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おけいこは続く

73 スミレ、父の後を継ぐ

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 うたた寝から目を覚ました。

 ヤンは変わらずきちんとタクシードを着たまま微笑んでいる。日本と違い、暑くても湿度が低く空気が爽やかだから、日陰なら微笑んでいられる。

「やだ。わたし、寝ちゃってた? どのくらい?」

「ふむ。5分か、10分か、そのぐらいかな。あんまり気持ちよさそうに寝ていたんで起こさなかった。でも君ぐらいだよ、スミレ。このホテルを120パーセント堪能して居眠りするぐらい信頼して心から楽しんでくれるのは。ホテルマン冥利に尽きるってもんだ」

「ずっとそこにいてくれたの?」

「だって、君は裸のままだし。ボクはキミの永遠の衛兵だからね。そのかわり、目の保養は充分させてもらったけれどね」

「やだ・・・。だってもう、おばあちゃんよ」

「いいや、スミレ。キミはボクの永遠のアイドルさ。ああ、言い忘れてた。

 Happy new year, スミレ・・・。

 今年もまたキミと一緒に年を越せるなんて。ボクはなんて幸せなんだろう・・・」

 日本人が言うとめちゃくちゃ気障なセリフも、素敵なオジサマになったヤンが言うとビシッと決まる。いつもながら、年甲斐もなくキュンと来るようなことを言ってくれるものだ。

 ふと、ヤンの家族が気になった。

「ヤンのご家族、まだホンコンに? こちらに呼び寄せたりしないの?」

「妻は暑がりなんだ。それに、周りに親戚もいるしねえ。賑やかなのが好きなヤツだから、こんな何にもない田舎に引っ込めるような女じゃないんだ。

 いずれ戻ってくるだろうと思ってるんじゃないかなと思うけど、でもボクはもう、戻るつもりはないんだ。春節にも、帰らない。向こうが来れば、まあ、それなりに相手はするけどね・・・」

 サーフィン好きの彼はこの島の波がいたく気に入って、ホテルを辞めてもここに残り死ぬまで波に乗っていたいと、いつだったか話してくれたことがある。本当にそれだけが理由なのかは確かめたことはないけれど。この数十年の間、彼にだって彼なりのドラマがあり、それを生きてきたのだろうから。


 


 


 

 スミレの父の二つの望みのうちの一つは彼の亡くなった翌年に叶った。

 スミレは、江戸時代から数えれば何十代目かになるタチバナの社長として就任した。親衛隊のサガワが会長に、マキノは相談役などの一切の職を辞して会社から完全に離れ、生まれ故郷のナガノに帰り晴耕雨読の生活に入った。

「会長の遺言は果たした。もう私の役目は終わったんです。会社というのは人間の体と一緒で適度な新陳代謝がなければ病気になる。私はちょっと長居し過ぎました。ここらでもう、いいでしょう」

「長い間、お疲れさまでした。大変ありがとうございました。長年にわたり父やわたしをサポートしてくださり、感謝に堪えません。マキノさんのこのご恩は、忘れません」

「こちらこそありがとう。これからスミレちゃんの活躍を田舎からじーっくり拝見させていただけるっていう、老後の楽しみをくれたんだからねえ・・・」

 マキノは最後まで辛いオジサンだった。


 

 マキノやサガワは役員会におけるスミレの親衛隊の数を次第に増やし、過半数に届くほどになったが、スミレはそれにストップをかけた。それだけでなく、社長に就任した途端、常勤の役員を半分にすると言い出した。しかも役員会も定例会を年に四度の決算期だけにし、本社にいる役員は極力世界中に散らした。役員は席を温めてばかりいないでもっと現場で働けと。

 スミレが本社にいなくても、世界中から役員たちを呼び集めなくても、ライブ映像で十分用が足りることが判ったのでその方式に改めた。本社の社長室はほとんど使われず、それまでのどの社長よりも末端の社員に露出をする社長になった。

