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おけいこは続く
71 我が娘、サキ
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束の間ナメクジと過ごしたあの忌まわしいタワーマンションは離れた。
本社近くのビルの屋上にペントハウスがある物件を見つけ、ビルごと買い取ってそこに越した。屋上庭園で虫取りをして遊びながら、サキは海外のビジネスマンの子弟が多く通うインターナショナルスクールでたくさんの違った肌の色の友達に囲まれすくすくのびのびと育った。やがて、父親に似て利発で聡明な、ミルクティーのような褐色の肌がチャーミングな美少女になった。
子育てというものをすれば誰でも一度は思うことだが、スミレもまた、子育ての背後にいつも自分の子供のころの姿がチラついた。サキを見つめるまなざしの先にいつも過去の自分の映像を見ていた。他の兄姉や母から疎外されて育ったから、そういう思いだけはさせないように。出来るだけ愛情で包んでやりたかった。
しかし・・・。
スミレはなにかと忙しい。
愛情を注ぎたくても、なかなか思うように時間が取れない。ベビーシッターも家政婦も雇った。もちろん、衣食住にひもじい思いをさせることなどは一切なかった。
でもそれだけでは過去の自分と同じになってしまう。そう思いつつも、他にどうしようもなかった。
レナから取り上げない方がよかったのでは・・・。
そんな思いに駆られた夜も一再ではなかった。
夜遅くにペントハウスに帰り、濡れた枕に乗っているサキの寝顔に接する度に、ムネが傷んだ。
一時は本当にレナのところへ返しに行こうとしたこともあった。だが、その都度思いとどまった。レナがどんな気持ちでサキを手放したのかを思えば、当たり前だった。
レナほど情の深い女をスミレは知らない。
だからサキさんは自分の最後を仕上げるためのカモフラージュにレナを選んだのだと思う。そのレナがサキを安易に手放したわけがない。理由は彼女の言った通りだろう。
「世界一の男の娘は世界一の女に育ててもらいたい」
彼女の嫁いだ家は古い家だ。レナは、跡継ぎになる男の子を産まねばならなかった。そんな下らないしきたりの生む軋轢にサキを巻き込むことを恐れたのだ。だから、心を切り裂かれるような思いをしつつも、スミレの申し出に応じたに違いない。レナは賢かった。
そうまでしてサキを手放した彼女の思いを踏みにじるようなことはスミレには出来なかった。そうまでして貰い受けてきたサキを、立派に育て上げるのがスミレの義務だ。
涙の痕の残る寝顔に、矢も楯もたまらずその小さな体を抱きしめた。抱きしめながら、「誰にも渡したくない」
そんな思いを新たにした。
スミレの子育ての日々はそんな風に過ぎていった。
小学校の6年間を手元に置いたあと、サキを東海岸のハイスクールに留学させた。
日本に比べて飛び級に柔軟だし、民間の団体が運営する、特に優秀な子弟のための寮付きの特別クラスがあり、世界中から生徒を集めている。様々な企業や個人からの寄付で運営している学校法人であり、スミレもこれまで多額な寄付をしていた。
案の定、レナからは猛反対された。
「そんなことになるならスミレさんなんかに渡すんじゃなかった!」
そこまで言われた。
レナはもう不安気に見上げてくる十七歳の少女ではなく、サキの下に三人もの子供を設け、木工所のほかにスミレの出資で作った会社の経営まで手掛ける立派な女傑になっていた。
でも、スミレにも考えがあった。
「この子はサキさんの子。彼の優秀な遺伝子を継ぐ子。
もしも、いつか彼が現れた時、
『なんだ。何の変哲もない子にしちまったなあ』
そんなこと、絶対に言われたくない。彼に申し訳が立たないよ。あんただってそう思ったからわたしに託したんでしょ。
この子が将来どんな人間になりたいのかはまだわからない。でも、サキさんにもいろんな夢や希望があったと思う。せめてサキにはいろんなことを経験させて最高の教育を受けさせたいの。彼に恥ずかしくないように」
それで、レナも折れてくれた。
この国に置いておいては視野が狭くなる。この子にはスミレという、とてつもなく大きなフィールドで活躍する親がいる。もしこの子が将来タチバナの指導的な地位に就いて縦横に采配を振ってくれたら・・・。
市井の親が誰しも陥る錯覚に、スミレもまた落ちていることをこの時はまだ自覚していなかった。
だが、サキはやっぱり情の深いレナの娘だった。
「赤ちゃん出来ちゃった」
電話の向こうであっけらかんと告白された時は、頭の中がエクスタシーに似た真っ白に覆われた。あまりにも気が遠くなりすぎて性的ではない不思議な快感を覚えるほどだった。リアルで雷に打たれたことはないけれど、例えていえばそれはまるで感電して感覚がマヒしたかのような境地だった。青天の霹靂とはこのことか、と。
太平洋のこちら側で多忙で身動きがとれずに地団駄踏んだ。
あちらの国でも親権者の同意なしには未成年者の堕胎手術などは出来ない。だからマークにもどうしようもなかったのだ。無理やりにでも連れ戻して欲しかったがそんなことは頼めない。会社の人間に頼んだりもやはり出来なかった。
しかも、なんと、「産みたい」とまで言い出した。
何故だ!?
それだけはまかりならん!
絶対にダメ!
