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第一章 学園編
番外編 ある師弟の再会
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これは、レディバグと勇者一族が交わりを持つ約三年前。しんしんと雪が降り始めた頃――。
ある幼子が生まれ、ある師弟――親子が二年ぶりの再会を果たした日の物語である。
********
あの日――。
アデルという、たった一つの心残りを抱えたまま、残酷な死を迎えたあの日から。
エルは、夢の中にいるような、温かい湯の中に浮かんでいる様な。そんな現実味の無い世界の中、ただただ存在していた。
自分が死んだという自覚はありながらも、それ以上は何も考えられない。考えようとも思わない。
暗然とした世界の中でただ一人、ポツリと存在しているだけではあったが、アデルが傍にいる様な温かさを常に感じていたからこそ、不思議と孤独は感じなかった。
何の根拠も確信も無かったが、エルは何となく、この空間で過ごす時間が一生続くのだろうと思っていた。
だが――。急転とは、いつでも唐突に訪れるものである。
********
エルが最初に感じたのは、耐え難い程の寒さだった。自分は今、途轍もない寒さの中、碌な防寒も施されないまま、放り出されている。それだけは理解できた。
身体は毛布のような物で包まれているおかげでまだ耐えられるが、何の防御も無い顔に関して言えば、冷たすぎて感覚が無いほど。
しんしんと降る雪が頬の上に落ちるが、最早その程度の冷気で顔を顰められる状態ですらない。頬も冷え切っているせいで、落ちてきた雪が溶けるのにも時間がかかり、これ以上何もしなければ、顔が雪で覆われてしまうだろう。
(……何がどうなっているんだ?僕は今どこにいる?……この寒さだ。屋外であることは間違いないが……。取り敢えず、目を開けなければ)
エルは恐る恐る瞼を開けてみるが、その眩さに一瞬怯んでしまう。何故なら辺りは一面真っ白――完全なる雪の世界と化していたからだ。
長きに渡り闇の中で過ごしていたエルにとって、その白は狂気的な眩さを孕んでいた。
真正面――憎たらしいほど青い空から逃げるように首を動かしてみると、色々と視覚的な情報が手に入った。
――だが、不意に自身の身体を見下ろした瞬間、エルは言葉を失うこととなる。
(……………………は?)
見慣れた、細く長い手足はどこにも無く、その面影すらない。毛布を掛けられているので詳細までは不明だが、明らかに成人した人間の身体では無かった。見下ろす先の身体が短すぎる上、今自分自身が収まっている籠自体が大した大きさでは無いのだ。
それこそ、赤ん坊を入れるような……。
(……ん?)
その考えが浮かんだ瞬間、嫌な予感がエルの頭を駆け巡り、元々冷たい顔からサァっと血の気が引いていく。
気づいてしまえば確かめずにはいられず、エルは急いで声を発そうと口を開く。
「っ……っ……う……ぁっ……」
その情けない、言葉にも満たない声に、エルはガクリと項垂れてしまう。自分は言葉を発することも出来ない程幼いのか?――そんな予感が頭をよぎる。
そして何より、発せられた声は、聞き慣れたエルの声では無かった。それはつまり、既にこの身体は、慣れ親しんだ自身の身体では無いということ。
(状況を整理しなければ……。僕はあの日悪魔に殺されて死んだはず……つまりこれは、輪廻転生?だけどその場合、僕の記憶が残っていることが不可解だ。それともただの夢?他に考えられる可能性は、何らかの術をかけられたか……だけど、こんなことをして一体何の得が……。
……そうだ。アデルは?アデルは今、どうして……っ!)
自分自身が置かれている状況を理解できないあまり、そのことを完全に思考から追いやっていたエルは、段々と焦りを滲ませていく。
エルが殺されたその瞬間、アデルは悪魔と対峙していた。だがそれ以降のことを、エルは当然知る由もない。
――アデルは一体どうしたのか?悪魔は、アデルをどうしたのか?
