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第一章 学園編
35.彼女の知らないアデル・クルシュルージュ1
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――少し前。
ルル・アリザカの姿をしたアデルが囚われ、監視されている理事長室。アデルが偽理事長の核心をついてからは、神妙な沈黙が流れるのみ。
核心とは、通り魔事件を引き起こす〝仮面の組織〟の真の目的――隠し通そうとする動機である。これ以上会話を続ければ、いつボロを出してしまうか分からないので、偽理事長は口を噤んだのだ。
そんな中、突如アデルは何の前触れも無く口を開き、その沈黙を破った。
「――ヒメ。そろそろ交代なのだ」
ここにはいないヒメに呼びかけたアデルを、偽理事長は怪訝そうに見下ろす。
アデルは通信機器を使える状態では無い上、通信術を行使している気配も感じ取れなかった。故に、この場所から遠く離れたヒメにその声を伝えることなど不可能。
つまり、唐突なアデルの呟きは独り言でしか無い。偽理事長はそう判断したからこそ、余計にアデルを不気味に思った。
『っ、待って欲しいのっ!マスター!ヒメたちはまだやれるのっ、ヒメたちはまだ負けていないのっ。必ずティンベル様を無事に連れ帰るのっ、だからっ……』
アデルにしか聞こえないその声は、非常に切迫しているようで、彼女自身の思いが犇々と伝わってくる。それでも、アデルは彼女の望みを聞き入れる訳にはいかなかった。
故に、アデルは敢えて厳しい口調で、ヒメに問いかける。
「ヒメ。我の言うことが聞けぬのであるか?」
『っ』
「ヒメ。そちらの状況はよく理解しているのだ。このままではティンベルだけでなく、我は大事な仲間まで失ってしまう……。我はヒメたちのことを、妹であるティンベルと同じぐらい、かけがえのない存在だと思っている。……我から、愛しい存在を奪わないで欲しいのだ。
――ヒメ……言うことを聞いてくれるであるか?」
『っ……わ、分かった……の……ごめんなさい、なの』
委縮したヒメの声を聞くと罪悪感が湧いてしまうが、アデルに彼女を労わる時間の余裕は無かった。
一方、訳の分からない独り言を続けているようにしか見えない偽理事長は、怪訝な眼差しを更に鋭くしていた。
問いただそうとしたその時。アデルは突如、ぐったりと項垂れ、うんともすんとも言わなくなってしまう。
――まるで、アデルの身体から、その魂が抜け落ちたようであった。
生気がまるで感じられず、微かな呼吸音すら聞こえない。思わず、偽理事長がアデルの生死を確認しようとした瞬間、変化は唐突に訪れるのだった。
********
『――跪け』
ガタンっ。
あまりにも一瞬の出来事に、誰もが息を呑み、言葉を失う。
ヒメの口からその言葉が発せられた途端、仮面の五人全員が、一斉に膝から崩れ落ちたのだ。仮面の彼らは誰一人として、今自身の身に何が起きているのか理解することが出来ていない。
脚に、一切の力が入らないのだ。
ヒメの口から発せられた、ジルの込められたその声を耳にした途端、脚の筋肉を奪われたかのような錯覚に陥り、抵抗することが出来なかった。
「な……な……何が…………起こっ、て……」
「どうして、足に力がっ……」
まるで、自分の身体が自分の物で無くなったかのような不気味な感覚に、彼らは全身を粟立たせる。自らを襲うこの状況が理解できず、彼らは目を泳がせながら困惑の声を上げることしか出来ない。
そんな中、当のヒメは首を傾けながら彼らを見下ろすのみ。ただ、その眼差しがあまりにも鋭く、凍てつくようで、場の空気を支配しているようだった。
そこにはもう、機械めいた瞳の姫君など、どこにも存在していなかったのだ。
茫然自失としているティンベルは、そんなヒメから目を離すことが出来ずにいる。
(一体……何が起こっているの……?)
そこにいるのは確かにヒメだというのに、放つ雰囲気、口調、佇まい、表情……。何もかもが違って見えた。
(あれは……誰?)
