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1巻
1-2
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ぱっと思いつく限りでも、有名な第一降神格が何名かいる。
ルヴォイアの王女は、第一降神格の存在しない国に嫁ぐのが慣習だ。だからこそ、かつて候補にも挙がらなかった国だった。
まあ、フォルヴィオン帝国ほどの大国になると優秀な人材が揃いすぎて、今さら第一降神格がひとり増えるメリットもなさそうではあるが。
「そうだ。本来、お前が嫁ぐことは難しい国ではある。第一降神格の偏りに反発する国もあるだろう。だが、お前は再婚にあたる。酷な言い方だが、魔力すらなくなった今のお前でもいいと言ってくれる相手は多くない」
それはそうだろうと、セレスティナはうつむいた。
さらに今のセレスティナには、大病を患っただの、子を産めないだの、結婚するには難しい噂が飛び交っている。あえてそんな不良物件を選ぶ王族などいないだろう。
「それに、今回の相手はそもそも王族ではない」
「え……?」
セレスティナは目を丸くした。
例外続きである。ルヴォイアの王女を迎えることは、神の加護を受け入れるのと同義。慣例として、必ず王族が相手になってきた。
「黒騎士リカルド・ジグレル・エン・マゼラと言えば、お前もわかるか?」
「――っ!? あの、黒騎士様、ですか!?」
知らないはずがない。
フォルヴィオン帝国で最も有名な第一降神格。その人物こそ、〈糸の神〉ジグレルの加護を授かる者なのだから。
(よりにもよって、〈糸の神〉の!)
少なからず動揺した。
〈糸の神〉と言えば、セレスティナに加護を与えた〈処女神〉セレスにとって因縁の相手だ。
かの〈処女神〉を、半神に引き上げた神。
だからその加護を与えられた相手にも、どうしても身構えてしまう自分がいる。
「そうだ。その黒騎士との縁談だ」
黒騎士リカルド――フォルヴィオン帝国にその人ありと言われる英雄だ。かつて東の国からの侵攻を、リカルド率いるたった一部隊で食い止めた。
しかも一部隊と言いながら、実際はほとんどがリカルドひとりの功績だ。一騎当千どころか、一騎当万とも言われる大英雄である。
黒騎士と呼ばれるのは、彼が常に黒いコートを纏い、戦場の死神とも称されるほどに陰鬱な雰囲気であることからだという。
英雄ではあるものの、どちらかと言えば恐れの対象。あまりいい噂は聞かなかった。
(リカルド様……)
セレスティナも、かつて国際会議の場で会ったことがある。燃えるような赤髪が印象的な、どこか影のある男性だった。
ただ、その時もほんのわずかに会話を交わしただけ。しかも、非常に不機嫌そうだった。
じっとこちらを見つめてくる目が妙に印象的ではあったが、向こうがセレスティナに対して好意を抱いたとかそういった印象はまったくなかった。
英雄というよりも、孤独な一匹狼と言ったほうが似合いのイメージだ。
しかし自分が考えていた以上に、向こうはセレスティナに対してなんらかの思惑を抱えているらしい。
「お前には話していなかったが、実は先の国際会議のあとからずっと打診はあってな」
「え……!?」
それは、もう四年も前のことではないだろうか。
婚姻対象国でもなく、王族でもない相手――つまり、本来は結婚などありえない相手だ。そんな殿方から婚約の打診があったとは知らなかった。
「相手は、お前が魔力を失ったこともご存じだ。それでも、ひとりの女性としてお前を迎えたいと言ってくれた」
「どうして、そんな」
「私も、お前は第一降神格ではなく、ただひとりの娘として幸せになるべきだと思う」
「お父様……」
その言葉を、どう受けとめたらいいのかわからなかった。
ひとりの娘としての幸せなんて。今さら、そんな都合のいい話などあるわけがない。
けれどディオラルは、国王ではなく父の顔をして語り続ける。
セレスティナはすでに、ルヴォイア王国の王女としての役割を充分果たした。今度は、ひとりの娘として結婚すればいいと。
「――だから幸せにおなり、セレスティナ。私は誰よりも、お前の幸せを願っているよ」
そう言うけれど、セレスティナの不安は拭えなかった。
今さら、なにも持たない娘が幸せになれるとは思えない。けれども、自分には王女としての矜持がある。
ゆえに、諦めるような顔をして答えた。
どこへなりとも嫁ぎます、と。
輿入れまでさらに半年と少し。
それは麗らかな陽差しが心地よい春の佳き日だった。
この後、結婚式の会場で、セレスティナはリカルドと改めて顔を合わせる。最後に彼の顔を見たのは先の国際会議以来だから、約四年半ぶりの再会となる。
バージンロードの向こうに立つ男性の姿を見て、セレスティナは不思議な気持ちになった。
久しぶりに会うリカルドは、すっかり大人の男性になっていた。セレスティナよりも三つ年上だから、今は二十五歳のはず。
英雄と呼ばれるからにはガッチリとした筋肉を持つ体格のいい男性をイメージしそうだが、彼の場合は全然違う。魔法騎士だからだろう、どちらかと言えば細身で長身だ。
大きなステンドグラスから溢れる光が、彼の赤髪を照らした。
紅蓮とも称される濃い赤の髪は長く、後ろでひとつに纏めている。
シャープで端整な顔立ちだ。冷たい印象ではあるが、顎のラインはくっきりしており、すっと鼻筋が通っている。ややつり目な黒曜石の瞳は、左側が前髪で隠れて見えないが、神秘的な輝きを宿してセレスティナを見つめていた。
ただ、どうも表情が硬い気がする。
いや、元々の彼の性質から、ニコニコ出迎えてくれることは期待していなかった。それでも絶対零度の瞳と言うべきか。まるでこちらに対して怒っているかのように、ギロリと睨みつけてくるのだ。眉間の皺を隠そうともしない。
鋭い視線にセレスティナも緊張し、背筋が伸びる。でも――
(綺麗……)