想像するだけで寒気がするというのに、想像するのをやめることが出来ない。考えられる範囲での最悪は、アデルが悪魔への復讐を決意し、悪魔の返り討ちに遭い、既に死んでいること。
例え死んでいなかったとしても、アデルがあの悪魔に取り込まれている可能性は十分にあった。想像できる範囲での最善は、両者が互いに不干渉であることだ。だがそれは、エルの考え得る可能性の中で、最も低い可能性でもあった。
何故なら、あのアデルが、師匠を殺されて黙っているわけが無いから。
それは自惚れでも何でもなく、純然たる事実であった。
あれ程までに嘘を知らない――というよりも、嘘がド下手くそな人間を、エルは他に知らない。そんなアデルが、エルの顔を見る度に、毎度毎度懲りもせず、心底嬉しそうな満面の笑みを浮かべていれば、誰だって感じるだろう。
アデルのエルに対する、誤魔化しようの無いほど深い親愛を。
彼からの親愛を信じているからこそ、不安は募った。アデルは生きているのか?殺されてはいないか?そんな不安ばかりが頭を支配し、最早今自分が置かれている状況を打開する策を練る余裕など、エルには無かった。
はぁぁ、と。苦し気に吐いた息が白く広がる。その白が、自分自身の顔へと帰ってくるのを、呆然と眺めていた時だった。
それが、視界に入ってきたのは。
「「…………」」
黒。
雪降りしきる白の世界に、突如現れたその色は、エルの心を落ち着かせるには十分すぎた。
エルの目と、彼の赤い瞳がバチっと合い、互いにその目を逸らすことが出来ない。エルを覗き込むその人は、エルの記憶よりも大人びた顔つき、精悍な身体つきになっていた。
それでも。それでも、分かるに決まっていた。分からないはずがなかった。死ぬまでの八年間、共に過ごしてきたのだから。
――ただ、生きていてくれた。
それだけで、エルはつーっと涙を流した。憂いも、不安も、その全てが解けていくように、涙が頬を伝っていく。
アデルが生きていたという、アデルが無事であったという、ただそれだけで。
もう一度殺され、死んだっていい――。新たな命など、生など、不必要だと――。
心の底から、本気でそう思える程、エルは満ち足りた気持ちになった。
エルの涙を目の当たりにしたアデルはハッと目を見開くと、その口を開く。
「師匠……?」
「っ」
こんな姿だというのに、どうして分かるんだ。そんな疑問をぶつけてやりたかったが、如何せん言葉を発することが出来ないので、無意味な白い息が吐き出されるだけである。
同時に、エルは悟った。この状況を作り出したのは、目の前にいるアデルなのでは無いかと。こんなにもタイミングよく現れ、赤子の姿である自身を即座にエルだと断定した二点を踏まえると、その結論に至ったのだ。
「師匠っ、我のことが分かるであるか?アデルなのだっ」
「っ……あ、うぅ……」
「っ!声がまだ出せないのであるな。少し待つのだ、師匠。今暖かい場所に転移するのでな」
そう言うと、アデルはエルの収まっている籠ごとエルを持ち上げると、即座に転移術を行使した。
刹那、じんわりと身体全体が温かくなる感覚に、エルは思わず目を見開く。
「あ!アッデルんおっかえりー!ワンコお師匠様見つかった?」
「うむ。見つかったのだ。ただ、意思の疎通が出来ず困っておるのだ」
誰だ……?思わずエルは、怪訝そうに顔を顰めてしまう。心底嬉しそうにアデルを呼んだ、その快活な声をエルは知らなかった。明らかに、知らない人物であった。
そんな、エルの知らない人物が、随分と親しげにアデルと会話しているという事実が、エルには信じられなかった。何故なら悪魔の愛し子は、この世界における嫌悪と恐怖の対象。エル自身にそういった差別意識は無かったが、その他大勢となると話は別だ。
悪魔の愛し子は迫害して当然、差別して当然、嫌って当然。この認識が罷り通る世の中なのだから。
……だというのに、自らの弟子はエルが眠っている間に、一体全体何をやってのけたのだ?と、エルは当惑してしまった。
「言葉が話せないのであれば、本などを使って、一文字ずつ指してもらえば良いのではないでしょうか?」
「なるほど!流石はルークなのだ」
また知らない、別の男の声がする……と、エルは段々と不安になってきた。何故なら、アデルと親しげに会話する人物が、一人や二人どころの話では無くなってきたからだ。怖いもの見たさで、エルは恐る恐る首を動かしてみると、衝撃のあまりひゅっと息を呑んだ。
(な、七人もいる……)
アデルと自身を取り囲む人間が七人もいる――つまり、アデルと親しくしている者が少なくとも七人はいるということ。
エルとアデルの二人きりの生活しか知らないエルが衝撃を受けるのも、無理は無かった。
(し、しかも。僕の感覚が狂っていなければ、悪魔っぽい奴がいるんだけど……マジでアデル、何したんだ……?)
