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第一章 学園改革のメソッド
学園改革のメソッド15
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「そんなことない。確かに遥音は口悪いけど、警察官に向いてないなんてこと、絶対に無い」
「だが…………父親に言われたんだ。お前は警察官になる必要は無いと」
明日歌の言葉を聞いた遥音は一瞬顔を上げたが、すぐに表情に愁色を見せるとポツリと呟いた。遥音の力のない言葉を耳にした明日歌は、彼の低い自己評価の原因の一つを垣間見たように感じる。
警視総監、つまりは現職の刑事にそんなことを言われたのなら、確かに遥音が自信を無くすには十分すぎる経験だろう。
幼い頃、父の背中を見て刑事に憧れた遥音は、その気持ちを父親に告げようとした。だがそれを伝える前に、遥音の父は「警察官になる必要はない」と言い放ったのだ。
遥音にとって絶対的な存在である父のその言葉は、幼心に傷をつけるには十分すぎるものだった。普段あまり会話をしない父親との思い出で、遥音にとって最も印象的なものがこれなのだ。
「ねぇ、それって本当に向いてないっていう意味なのかな?」
「……なに?」
ふと疑問に思ったことを呟く明日歌に遥音は怪訝そうな声で尋ねた。遥音が長年抱えてきた絶対的な思い出を根底から覆すような疑問を明日歌から投げかけられたことで、遥音はかなり動揺しているのだ。
「警察官になる必要はないって、別になるなって言ってるわけじゃないよね?必要はない、なんだから」
「それは……」
明日歌の言うことは尤もで遥音は反論の言葉を紡ぐことが出来ない。遥音の父親の言葉を解釈すれば、警察官になろうがなるまいがどっちでも良いという意味に捉えることが出来るからだ。
「遥音のお父さんは、自分が刑事だからって無理して同じ職に就かなくても良いって、そう伝えたかったんじゃない?」
「だが、それならそうと……」
明日歌の推測は否定できないものだったが、それでも長年の固定観念を覆すには足りないのか、遥音は当惑したように言い淀んだ。
「でも遥音のお父さんだよね?つまりは不器用代表みたいな遥音の源になっている人だよね?」
「お前俺のことをそんな風に見ているのか」
失礼極まりない自分への認識に、遥音は思わず普段通りのしかめっ面を垣間見せる。
だが遥音にも自分が不器用である自覚はあり、明日歌の意見は一理あるものだと理解していた。遥音は他人に自分の気持ちを伝えたりすることが苦手な上、苛つきやすい性格から近寄りがたい雰囲気を放っている。
なので明日歌の不器用という評価も仕方のないことだと自覚しているのだ。
「だから、遥音のお父さんも上手く伝えられなかっただけじゃない?」
「…………」
明日歌の優しい言葉に、遥音はあの時の記憶を鮮明に思い出そうとする。
********
『お、お父さん。あのね、僕……将来は』
『お前は、警察官になる必要は無いんだぞ』
『えっ……』
そう言って自分を見下ろしてきた父親の表情がどうだったか、遥音ははっきり思い出すことが出来ない。遥音にとって印象的だったのは、その強烈な言葉だけで父の声音も表情も、遥音はキチンと目にしていなかったことを自覚する。
それでも、必死に思い出す。あの時の父の顔は確か眉を下げていて、困っているようではなかったか。声音も普段より優し気ではなかっただろうか。遥音は、今になって初めてそのことを思い出した。
********
「…………」
朧気に思い出した記憶に、遥音は思わず言葉を失う。遥音は今初めて、幼い頃の朧気な記憶と辛い印象で思い込みをし、事実を捻じ曲げて記憶していたことに気づいたのだ。
「ねぇ、遥音。例えお父さんが本当に遥音のことを刑事に向いていないって思っていたとしても、私はそうは思わないよ。だって、友達でもない私の落とし物、当たり前みたいに探してくれたじゃん」