やはり黒騎士と呼ばれる存在だけあって、目を離せない独特の雰囲気がある。
彼はこの日も黒い正装に身を包み、凜と立っていた。ステンドグラスから差し込む光は、まるで神の祝福のよう。
誰も寄せつけない孤高の存在。そんな特別な彼のもとへ、セレスティナは嫁ぐのだ。
正直、結婚はまだ怖い。
かつてセレスティナは裏切られた。結婚式ではどれだけ甘くとも、初夜になって夫の態度が一変した。だから今も、この結婚を素直に喜んでいいのか、わからない。
厳かな雰囲気の中、司祭が式を進めていく間も、セレスティナはリカルドのことばかり考えていた。彼がなにを思って、この結婚を望んだのかわからないから。
(期待してはいけない)
もしかしたら自分を好いてくれていたのかも――なんて、甘い考えを持ってはいけない。
ただ、リカルドもこちらのことが気になるのか、先ほどから何度も彼の視線が突き刺さる。
(甘い視線ではないけれど……)
さすがに孤高の黒騎士様が、いきなりそのような態度をとるとは思えない。
そもそもセレスティナはまだ、この結婚の意図を知らないのだ。
だから、期待しすぎるな。がっかりするのは嫌だ。そう自分に言い聞かせながら、式の進行を見守っていく。
そうして、互いに誓いの言葉を交わし、向かい合う。
いよいよこの時が来た。皆の前で口づけをする時が。
真正面から見ると、やはり彼は随分と長身だった。セレスティナとは頭ひとつ分以上も違う。
ひょろりとしているが、シャープな身体つきはまさに冥王である〈糸の神〉の印象そのものだ。
見惚れていると、彼がくしゃりと目を細めた。眉間に皺を寄せ、大きく息を吐く。
少しだけ嫌な感じがした。
ため息ではない、と思いたい。意に反してセレスティナと結婚する、なんてことはないと信じたい。
お願い。お願いだから。
少しでもいいから、甘い心の欠片を見せてほしい。
けれど、リカルドが手を伸ばすことはない。触れて、抱き寄せてくれることもない。
彼は嫌々といった様子で、セレスティナの額に微かに唇を落としただけだった。
「…………っ」
口づけすらしてもらえない。
そのことがひどく惨めで、セレスティナは涙が溢れぬようにぐっと堪えた。
――大丈夫。額へのキスだって、よくあること。
皆の前で口づけをするのが気恥ずかしかっただけ。
孤高の黒騎士様なら、そう考えてもおかしくない。
そう、自分に何度も、何度も、何度も、何度も言い聞かせたのに――
「いい加減にしてくれ! こんな結婚、最悪だ!」
――夜。彼の屋敷に迎えられて早々。
リカルドが、誰かに向かって激怒している言葉を聞いてしまった。
その声が廊下まで響いてきた瞬間、セレスティナは固まった。周囲の、セレスティナ付きの侍女たちまでもが凍りつく。
一枚扉を挟んだ向こう。わずかに開いた扉の隙間から、赤髪の男性が見えた。
どうかこれが幸せな結婚であってくれ。そう祈りながら結婚式と、その後の披露目のパーティーを済ませた。
しかし、元々リカルドは人付き合いが極端に苦手らしく、セレスティナのそばには寄りつこうともしなかった。
彼は彼、セレスティナはセレスティナで、同じ空間にいながらも別々の集団に祝われた。
だから夫とは、まだまともに会話すらできていない。この屋敷に迎えられてようやく話を、といった時のことだった。
「俺のあずかり知らぬところで、陛下と結託して好き勝手してくれて……! 俺は了承していないからな!」
了承していない。
その言葉がセレスティナの胸に突き刺さる。
(まただ……)
この国は、温かく迎えてくれたように思えていた。この屋敷の侍女たちも、セレスティナに優しく接してくれた。
でも、胸の奥に燻る不安。この手の予感は、いつだって正しい。
やはり、セレスティナは望まれてなどいなかった。
はるばるフォルヴィオン帝国までやってきたけれど、ここでも不要な存在。
疎まれた花嫁なのだ。
「あっ! セレスティナ様!」
その場に留まることなど、できるはずもなかった。
どこかに行ってしまいたくて、セレスティナは廊下を足早に駆け抜ける。
侍女たちが慌てて追いかけてくる。それでも、今のセレスティナに周囲を気遣う余裕はなかった。
歩いたことのない屋敷のなかをあてどなくさまよい、袋小路に辿りつく。
涙はもう、とっくに出ない身体だ。心はすでにカラカラで、砕け散ってしまいそうだった。
なにも語ることなく立ち止まったセレスティナに、侍女たちが優しく声をかけてくれる。
「違います! あれは旦那様の本意ではありません!」
「あの方はセレスティナ様が大事だからこそ……!」
しかし彼女たち自身も、自分たちの言葉に説得力がないことはわかっているのだろう。顔を見合わせ、困ったように口を噤む。
「――今日はお疲れでしょう? 部屋に戻って、お茶にいたしましょう」
「湯浴みをされてはいかがですか? 私たち、セレスティナ様の疲れがとれるよう、しっかりとマッサージしますから」
そう言いながら、彼女たちはセレスティナをこれから自室となる部屋に連れていってくれる。
セレスティナはズンズンと歩いていって、導かれた先――二階の、南向きの部屋の扉に自ら手をかけた。
パンッ! と突然身体が弾かれて、ハッとした。
鍵とは違う。これは魔法鍵の一種だ。
登録された、一定以上の魔力を持つ者しか開けられない仕組みになっているのだろう。
「……この家の扉には、全てこの鍵が?」
「え?」
侍女たちには、それが特殊な魔法鍵であった自覚すらなかったらしい。顔を見合わせ、その中のひとりが神妙な顔をして頷く。
「そう」
乾いた笑みが溢れた。
なにが『魔力がなくなっていることも了承済み』だ。魔力が枯渇しているセレスティナには、扉一枚開くこともできない。この屋敷にも、セレスティナの居場所はない。自由も、なにもかも。
やはり歓迎などされていなかった。
改めて思い知らされ、自嘲する。
「誰か、ここを開けてくれる? わたし、この屋敷で生活するのも難しいみたいで」
「そんな――!」
