集中して?」
「ぁ、あん! 殿下ったら! 激しいんだから」
「今日は初夜なんだ。どうして君を愛さずにいられる?」
本来、セレスティナに向けられたかもしれない愛情を別の女に捧げながら、ラルフレットは彼女を押し倒す。
ふたりの紡ぐ甘い嬌声が、いつまでもセレスティナの耳から離れない。
日も差さぬ地下室に連れていかれ、鎖に繋がれてからも、いつまでも、いつまでも――
第一章 疎まれた再婚
セレスティナ・セレス・エン・ルヴォイアは、ルヴォイア王族の中でも特殊な位置付けの王女だった。
彼女にはひとりの兄とふたりの姉がいる。いずれも素晴らしい神の加護を授かる第一降神格だ。
しかし、セレスティナだけが皆とは違った。同じ第一降神格でも、彼女が授かったのは半神の加護でしかなかったから。
それでも、家族はセレスティナを愛してくれた。
どの神の加護かなど関係ない。そう言い切って、たっぷりと愛情を注いで育ててくれた。
温かな家族の愛に恵まれて、セレスティナは真っ直ぐに育った。
しかし、セレスティナに特別な力がないのは事実だ。
魔力以外に能のない加護など、あってないようなもの。ないならないなりに、力と知識を蓄えなければいけない。いずれ嫁いだ時に、加護の恩恵なしでもやっていけるように。
魔力さえあれば使える基礎魔法を可能な限り習得し、主要な言語をいくつも身につけたほか、各国の文化やマナーも積極的に覚えた。
さらに日頃から社交に精を出し、誰とでも円滑な人間関係を築けるように努力した。――まあ、人間関係に関しては、持って生まれた朗らかさにより自然とできあがったものではあるが。
十九歳になった頃には、セレスティナは実に利発な王女だと言われるようになった。同時に、そこに立っているだけで誰もが笑顔になるような、朗らかで優しい人柄に育っていた。
それもこれも全部、家族のおかげだとセレスティナは思っている。彼らが愛情深く育ててくれたから、今の自分がある。
『〈処女神〉セレスの一番の加護は、神が見初めるような心の温かさだったのかもしれないね』
家族は皆、そう言ってくれた。
だから、セレスティナはいつでも自分らしくあり続けようと胸を張った。それがきっと自分の長所なのだろうと、皆の言葉を信じて。
たくさんの愛情を注いでくれた家族のためにも、セレスティナはルヴォイア王女としての役割を果たさなければいけない。すなわち、他国との政略結婚である。
しかし、半神の加護しかないセレスティナに、縁談など来なかった。
やがて他国に嫁ぐこと。それがルヴォイア王女の存在意義だったはずなのに。
ルヴォイア王国――かつての国名は、ルヴォイア神皇国。
この世界を統べる七十三神の中でも最高神である、〈天空神〉ルヴォイアスの強い加護を授かった初代神皇が興した国である。
不思議なことに、この国の王族は必ず神の加護、それも第一降神格と呼ばれる最上級の加護を授かって生まれるのだ。
ルヴォイア王国内にいると感覚が麻痺するが、第一降神格は世界でも数えるほどしかいない。
その奇跡に等しい存在を、一国に偏らせるわけにはいかない。だから王女は必ず国外の、第一降神格の存在しない国の王族に嫁ぐ決まりがあった。
しかし、第一降神格でありながら半神の加護しかないセレスティナは、いわばハズレ姫だ。
貴重な第一降神格を娶るための枠を、特別な加護を持たない王女で潰す国などあるはずがない。
そんな中で手を挙げてくれたのが、イオス王国だった。
ルヴォイア王国の東側に面し、広い国土と豊かな資源を持つ一方で、第一降神格どころか、第二降神格すらほとんど存在しない。神の加護を豊富に授かるルヴォイア王国とは対照的な国だった。
だから、ひとりでも第一降神格を確保しておきたい。そんな思惑もあったのかもしれない。
――けれど。
(ラルフレット様――このわたしを必要としてくれた方)
誰かに必要とされたかったセレスティナにとって、その事実は煌めいて見えた。
ラルフレットのことは、国際会議で見たことがある。
どこよりも歴史が長く、神に愛されたこのルヴォイア王国は完全中立国である。それゆえに、五年に一度開催される国際会議は必ずこの国で行われることになっていた。
その時、隣国の使節団にかの王太子ラルフレットの姿もあったのだ。物腰柔らかな、まさに物語の王子様といった雰囲気は、セレスティナの目に印象的に残った。
好みかと問われれば、よくわからない。
しかし、あの王子様がセレスティナを欲してくれた。
恋をするには、それで充分だった。
セレスティナはひたすら、自分を欲してくれる誰かを待っていたのだから。なのに――
――今は昼だろうか。それとも夜?