「それは……人として当然の……」
明日歌は遥音が刑事に向いていると思った理由を告げた。明日歌のことを疎ましく思っていたはずの遥音が、何の見返りも求めずハンカチ探しを手伝ってくれたことは、彼女にとって希少な価値そのものだったのだ。
だが遥音にとってそれは呼吸するように当たり前のことで、明日歌が褒め称える程特質するものではなかったので彼は当惑してしまう。
「それを当たり前だと思えるから、遥音はいいんだよ。それに私が遥音を誘った理由、分かってる?」
「理由?」
明日歌に確認され、遥音は彼女に理由を尋ねていなかったことに漸く気付いた。明日歌はまだ自身の目標としているクラスを作り上げていない。つまりそのクラスが出来上がるのは、一人目のクラスメイトが加入する瞬間なのだ。
そんな大事な一人目に遥音を選んだ理由が何なのか、遥音には全く見当がつかなかった。
「遥音さ、クラスで苛められてた子を庇って、標的にされちゃったんでしょ?」
「……どうしてそれを?」
遥音が一人屋上に居続ける理由を明日歌が知っていたことに、遥音は驚愕の表情を見せる。
明日歌の言う通り、遥音が苛めの標的となり教室に居場所を失ったのは、先に苛められていた生徒を庇ったことが原因だ。
本人に自覚は無いが、正義感の強い遥音。そんな遥音に、見ているだけで気分が悪くなる様な苛めを見て見ぬふりなど当然できず、彼はいじめられっ子を救おうとした。結果、そのいじめられっ子は救われた。標的が遥音に変わったからだ。
苛めを救う救世主から苛めの被害者になってしまった遥音だが、本人は大して気にしていなかった。遥音はそこまで柔な人間ではなかったし、遥音が救った生徒がまた苛められることもなかったので、それで満足だったのだ。
だが苛めを気にせず学校に通い続けた遥音でも、少々参ってしまうことがある日起きた。
遥音が救った元いじめられっ子の生徒からも、彼は苛められてしまったのだ。もちろんその人物が再び苛められるのを恐れ、仕方なく苛めに加担してしまったことを遥音は理解していた。
それでも遥音は少し考えてしまった。一体何のために自分はあの生徒を救ったのだろうかと。
苛められたからではない。遥音は救った被害者を、加害者にしてしまったことを悔やみ、思い悩んでしまったのだ。
苛めによる恐怖で加害者にしてしまうのなら、自分が教室にいない方が良いのではないかと考えた遥音は、あの屋上に足を踏み入れた。
「あのね、知らなくても仕方ないと思うけど、私と遥音ってクラスメイトなんだよ」
「…………お前A組なのか」
「うん。学校が決めたクラスはそう」
そんな過去について明日歌が知っていた理由を聞いた遥音は、呆けた面で呟いた。同時に遥音はこの時初めて、明日歌が普段学校のどこで過ごしているのかを全く知らないことに気づいた。
明日歌と遥音の本来のクラスは同じ一年A組。明日歌が教室を訪れることはほとんど無いが、何かしらの用で時たま来ることがあった。その過程で明日歌は遥音のことを知ったのだ。
「なるほどな」
「遥音が苛められてた子を助けた時、この狂い始めている学園にもまだこんな奴がいるんだって、私少し泣けてきちゃったんだ」
静かに笑う明日歌の瞳は物憂げで、彼女のこの学園に対する感情が表れているようだった。青ノ宮学園は昔からおかしい訳では無い。苛めが頻発するようになったのはここ最近で、余計にその変化が顕著に表れている。
だが人間は良い意味でも悪い意味でも順応性が高い。ほとんどの生徒たちがあっさりと悪い方向へと流れてしまったのだ。
その状況下で加害者でも被害者でもなく、毅然とした態度で生徒を助けた遥音の姿は、明日歌にとって希望以外の何物でもなかったのだ。
「だから。最初のクラスメイトは絶対に遥音が良いと思った。遥音となら、この学園を変えられるって。ここでも強く生きられるって、そう思ったの」