「ああ、今すぐに! お任せください!」
侍女たちは慌ててパタパタと動きはじめ、セレスティナを自室へいざなった。
ひどい結婚になったと思う。
いよいよ初夜となっても、セレスティナの心は重かった。
部屋の空気は冷え切っている。それでも、この儀式は必ず訪れる。
セレスティナは侍女たちによって指先から髪の毛一本に至るまで丁寧に磨かれた。
銀に近いプラチナブロンドは、背中の真ん中くらいの長さだ。貴族の子女としてはかなり短いほうだろう。二年にも及ぶ幽閉期間の中でボロボロになり、毛先をかなり切るしかなかったのだ。
そこから一年半かけてゆっくり伸ばしたけれど、以前のような美しさはない。
それでも、セレスティナは胸を張るしかない。
身につけているのは少し厚手のナイトドレスだった。
あの時とは違うとわかっていても、どうしても思い出してしまう。期待していたのかと嘲笑され、さらに罵倒されたあの日のことを。
かつての夫は、愛人との行為を隠すことなく見せつけた。
お前など妃にふさわしくない。うぬぼれるなと、彼が言った言葉が今でもセレスティナの心に突き刺さったままだ。
だからセレスティナは怖い。淫らに着飾って誘っているのかと笑われるのが。
ナイトドレスの色は白く、控えめで無難。それはセレスティナのたっての願いだった。
本当はもっとレースがたっぷりで、豪奢なものもあったけれど、どうしても身につけることができなかった。そういったきわどいものに触れるだけで、震えが止まらなくなるから。
厚手の、少し野暮ったいくらいのナイトドレスの裾を掴みながら、セレスティナはひとり寝室で待つ。
まさに永遠とも思える時間だった。
そもそもリカルドは来ないかもしれない。彼はセレスティナのことを歓迎していない。花嫁を迎える気がない男が、どうしてセレスティナを抱くというのだ。
だから、寝室の扉が開いた時、少なからずホッとした。
リカルドはセレスティナと向き合う気がある。まだ、これから関係性を構築していけるかもしれない。
初夜のドキドキよりも、きちんと会話できるかどうかのほうが、今のセレスティナにとっては重要だった。
ガチャリと開けられたドアの向こうに、リカルドの姿が見えた。
紅蓮の髪が艶々と輝いている。
こちらを見つめる切れ長の瞳。薄い唇。すっと通った鼻筋に、シャープな輪郭。改めて、彼が非常に整った顔立ちであると理解する。
そんな彼は、セレスティナと目が合うなり、ビクッと大きく震えた。
冷ややかだった表情がますます険しくなる。眉間に皺を寄せ、まるで憎き敵を見つめるかのような眼差しを向けてきた。
それだけで、彼との関係性はゼロではなく、マイナスであることを理解した。
これから、どう関係性を作っていけばいいのか。最初の一歩すら踏み出せないまま、セレスティナは言葉を探す。
「あの――」
「俺は、あなたを抱くつもりはありません。それを言いに来ました」
冷たい声だった。
はっきりした拒絶だ。それを面と向かって告げられて、セレスティナは目を見開いた。
今まで、彼が他の誰かと話していた時とは異なる、きっちりとした敬語。
結婚式を挙げたものの、彼と家族にはなれていない。
しっかり線を引かれて、セレスティナは硬直する。
「この寝室はあなたに差し上げます。好きに過ごすとよいでしょう。ただし、俺には近づかないように。――どうなっても、知りませんから」
「そんな」
「失礼!」
ピシャリと言い切られ、扉が閉まる。
セレスティナが慌てて立ち上がり、閉ざされた扉まで駆けよるが、どうにもならない。
扉はかたく閉ざされたままだ。この扉もまた、セレスティナひとりでは開けることなど叶わないのだから。
「リカルド様! リカルド様!」
もう、そこにはいない。わかっているのに、彼の名前を呼んでしまう。
「――その名を呼ぶな!」
しかし、彼はすぐに立ち去ったわけではないらしい。
「やめてくれ。俺の名前を呼ばないでくれ!!」
自然と彼の言葉遣いが崩れる。
剥き出しの感情が出てしまうほどの拒絶。
自分は本当に、彼に疎まれているのだ。
苦しくて、なにも考えられなくて、セレスティナはただひたすら扉を叩く。しかしそれ以上、彼からの反応は返ってこなかった。
ひとり、寝室から出ることも叶わず、セレスティナは崩れ落ちる。
やはり自分に居場所などない。それを思い知らされて、その場から動けなくなった。
涙は出ない。
心の中でだけ、さめざめと泣きながら、いつしか床の上で眠ってしまっていたらしい。
翌日。侍女たちが冷たい床で倒れているセレスティナを発見し、慌てて彼女をベッドに寝かせた。
セレスティナは高熱にうなされ、夢と現の狭間を行き来して三日。
ようやく、意識を取り戻したのだった。
***
こんな結婚、あってはならなかった。
結婚式の翌日。まさに、セレスティナが屋敷で熱に浮かされている頃、リカルドはひとり騎士団棟の執務室に戻り、引きこもり続けていた。
窓ひとつない薄暗い部屋。黒騎士団の第七部隊隊長の執務室とは思えないほど陰鬱とした雰囲気の場所だ。
手慰みに読む書物が壁一面に並んでいるが、それ以外はなにもない。シンプルな執務机とソファー。それから、簡易のベッドだけ。
元々外に屋敷を持たなかったリカルドは、ほとんどの時間をこの地下の執務室で過ごしていた。
今もベッドの上で寝返りを打ち、頭を抱える。
リカルドは太陽の光が苦手だ。そんな特殊な体質だから、城の地下室の倉庫を改装して執務室兼私室にさせてもらっている。
環境のせいか空気は澱んでおり、湿気もある。どう考えても快適な場所ではないが、リカルドにとってはこの部屋以外の場所こそが地獄だった。
(ああ、あまりに憎い、この身体)
それもこれも全部〈糸の神〉の加護のせいだ。
戦闘で魔力を放出していないと、体内に渦巻く闘争本能がリカルド自身を傷つける。
全身がひどく痛み、吐き気や頭痛を伴い、動くことすら億劫になる。日の光を浴びなければ幾分かマシだから、日頃からここに引きこもっているだけ。