エルが怯える間にも、アデルたちの間で着々と話は進んでおり、気づけばエルはアデルの腕の中にいた。そして、目の前に何てことの無い本を突きつけられる。
「師匠。何か聞きたいことや、言いたいことがあれば、文字を一つずつ指して教えて欲しいのだ」
「……」
聞きたいこと……聞きたいこと、ねぇ……と、エルは思考を巡らせる。巡らせた結果、直近に潜んでいた疑問――問いたださなければならないことに狙いを定め、エルは一文字ずつ言葉を紡ぐことにした。
ゆっくりと、本の中の文字を探りながら、エルは一文字ずつ指していく。そしてアデルたちは、食い入るようにその指の動きを追った。
最後の一文字を指し終えると、彼らは頭の中で全ての文字を並べ、エルの第一声へと変換する。瞬間、彼らは思わず目を点にした。
何故なら、エルの第一声は――。
『君、いつの間にそんなコミュ力身につけたんだい』
であったから。
「「…………」」
彼らが想定していたのは、現在の状況説明を求めるような文言や、初歩的な事実確認。まさかこんなことを聞かれるとは思ってもみなかったので、全員が茫然自失としてしまう。
沈黙を破ったのはアデル。彼は、堪え切れなくなったように吹き出した。
「ぶっ……あははっ……!最初に聞くことが、それであるかっ?……あははっ……」
アデルが哄笑するのを、エルはどこか不満気な眼差しで見上げている。生涯ボッチだったエルとしては、こんなにも多くの仲間を得たアデルからその術を聞き出すことは、かなりの重要事項だったのだが、それを軽視されたような態度が癪に障るのだ。
涙を浮かべる程破顔しているアデルではあるが、段々とその笑い声に力が無くなっていく。その変化を逸早く察知したエルは、赤子の無垢な瞳をまん丸にして、アデルを見上げた。
その先にあったのは、今にも泣きだしそうな顔で、へにゃりと笑って見せるアデルの姿。その雫がポタっ……と、エルの頬に落ち、エルは目を見開いた。
「師匠、らしいのだ……本当に……」
「っ……」
あぁ、どうして。どうしてこんな時に、自分はアデルの名前を呼んでやれないんだ。
エルは自らの不甲斐無さと、世の理不尽に嘆いた。ずっと、呼んでやりたいと思っていたというのに。
――あの日、あの時。絶望の色に染まったアデルを。その名前を、呼んでやれなかったことが、何よりも心残りだったというのに。
目の前で涙を流す弟子に、我が子に、名前を呼んで「大丈夫だ」と声をかけることすら出来ないことが、エルの胸を更に締め付けた。
君が生きてくれただけで、僕は十分に満たされている――恥ずかしげもなく、そう伝えてやりたかった。
だから――。
「っ!……師匠?」
エルは、すっかり短くなった右腕を目一杯伸ばして、アデルの眼前に突き出した。思わずアデルは当惑し、首を傾げるが、何かを必死に掴もうとするエルの手を前に、彼女の意図を察する。
アデルは恐る恐る、エルの手元に自身の人差し指を差し出す。すると、エルはその指を、ふっくらとした弱々しい右手でぎゅっと握った。途端、アデルの表情がクシャっと崩れ、瞳に透明な膜が再び張られる。
アデルの指を握った瞬間、エルは優しく微笑んだ。大丈夫だと、そんな思いが届くように。この時ばかりは、アデルを慰めてやることが出来るのは、この世でたった一人――自分しかいないと分かっていたから。
「……おかえりなのだ、師匠」
こうして。アデルとエル――師と弟子は、二年ぶりの再会を果たしたのだった。
ある幼子が生まれ、ある師弟――親子が二年ぶりの再会を果たした日の物語である。
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あの日――。