 若い社員の間では何十年か前のスミレのグラビア画像や動画を転送して楽しむ輩さえ現れた。

 あのサキさんが「亡くなった」ときからずっと秘書をしてもらっているホンダ女史などはこうしたグループ内の風潮に眉を顰め社長になったスミレに注進に及んだ。

「社長、これを見てください」

「え? なに」

 ホンダ女史の携帯端末にはあの赤い馬の横で水着姿で微笑んでいる若いころのスミレのグラビア画像が映っていた。

「うわー、久々に見た。このころは、若かったなあ・・・。こんなの、どうしたの?」

「今、グループ内の若い社員の間で拡散しているんです、この画像が。これだけじゃなく、動画まで。社を揺るがしかねない、由々しき事態かと・・・」

「え、見せて見せて。うわー、カワイイ! オッパイ大きいねえ、この子!」

「・・・」

 あまりにもはしゃぎすぎてホンダ女史が絶句して固まっているのに気が付かなかった。

 自分の大昔の水着のグラビアにこれほど需要があるとは、と驚いたが、同時に、これを生かさない手はないと思った。

 目の覚めるような深紅のスーツを新調し、総務グループ内の広報を担当する部署にスミレの過去の画像や映像を添付したメッセージを作らせて社内に配信させた。

 一般社員たちから見ればそれは下積みともいえるものではなかったが、スミレがストレートにタチバナに入社せず、カーレーサーをしながら傘下の孫会社のタイヤメーカーの広告に出演しその販売に寄与したことを伝え、レーサーとしてのあまり芳しくなかった戦績も正直に掲載させた。

 もちろんサキさん関係の事例は一切伏せたが、スミレの愛車だった赤い馬でサーキットをギンギンに攻めている映像も、ダートトライアルでコーナーをミスしてコースアウトしたことも正直に余すことなく盛り込み、現在も運営しているソノダの会社の筆頭株主であることも、それ以外のタチバナとは全く関係のない会社の経営にも携わったことも、全て公表した。その上でタチバナの役員会に迎えられ、今ではタチバナの重要な分子となっているIT関連のヒラガの社長を務めたことも伝えた。

 単純に親の七光りだけでスンナリと社長になったのではないことを伝えたかったのだ。したいことを全てやって、なんにでも果敢にチャレンジしたことを伝えたかった。

 世界有数の企業であるタチバナの新社長の社内広報は、当然ながら世界中のマスコミも大きく取り上げた。取材依頼が殺到し、一時的に秘書室と総務が混乱するほどだった。

 だが、注目度が高まれば、スミレの過去をいろいろに詮索する者も出てくる。

 日本有数の名家に生まれながら乱行が激し過ぎて何度も家出を繰り返し、三度も高校を退学になったことが露見した。しかも、SNSの中にはスミレの過去のSMプレイ疑惑(それは疑惑ではなく事実だったが)を示唆するコメントを書くものが少なからずあった。

 が、スミレはあえてそれらの書き込みを放置した。

 国内はともかく海外、特に欧米ではむしろそれはスミレのセックスアピールを高めるスパイスになり、注目度を高める結果となった。彼方では個人のプライベートや性生活などはあまり問題にならない。大統領や首相にガールフレンドがいても、たとえ浮気したとしてもその妻や夫が認めているならなんの問題もないし誰も咎めない。

 法律に則ってさえいればノープロブレム。あくまでも実績重視、なのだ。

 むしろ異性にモテないリーダーなんて、と言われるぐらいだ。欧米らしい反応だと思った。日本のエセ進歩人たちがこのトレンドを流布しないわけがなかった。

 スミレのこのちょっとしたイタズラが、全世界におけるタチバナの知名度と企業好感度の向上に大きく貢献したことは言うまでもない。広告費に換算すれば数百億円台の経費を節約したことになる。

 スミレは過去の「スキャンダル」さえも全て得点に変えていった。

 深紅のスーツに身を包んだスミレのポートレートが掲載されている企業HPのヒット数は爆発的に上昇し、あまりにアクセスが集中しすぎてサーバーが何度かダウンする始末だった。そんじょそこらのTVタレントのインスタグラムやツイッターなどよりはるかに注目度が高かった。