大嫌いな〈糸の神〉。それでも、この身体となんとか付き合っていく術を二十五年かけて見つけてきたというのに――
(昨日、セレスティナ姫と会ったからか。――クソ、随分好き勝手に暴れてくれる)
――己の中の渇望が。
セレスティナを迎えることはわかっていたし、この婚姻が逃げられないものであることも理解していた。
リカルド自身、彼女には大恩がある。彼女が生涯をこの国で過ごすのであれば、健やかに過ごしてほしい。その気持ちは強い。
だからリカルドにできる精一杯で、彼女を迎えるための準備をした。
人付き合いなど苦手なのに、手段を選ばず必死に情報収集した。セレスティナが少しでも快適に日々を過ごせるように、彼女の好きそうなもので屋敷を固めた。
女性のために尽くすのは人生で初めてで、戸惑うことも多かった。けれど、やれるだけのことはやったと思う。
しかし、実際に彼女を妻として扱えるかといえば、話は別だ。
(クソ……身体が、痛い。心臓が……っ)
セレスティナに触れた代償か。
己の中で、なにかが叫び続けている。
彼女を抱け。彼女を奪え――と。
同時に理解していた。彼女を抱いてしまえば、この苦しみから解放されるということも。
(しかし、駄目だ。それだけは)
セレスティナと改めて向き合って実感した。
これは、彼女にとって最悪な婚姻になると。
それもこれも全て、リカルドが〈糸の神〉の加護を授かってしまったからだ。
リカルド・ジグレル・エン・マゼラは黒騎士と呼ばれ、この国の英雄扱いをされている。
しかし、自分がそんなに大層な存在ではないことくらい、よく理解していた。
もともと姓すら持たなかった平民だ。リカルドの姓「マゼラ」は、マゼラ村出身の、という意味でつけられただけ。ここフォルヴィオン帝国の片田舎でひっそりと生きていただけの男だった。
しかしなんの悪戯か。やがて冥王となった〈糸の神〉の加護は強力すぎた。
生きとし生けるものの命を紡ぐとも言われていた〈糸の神〉。しかし人間の娘を見初め、神へ引き上げたことを咎められた結果、冥界へ堕とされた。
神をも死へと引きずり込もうとする苛酷な環境であった冥界で、戦って、戦って、戦い続けた。やがて冥王として冥界を力で支配した頃には、命の糸を断ち切る者と変わり果てていたのだ。
そんな特殊な事情を持った〈糸の神〉の加護だ。いくら莫大な魔力を持って生まれたとはいえ、いち人間でしかないリカルドの手に余る。大きすぎる加護は、リカルド自身の身体を傷つけた。
(この加護のせいで、俺の人生はめちゃくちゃだ)
生まれたのがあまりに田舎すぎて、自分が第一降神格であることも知らずにいた。
当然、こんな身体では外に出ることも叶わず、ひたすら家に引きこもることしかできない。家族からは穀潰しと罵られたが、当時のリカルドにはどうすることもできなかった。
特に、魔力が集中する左眼が厄介だった。
黒いはずの瞳は、感情が高まると赤く発光する。それを気味悪がられ、左眼を隠すようにして生きてきた。
さらに、原因不明の痛みにのたうち回り、呻き声を上げ続ける。その薄気味悪さに、誰もがリカルドを忌避した。
転機となったのは、十四の頃。
リカルドの噂を聞きつけて、皇都からひとりの男がやってきたことだった。
「主ィ――……ああ、やっぱりここに来てましたか」
間延びした男の声が、執務室の外から聞こえてきた。
そう、この声だ。
かつてリカルドの育った辺境まで、緊張感のないこの男が自分を迎えに来たのだ。
リカルドは大きくため息をついた。
ひとりになりたいのに、この男から逃れることは難しい。鍵がかかっているはずの扉を簡単に開けられて、すっかり腐れ縁となった男の姿を見ると、リカルドは舌打ちした。
「まったく。新婚早々、なにしてくれているんですか、アナタは」
「昨日も言ったろう。……俺は、あの方との婚姻など望んでいなかった」
正確には、結婚する覚悟は決めたものの、それ以上の関係にはなりたくなかっただけ。
セレスティナを前にして、想像以上に〈糸の神〉が暴れ出し、逃げるしかなくなったのだ。
すでに散々繰り返した押し問答を、まだ続けることになるだなんて。
リカルドはのそりと上半身を起こし、やってきた男を睨みつけた。だが男は臆することなく、飄々とした表情を浮かべている。
無造作な若草色の髪に、蜂蜜色の瞳。リカルドよりも四つ年上の二十九歳ではあるが、どこか愛嬌のある幼い顔つきをした男。
フィーガ・フィーガ・エン・フィーガロット――特定の第一降神格の加護を代々血で引き継ぐという特殊な家門、フィーガロット家の若き当主である。
ルヴォイアの王女は、第一降神格の存在しない国に嫁ぐのが慣習だ。だからこそ、かつて候補にも挙がらなかった国だった。
まあ、フォルヴィオン帝国ほどの大国になると優秀な人材が揃いすぎて、今さら第一降神格がひとり増えるメリットもなさそうではあるが。
「そうだ。本来、お前が嫁ぐことは難しい国ではある。第一降神格の偏りに反発する国もあるだろう。だが、お前は再婚にあたる。酷な言い方だが、魔力すらなくなった今のお前でもいいと言ってくれる相手は多くない」
それはそうだろうと、セレスティナはうつむいた。
さらに今のセレスティナには、大病を患っただの、子を産めないだの、結婚するには難しい噂が飛び交っている。あえてそんな不良物件を選ぶ王族などいないだろう。
「それに、今回の相手はそもそも王族ではない」
「え……?」
セレスティナは目を丸くした。
例外続きである。ルヴォイアの王女を迎えることは、神の加護を受け入れるのと同義。慣例として、必ず王族が相手になってきた。
「黒騎士リカルド・ジグレル・エン・マゼラと言えば、お前もわかるか?」
「――っ!? あの、黒騎士様、ですか!?」
知らないはずがない。
フォルヴィオン帝国で最も有名な第一降神格。その人物こそ、〈糸の神〉ジグレルの加護を授かる者なのだから。
(よりにもよって、〈糸の神〉の!)