何度、朝が来て昼となり、夜が訪れたかもわからない。
まともに食事も与えられず、この細い腕、細い足には力が入らない。だから逃げることなんてできるはずもないのに、セレスティナはこの地下の牢で鎖に繋がれたまま。
以前の花が綻ぶような笑顔はどこにもない。見る影もないほどにやつれてしまっている。
風呂にすら入れてもらえず、たまに洗浄と称して水を浴びせられるだけ。
爪はいくつも節ができて、肌もボロボロ。元々淡かったプラチナブロンドの髪は色素が抜けて真っ白になり、引っ張ると簡単にちぎれてしまうほどに傷んでいる。
最低限、生かされてきた王女の末路がこれだ。
淡い夢を抱いてこの国にやってきて、たった一日でその夢は粉々に砕け散った。
セレスティナの存在価値など、あのリリアンという女と同じ色彩であることだけだった。
十九年、どこの国に嫁いでも恥ずかしくないように重ねた努力は、なんの意味もなさなかった。
すべてが無意味。セレスティナという人間など、そもそもが無価値だったのだ。
(〈処女神〉セレス様と同じね)
〈処女神〉セレスは〈糸の神〉ジグレルに見初められ、人間から神に引き上げられた半神だ。
夫になるはずだった〈糸の神〉ジグレルは、元は生命の糸を繋ぐ神だった。しかし、人を安易に神にしたことを咎められ、冥界に閉じ込められたのだ。
やがて彼は生命の糸を断ち切る死神となり、冥王として君臨するわけだが、その後の物語にセレスは登場しない。
家族と引き離されたセレスは神に引き上げられるだけ引き上げられ、そのまま捨てられたのだ。
見初められたものの結局初夜を迎えることすらなかった、まさに〈処女神〉。
(わたしにピッタリ。かの神の加護を授かったのも納得だわ……)
自嘲したい気持ちになるが、もはや身体に力は入らず、口角すら上がらない。
この地下牢に囚われ、遥か――遥か長い月日。結婚してからいくつか季節が巡り、一年か、もしかしたら二年くらい経っているのかもしれない。
日の光を一切浴びることなく、誰かと語ることも叶わず、ただただ魔力を搾り取られる。
ここは貴族の大罪人を閉じ込めるための牢屋で、そういった大罪人の行く末は大抵が、魔力を生み続けるだけの生ける屍となることらしい。
この部屋に仕掛けでも施されているのか、セレスティナは生命を維持できるギリギリまで魔力を搾取され続けてきた。
しかし、それも何年も続くと限界が来る。
視界は霞み、なにも映らない。瞼を持ち上げることも難しく、毎日与えられる水を口に含むことすらできなくなってきた。
全身が凍りつくほどに冷たく、いよいよ自分の死を強く感じた。
(――ああ。わたしの人生はここで終わるのね)
なんと虚しい人生だったのかと、セレスティナは思う。
昔はよかった。祖国にいた頃は、温かな家族に包まれて。皆と毎日笑い合って、穏やかに暮らしていた。
小さくとも、伝統ある国だ。
様々な国からの訪問客が絶えず、それを出迎えるのがセレスティナの役目だった。
国の顔として恥ずかしくない王女たらんと自分を律し、様々な国の文化を学び、対応するのが楽しみだった。
異国の人々と話すと、小さな国の中にいても、セレスティナの世界はどこまでも広がり、世界中を旅しているような気持ちになった。
お客様に褒めてもらえるたびに、自分でも国の役に立てるのだと誇らしい気持ちになったものだ。
けれども、イオス王国でだけは、うまくいかなかった。
セレスティナは己の能力を発揮する機会すら与えられず、暗い牢に閉じ込められ。
やがて、呼吸すら、できなくなり――……
……――ふと。
目を覚ますと、天井が歪んで見えた。
どれくらい時間が経ったのかはわからない。
でも、おかしい。あの暗い部屋で、天井なんて見えなかった。そこにあったのは真っ暗な闇だけ。
そもそもセレスティナの目にはもう、なにも映らないはずなのに。
「――ティナ! セレスティナ姫!」
赤いなにかが視界の端に映る。
必死にこちらに呼びかける、男性の声だ。
その声はどこか懐かしく、セレスティナは目を閉じる。
(あなたは、だれ?)