 タチバナの若い社員たちのスミレに対する目は確実に変わっていった。

 過去も学歴も問われない。この会社ならおもしろいことが出来る。

 誰もがそう感じた。


 

 役員会でもスミレは異例の行動を取った。

 議長として議事の初めに開会を宣言し、発言を促し、採決をし、議事の終了を宣言する以外、一切発言をしなかった。

 質問にはきちんと答えたが、対立する役員がどんなにスミレに不利な発言をしても遮ったり反論したりしなかったし、反対に彼らの業績を役員会で追及することもなかった。そして自分から何かを提案することも一切なかった。要するに、役員会ではひたすら黒子に徹したのだ。

 もっともスミレの意見は役員会の半数を占める親衛隊の役員が代わりに発言してくれるし、対抗勢力の役員の不行跡や業績不調を追求するのも親衛隊達にやらせるだけだった。

 しかし、このやり方で役員会の運営はすこぶる安定した。社長との対立軸がなくなってしまったのだ。そもそも何も発言しなければ、対立など生じようはずがなかった。

「さすがはスミレさんだ」

 新たに会長となった親衛隊長を自認するサガワは、大満足でスミレを称賛した。


 

 

 役員になってから、スミレはことあるごとに父の言葉を反芻するようになった。その一つが、

「タチバナのことだけではなく、この国全体、世界全体の視点から考えろ」

 というものだ。

 年と歳を降るにつれこの教えの大切さを実感した。

 タチバナは日本だけでなく全世界から収益を上げている。全世界がタチバナのパイだ。そのパイの大きさに注意を払うのは、だから当然のことだ。

 たしかに世界経済は拡大の方向に向かっている。人口も増えている。

 しかし、それは主に発展途上国の貧しい地域に限ってであり、大国の人口は減る傾向にあるし、GDPの伸び率はむしろ鈍化している。遠からず、食糧問題、環境問題、エネルギーの問題で人間の生息する環境としての地球という丸い球は限界を迎える。

 一方、ITとそれに根差したAIの異常なほどの進化にによって世界的な省力化の傾向が顕著になっている。わざわざ人間がやらなくても、わざわざ人間が行かなくても全て機械が代わりをしてくれる。これから人間はますますエサと娯楽を与えられて肥え太るだけのブロイラーの鶏のようなものになってしまうのではないか。

 だが。

 かつて巨大な超大国で謳われた「フロンティア」という精神をもう一度人々に根付かせることが出来れば。

 この地球という球の上だけで永久に生きるか、この球を離れてどんどん外へ発展してゆくか。そのどちらか次第で、これ以降の人類史が変わる。

 スミレはそんなふうに考えることが多くなった。


 

 親衛隊を引き連れて世界各国のロケット工場や宇宙開発の現状を視察したり、グループ内から人を募って第二国際宇宙ステーションに滞在させたり、二十世紀後半から大学で細々と研究されてきた密閉空間での長期間の滞在に関する研究に莫大な援助をしたり、水素エンジンを搭載したジェット旅客機の開発を進めたり・・・。

 それらの施策はすべて一点に集約される。

 タチバナは、スペースコロニーの事業に着手することを決定した。

 遠からず、地球上の人口は飽和状態に至る。そのとき、適度な受け皿が無ければ、貧しい国からの不満が爆発し、偶発的に戦争が起こるかもしれない。その戦争で、核兵器や生物化学などの大量破壊兵器が使われない保証はどこにもない。

 いまこそ知恵を出し合うべきだ。

 余剰の人口は宇宙に繁殖させる。到達するまでに一年半から二年もかかる火星などの他の天体ではなく、たった数時間で地球と行き来できる、地球の周回軌道上にいくつか損在する重力の安定するポイントのことをラグランジュ点というが、最近の研究ではポイントを固定せずに地球と月とに交互に近づく運動をする共鳴軌道上に建設するほうが有利だとの案もある。そこに浮かべる複数のスペースコロニーの方が実現は容易い。現実味がある。