そんなティンベルの疑問を余所に、ヒメはぐるっと辺りを見回した。そして、ディアンたちの怪我の具合を確認すると、徐に歩き出す。
少しずつ、少しずつ。迷うことなく、ヒメはティンベルの元へと歩み寄った。道中、徐に腕を伸ばしたかと思うと、ティンベルを守っていた結界が消え去る。その行為が、ティンベルに治癒術を施す為であると気づけたのは、ディアンと皓然だけだろう。
一方、未だ立ち上がることの出来ない彼らは当惑しており、最早それどころではない。
「おっ、お前っ……一体何をしたっ!?」
『五月蠅い、黙れ』
「「っ」」
一人の男が声を荒げながら尋ねた刹那、ヒメは凍てつくような鋭い睨みを彼らに向けた。放ったその声にはやはりジルが込められており、脳に直接響くような奇妙な感覚があった。
そして「黙れ」と吐き捨てられた瞬間、彼らは掠れた声すら発することが出来なくなってしまった。
(こ、声がっ……出ないっ)
(喉がっ……絞られるようだ……)
首を絞められている状態とはまた違う、声が出ない感覚に、彼らは苦悶の表情を浮かべた。そんな彼らを気にも留めることなく視線を戻すと、ヒメは再び歩を進める。
「っ……」
そして、ティンベルのすぐ傍まで歩み寄ると、ヒメは徐にしゃがみ込んだ。ざわめく心臓を抑えながら、ティンベルはその動きに合わせて目線をゆっくりと下げる。二人の視線が交錯し、両者とも決して目を逸らさなかった。
――数秒後。不意にヒメは、その小さな口を開く。
「――遅くなってすまぬ。ティンベル」
「っ……!」
刹那、ティンベルは息を呑み、目を見開いた。衝撃と歓喜のあまり、一瞬呼吸を忘れてしまうほど。
声は確実にヒメのものだったが、ヒメではない。その独特な口調を、彼女は知っていた。
困った様な、優しい眼差しも。聞いているだけで微睡むような言葉運びも。発せられる空気でさえも――。
ティンベルは知っていたのだ。
記憶の中のその人を、何度も何度も思い起こしていたから。
ずっと、求めてやまなかったその人が、今目の前にいる人物かもしれない。そう思うと、呼吸は荒くなり、心臓も激しく脈を打っているというのに、ヒメを見上げる視線だけは一切揺るがない。
「っ……ふぅっ……はっ……は……」
瞳に膜を張りながら、ティンベルは声を震わせた。そして、待ち侘びていたその人の名前を、何とか呼ぼうと声を振り絞る。
あの別れの日からずっと、記憶の中の彼に想いを馳せながら、虚しく呟くことしか出来なかった、その名前を――。
「……あ…………アデル、兄様……」
ティンベルは久方ぶりに、誰かに向けて、その名前を呼んだ。小さく、かき消えてしまいそうな、震えた声で。
刹那、ティンベルの目に溜まっていた涙が一筋流れ、同時に彼は、慈しむような表情で微笑む。
「……うむ。やはりティンベルは聡いのだな……我の、自慢の妹である」
「っ……ああああっ……!」
泣き崩れるしかなかった。
そんな優しい声で、そんなことを言われてしまえば。湧き上がる感情のまま、さめざめと泣くことしか出来ない。
ティンベルは縋る様に、ヒメの姿をしたアデルに抱きつくと、溢れる感情を何とか言葉にしようと声を上げる。
「あでっ……アデル兄様っ……わた、私っ……」
「……寂しい思いを、させてしまったな。すまぬ、ティンベル」
困ったように眉を落とし、目を細めたアデルは、ティンベルの身体を優しく抱き返してやった。
声を詰まらせながら泣きじゃくるその姿は、アデルの目に鮮烈に映る。まるで、記憶の中の、あの幼い少女のようだったから。齢五の、世界の穢れをまだ知らないティンベルが、嫌だと駄々をこねて、泣きじゃくっているようだったから。
「いいえっ……いいえっ……ただっ、私は……アデル兄様に会いたかっただけなのですっ……。アデル兄様がっ、この世界のどこかで生きて……幸せでいてくれればそれでっ……ただそれをっ、確かめたかったのです……」
抱きつく腕を緩め、アデルの姿をその目に捉えたティンベルは、首を横に振りながらその思いを吐露した。
「我も……ティンベルが、大きく健やかに育ってくれれば、それだけで良かったのだ……本当に、立派に成長したであるな、ティンベル」
「アデル兄様……」
