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第五章
終着
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けたたましい警笛が二度繰り返された。高さにして、およそ五十メートル。鷹のような目つきで水面を見つめる釣り人の姿を垣間見た。
魚というものは、人間に食われるはかない生物だ、と父が言っていた。いつしか、人間の方が脆弱で、死に近いと考えるようになっていた。
ベビーカーを押す三十前後の母親と、二、三歳ほどの幼児が乗り込んできたのは、大月の二駅あとだった。機嫌が悪いのか、今にも泣き出しそうな勢いだった。母親は、座席につくなり、スマートフォンを取り出し、操作し始めた。幼児の姿が目に入っていないのか、と不安になった。二、三分ほどして、菓子を取り出し、与えた。
「おいしい」
片言の返事をした。
「ほら、高い、高い」
一端、スマートフォンを置き、幼児を抱いた。作り笑顔の奥に垣間見えた疲労。愛しさか、それとも、恐ろしい憎悪か。
隆司は、鋭い目つきで、母親を睨んだ。甥の面倒を見た日のことを思い出していた。
あの母親の目つきは、かつての僕と同じだ。
面倒を見切れず、気付いた時には、甥の姿はなかった。
甥が見せた、無垢な笑顔。お兄ちゃん、と慕ってくれた刹那。
生半可な気持ちで、命を包み込むことは出来ない。
再び、幼児の方に視線を向けると、瞼を閉じて、ぐったりとしていた。母親は、安心しきった表情で、スマートフォンを操作していた。山々を抜けきった列車は、ブドウ畑の広がる平野を力走していた。収穫の時期はもう少し先になりそうで、成熟した実を見守る老夫婦の姿を垣間見た。
「お茶ですよ。少し休んだらどうですか」
「すまないね。今日は、少し濃いめだな」
四十年、五十年、共に歩み続けられる夫婦。三世代に渡って、笑い合える家庭。
甲州街道と交差する踏切に差し掛かった。自転車を転がす高校生の集団があった。
各々がスマートフォンを操作するシーンは見慣れたものだったが、何人かが、難しい顔で、舌打ちをしているようだった。もう片方は、涙を浮かべて、顔を拭っていた。
試合にでも負けたのだろうか。
なんだかんだで、いいところあるじゃないか。
甲府に到着したのは、二時三十分頃だった。隆司以外に降りる者はいなかった。二分ほど停車した後、更なる奥地を目指して遠のいていった。先ほどの親子の姿が微かながら確認できた。
改札に向かう途中、高尾で出会った男性運転手に出会った。表情からは、幾分の疲労が窺われたが、それでも二時間半に渡る乗務をこなして滴る汗は、格好のよいものだった。
男性運転手も、隆司に気付いたようで、軽く会釈した。一言、二言、お礼でも言おうか、と思ったが、そそくさと事務室の方へ引き上げていく姿を見るだけに留めた。
「ご乗車ありがとうございました」
「ありがとうございました」
一度きり交わされた、無言の挨拶だった。
哲学なんて大層なことを言う頭はない。
ただ、生きるとはどういうことか、考えることが出来る。
「すごく高い山だね」
「深い緑だね」
蝉の泣き声、葉がひしめき合う音、風が吹き抜ける音。
ハーモニーを生むことのない、三つの音。知らず知らずのうちに吸い込まれていく。
自然に捨てられる。
一億分の一、一兆分の一かもしれない。末梢の動脈が一瞬つまる。
川に流される。滑落する。意識を失いかける。終焉が迫る。
レクイエムが響く。屍が土に帰っていく。
土のベッドはいかがですか。
本当は、苦しかったんだよね。
蝉、嫌いだったよね。怖い、と言ってた。囲まれちゃってるよ。
仲良しになれたかな。
夏の盛りだというのに、涼しいね。
ゆりかごの歌が聞こえてきたよ。僕を迎えに来たんだね。
さっきの運転手さん、格好良かったね。
僕の顔、見てくれる。少しは逞しくなったでしょう。