明日歌の言葉に遥音は目を奪われる。遥音はここまで誰かに、自分という存在を特別に求められたことが無かった。それ故に目の前の明日歌の存在は遥音にとって眩く、とても力強い者に感じられる。
「遥音。私の仲間になる云々は置いといて、決着をつけに行こうよ」
「決着?」
「遥音、アイツらに言いたいこと言ってないでしょ?」
アイツらとはこうなってしまった元凶であり、遥音を苛めた生徒たちのことだ。遥音は苛めに対して抵抗することもあまりなく、何か文句を言うこともないまま教室を離れた。もちろん遥音が苛めから救った生徒にも、何か告げたりはしなかった。恨み言も、励ます言葉も、遥音は何もかけなかった。
「……ふん、そうだな。お前のクラスメイトになる前に、一度言いたいことをぶちまけに行くか」
「え……」
「ぼさっとするな。行くぞ」
遥音が何と無しに零した発言に、明日歌は困惑の色を滲ませる。だが当の本人は恐らく自分が何を言ったのかきちんと理解していないのか、何でもないように明日歌の手を引いた。
遥音が素直な人間でないことは明日歌にも分かっている。そんな遥音が動揺することなく、明日歌の仲間になることを承諾する様な発言をしたということは、本人にその自覚がないからだ。
それらに気づいた明日歌は苦笑いを浮かべつつ、遥音の力強い背中を見つめるのだった。
********
学校の休み時間、遥音と明日歌は一年A組の教室に訪れた。ここしばらく姿を見せていなかった遥音が突然現れたことで、教室内は特有の嫌な空気で充満してしまう。
嘲笑う声、小声で話し合う声、関わらないように目を逸らす者。そういった雰囲気は遥音も明日歌もよく知るものだ。
「んだよ結城。この間は逃げてった癖に今更来やがって……教室がゴミ臭くなるからやめろよなぁ。みんなの迷惑考えろよ。なぁ?みんなもそう思うよなぁ」
遥音の存在に気づいた男子生徒は、耳が汚れる様な暴言で遥音を責め立てた。この男子生徒が、元凶のいじめっ子で明日歌は思わず顔を顰める。
男子生徒の問いかけに、クラスメイトの反応は二つに分かれた。面白がって肯定する者と、気まずそうに答えを濁す者。だが遥音にはどうでもいい雑音でしかなかった。
「内藤一輝。国語四二点、数学二八点、英語三九点、理科三三点、社会五〇点」
「は?」
下劣な笑みで男子生徒が遥音を見下していると、唐突にそんな情報だけが遥音の口から発せられた。男子生徒――内藤一輝が思わず間の抜けた様な声を出し、他のクラスメイトも何のことか分からず当惑している。
「これは二学期中間試験のお前の成績だ。この学園は悪趣味なことに試験の順位、総合点数だけではなく、各教科の事細かな点数まで張り出してくれる。どうやらプライバシー、デリカシーという言葉を知らないらしい」
「お前……」
ここで漸く、自身が馬鹿にされていることを悟った内藤は顔を歪ませて遥音を睨みつける。だが一方で、明日歌や他のクラスメイト達は他の理由で目を見開いていた。
遥音はわざわざ自分を苛めた人間に固執して、その成績を覚えようとする人間ではない。それは明日歌が一番理解しているだろう。だが遥音は内藤の成績を言い当てていた。それは彼の悔し気な反応で一目瞭然である。
つまり遥音は、少なくともこのクラス全員の成績を把握しているということになるのだ。試験ごとに張り出される結果を目に焼き付け、毎回記憶しているということだ。
「別に俺は世の中頭の良さが全てだとは思っていない。だがこの社会を生き抜くには、どうやったって教養が必要になる。少なくとも、今お前がしている下らん行為などよりよっぽど必要だ」
「カースト最下層が俺にお説教かよ」
腕を組み、つらつらと純然たる事実を述べた遥音。正論とは時に、浴びせられる人間にとって大きすぎるダメージになる。なので内藤は苛立った様子で言葉を絞り出し、遥音を嘲笑った。