アデルはティンベルの頭にポンと手を置くと、嬉々とした相好を露わにした。そしてもう片方の手でティンベルの涙を優しく拭ってやると、アデルは悪戯っ子のような表情を見せる。
「泣き虫なところは、変わっていないみたいだがな」
「だっ、だって……アデル兄様が、急に現れるから……。っ、そうです。アデル兄様……そのお姿は、どういうことなのでしょう?」
ティンベルはふと我に返り、素朴な疑問をアデルにぶつけた。外見も声もヒメその者だというのに、中身だけがアデルという奇妙な状態の真相が、ティンベルは気になってしまったのだ。
「あぁ、これに関しては後で説明するとしよう。今はそれよりも、先にやるべきことがあるのでな…………皓然、ディアン」
「「はい」」
アデルが呼ぶと、二人は即座に跪き、首を垂れた。声を揃えたキリッとした返事も、アデルに対する忠誠心の表れである。思わずアデルは苦笑いを零すと、
「そう畏まらずともよいのだ。……まとめて治癒術を行使する故、こちらに来るといい」
そう言って、二人を手招いた。
両者とも傷が深い為、二人は足を引きずりながらゆっくりと、アデルの元へ歩み寄る。何とか辿り着き、しゃがみ込むと、アデルは早速治癒術を行使し始めた。
「アデル様のお手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
三人を同時に治癒するアデルに、皓然は頭を下げた。自らの不甲斐無さを責めているのか、その表情は暗い。
「気にするでない。我らは仲間……仲間が傷つけば駆けつける。当然ことであろう。それに、皓然に何かあれば林が悲しむ。もちろん、我を含めた皆も悲しむ。ディアンに関しても同じこと……我は、皆が悲しむ様を見たくは無いのだ。故に、これは我自身の為でもある。皓然が気に病むことは無い」
「はい……」
アデルが励ますと、皓然は頬を染め、少し照れたように首肯した。そんな二人の様子を、ティンベルはどこか呆けた表情で眺めている。
(仲間……)
ティンベルの知らないアデルが、そこにはいた。
ティンベルと離れ離れになった後、アデルがどのように生きてきたのか、彼女は知らない。アデルがどんな仲間たちと出会い、どんな経験をしたのか。ティンベルは何も知らないという事実を、突きつけられているようだった。
不意にティンベルは、皓然とディアンの身体に視線を向ける。彼らの負った傷がみるみるうちに塞がっていくのが目に見えて分かり、同時に自らの頭を襲っていた鈍い痛みが和らいでいくのを感じる。
「すごい……三人同時に治癒しているというのに、こんなにも早く完治してしまうなんて……」
「我の仲間には、更に凄まじい治癒能力を持つ者がいるのだ。この程度で驚いていては、これから大変であるぞ?」
心底楽し気な声と表情で、アデルは言った。そんなアデルを、やはりティンベルは知らなかった。
ティンベルの知るアデルは、あの地獄のような家に囚われていた頃のアデルだけ。悪魔の愛し子と蔑まれ、両親からは酷い虐待を受け、誰一人として守ってはくれなかった――あの頃のアデルだけなのだ。
あの頃も、ティンベルの前では優しく微笑んでくれていたが、こんな風に誰かを思って、幸せそうな笑みを浮かべたことは一度も無かった。アデルを変えてくれたのは、一体誰なのか――そんな疑問がティンベルの頭をよぎった。
(また仲間……。アデル兄様がレディバグの長だってことは、分かっていたはずなのに。こうして実際に、アデル兄様からお仲間の話を聞くと、何だかとても複雑な気分……。今まではこんなこと、考えもしなかった。……私の知らないアデル兄様と共に過ごしてきた彼らを、羨んでいるのかしら……。嫌だわ私……嫉妬なんて……)
あの日。あの地獄のような家から出るのだと、アデルがティンベルだけに告げたあの日。ティンベルは結局、最後にはアデルを引き止めなかった。こんな家に囚われ続けても、アデルが幸せになることは無いと分かっていたから。
だというのに、自らの知らぬ所で、全く知らない相手がアデルを幸せにしたのだと思うと、複雑な心境になってしまう自分自身を、ティンベルは恥じた。
そんなティンベルの思いなど露知らず。アデルは三人の治癒を終わらせると、ホッとため息をついた。