アデルという、たった一つの心残りを抱えたまま、残酷な死を迎えたあの日から。
エルは、夢の中にいるような、温かい湯の中に浮かんでいる様な。そんな現実味の無い世界の中、ただただ存在していた。
自分が死んだという自覚はありながらも、それ以上は何も考えられない。考えようとも思わない。
暗然とした世界の中でただ一人、ポツリと存在しているだけではあったが、アデルが傍にいる様な温かさを常に感じていたからこそ、不思議と孤独は感じなかった。
何の根拠も確信も無かったが、エルは何となく、この空間で過ごす時間が一生続くのだろうと思っていた。
だが――。急転とは、いつでも唐突に訪れるものである。
********
エルが最初に感じたのは、耐え難い程の寒さだった。自分は今、途轍もない寒さの中、碌な防寒も施されないまま、放り出されている。それだけは理解できた。
身体は毛布のような物で包まれているおかげでまだ耐えられるが、何の防御も無い顔に関して言えば、冷たすぎて感覚が無いほど。
しんしんと降る雪が頬の上に落ちるが、最早その程度の冷気で顔を顰められる状態ですらない。頬も冷え切っているせいで、落ちてきた雪が溶けるのにも時間がかかり、これ以上何もしなければ、顔が雪で覆われてしまうだろう。
(……何がどうなっているんだ?僕は今どこにいる?……この寒さだ。屋外であることは間違いないが……。取り敢えず、目を開けなければ)
エルは恐る恐る瞼を開けてみるが、その眩さに一瞬怯んでしまう。何故なら辺りは一面真っ白――完全なる雪の世界と化していたからだ。
長きに渡り闇の中で過ごしていたエルにとって、その白は狂気的な眩さを孕んでいた。
真正面――憎たらしいほど青い空から逃げるように首を動かしてみると、色々と視覚的な情報が手に入った。
――だが、不意に自身の身体を見下ろした瞬間、エルは言葉を失うこととなる。
(……………………は?)
見慣れた、細く長い手足はどこにも無く、その面影すらない。毛布を掛けられているので詳細までは不明だが、明らかに成人した人間の身体では無かった。見下ろす先の身体が短すぎる上、今自分自身が収まっている籠自体が大した大きさでは無いのだ。
それこそ、赤ん坊を入れるような……。
(……ん?)
その考えが浮かんだ瞬間、嫌な予感がエルの頭を駆け巡り、元々冷たい顔からサァっと血の気が引いていく。
気づいてしまえば確かめずにはいられず、エルは急いで声を発そうと口を開く。
「っ……っ……う……ぁっ……」
その情けない、言葉にも満たない声に、エルはガクリと項垂れてしまう。自分は言葉を発することも出来ない程幼いのか?――そんな予感が頭をよぎる。
そして何より、発せられた声は、聞き慣れたエルの声では無かった。それはつまり、既にこの身体は、慣れ親しんだ自身の身体では無いということ。
(状況を整理しなければ……。僕はあの日悪魔に殺されて死んだはず……つまりこれは、輪廻転生?だけどその場合、僕の記憶が残っていることが不可解だ。それともただの夢?他に考えられる可能性は、何らかの術をかけられたか……だけど、こんなことをして一体何の得が……。
……そうだ。アデルは?アデルは今、どうして……っ!)
自分自身が置かれている状況を理解できないあまり、そのことを完全に思考から追いやっていたエルは、段々と焦りを滲ませていく。
エルが殺されたその瞬間、アデルは悪魔と対峙していた。だがそれ以降のことを、エルは当然知る由もない。
――アデルは一体どうしたのか?悪魔は、アデルをどうしたのか?