「違う。俺は自分を苛めた人間を正すほどお人好しではない。俺が言いたいことを言いに来ただけだ。はっきり言おう。お前は頭が悪い。顔も悪い。運動神経も良くない。何か特質した才能が今現在ある訳でもない。お前はそんなコンプレックスを誤魔化すために他者を貶め見下ろし、上位にいるという錯覚でしか自分を守ることができない愚か者だ。確かに今のお前はこの教室という狂った空間の中では勝者なのかもしれない。事実、お前に逆らう者はおらず、お前は自分のしたいようにこの学園生活を謳歌しているな」
いつもの数倍強い毒を吐く遥音に、内藤は苛立ちを通り越して顔を真っ青にし言葉を失う。明日歌が正直引いてしまう程、遥音はきついことを言っている。だがこれが自分なのだと。こういう言い方しかできない面倒臭い人間が自分なのだと。遥音は自分の性格を受け入れ、もはや開き直りの境地に至っているのだ。
「だがな、人生において勝ち負けが分かれる場面など腐るほどある。今は勝っていても、次も勝てるとは限らない。特にお前が社会人になってからは、こんなことは通用しない。誇るべきところがないお前に、勝利する機会は訪れないだろうな。いいか。人生というのはな、最後に勝った奴が本当の意味で強いんだ。最後、死ぬ間際に笑って勝ちを実感できる奴が、本当に強い人間なんだ。将来、俺の言ったことの意味をお前が理解できる時が来る。その時お前の脳裏に浮かぶのは、愚かしい過去の自分と、今この時の俺の顔だ。せいぜい死ぬ時に、俺のこの顔を思い出すことだな」
「おまえっ……」
遥音は内藤の胸ぐらを掴んで顔を近づけると、ドスの効いた声で言った。
「それが嫌ならさっさと変われこのクズ」
掴んでいた手を離し、内藤を突き放した遥音はそのまま教室を後にした。内藤含め、クラスメイト達が呆然としながら遥音の背中を目で追う。
明日歌は破顔一笑するとそんな遥音に続いて教室を退出したが、遥音の後を追う人間は彼女だけではなかった。
「結城くん!」
「……高藤か」
必死な声で遥音を呼んだ人物を視界に入れた彼は、ポツリと呟いた。遥音が高藤と呼んだ生徒は高藤貴一。遥音が苛めから救った男子生徒だ。
「だが…………父親に言われたんだ。お前は警察官になる必要は無いと」
明日歌の言葉を聞いた遥音は一瞬顔を上げたが、すぐに表情に愁色を見せるとポツリと呟いた。遥音の力のない言葉を耳にした明日歌は、彼の低い自己評価の原因の一つを垣間見たように感じる。
警視総監、つまりは現職の刑事にそんなことを言われたのなら、確かに遥音が自信を無くすには十分すぎる経験だろう。
幼い頃、父の背中を見て刑事に憧れた遥音は、その気持ちを父親に告げようとした。だがそれを伝える前に、遥音の父は「警察官になる必要はない」と言い放ったのだ。
遥音にとって絶対的な存在である父のその言葉は、幼心に傷をつけるには十分すぎるものだった。普段あまり会話をしない父親との思い出で、遥音にとって最も印象的なものがこれなのだ。
「ねぇ、それって本当に向いてないっていう意味なのかな?」
「……なに?」
ふと疑問に思ったことを呟く明日歌に遥音は怪訝そうな声で尋ねた。遥音が長年抱えてきた絶対的な思い出を根底から覆すような疑問を明日歌から投げかけられたことで、遥音はかなり動揺しているのだ。
「警察官になる必要はないって、別になるなって言ってるわけじゃないよね?必要はない、なんだから」
「それは……」
明日歌の言うことは尤もで遥音は反論の言葉を紡ぐことが出来ない。遥音の父親の言葉を解釈すれば、警察官になろうがなるまいがどっちでも良いという意味に捉えることが出来るからだ。
「遥音のお父さんは、自分が刑事だからって無理して同じ職に就かなくても良いって、そう伝えたかったんじゃない?」
「だが、それならそうと……」
明日歌の推測は否定できないものだったが、それでも長年の固定観念を覆すには足りないのか、遥音は当惑したように言い淀んだ。
「でも遥音のお父さんだよね?つまりは不器用代表みたいな遥音の源になっている人だよね?」
「お前俺のことをそんな風に見ているのか」
