上 下
14 / 23
第一章

第14話 アニーの涙

しおりを挟む
 爺がかけた回復魔法も閉じたアニーの心までは癒せないらしい。
 俺は【消去者】を使った最後のあのとき、脳裏に入ってきたアニーの記憶だの、感情だのを整理していた。

 荷台に寝そべって、すやすやと寝息を立てている彼女。
 死にそうになりながらも必死に恐怖に抗い生きようとした彼女。

 爺が助けたそのときまで、死ぬことを諦めず、しかし、最後に楽になれると魂の所有権を放棄しかけた彼女。
 そんなアニーに関することが、俺の脳裏でどんどん大きくなっていき、いつしか彼女のことだけをずっと考えるようになった。

 まだ会話も数回だけ。
 まともに目を合わせたことだって、二回ほどしかない。

 その程度の付き合いなのに、なんなんだ、この感情は。
 相手のことを知りたい、調べたい、呑み込んでしまいたい。

「……おまえが犯人か」

 思わず、俺は誰に言うとでもなく、そう漏らした。
 犯人はスキルの貪欲さにあったんだ、と理解する。
 アニーが美しい獣人の猫耳と尾を持つ金髪美少女だからとか、俺とほぼ同年代だからとか。そういったことはあまり関係ない。

 ……思わず、忘れようとした彼女のことを思い出しそうになり、ふっと小さく息を吐く。
 そんな俺を見てか、爺はこれからこの街でしばらく足を休めてもいい、と言い出した。

「アニーの家族がいるということでしたな」
「あ、ああ。そうみたい」

 あの青白い光。俺のスキルが発動したとき、周囲を駆け抜け、戻ってきたあれ。
 爺はそれを鑑定の光だといった。

 品物を値踏みするかのように、さまざまな物体や人間、魔獣に至るまで。もっている情報をつぶさに露わにしてしまうスキルの効果だと。

「それは稀有なものですが、あまり口にしない方がいいでしょう。アニーをですが」
「うん。ギルドに報告する?」

 爺は四枚の魔猟師資格証を取りだした。
 魔猟師協会は冒険者協会の下部組織だが、独立していて、冒険者協会の規則では裁けないこともいろいろとあるらしい。

 爺は元冒険者だから、どっちに報告に行ってもいいが、効果が見込めるのは古巣の方だ、と言っていた。
 奴隷を生餌にして魔獣を狩ることは禁じられている。それに彼らが購入した奴隷に不当な扱いをしたのは、それもまた王国法違反だった。

 奴隷を所有するにはそれなりの義務があるのだ。まあ、それはさておき、馬車からホテルへと寝る場所を移し、そこで俺とアニーは爺の戻りを待つことになった。

 アニーには両親がいる。妹と弟たちも。
 一番年下の四歳の妹のために、病気がちなその子を救うために、治療費の代わりとして、アニーは両親の手によって奴隷商人に売られた。

 今でこそ、俺は世間の世知辛さを知っている。
 不幸の連続でどんどん堕ちていき、最後は体を売り、内臓を抜かれて死んでいった奴らのことも知っている。

 平和じゃない世の中では、それが平然と行われている隣で、貴族連中が栄華を極めている。
 まともじゃない、と思いながらもその歯車の一つになっている自分もいるのだ。

 俺は爺から教わった肉体を清め、浄化する効果のある清浄魔法を、ベッドに横たわるアニーにかけながら、彼女の両親は娘を引き取るだろうか、どうするだろうかと疑問に感じていた。

 寝てばかりで食事が疎かになっている彼女の体力を補填する意味で、回復魔法をかけてやる。
 本当は、アニーの全身は爺がすでに回復させているのだ。

 あとは心だけ。
 爺が出て行って二時間ほどしたら、二日ぶりにアニーが目を覚ました。

 それはほんの一瞬だった。

「……んぅ」

 細く短い吐息が漏れる。
 ベッドの脇に椅子を用意し、本を読みながらアニーの意識が戻るのをまっていた。
 声が聴こえたので、読んでみた本をパタン、と閉じる。それから「どこ……えっ?」などと戸惑いの声が聴こえた。

「大丈夫だよ。ここは迷宮じゃない」
「あなた、誰……どなた様?」

 アニーは育ちの良い令嬢みたいな質問をした。多分、奴隷としてこちらに失礼の内容な物言いを考えたからそうなったのだろう。

「ここはレットーの街。迷宮から脱出してもう二日だよ。君はアニーだよね?」
「――っ!」

 名前の確認をした途端、アニーの長くてふわふわした金色の尾が、ぼわっと膨張した。全身の毛が逆立ち、彼女はまるで驚いた猫がそうするかのように、普段は隠れている牙を口元に生やして威嚇する。

「あなたっ、誰? ボクはこんな場所にいるはずないんだ! ルコックたちのとこに――そうか、おまえ、ルコックたちの!」
「あいつらは死んだよ」
「えっ……」

 危なかった。機先を制して、そう言わないと、両手の先に長く生えそろった爪先で切り裂かれていたことだろう。
 あとから知ったことだけど、彼女の爪や牙は石すらも軽く切り裂いてしまう。

 このとき、死体が一つ量産されなかっただけましだったと、俺は神に感謝した。

「あいつらは僕の仲間が全部、倒した。ルコック、カナリア、エルドレッド、ネル。この四人の魔猟師クラン【暴虐の顎】のメンバーたちだろ?」

 アニーは憑きものが落ちたように、ふっと肩の力を抜いてコクン、と肯定して見せた。
 湖の底よりも青いその瞳が、とうとうと大量の涙をこぼし始める。

 溢れ切ったそれは、ベッドや枕元、彼女の衣服に落ちてしみの跡をつけていた。

しおりを挟む

処理中です...