少なからず動揺した。
〈糸の神〉と言えば、セレスティナに加護を与えた〈処女神〉セレスにとって因縁の相手だ。
かの〈処女神〉を、半神に引き上げた神。
だからその加護を与えられた相手にも、どうしても身構えてしまう自分がいる。
「そうだ。その黒騎士との縁談だ」
黒騎士リカルド――フォルヴィオン帝国にその人ありと言われる英雄だ。かつて東の国からの侵攻を、リカルド率いるたった一部隊で食い止めた。
しかも一部隊と言いながら、実際はほとんどがリカルドひとりの功績だ。一騎当千どころか、一騎当万とも言われる大英雄である。
黒騎士と呼ばれるのは、彼が常に黒いコートを纏い、戦場の死神とも称されるほどに陰鬱な雰囲気であることからだという。
英雄ではあるものの、どちらかと言えば恐れの対象。あまりいい噂は聞かなかった。
(リカルド様……)
セレスティナも、かつて国際会議の場で会ったことがある。燃えるような赤髪が印象的な、どこか影のある男性だった。
ただ、その時もほんのわずかに会話を交わしただけ。しかも、非常に不機嫌そうだった。
じっとこちらを見つめてくる目が妙に印象的ではあったが、向こうがセレスティナに対して好意を抱いたとかそういった印象はまったくなかった。
英雄というよりも、孤独な一匹狼と言ったほうが似合いのイメージだ。
しかし自分が考えていた以上に、向こうはセレスティナに対してなんらかの思惑を抱えているらしい。
「お前には話していなかったが、実は先の国際会議のあとからずっと打診はあってな」
「え……!?」
それは、もう四年も前のことではないだろうか。
婚姻対象国でもなく、王族でもない相手――つまり、本来は結婚などありえない相手だ。そんな殿方から婚約の打診があったとは知らなかった。
「相手は、お前が魔力を失ったこともご存じだ。それでも、ひとりの女性としてお前を迎えたいと言ってくれた」
「どうして、そんな」
「私も、お前は第一降神格ではなく、ただひとりの娘として幸せになるべきだと思う」
「お父様……」
その言葉を、どう受けとめたらいいのかわからなかった。
ひとりの娘としての幸せなんて。今さら、そんな都合のいい話などあるわけがない。
けれどディオラルは、国王ではなく父の顔をして語り続ける。
セレスティナはすでに、ルヴォイア王国の王女としての役割を充分果たした。今度は、ひとりの娘として結婚すればいいと。
「――だから幸せにおなり、セレスティナ。私は誰よりも、お前の幸せを願っているよ」
そう言うけれど、セレスティナの不安は拭えなかった。
今さら、なにも持たない娘が幸せになれるとは思えない。けれども、自分には王女としての矜持がある。
ゆえに、諦めるような顔をして答えた。
どこへなりとも嫁ぎます、と。
輿入れまでさらに半年と少し。
それは麗らかな陽差しが心地よい春の佳き日だった。
この後、結婚式の会場で、セレスティナはリカルドと改めて顔を合わせる。最後に彼の顔を見たのは先の国際会議以来だから、約四年半ぶりの再会となる。
バージンロードの向こうに立つ男性の姿を見て、セレスティナは不思議な気持ちになった。
久しぶりに会うリカルドは、すっかり大人の男性になっていた。セレスティナよりも三つ年上だから、今は二十五歳のはず。
英雄と呼ばれるからにはガッチリとした筋肉を持つ体格のいい男性をイメージしそうだが、彼の場合は全然違う。魔法騎士だからだろう、どちらかと言えば細身で長身だ。
大きなステンドグラスから溢れる光が、彼の赤髪を照らした。
紅蓮とも称される濃い赤の髪は長く、後ろでひとつに纏めている。
シャープで端整な顔立ちだ。冷たい印象ではあるが、顎のラインはくっきりしており、すっと鼻筋が通っている。ややつり目な黒曜石の瞳は、左側が前髪で隠れて見えないが、神秘的な輝きを宿してセレスティナを見つめていた。
ただ、どうも表情が硬い気がする。
いや、元々の彼の性質から、ニコニコ出迎えてくれることは期待していなかった。それでも絶対零度の瞳と言うべきか。まるでこちらに対して怒っているかのように、ギロリと睨みつけてくるのだ。眉間の皺を隠そうともしない。
鋭い視線にセレスティナも緊張し、背筋が伸びる。でも――
(綺麗……)
やはり黒騎士と呼ばれる存在だけあって、目を離せない独特の雰囲気がある。
彼はこの日も黒い正装に身を包み、凜と立っていた。ステンドグラスから差し込む光は、まるで神の祝福のよう。
誰も寄せつけない孤高の存在。そんな特別な彼のもとへ、セレスティナは嫁ぐのだ。
正直、結婚はまだ怖い。
かつてセレスティナは裏切られた。結婚式ではどれだけ甘くとも、初夜になって夫の態度が一変した。だから今も、この結婚を素直に喜んでいいのか、わからない。
厳かな雰囲気の中、司祭が式を進めていく間も、セレスティナはリカルドのことばかり考えていた。彼がなにを思って、この結婚を望んだのかわからないから。
(期待してはいけない)
もしかしたら自分を好いてくれていたのかも――なんて、甘い考えを持ってはいけない。
ただ、リカルドもこちらのことが気になるのか、先ほどから何度も彼の視線が突き刺さる。
(甘い視線ではないけれど……)
さすがに孤高の黒騎士様が、いきなりそのような態度をとるとは思えない。