失礼極まりない自分への認識に、遥音は思わず普段通りのしかめっ面を垣間見せる。
だが遥音にも自分が不器用である自覚はあり、明日歌の意見は一理あるものだと理解していた。遥音は他人に自分の気持ちを伝えたりすることが苦手な上、苛つきやすい性格から近寄りがたい雰囲気を放っている。
なので明日歌の不器用という評価も仕方のないことだと自覚しているのだ。
「だから、遥音のお父さんも上手く伝えられなかっただけじゃない?」
「…………」
明日歌の優しい言葉に、遥音はあの時の記憶を鮮明に思い出そうとする。
********
『お、お父さん。あのね、僕……将来は』
『お前は、警察官になる必要は無いんだぞ』
『えっ……』
そう言って自分を見下ろしてきた父親の表情がどうだったか、遥音ははっきり思い出すことが出来ない。遥音にとって印象的だったのは、その強烈な言葉だけで父の声音も表情も、遥音はキチンと目にしていなかったことを自覚する。
それでも、必死に思い出す。あの時の父の顔は確か眉を下げていて、困っているようではなかったか。声音も普段より優し気ではなかっただろうか。遥音は、今になって初めてそのことを思い出した。
********
「…………」
朧気に思い出した記憶に、遥音は思わず言葉を失う。遥音は今初めて、幼い頃の朧気な記憶と辛い印象で思い込みをし、事実を捻じ曲げて記憶していたことに気づいたのだ。
「ねぇ、遥音。例えお父さんが本当に遥音のことを刑事に向いていないって思っていたとしても、私はそうは思わないよ。だって、友達でもない私の落とし物、当たり前みたいに探してくれたじゃん」
「それは……人として当然の……」
明日歌は遥音が刑事に向いていると思った理由を告げた。明日歌のことを疎ましく思っていたはずの遥音が、何の見返りも求めずハンカチ探しを手伝ってくれたことは、彼女にとって希少な価値そのものだったのだ。
だが遥音にとってそれは呼吸するように当たり前のことで、明日歌が褒め称える程特質するものではなかったので彼は当惑してしまう。
「それを当たり前だと思えるから、遥音はいいんだよ。それに私が遥音を誘った理由、分かってる?」
「理由?」
明日歌に確認され、遥音は彼女に理由を尋ねていなかったことに漸く気付いた。明日歌はまだ自身の目標としているクラスを作り上げていない。つまりそのクラスが出来上がるのは、一人目のクラスメイトが加入する瞬間なのだ。
そんな大事な一人目に遥音を選んだ理由が何なのか、遥音には全く見当がつかなかった。
「遥音さ、クラスで苛められてた子を庇って、標的にされちゃったんでしょ?」
「……どうしてそれを?」
遥音が一人屋上に居続ける理由を明日歌が知っていたことに、遥音は驚愕の表情を見せる。
明日歌の言う通り、遥音が苛めの標的となり教室に居場所を失ったのは、先に苛められていた生徒を庇ったことが原因だ。
本人に自覚は無いが、正義感の強い遥音。そんな遥音に、見ているだけで気分が悪くなる様な苛めを見て見ぬふりなど当然できず、彼はいじめられっ子を救おうとした。結果、そのいじめられっ子は救われた。標的が遥音に変わったからだ。
苛めを救う救世主から苛めの被害者になってしまった遥音だが、本人は大して気にしていなかった。遥音はそこまで柔な人間ではなかったし、遥音が救った生徒がまた苛められることもなかったので、それで満足だったのだ。
だが苛めを気にせず学校に通い続けた遥音でも、少々参ってしまうことがある日起きた。
遥音が救った元いじめられっ子の生徒からも、彼は苛められてしまったのだ。もちろんその人物が再び苛められるのを恐れ、仕方なく苛めに加担してしまったことを遥音は理解していた。
それでも遥音は少し考えてしまった。一体何のために自分はあの生徒を救ったのだろうかと。
苛められたからではない。遥音は救った被害者を、加害者にしてしまったことを悔やみ、思い悩んでしまったのだ。