問いかけたくとも、言葉にならなかった。
ボロボロの身体を誰かに抱かれて――その体温。そう、温かい。
誰かが抱きしめてくれている。
人肌の温かさを、まだ、この身体は覚えていた。
生きている。ううん、死んでいるのか。もしかしたらここは、死後の世界なのかもしれない。
そんなことを思いながら、セレスティナは再び目を閉じる。
自分の名前を呼ぶ、誰かの声を聞きながら。
――三年。
かの国からセレスティナが救われるまで二年、さらにルヴォイア王国に戻ってきてから一年もの時が流れていた。
その間のほとんどの記憶が曖昧だ。
少なくとも、セレスティナはイオス王国王太子妃という身分ではなくなったらしい。
重篤な病に見舞われ、王太子妃としての責任に耐えられないと、セレスティナ自ら離縁を申し出たことになっているそうだ。
セレスティナが子を孕めないせいで離縁されたのではと勘ぐる目も向けられているようだが、あの国での評判などもう知らない。どうなってもいい。
セレスティナにあの国での記憶はない。
イオス王国での日々のことを思い出そうとするだけで、頭の中に霧がかかったようにぼーっとしてしまう。
さらに祖国ルヴォイア王国に戻ってきてから、生きているのか死んでいるのかわからないまま眠って過ごし、ようやく起き上がれるようになるまで半年。そこから誰かとまともに会話できるようになるまで、さらに半年を要したのである。
(わたし、もう二十二歳なのよね。……不思議な感じ)
セレスティナの時間は嫁いだ十九歳の時から止まったまま、周囲の時間だけが動いている。
まだ、外に出ることは億劫だ。それでも、現実は待ってくれない。
「ティナ、話がある」
それは、よく晴れた日のことだった。
その日はセレスティナも体調がよく、王族のみが立ち入りを許される中庭でお茶を楽しんでいた。そこにセレスティナの父であり、この国の国王ディオラル自らが会いに来たのである。
「こんなわたしに、再婚話でも来たのでしょうか」
セレスティナは自嘲気味に微笑んだ。
わかっている。セレスティナはもう二十二歳。その年齢が、現実として押し寄せる。
あと二年もすれば行き遅れの年齢だ。
痩せぎすだった身体はある程度肉がつき、女性らしさが戻ってきた。慣れ親しんだ相手なら普通に会話もできる。だから、いつまでも実家にしがみついているわけにはいかない。
一応、一度は結婚したわけだし、世間では「病気で王太子妃の座を退いたワケアリ」だ。そんなセレスティナに再婚話ということは、半神の加護でもいいと言ってくれる相手が見つかったということだ。
ろくでもない相手であることは想像に難くないが、嫁がない選択肢はない。それがルヴォイア王女としての矜持である。
(ただ……)
今の自分に、本当に、ほんの少しでも価値はあるのだろうか。
(わたしにはもう、魔力すらない)
死ぬ間際まで魔力を搾り取られた後遺症か、身体が回復してきた今も魔力だけは枯渇したまま、回復の兆しがまったく見えない。
だからイオス王国も、魔力供給源としての役割を果たさなくなったセレスティナは用済みだったのだろう。
体調も万全とは言えなかった。すぐに寝込んでしまうこの身体では、妻としての仕事もできそうにない。
しかし驚くべきことに、本当に今のセレスティナでもいいと言う酔狂な存在がいるらしい。
セレスティナの事情は調べているらしく、魔力が枯渇しているだけでなく、ほとんど起き上がることすらできない状態であったことも了承済みだった。
にわかには信じがたい話ではあるが、そこまで熱心に打診されると、ルヴォイア王国としても無下にはできない。
結果、セレスティナのもとまで話が持ってこられたわけだが――
「フォルヴィオン帝国、ですか……?」
あまりの相手に絶句した。
フォルヴィオン帝国といえば、世界でも一、二を争う大国だ。イオス王国よりもさらに国土が広く、豊かな国である。
予想すらしていなかった大国の名が出てきて、セレスティナは口を開けた。
「しかし、あの国は第一降神格がすでに」
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