「――よし。これで一安心であるな。……あとは此奴らをどうするかだが」
「「っ」」
再び、アデルの鋭い眼差しを向けられ、仮面の彼らはビクッと肩を震わせた。彼らももう、分かっているのだ。
目に前に佇む少女がヒメなどでは無く、レディバグの長――アデル・クルシュルージュであるということを。そして例え、五人束になって挑んだとしても、彼らでは手も足も出ない程の強者が相手なのだということを。
ルル・アリザカの姿をしたアデルが囚われ、監視されている理事長室。アデルが偽理事長の核心をついてからは、神妙な沈黙が流れるのみ。
核心とは、通り魔事件を引き起こす〝仮面の組織〟の真の目的――隠し通そうとする動機である。これ以上会話を続ければ、いつボロを出してしまうか分からないので、偽理事長は口を噤んだのだ。
そんな中、突如アデルは何の前触れも無く口を開き、その沈黙を破った。
「――ヒメ。そろそろ交代なのだ」
ここにはいないヒメに呼びかけたアデルを、偽理事長は怪訝そうに見下ろす。
アデルは通信機器を使える状態では無い上、通信術を行使している気配も感じ取れなかった。故に、この場所から遠く離れたヒメにその声を伝えることなど不可能。
つまり、唐突なアデルの呟きは独り言でしか無い。偽理事長はそう判断したからこそ、余計にアデルを不気味に思った。
『っ、待って欲しいのっ!マスター!ヒメたちはまだやれるのっ、ヒメたちはまだ負けていないのっ。必ずティンベル様を無事に連れ帰るのっ、だからっ……』
アデルにしか聞こえないその声は、非常に切迫しているようで、彼女自身の思いが犇々と伝わってくる。それでも、アデルは彼女の望みを聞き入れる訳にはいかなかった。
故に、アデルは敢えて厳しい口調で、ヒメに問いかける。
「ヒメ。我の言うことが聞けぬのであるか?」
『っ』
「ヒメ。そちらの状況はよく理解しているのだ。このままではティンベルだけでなく、我は大事な仲間まで失ってしまう……。我はヒメたちのことを、妹であるティンベルと同じぐらい、かけがえのない存在だと思っている。……我から、愛しい存在を奪わないで欲しいのだ。
――ヒメ……言うことを聞いてくれるであるか?」
『っ……わ、分かった……の……ごめんなさい、なの』
委縮したヒメの声を聞くと罪悪感が湧いてしまうが、アデルに彼女を労わる時間の余裕は無かった。
一方、訳の分からない独り言を続けているようにしか見えない偽理事長は、怪訝な眼差しを更に鋭くしていた。
問いただそうとしたその時。アデルは突如、ぐったりと項垂れ、うんともすんとも言わなくなってしまう。
――まるで、アデルの身体から、その魂が抜け落ちたようであった。
生気がまるで感じられず、微かな呼吸音すら聞こえない。思わず、偽理事長がアデルの生死を確認しようとした瞬間、変化は唐突に訪れるのだった。
********
『――跪け』
ガタンっ。
あまりにも一瞬の出来事に、誰もが息を呑み、言葉を失う。
ヒメの口からその言葉が発せられた途端、仮面の五人全員が、一斉に膝から崩れ落ちたのだ。仮面の彼らは誰一人として、今自身の身に何が起きているのか理解することが出来ていない。
脚に、一切の力が入らないのだ。
ヒメの口から発せられた、ジルの込められたその声を耳にした途端、脚の筋肉を奪われたかのような錯覚に陥り、抵抗することが出来なかった。
「な……な……何が…………起こっ、て……」
「どうして、足に力がっ……」
まるで、自分の身体が自分の物で無くなったかのような不気味な感覚に、彼らは全身を粟立たせる。自らを襲うこの状況が理解できず、彼らは目を泳がせながら困惑の声を上げることしか出来ない。
そんな中、当のヒメは首を傾けながら彼らを見下ろすのみ。ただ、その眼差しがあまりにも鋭く、凍てつくようで、場の空気を支配しているようだった。
そこにはもう、機械めいた瞳の姫君など、どこにも存在していなかったのだ。
茫然自失としているティンベルは、そんなヒメから目を離すことが出来ずにいる。
(一体……何が起こっているの……?)
そこにいるのは確かにヒメだというのに、放つ雰囲気、口調、佇まい、表情……。何もかもが違って見えた。
(あれは……誰?)