苛めによる恐怖で加害者にしてしまうのなら、自分が教室にいない方が良いのではないかと考えた遥音は、あの屋上に足を踏み入れた。
「あのね、知らなくても仕方ないと思うけど、私と遥音ってクラスメイトなんだよ」
「…………お前A組なのか」
「うん。学校が決めたクラスはそう」
そんな過去について明日歌が知っていた理由を聞いた遥音は、呆けた面で呟いた。同時に遥音はこの時初めて、明日歌が普段学校のどこで過ごしているのかを全く知らないことに気づいた。
明日歌と遥音の本来のクラスは同じ一年A組。明日歌が教室を訪れることはほとんど無いが、何かしらの用で時たま来ることがあった。その過程で明日歌は遥音のことを知ったのだ。
「なるほどな」
「遥音が苛められてた子を助けた時、この狂い始めている学園にもまだこんな奴がいるんだって、私少し泣けてきちゃったんだ」
静かに笑う明日歌の瞳は物憂げで、彼女のこの学園に対する感情が表れているようだった。青ノ宮学園は昔からおかしい訳では無い。苛めが頻発するようになったのはここ最近で、余計にその変化が顕著に表れている。
だが人間は良い意味でも悪い意味でも順応性が高い。ほとんどの生徒たちがあっさりと悪い方向へと流れてしまったのだ。
その状況下で加害者でも被害者でもなく、毅然とした態度で生徒を助けた遥音の姿は、明日歌にとって希望以外の何物でもなかったのだ。
「だから。最初のクラスメイトは絶対に遥音が良いと思った。遥音となら、この学園を変えられるって。ここでも強く生きられるって、そう思ったの」
明日歌の言葉に遥音は目を奪われる。遥音はここまで誰かに、自分という存在を特別に求められたことが無かった。それ故に目の前の明日歌の存在は遥音にとって眩く、とても力強い者に感じられる。
「遥音。私の仲間になる云々は置いといて、決着をつけに行こうよ」
「決着?」
「遥音、アイツらに言いたいこと言ってないでしょ?」
アイツらとはこうなってしまった元凶であり、遥音を苛めた生徒たちのことだ。遥音は苛めに対して抵抗することもあまりなく、何か文句を言うこともないまま教室を離れた。もちろん遥音が苛めから救った生徒にも、何か告げたりはしなかった。恨み言も、励ます言葉も、遥音は何もかけなかった。
「……ふん、そうだな。お前のクラスメイトになる前に、一度言いたいことをぶちまけに行くか」
「え……」
「ぼさっとするな。行くぞ」
遥音が何と無しに零した発言に、明日歌は困惑の色を滲ませる。だが当の本人は恐らく自分が何を言ったのかきちんと理解していないのか、何でもないように明日歌の手を引いた。
遥音が素直な人間でないことは明日歌にも分かっている。そんな遥音が動揺することなく、明日歌の仲間になることを承諾する様な発言をしたということは、本人にその自覚がないからだ。
それらに気づいた明日歌は苦笑いを浮かべつつ、遥音の力強い背中を見つめるのだった。
********
学校の休み時間、遥音と明日歌は一年A組の教室に訪れた。ここしばらく姿を見せていなかった遥音が突然現れたことで、教室内は特有の嫌な空気で充満してしまう。
嘲笑う声、小声で話し合う声、関わらないように目を逸らす者。そういった雰囲気は遥音も明日歌もよく知るものだ。
「んだよ結城。この間は逃げてった癖に今更来やがって……教室がゴミ臭くなるからやめろよなぁ。みんなの迷惑考えろよ。なぁ?みんなもそう思うよなぁ」
遥音の存在に気づいた男子生徒は、耳が汚れる様な暴言で遥音を責め立てた。この男子生徒が、元凶のいじめっ子で明日歌は思わず顔を顰める。
男子生徒の問いかけに、クラスメイトの反応は二つに分かれた。面白がって肯定する者と、気まずそうに答えを濁す者。だが遥音にはどうでもいい雑音でしかなかった。
「内藤一輝。国語四二点、数学二八点、英語三九点、理科三三点、社会五〇点」
「は?」
下劣な笑みで男子生徒が遥音を見下していると、唐突にそんな情報だけが遥音の口から発せられた。男子生徒――内藤一輝が思わず間の抜けた様な声を出し、他のクラスメイトも何のことか分からず当惑している。