    前世紀の七十年代から研究されているスペースコロニーはその当時の全世界の軍事費のたった2パーセントで第一号を建造できるとの古い試算を再度研究させた。地球上の人口のある一定の部分を宇宙のフロンティアに送り出して「間引き」できれば、深刻な環境問題やエネルギー問題、食糧問題の大部分が解決できる。

 タチバナのこれからの長期的な目標は、これだ。

 大気、重力制御、放射線遮蔽、温度管理・・・。実現までには様々な問題をクリアする必要があるが、一気に達成することは不可能でも様々な技術研究から派生する新技術で現実のビジネスで利益を上げ続けることが重要だと考えた。それにタチバナだけで解決はできない。様々な国や多くの企業と提携して地球規模で実現すべきだ。まずはその機運を高めるのが何よりも求められるポイントになる。

 スミレは親衛隊の面々にその方向性を指し示した。目標は遠大なところに置き、着実にそれに向かいつつ、必ず利益を確保すること。ビジネスとして成立すること。スペースコロニーの実現のために摘む努力はそのそれぞれのステップにおいて確実に収益を上げられるのが重要だと。

 彼らはスミレの意を受けて各個に行動を開始した。

 生命科学、農学、機械化学、宇宙工学、物理学、生物学、航空宇宙工学、化学、地学、医学、建築学、地球物理学、冶金学、電子工学、・・・。

 その全ての手綱を握っている立場に、スミレはいる。

 第二の「約束の地」を創造する事業を、スミレは開始していた。


 

 その第一歩の最初の成果が、スミレを迎えるために、南国の島のホテルの一角に舞い降りようとしていた。

 HV-1。

 水素エンジンの垂直離着陸機。その第一号を乗用試験を兼ねてスミレ専用のプライベートジェットにした。

 タチバナの傘下にある航空宇宙部門の企業が液体水素を燃料とする短距離離着陸型のジェット機の開発に成功してもう数年経つ。タチバナ製の初号機はHS-1と名付けられ、以降バージョンを重ねるごとに性能を向上させていった。最新型はたった二百メートルの滑走で離陸できる。

 原理は簡単で、酸素と水素が結びついて水になるときの大きな爆発力を利用したものだ。宇宙ロケットは燃料に水素と酸素を持って行くが、ジェット機の場合は周りから取り込むので酸素タンクは要らない。排出するのは水蒸気で炭酸ガスを出さない。

 HV-1はその垂直離着陸機として開発されたものだ。文字通りヘリコプターのように垂直に離陸着陸できるので滑走路が要らない。今スミレの滞在しているホテルのヘリポートにも着陸可能だ。

 ただしまだ改良すべき点がいくつかある。音がうるさいこと。そしてもう一つが、猛烈な噴射雲が出ることだった。そのため、規制の緩い国ならいいが、住宅の密集しているような、例えば日本のような国ではまだ使えなかった。

 だが、この技術がいずれスペースコロニーとの連絡に使われるようになる。普通の旅客機のように離陸し、宇宙空間に飛び出し、再び地上に帰ってくる往還機として。化石燃料を必要としないというのがそのための大きなポイントになるのだ。


 

 ヤンはパラソルの上の空を見上げた。微かに聞こえてきた甲高い排気音に耳を澄ました。

「ほら、やかましいのが来たよ。悪いけどボクはそろそろ退散させてもらうからね。まだ仕事がある。服をびしょ濡れにされると敵わないからね。キミみたいに素っ裸でいられる人はいいんだろうけど」

 そう言ってスミレにキスした。

「いつもありがとう、ヤン。また来るわね」

「いつでもお待ちしております、会長」

 ヤンがコテージを去ると、音が大きくなってきた。

 スミレは素裸のままパラソルの外に出て昼間の強烈な太陽の光に肌を晒し、額に掌をかざし空の彼方を見上げた。

 太陽の光を受けてキラキラ輝く翼がゆっくりとスピードを落とす。機体が白い雲を下に向かって勢いよく吐き出し始める。それが次第に激しさを増し、最初に吐き出された雲が細かい雨になって舞い落ちスミレの頭上に降り注いだ。人口の雨。科学技術が作り出したスコールを、スミレは両手を広げて全身に浴びた。
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