そんなティンベルの疑問を余所に、ヒメはぐるっと辺りを見回した。そして、ディアンたちの怪我の具合を確認すると、徐に歩き出す。
少しずつ、少しずつ。迷うことなく、ヒメはティンベルの元へと歩み寄った。道中、徐に腕を伸ばしたかと思うと、ティンベルを守っていた結界が消え去る。その行為が、ティンベルに治癒術を施す為であると気づけたのは、ディアンと皓然だけだろう。
一方、未だ立ち上がることの出来ない彼らは当惑しており、最早それどころではない。
「おっ、お前っ……一体何をしたっ!?」
『五月蠅い、黙れ』
「「っ」」
一人の男が声を荒げながら尋ねた刹那、ヒメは凍てつくような鋭い睨みを彼らに向けた。放ったその声にはやはりジルが込められており、脳に直接響くような奇妙な感覚があった。
そして「黙れ」と吐き捨てられた瞬間、彼らは掠れた声すら発することが出来なくなってしまった。
(こ、声がっ……出ないっ)
(喉がっ……絞られるようだ……)
首を絞められている状態とはまた違う、声が出ない感覚に、彼らは苦悶の表情を浮かべた。そんな彼らを気にも留めることなく視線を戻すと、ヒメは再び歩を進める。
「っ……」
そして、ティンベルのすぐ傍まで歩み寄ると、ヒメは徐にしゃがみ込んだ。ざわめく心臓を抑えながら、ティンベルはその動きに合わせて目線をゆっくりと下げる。二人の視線が交錯し、両者とも決して目を逸らさなかった。
――数秒後。不意にヒメは、その小さな口を開く。
「――遅くなってすまぬ。ティンベル」
「っ……!」
刹那、ティンベルは息を呑み、目を見開いた。衝撃と歓喜のあまり、一瞬呼吸を忘れてしまうほど。
声は確実にヒメのものだったが、ヒメではない。その独特な口調を、彼女は知っていた。
困った様な、優しい眼差しも。聞いているだけで微睡むような言葉運びも。発せられる空気でさえも――。
ティンベルは知っていたのだ。
記憶の中のその人を、何度も何度も思い起こしていたから。
ずっと、求めてやまなかったその人が、今目の前にいる人物かもしれない。そう思うと、呼吸は荒くなり、心臓も激しく脈を打っているというのに、ヒメを見上げる視線だけは一切揺るがない。
「っ……ふぅっ……はっ……は……」
瞳に膜を張りながら、ティンベルは声を震わせた。そして、待ち侘びていたその人の名前を、何とか呼ぼうと声を振り絞る。
あの別れの日からずっと、記憶の中の彼に想いを馳せながら、虚しく呟くことしか出来なかった、その名前を――。
「……あ…………アデル、兄様……」
ティンベルは久方ぶりに、誰かに向けて、その名前を呼んだ。小さく、かき消えてしまいそうな、震えた声で。
刹那、ティンベルの目に溜まっていた涙が一筋流れ、同時に彼は、慈しむような表情で微笑む。
「……うむ。やはりティンベルは聡いのだな……我の、自慢の妹である」
「っ……ああああっ……!」
泣き崩れるしかなかった。
そんな優しい声で、そんなことを言われてしまえば。湧き上がる感情のまま、さめざめと泣くことしか出来ない。
ティンベルは縋る様に、ヒメの姿をしたアデルに抱きつくと、溢れる感情を何とか言葉にしようと声を上げる。
「あでっ……アデル兄様っ……わた、私っ……」
「……寂しい思いを、させてしまったな。すまぬ、ティンベル」
困ったように眉を落とし、目を細めたアデルは、ティンベルの身体を優しく抱き返してやった。
声を詰まらせながら泣きじゃくるその姿は、アデルの目に鮮烈に映る。まるで、記憶の中の、あの幼い少女のようだったから。齢五の、世界の穢れをまだ知らないティンベルが、嫌だと駄々をこねて、泣きじゃくっているようだったから。
「いいえっ……いいえっ……ただっ、私は……アデル兄様に会いたかっただけなのですっ……。アデル兄様がっ、この世界のどこかで生きて……幸せでいてくれればそれでっ……ただそれをっ、確かめたかったのです……」
抱きつく腕を緩め、アデルの姿をその目に捉えたティンベルは、首を横に振りながらその思いを吐露した。
「我も……ティンベルが、大きく健やかに育ってくれれば、それだけで良かったのだ……本当に、立派に成長したであるな、ティンベル」
「アデル兄様……」
アデルはティンベルの頭にポンと手を置くと、嬉々とした相好を露わにした。そしてもう片方の手でティンベルの涙を優しく拭ってやると、アデルは悪戯っ子のような表情を見せる。
「泣き虫なところは、変わっていないみたいだがな」