子供たち、可愛かったな。知ってるよ。十年前の僕にそっくりだったから。
ごめんね。本当は大好きだよ。
魚というものは、人間に食われるはかない生物だ、と父が言っていた。いつしか、人間の方が脆弱で、死に近いと考えるようになっていた。
ベビーカーを押す三十前後の母親と、二、三歳ほどの幼児が乗り込んできたのは、大月の二駅あとだった。機嫌が悪いのか、今にも泣き出しそうな勢いだった。母親は、座席につくなり、スマートフォンを取り出し、操作し始めた。幼児の姿が目に入っていないのか、と不安になった。二、三分ほどして、菓子を取り出し、与えた。
「おいしい」
片言の返事をした。
「ほら、高い、高い」
一端、スマートフォンを置き、幼児を抱いた。作り笑顔の奥に垣間見えた疲労。愛しさか、それとも、恐ろしい憎悪か。
隆司は、鋭い目つきで、母親を睨んだ。甥の面倒を見た日のことを思い出していた。
あの母親の目つきは、かつての僕と同じだ。
面倒を見切れず、気付いた時には、甥の姿はなかった。
甥が見せた、無垢な笑顔。お兄ちゃん、と慕ってくれた刹那。
生半可な気持ちで、命を包み込むことは出来ない。
再び、幼児の方に視線を向けると、瞼を閉じて、ぐったりとしていた。母親は、安心しきった表情で、スマートフォンを操作していた。山々を抜けきった列車は、ブドウ畑の広がる平野を力走していた。収穫の時期はもう少し先になりそうで、成熟した実を見守る老夫婦の姿を垣間見た。
「お茶ですよ。少し休んだらどうですか」
「すまないね。今日は、少し濃いめだな」
四十年、五十年、共に歩み続けられる夫婦。三世代に渡って、笑い合える家庭。
甲州街道と交差する踏切に差し掛かった。自転車を転がす高校生の集団があった。
各々がスマートフォンを操作するシーンは見慣れたものだったが、何人かが、難しい顔で、舌打ちをしているようだった。もう片方は、涙を浮かべて、顔を拭っていた。
試合にでも負けたのだろうか。
なんだかんだで、いいところあるじゃないか。
甲府に到着したのは、二時三十分頃だった。隆司以外に降りる者はいなかった。二分ほど停車した後、更なる奥地を目指して遠のいていった。先ほどの親子の姿が微かながら確認できた。
改札に向かう途中、高尾で出会った男性運転手に出会った。表情からは、幾分の疲労が窺われたが、それでも二時間半に渡る乗務をこなして滴る汗は、格好のよいものだった。
男性運転手も、隆司に気付いたようで、軽く会釈した。一言、二言、お礼でも言おうか、と思ったが、そそくさと事務室の方へ引き上げていく姿を見るだけに留めた。
「ご乗車ありがとうございました」
「ありがとうございました」
一度きり交わされた、無言の挨拶だった。
哲学なんて大層なことを言う頭はない。
ただ、生きるとはどういうことか、考えることが出来る。
「すごく高い山だね」
「深い緑だね」
蝉の泣き声、葉がひしめき合う音、風が吹き抜ける音。
ハーモニーを生むことのない、三つの音。知らず知らずのうちに吸い込まれていく。
自然に捨てられる。
一億分の一、一兆分の一かもしれない。末梢の動脈が一瞬つまる。
川に流される。滑落する。意識を失いかける。終焉が迫る。
レクイエムが響く。屍が土に帰っていく。
土のベッドはいかがですか。
本当は、苦しかったんだよね。
蝉、嫌いだったよね。怖い、と言ってた。囲まれちゃってるよ。
仲良しになれたかな。
夏の盛りだというのに、涼しいね。
ゆりかごの歌が聞こえてきたよ。僕を迎えに来たんだね。
さっきの運転手さん、格好良かったね。
僕の顔、見てくれる。少しは逞しくなったでしょう。
子供たち、可愛かったな。知ってるよ。十年前の僕にそっくりだったから。
ごめんね。本当は大好きだよ。
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