そもそもセレスティナはまだ、この結婚の意図を知らないのだ。
だから、期待しすぎるな。がっかりするのは嫌だ。そう自分に言い聞かせながら、式の進行を見守っていく。
そうして、互いに誓いの言葉を交わし、向かい合う。
いよいよこの時が来た。皆の前で口づけをする時が。
真正面から見ると、やはり彼は随分と長身だった。セレスティナとは頭ひとつ分以上も違う。
ひょろりとしているが、シャープな身体つきはまさに冥王である〈糸の神〉の印象そのものだ。
見惚れていると、彼がくしゃりと目を細めた。眉間に皺を寄せ、大きく息を吐く。
少しだけ嫌な感じがした。
ため息ではない、と思いたい。意に反してセレスティナと結婚する、なんてことはないと信じたい。
お願い。お願いだから。
少しでもいいから、甘い心の欠片を見せてほしい。
けれど、リカルドが手を伸ばすことはない。触れて、抱き寄せてくれることもない。
彼は嫌々といった様子で、セレスティナの額に微かに唇を落としただけだった。
「…………っ」
口づけすらしてもらえない。
そのことがひどく惨めで、セレスティナは涙が溢れぬようにぐっと堪えた。
――大丈夫。額へのキスだって、よくあること。
皆の前で口づけをするのが気恥ずかしかっただけ。
孤高の黒騎士様なら、そう考えてもおかしくない。
そう、自分に何度も、何度も、何度も、何度も言い聞かせたのに――
「いい加減にしてくれ! こんな結婚、最悪だ!」
――夜。彼の屋敷に迎えられて早々。
リカルドが、誰かに向かって激怒している言葉を聞いてしまった。
その声が廊下まで響いてきた瞬間、セレスティナは固まった。周囲の、セレスティナ付きの侍女たちまでもが凍りつく。
一枚扉を挟んだ向こう。わずかに開いた扉の隙間から、赤髪の男性が見えた。
どうかこれが幸せな結婚であってくれ。そう祈りながら結婚式と、その後の披露目のパーティーを済ませた。
しかし、元々リカルドは人付き合いが極端に苦手らしく、セレスティナのそばには寄りつこうともしなかった。
彼は彼、セレスティナはセレスティナで、同じ空間にいながらも別々の集団に祝われた。
だから夫とは、まだまともに会話すらできていない。この屋敷に迎えられてようやく話を、といった時のことだった。
「俺のあずかり知らぬところで、陛下と結託して好き勝手してくれて……! 俺は了承していないからな!」
了承していない。
その言葉がセレスティナの胸に突き刺さる。
(まただ……)
この国は、温かく迎えてくれたように思えていた。この屋敷の侍女たちも、セレスティナに優しく接してくれた。
でも、胸の奥に燻る不安。この手の予感は、いつだって正しい。
やはり、セレスティナは望まれてなどいなかった。
はるばるフォルヴィオン帝国までやってきたけれど、ここでも不要な存在。
疎まれた花嫁なのだ。
「あっ! セレスティナ様!」
その場に留まることなど、できるはずもなかった。
どこかに行ってしまいたくて、セレスティナは廊下を足早に駆け抜ける。
侍女たちが慌てて追いかけてくる。それでも、今のセレスティナに周囲を気遣う余裕はなかった。
歩いたことのない屋敷のなかをあてどなくさまよい、袋小路に辿りつく。
涙はもう、とっくに出ない身体だ。心はすでにカラカラで、砕け散ってしまいそうだった。
なにも語ることなく立ち止まったセレスティナに、侍女たちが優しく声をかけてくれる。
「違います! あれは旦那様の本意ではありません!」
「あの方はセレスティナ様が大事だからこそ……!」
しかし彼女たち自身も、自分たちの言葉に説得力がないことはわかっているのだろう。顔を見合わせ、困ったように口を噤む。
「――今日はお疲れでしょう? 部屋に戻って、お茶にいたしましょう」
「湯浴みをされてはいかがですか? 私たち、セレスティナ様の疲れがとれるよう、しっかりとマッサージしますから」
そう言いながら、彼女たちはセレスティナをこれから自室となる部屋に連れていってくれる。
セレスティナはズンズンと歩いていって、導かれた先――二階の、南向きの部屋の扉に自ら手をかけた。
パンッ! と突然身体が弾かれて、ハッとした。
鍵とは違う。これは魔法鍵の一種だ。
登録された、一定以上の魔力を持つ者しか開けられない仕組みになっているのだろう。
「……この家の扉には、全てこの鍵が?」
「え?」
侍女たちには、それが特殊な魔法鍵であった自覚すらなかったらしい。顔を見合わせ、その中のひとりが神妙な顔をして頷く。
「そう」
乾いた笑みが溢れた。
なにが『魔力がなくなっていることも了承済み』だ。魔力が枯渇しているセレスティナには、扉一枚開くこともできない。この屋敷にも、セレスティナの居場所はない。自由も、なにもかも。
やはり歓迎などされていなかった。
改めて思い知らされ、自嘲する。
「誰か、ここを開けてくれる? わたし、この屋敷で生活するのも難しいみたいで」
「そんな――!」
「ああ、今すぐに! お任せください!」
侍女たちは慌ててパタパタと動きはじめ、セレスティナを自室へいざなった。
ひどい結婚になったと思う。
いよいよ初夜となっても、セレスティナの心は重かった。