想像するだけで寒気がするというのに、想像するのをやめることが出来ない。考えられる範囲での最悪は、アデルが悪魔への復讐を決意し、悪魔の返り討ちに遭い、既に死んでいること。
例え死んでいなかったとしても、アデルがあの悪魔に取り込まれている可能性は十分にあった。想像できる範囲での最善は、両者が互いに不干渉であることだ。だがそれは、エルの考え得る可能性の中で、最も低い可能性でもあった。
何故なら、あのアデルが、師匠を殺されて黙っているわけが無いから。
それは自惚れでも何でもなく、純然たる事実であった。
あれ程までに嘘を知らない――というよりも、嘘がド下手くそな人間を、エルは他に知らない。そんなアデルが、エルの顔を見る度に、毎度毎度懲りもせず、心底嬉しそうな満面の笑みを浮かべていれば、誰だって感じるだろう。
アデルのエルに対する、誤魔化しようの無いほど深い親愛を。
彼からの親愛を信じているからこそ、不安は募った。アデルは生きているのか?殺されてはいないか?そんな不安ばかりが頭を支配し、最早今自分が置かれている状況を打開する策を練る余裕など、エルには無かった。
はぁぁ、と。苦し気に吐いた息が白く広がる。その白が、自分自身の顔へと帰ってくるのを、呆然と眺めていた時だった。
それが、視界に入ってきたのは。
「「…………」」
黒。
雪降りしきる白の世界に、突如現れたその色は、エルの心を落ち着かせるには十分すぎた。
エルの目と、彼の赤い瞳がバチっと合い、互いにその目を逸らすことが出来ない。エルを覗き込むその人は、エルの記憶よりも大人びた顔つき、精悍な身体つきになっていた。
それでも。それでも、分かるに決まっていた。分からないはずがなかった。死ぬまでの八年間、共に過ごしてきたのだから。
――ただ、生きていてくれた。
それだけで、エルはつーっと涙を流した。憂いも、不安も、その全てが解けていくように、涙が頬を伝っていく。
アデルが生きていたという、アデルが無事であったという、ただそれだけで。
もう一度殺され、死んだっていい――。新たな命など、生など、不必要だと――。
心の底から、本気でそう思える程、エルは満ち足りた気持ちになった。
エルの涙を目の当たりにしたアデルはハッと目を見開くと、その口を開く。
「師匠……?」
「っ」
こんな姿だというのに、どうして分かるんだ。そんな疑問をぶつけてやりたかったが、如何せん言葉を発することが出来ないので、無意味な白い息が吐き出されるだけである。
同時に、エルは悟った。この状況を作り出したのは、目の前にいるアデルなのでは無いかと。こんなにもタイミングよく現れ、赤子の姿である自身を即座にエルだと断定した二点を踏まえると、その結論に至ったのだ。
「師匠っ、我のことが分かるであるか?アデルなのだっ」
「っ……あ、うぅ……」
「っ!声がまだ出せないのであるな。少し待つのだ、師匠。今暖かい場所に転移するのでな」
そう言うと、アデルはエルの収まっている籠ごとエルを持ち上げると、即座に転移術を行使した。
刹那、じんわりと身体全体が温かくなる感覚に、エルは思わず目を見開く。
「あ!アッデルんおっかえりー!ワンコお師匠様見つかった?」
「うむ。見つかったのだ。ただ、意思の疎通が出来ず困っておるのだ」
誰だ……?思わずエルは、怪訝そうに顔を顰めてしまう。心底嬉しそうにアデルを呼んだ、その快活な声をエルは知らなかった。明らかに、知らない人物であった。
そんな、エルの知らない人物が、随分と親しげにアデルと会話しているという事実が、エルには信じられなかった。何故なら悪魔の愛し子は、この世界における嫌悪と恐怖の対象。エル自身にそういった差別意識は無かったが、その他大勢となると話は別だ。
悪魔の愛し子は迫害して当然、差別して当然、嫌って当然。この認識が罷り通る世の中なのだから。
……だというのに、自らの弟子はエルが眠っている間に、一体全体何をやってのけたのだ?と、エルは当惑してしまった。
「言葉が話せないのであれば、本などを使って、一文字ずつ指してもらえば良いのではないでしょうか?」
「なるほど!流石はルークなのだ」
また知らない、別の男の声がする……と、エルは段々と不安になってきた。何故なら、アデルと親しげに会話する人物が、一人や二人どころの話では無くなってきたからだ。怖いもの見たさで、エルは恐る恐る首を動かしてみると、衝撃のあまりひゅっと息を呑んだ。
(な、七人もいる……)
アデルと自身を取り囲む人間が七人もいる――つまり、アデルと親しくしている者が少なくとも七人はいるということ。
エルとアデルの二人きりの生活しか知らないエルが衝撃を受けるのも、無理は無かった。
(し、しかも。僕の感覚が狂っていなければ、悪魔っぽい奴がいるんだけど……マジでアデル、何したんだ……?)
