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おけいこは続く

72 スミレの花言葉

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「日本に帰ろう。三人で、一緒に暮らそう。お母さんが悪かったの」

「うわーん・・・」

 サキは自分から、自分の産んだ子を自分で育てたいと言った。その尊さにやっと気づいた。これまで費やした苦労など、それに比べればなんでもない。どうとでもなる。

 スミレ自身にも囚われがあったのに、気づいた。


 

 サキはスミレの許に戻りインターナショナルスクールに通いながらカオルを育てた。

 それはスミレが驚くほどだった。なにを教えたわけでもないのにごく自然にカオルに乳を含ませるサキを眺めながら、長い間スミレが追い求めていたものがいつの間にか目の前にあることを知った。

 ごくありふれたつつましい暮らしの中の幸せが、ここにある。そのことにやっと、気づいた。

「スミレ、サキ、カオル」

「え、何?」

 カオルにおっぱいを含ませているサキが不思議そうに聞き返した。

「菫、咲き、薫る。

 あんたのお陰で、キレイな言葉ができたわ」

 相変わらず仕事は多忙を極めたが、家に帰れば穏やかな時間が流れていた。


 

 この束の間の安らぎの中で初めて、スミレは自分の名である菫(すみれ)の花言葉というものを知った。

 それは、「誠実。謙虚」。特に、黄色いスミレは「つつましい喜び」「田園の幸せ」というらしい。

 もしスミレが普通の市井に暮らす人の娘だったならば、そんなものは小学生か中学生のうちに知っていたことだろう。そしてその名前をくれた父母への思いを大切に温かく胸に抱いて生きてきたことだろう。

 そんなごく普通の幸せが貴重な尊いものであることを、スミレはやっと実感することが出来るようになった。アラフォーでそれを学べただけでも自分は救われたような気がした。そして、このような尊い宝物をくれたサキさんとレナにあらためて深く感謝した。


 

 そんな、穏やかな田園のような暮らしの中で、サキはやっと心を開きカオルの命を授かった経緯をぽつりぽつり話し始めた。ハイスクールで知り合った友達に誘われていったパーティーで知り合った、上級生や同級生の男の子たちだと。

「よかったら教えて。どうしてそれでカオルを産みたいと思ったの?」

 サキは少しはにかみながら教えてくれた。

「わたしにもよくわからないの。なんだかとても優しい、愛しい気持ちになってしまって、どうしても赤ちゃんに会いたくてたまらなくなっちゃったの」

 それを聞いて、少なくともサキは、暴力的なものでカオルの命を授かったのではないことが理解できた。まだ親元に居たい年ごろなのに、遠い外国に送られて寂しい毎日を過ごしていたのだ。そして偶然にも授かった命にたまらない愛情を抱くようになったのだろう。

 スミレも学んだが、サキもまた、一つ大人になったのだ。

 それ以降、父親の詮索は一切していない。誰が父親であろうと、カオルは愛するサキの娘で、愛するサキさんの血を引く孫娘なのだから。

「近いうちに一緒にレナのところへカオルを見せに行こう」

「うん。お母さん、きっと喜んでくれるよね」

「もちろんよ!」

 レナは娘の産んだ新しい命を手放しで歓迎してくれた。

「だって、サキの娘で、あたしのマゴでしょ? サキさんの孫でもあるわけだしね」

 レナもまた、スミレよりも8歳も若くしておばあちゃんになった。


 

 サキはインターナショナルスクールを卒業するとロンドンのプレスクールを経て大英帝国の宰相を多く輩出してきた世界有数の大学へと進学していった。

 ありがたいことにレナがカオルの子育てを買って出てくれ、カオルはかつてのサキのように、都会に住むスミレと田舎に住むレナという、ふたりのおばあちゃんとの間を行ったり来たりしながら、すくすくと育っていった。


 


 


 

 奇しくもこの年、スミレの父が亡くなった。

 

 知らせを受けたときは五千キロも離れたところに居て映像で最期を看取らざるを得なかった。

「スミレか。元気でやっているようだな・・・」

 傲岸不遜で巨岩のように思えた父だったが、モニターに映ったベッドに横たわる彼の姿は、信じられないほどちいちゃく、弱々しく、頼りなげに見えた。

「お父様・・・」

「お前がタチバナのトップに就いて、東アジアが一体になるところが見たかったが、どうもそこまでは持たんらしい・・・。だが、私の眼は正しかった。それだけで、十分だ。

 スミレ・・・。立派になったなあ・・・」

「お父様、お父様! ・・・お父さん!・・・」


 

「親孝行、したいときには親は無し」と言う。

 父を喪ってから、なぜか父を思うことが増えた。

 幼いころからことあるごとに父に歯向かい、荒れて行ったのも、もしかするとそれは、父への思いの裏返しだったのかもしれない、と。

 サキさんと出会い、彼にのめり込んでいったのも、その延長線上のことだったのではないか、と。いつしかサキさんと父を二重写しに見ていた自分に気づいた。

 そして、それが一人の男への本当の愛に変ったことを知ったのも、最愛のサキさんと別れてからだった。


 

 あのサキさんの雇い主の死から、サキさんとの別れから、15年、経っていた。
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