部屋の空気は冷え切っている。それでも、この儀式は必ず訪れる。
セレスティナは侍女たちによって指先から髪の毛一本に至るまで丁寧に磨かれた。
銀に近いプラチナブロンドは、背中の真ん中くらいの長さだ。貴族の子女としてはかなり短いほうだろう。二年にも及ぶ幽閉期間の中でボロボロになり、毛先をかなり切るしかなかったのだ。
そこから一年半かけてゆっくり伸ばしたけれど、以前のような美しさはない。
それでも、セレスティナは胸を張るしかない。
身につけているのは少し厚手のナイトドレスだった。
あの時とは違うとわかっていても、どうしても思い出してしまう。期待していたのかと嘲笑され、さらに罵倒されたあの日のことを。
かつての夫は、愛人との行為を隠すことなく見せつけた。
お前など妃にふさわしくない。うぬぼれるなと、彼が言った言葉が今でもセレスティナの心に突き刺さったままだ。
だからセレスティナは怖い。淫らに着飾って誘っているのかと笑われるのが。
ナイトドレスの色は白く、控えめで無難。それはセレスティナのたっての願いだった。
本当はもっとレースがたっぷりで、豪奢なものもあったけれど、どうしても身につけることができなかった。そういったきわどいものに触れるだけで、震えが止まらなくなるから。
厚手の、少し野暮ったいくらいのナイトドレスの裾を掴みながら、セレスティナはひとり寝室で待つ。
まさに永遠とも思える時間だった。
そもそもリカルドは来ないかもしれない。彼はセレスティナのことを歓迎していない。花嫁を迎える気がない男が、どうしてセレスティナを抱くというのだ。
だから、寝室の扉が開いた時、少なからずホッとした。
リカルドはセレスティナと向き合う気がある。まだ、これから関係性を構築していけるかもしれない。
初夜のドキドキよりも、きちんと会話できるかどうかのほうが、今のセレスティナにとっては重要だった。
ガチャリと開けられたドアの向こうに、リカルドの姿が見えた。
紅蓮の髪が艶々と輝いている。
こちらを見つめる切れ長の瞳。薄い唇。すっと通った鼻筋に、シャープな輪郭。改めて、彼が非常に整った顔立ちであると理解する。
そんな彼は、セレスティナと目が合うなり、ビクッと大きく震えた。
冷ややかだった表情がますます険しくなる。眉間に皺を寄せ、まるで憎き敵を見つめるかのような眼差しを向けてきた。
それだけで、彼との関係性はゼロではなく、マイナスであることを理解した。
これから、どう関係性を作っていけばいいのか。最初の一歩すら踏み出せないまま、セレスティナは言葉を探す。
「あの――」
「俺は、あなたを抱くつもりはありません。それを言いに来ました」
冷たい声だった。
はっきりした拒絶だ。それを面と向かって告げられて、セレスティナは目を見開いた。
今まで、彼が他の誰かと話していた時とは異なる、きっちりとした敬語。
結婚式を挙げたものの、彼と家族にはなれていない。
しっかり線を引かれて、セレスティナは硬直する。
「この寝室はあなたに差し上げます。好きに過ごすとよいでしょう。ただし、俺には近づかないように。――どうなっても、知りませんから」
「そんな」
「失礼!」
ピシャリと言い切られ、扉が閉まる。
セレスティナが慌てて立ち上がり、閉ざされた扉まで駆けよるが、どうにもならない。
扉はかたく閉ざされたままだ。この扉もまた、セレスティナひとりでは開けることなど叶わないのだから。
「リカルド様! リカルド様!」
もう、そこにはいない。わかっているのに、彼の名前を呼んでしまう。
「――その名を呼ぶな!」
しかし、彼はすぐに立ち去ったわけではないらしい。
「やめてくれ。俺の名前を呼ばないでくれ!!」
自然と彼の言葉遣いが崩れる。
剥き出しの感情が出てしまうほどの拒絶。
自分は本当に、彼に疎まれているのだ。
苦しくて、なにも考えられなくて、セレスティナはただひたすら扉を叩く。しかしそれ以上、彼からの反応は返ってこなかった。
ひとり、寝室から出ることも叶わず、セレスティナは崩れ落ちる。
やはり自分に居場所などない。それを思い知らされて、その場から動けなくなった。
涙は出ない。
心の中でだけ、さめざめと泣きながら、いつしか床の上で眠ってしまっていたらしい。
翌日。侍女たちが冷たい床で倒れているセレスティナを発見し、慌てて彼女をベッドに寝かせた。
セレスティナは高熱にうなされ、夢と現の狭間を行き来して三日。
ようやく、意識を取り戻したのだった。
***
こんな結婚、あってはならなかった。
結婚式の翌日。まさに、セレスティナが屋敷で熱に浮かされている頃、リカルドはひとり騎士団棟の執務室に戻り、引きこもり続けていた。
窓ひとつない薄暗い部屋。黒騎士団の第七部隊隊長の執務室とは思えないほど陰鬱とした雰囲気の場所だ。
手慰みに読む書物が壁一面に並んでいるが、それ以外はなにもない。シンプルな執務机とソファー。それから、簡易のベッドだけ。
元々外に屋敷を持たなかったリカルドは、ほとんどの時間をこの地下の執務室で過ごしていた。
今もベッドの上で寝返りを打ち、頭を抱える。
リカルドは太陽の光が苦手だ。そんな特殊な体質だから、城の地下室の倉庫を改装して執務室兼私室にさせてもらっている。