エルが怯える間にも、アデルたちの間で着々と話は進んでおり、気づけばエルはアデルの腕の中にいた。そして、目の前に何てことの無い本を突きつけられる。
「師匠。何か聞きたいことや、言いたいことがあれば、文字を一つずつ指して教えて欲しいのだ」
「……」
聞きたいこと……聞きたいこと、ねぇ……と、エルは思考を巡らせる。巡らせた結果、直近に潜んでいた疑問――問いたださなければならないことに狙いを定め、エルは一文字ずつ言葉を紡ぐことにした。
ゆっくりと、本の中の文字を探りながら、エルは一文字ずつ指していく。そしてアデルたちは、食い入るようにその指の動きを追った。
最後の一文字を指し終えると、彼らは頭の中で全ての文字を並べ、エルの第一声へと変換する。瞬間、彼らは思わず目を点にした。
何故なら、エルの第一声は――。
『君、いつの間にそんなコミュ力身につけたんだい』
であったから。
「「…………」」
彼らが想定していたのは、現在の状況説明を求めるような文言や、初歩的な事実確認。まさかこんなことを聞かれるとは思ってもみなかったので、全員が茫然自失としてしまう。
沈黙を破ったのはアデル。彼は、堪え切れなくなったように吹き出した。
「ぶっ……あははっ……!最初に聞くことが、それであるかっ?……あははっ……」
アデルが哄笑するのを、エルはどこか不満気な眼差しで見上げている。生涯ボッチだったエルとしては、こんなにも多くの仲間を得たアデルからその術を聞き出すことは、かなりの重要事項だったのだが、それを軽視されたような態度が癪に障るのだ。
涙を浮かべる程破顔しているアデルではあるが、段々とその笑い声に力が無くなっていく。その変化を逸早く察知したエルは、赤子の無垢な瞳をまん丸にして、アデルを見上げた。
その先にあったのは、今にも泣きだしそうな顔で、へにゃりと笑って見せるアデルの姿。その雫がポタっ……と、エルの頬に落ち、エルは目を見開いた。
「師匠、らしいのだ……本当に……」
「っ……」
あぁ、どうして。どうしてこんな時に、自分はアデルの名前を呼んでやれないんだ。
エルは自らの不甲斐無さと、世の理不尽に嘆いた。ずっと、呼んでやりたいと思っていたというのに。
――あの日、あの時。絶望の色に染まったアデルを。その名前を、呼んでやれなかったことが、何よりも心残りだったというのに。
目の前で涙を流す弟子に、我が子に、名前を呼んで「大丈夫だ」と声をかけることすら出来ないことが、エルの胸を更に締め付けた。
君が生きてくれただけで、僕は十分に満たされている――恥ずかしげもなく、そう伝えてやりたかった。
だから――。
「っ!……師匠?」
エルは、すっかり短くなった右腕を目一杯伸ばして、アデルの眼前に突き出した。思わずアデルは当惑し、首を傾げるが、何かを必死に掴もうとするエルの手を前に、彼女の意図を察する。
アデルは恐る恐る、エルの手元に自身の人差し指を差し出す。すると、エルはその指を、ふっくらとした弱々しい右手でぎゅっと握った。途端、アデルの表情がクシャっと崩れ、瞳に透明な膜が再び張られる。
アデルの指を握った瞬間、エルは優しく微笑んだ。大丈夫だと、そんな思いが届くように。この時ばかりは、アデルを慰めてやることが出来るのは、この世でたった一人――自分しかいないと分かっていたから。
「……おかえりなのだ、師匠」
こうして。アデルとエル――師と弟子は、二年ぶりの再会を果たしたのだった。
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