「これは二学期中間試験のお前の成績だ。この学園は悪趣味なことに試験の順位、総合点数だけではなく、各教科の事細かな点数まで張り出してくれる。どうやらプライバシー、デリカシーという言葉を知らないらしい」
「お前……」
ここで漸く、自身が馬鹿にされていることを悟った内藤は顔を歪ませて遥音を睨みつける。だが一方で、明日歌や他のクラスメイト達は他の理由で目を見開いていた。
遥音はわざわざ自分を苛めた人間に固執して、その成績を覚えようとする人間ではない。それは明日歌が一番理解しているだろう。だが遥音は内藤の成績を言い当てていた。それは彼の悔し気な反応で一目瞭然である。
つまり遥音は、少なくともこのクラス全員の成績を把握しているということになるのだ。試験ごとに張り出される結果を目に焼き付け、毎回記憶しているということだ。
「別に俺は世の中頭の良さが全てだとは思っていない。だがこの社会を生き抜くには、どうやったって教養が必要になる。少なくとも、今お前がしている下らん行為などよりよっぽど必要だ」
「カースト最下層が俺にお説教かよ」
腕を組み、つらつらと純然たる事実を述べた遥音。正論とは時に、浴びせられる人間にとって大きすぎるダメージになる。なので内藤は苛立った様子で言葉を絞り出し、遥音を嘲笑った。
「違う。俺は自分を苛めた人間を正すほどお人好しではない。俺が言いたいことを言いに来ただけだ。はっきり言おう。お前は頭が悪い。顔も悪い。運動神経も良くない。何か特質した才能が今現在ある訳でもない。お前はそんなコンプレックスを誤魔化すために他者を貶め見下ろし、上位にいるという錯覚でしか自分を守ることができない愚か者だ。確かに今のお前はこの教室という狂った空間の中では勝者なのかもしれない。事実、お前に逆らう者はおらず、お前は自分のしたいようにこの学園生活を謳歌しているな」
いつもの数倍強い毒を吐く遥音に、内藤は苛立ちを通り越して顔を真っ青にし言葉を失う。明日歌が正直引いてしまう程、遥音はきついことを言っている。だがこれが自分なのだと。こういう言い方しかできない面倒臭い人間が自分なのだと。遥音は自分の性格を受け入れ、もはや開き直りの境地に至っているのだ。
「だがな、人生において勝ち負けが分かれる場面など腐るほどある。今は勝っていても、次も勝てるとは限らない。特にお前が社会人になってからは、こんなことは通用しない。誇るべきところがないお前に、勝利する機会は訪れないだろうな。いいか。人生というのはな、最後に勝った奴が本当の意味で強いんだ。最後、死ぬ間際に笑って勝ちを実感できる奴が、本当に強い人間なんだ。将来、俺の言ったことの意味をお前が理解できる時が来る。その時お前の脳裏に浮かぶのは、愚かしい過去の自分と、今この時の俺の顔だ。せいぜい死ぬ時に、俺のこの顔を思い出すことだな」
「おまえっ……」
遥音は内藤の胸ぐらを掴んで顔を近づけると、ドスの効いた声で言った。
「それが嫌ならさっさと変われこのクズ」
掴んでいた手を離し、内藤を突き放した遥音はそのまま教室を後にした。内藤含め、クラスメイト達が呆然としながら遥音の背中を目で追う。
明日歌は破顔一笑するとそんな遥音に続いて教室を退出したが、遥音の後を追う人間は彼女だけではなかった。
「結城くん!」
「……高藤か」
必死な声で遥音を呼んだ人物を視界に入れた彼は、ポツリと呟いた。遥音が高藤と呼んだ生徒は高藤貴一。遥音が苛めから救った男子生徒だ。
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高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
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