「だっ、だって……アデル兄様が、急に現れるから……。っ、そうです。アデル兄様……そのお姿は、どういうことなのでしょう?」
ティンベルはふと我に返り、素朴な疑問をアデルにぶつけた。外見も声もヒメその者だというのに、中身だけがアデルという奇妙な状態の真相が、ティンベルは気になってしまったのだ。
「あぁ、これに関しては後で説明するとしよう。今はそれよりも、先にやるべきことがあるのでな…………皓然、ディアン」
「「はい」」
アデルが呼ぶと、二人は即座に跪き、首を垂れた。声を揃えたキリッとした返事も、アデルに対する忠誠心の表れである。思わずアデルは苦笑いを零すと、
「そう畏まらずともよいのだ。……まとめて治癒術を行使する故、こちらに来るといい」
そう言って、二人を手招いた。
両者とも傷が深い為、二人は足を引きずりながらゆっくりと、アデルの元へ歩み寄る。何とか辿り着き、しゃがみ込むと、アデルは早速治癒術を行使し始めた。
「アデル様のお手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
三人を同時に治癒するアデルに、皓然は頭を下げた。自らの不甲斐無さを責めているのか、その表情は暗い。
「気にするでない。我らは仲間……仲間が傷つけば駆けつける。当然ことであろう。それに、皓然に何かあれば林が悲しむ。もちろん、我を含めた皆も悲しむ。ディアンに関しても同じこと……我は、皆が悲しむ様を見たくは無いのだ。故に、これは我自身の為でもある。皓然が気に病むことは無い」
「はい……」
アデルが励ますと、皓然は頬を染め、少し照れたように首肯した。そんな二人の様子を、ティンベルはどこか呆けた表情で眺めている。
(仲間……)
ティンベルの知らないアデルが、そこにはいた。
ティンベルと離れ離れになった後、アデルがどのように生きてきたのか、彼女は知らない。アデルがどんな仲間たちと出会い、どんな経験をしたのか。ティンベルは何も知らないという事実を、突きつけられているようだった。
不意にティンベルは、皓然とディアンの身体に視線を向ける。彼らの負った傷がみるみるうちに塞がっていくのが目に見えて分かり、同時に自らの頭を襲っていた鈍い痛みが和らいでいくのを感じる。
「すごい……三人同時に治癒しているというのに、こんなにも早く完治してしまうなんて……」
「我の仲間には、更に凄まじい治癒能力を持つ者がいるのだ。この程度で驚いていては、これから大変であるぞ?」
心底楽し気な声と表情で、アデルは言った。そんなアデルを、やはりティンベルは知らなかった。
ティンベルの知るアデルは、あの地獄のような家に囚われていた頃のアデルだけ。悪魔の愛し子と蔑まれ、両親からは酷い虐待を受け、誰一人として守ってはくれなかった――あの頃のアデルだけなのだ。
あの頃も、ティンベルの前では優しく微笑んでくれていたが、こんな風に誰かを思って、幸せそうな笑みを浮かべたことは一度も無かった。アデルを変えてくれたのは、一体誰なのか――そんな疑問がティンベルの頭をよぎった。
(また仲間……。アデル兄様がレディバグの長だってことは、分かっていたはずなのに。こうして実際に、アデル兄様からお仲間の話を聞くと、何だかとても複雑な気分……。今まではこんなこと、考えもしなかった。……私の知らないアデル兄様と共に過ごしてきた彼らを、羨んでいるのかしら……。嫌だわ私……嫉妬なんて……)
あの日。あの地獄のような家から出るのだと、アデルがティンベルだけに告げたあの日。ティンベルは結局、最後にはアデルを引き止めなかった。こんな家に囚われ続けても、アデルが幸せになることは無いと分かっていたから。
だというのに、自らの知らぬ所で、全く知らない相手がアデルを幸せにしたのだと思うと、複雑な心境になってしまう自分自身を、ティンベルは恥じた。
そんなティンベルの思いなど露知らず。アデルは三人の治癒を終わらせると、ホッとため息をついた。
「――よし。これで一安心であるな。……あとは此奴らをどうするかだが」
「「っ」」
再び、アデルの鋭い眼差しを向けられ、仮面の彼らはビクッと肩を震わせた。彼らももう、分かっているのだ。
目に前に佇む少女がヒメなどでは無く、レディバグの長――アデル・クルシュルージュであるということを。そして例え、五人束になって挑んだとしても、彼らでは手も足も出ない程の強者が相手なのだということを。
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