環境のせいか空気は澱んでおり、湿気もある。どう考えても快適な場所ではないが、リカルドにとってはこの部屋以外の場所こそが地獄だった。
(ああ、あまりに憎い、この身体)
それもこれも全部〈糸の神〉の加護のせいだ。
戦闘で魔力を放出していないと、体内に渦巻く闘争本能がリカルド自身を傷つける。
全身がひどく痛み、吐き気や頭痛を伴い、動くことすら億劫になる。日の光を浴びなければ幾分かマシだから、日頃からここに引きこもっているだけ。
大嫌いな〈糸の神〉。それでも、この身体となんとか付き合っていく術を二十五年かけて見つけてきたというのに――
(昨日、セレスティナ姫と会ったからか。――クソ、随分好き勝手に暴れてくれる)
――己の中の渇望が。
セレスティナを迎えることはわかっていたし、この婚姻が逃げられないものであることも理解していた。
リカルド自身、彼女には大恩がある。彼女が生涯をこの国で過ごすのであれば、健やかに過ごしてほしい。その気持ちは強い。
だからリカルドにできる精一杯で、彼女を迎えるための準備をした。
人付き合いなど苦手なのに、手段を選ばず必死に情報収集した。セレスティナが少しでも快適に日々を過ごせるように、彼女の好きそうなもので屋敷を固めた。
女性のために尽くすのは人生で初めてで、戸惑うことも多かった。けれど、やれるだけのことはやったと思う。
しかし、実際に彼女を妻として扱えるかといえば、話は別だ。
(クソ……身体が、痛い。心臓が……っ)
セレスティナに触れた代償か。
己の中で、なにかが叫び続けている。
彼女を抱け。彼女を奪え――と。
同時に理解していた。彼女を抱いてしまえば、この苦しみから解放されるということも。
(しかし、駄目だ。それだけは)
セレスティナと改めて向き合って実感した。
これは、彼女にとって最悪な婚姻になると。
それもこれも全て、リカルドが〈糸の神〉の加護を授かってしまったからだ。
リカルド・ジグレル・エン・マゼラは黒騎士と呼ばれ、この国の英雄扱いをされている。
しかし、自分がそんなに大層な存在ではないことくらい、よく理解していた。
もともと姓すら持たなかった平民だ。リカルドの姓「マゼラ」は、マゼラ村出身の、という意味でつけられただけ。ここフォルヴィオン帝国の片田舎でひっそりと生きていただけの男だった。
しかしなんの悪戯か。やがて冥王となった〈糸の神〉の加護は強力すぎた。
生きとし生けるものの命を紡ぐとも言われていた〈糸の神〉。しかし人間の娘を見初め、神へ引き上げたことを咎められた結果、冥界へ堕とされた。
神をも死へと引きずり込もうとする苛酷な環境であった冥界で、戦って、戦って、戦い続けた。やがて冥王として冥界を力で支配した頃には、命の糸を断ち切る者と変わり果てていたのだ。
そんな特殊な事情を持った〈糸の神〉の加護だ。いくら莫大な魔力を持って生まれたとはいえ、いち人間でしかないリカルドの手に余る。大きすぎる加護は、リカルド自身の身体を傷つけた。
(この加護のせいで、俺の人生はめちゃくちゃだ)
生まれたのがあまりに田舎すぎて、自分が第一降神格であることも知らずにいた。
当然、こんな身体では外に出ることも叶わず、ひたすら家に引きこもることしかできない。家族からは穀潰しと罵られたが、当時のリカルドにはどうすることもできなかった。
特に、魔力が集中する左眼が厄介だった。
黒いはずの瞳は、感情が高まると赤く発光する。それを気味悪がられ、左眼を隠すようにして生きてきた。
さらに、原因不明の痛みにのたうち回り、呻き声を上げ続ける。その薄気味悪さに、誰もがリカルドを忌避した。
転機となったのは、十四の頃。
リカルドの噂を聞きつけて、皇都からひとりの男がやってきたことだった。
「主ィ――……ああ、やっぱりここに来てましたか」
間延びした男の声が、執務室の外から聞こえてきた。
そう、この声だ。
かつてリカルドの育った辺境まで、緊張感のないこの男が自分を迎えに来たのだ。
リカルドは大きくため息をついた。
ひとりになりたいのに、この男から逃れることは難しい。鍵がかかっているはずの扉を簡単に開けられて、すっかり腐れ縁となった男の姿を見ると、リカルドは舌打ちした。
「まったく。新婚早々、なにしてくれているんですか、アナタは」
「昨日も言ったろう。……俺は、あの方との婚姻など望んでいなかった」
正確には、結婚する覚悟は決めたものの、それ以上の関係にはなりたくなかっただけ。
セレスティナを前にして、想像以上に〈糸の神〉が暴れ出し、逃げるしかなくなったのだ。
すでに散々繰り返した押し問答を、まだ続けることになるだなんて。
リカルドはのそりと上半身を起こし、やってきた男を睨みつけた。だが男は臆することなく、飄々とした表情を浮かべている。
無造作な若草色の髪に、蜂蜜色の瞳。リカルドよりも四つ年上の二十九歳ではあるが、どこか愛嬌のある幼い顔つきをした男。
フィーガ・フィーガ・エン・フィーガロット――特定の第一降神格の加護を代々血で引き継ぐという特殊な家門、フィーガロット家の若き当主である。
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