頭ごなしに反対した。
そうしたら、サキは電話にも出てくれなくなった。マークも彼の奥さんも何とか翻意させようと一生懸命説得してくれたことを後になってサキ自身の口から聞いた。
で、やっと駆け付けられるようになった時にはもう、堕胎できる時期を過ぎてしまっていた。
「・・・父親は誰なの?」
事ここに至ってしまってはもうどうしようもない。せめてサキが安心して出産できる環境を整えるべく、周辺の事情を聴こうとした。
ところが・・・。
「さあ・・・、わかんない」
またアタマがクラクラした。
その一言で娘がどのようなセックスライフを送っていたのか、想像はついた。普通の日本人よりも日本的なマークと彼の妻は平身低頭で謝ってくれたが、もちろん、彼らを責めるなんて筋違いだ。そんなことはとてもできなかった。
血は争えんな、と思った。
もちろん、レナからもらい受けた娘だから血の繋がりはない。だけどサキの、後先も考えずに闇雲に突っ走るところは若いころの自分ソックリだった。サキは間違いなく自分の娘だと確信した。
翌年生まれた赤ん坊はサキさんによく似たブルネットの、緑色の瞳の肌の白い女の子だった。娘は15歳で母になり、自動的にスミレは「ばあば」になってしまった。
不思議なことに孫娘のその白い小さな無垢な命を腕に抱いた途端、サキへの怒りやらマークへの遣る瀬無さやらという重たいものはどこかへ行ってしまった。
サキさんの残した結晶が、また美しい花を生み出した。
そんな麗しい、それまで感じたことのなかったしあわせな思いで胸がいっぱいになった、その矢先に、娘の口から飛び出した言葉にまたアタマが真っ白になった。
「でね、この子育ててくれない?」
なんて、無責任な!
瞬間的にアタマに血が上り、危うく、まだティーンエイジャーなのに早くも出産という女の一大事を終えたばかりの娘に手を挙げそうになった。
スミレの軽挙を抑えてくれたのは、やっぱり、マークだった。
「子供が子供を産んじゃったんだ。ここは怒るよりも考えるべきところだと思うよ、スミレ。それがぼくら大人の務めだろ?」
その時のスミレはもう、3人いる副社長の一人として、引退した父の代わりに会長となったマキノや、新たに社長となった親衛隊のサガワの手前、私事を優先できる状況になかった。マキノからも、
「いったいいつまで待たせるんだね!」
と始終せっつかれていた。早く社長になれ、ということだ。
スミレはもう、「タチバナ」の全てをその肩に担わねばならなくなっていたのだ。
毎日があまりにも忙し過ぎ、その多忙な日々の真っ只中で勃発した椿事に動揺し、危うくかつての父や母と同じことを、正しい道を踏み外して娘と孫を不幸にするところだった。
マークと彼の奥さんには感謝しかない。つくづく、彼が幼馴染で良かったと思う。
本社近くのビルの屋上にペントハウスがある物件を見つけ、ビルごと買い取ってそこに越した。屋上庭園で虫取りをして遊びながら、サキは海外のビジネスマンの子弟が多く通うインターナショナルスクールでたくさんの違った肌の色の友達に囲まれすくすくのびのびと育った。やがて、父親に似て利発で聡明な、ミルクティーのような褐色の肌がチャーミングな美少女になった。
子育てというものをすれば誰でも一度は思うことだが、スミレもまた、子育ての背後にいつも自分の子供のころの姿がチラついた。サキを見つめるまなざしの先にいつも過去の自分の映像を見ていた。他の兄姉や母から疎外されて育ったから、そういう思いだけはさせないように。出来るだけ愛情で包んでやりたかった。
しかし・・・。
スミレはなにかと忙しい。
愛情を注ぎたくても、なかなか思うように時間が取れない。ベビーシッターも家政婦も雇った。もちろん、衣食住にひもじい思いをさせることなどは一切なかった。
でもそれだけでは過去の自分と同じになってしまう。そう思いつつも、他にどうしようもなかった。
レナから取り上げない方がよかったのでは・・・。
そんな思いに駆られた夜も一再ではなかった。
夜遅くにペントハウスに帰り、濡れた枕に乗っているサキの寝顔に接する度に、ムネが傷んだ。
一時は本当にレナのところへ返しに行こうとしたこともあった。だが、その都度思いとどまった。レナがどんな気持ちでサキを手放したのかを思えば、当たり前だった。
レナほど情の深い女をスミレは知らない。
だからサキさんは自分の最後を仕上げるためのカモフラージュにレナを選んだのだと思う。そのレナがサキを安易に手放したわけがない。理由は彼女の言った通りだろう。
「世界一の男の娘は世界一の女に育ててもらいたい」
彼女の嫁いだ家は古い家だ。レナは、跡継ぎになる男の子を産まねばならなかった。そんな下らないしきたりの生む軋轢にサキを巻き込むことを恐れたのだ。だから、心を切り裂かれるような思いをしつつも、スミレの申し出に応じたに違いない。レナは賢かった。
そうまでしてサキを手放した彼女の思いを踏みにじるようなことはスミレには出来なかった。そうまでして貰い受けてきたサキを、立派に育て上げるのがスミレの義務だ。
涙の痕の残る寝顔に、矢も楯もたまらずその小さな体を抱きしめた。抱きしめながら、「誰にも渡したくない」
そんな思いを新たにした。
スミレの子育ての日々はそんな風に過ぎていった。
小学校の6年間を手元に置いたあと、サキを東海岸のハイスクールに留学させた。
日本に比べて飛び級に柔軟だし、民間の団体が運営する、特に優秀な子弟のための寮付きの特別クラスがあり、世界中から生徒を集めている。様々な企業や個人からの寄付で運営している学校法人であり、スミレもこれまで多額な寄付をしていた。
案の定、レナからは猛反対された。
「そんなことになるならスミレさんなんかに渡すんじゃなかった!」
そこまで言われた。
レナはもう不安気に見上げてくる十七歳の少女ではなく、サキの下に三人もの子供を設け、木工所のほかにスミレの出資で作った会社の経営まで手掛ける立派な女傑になっていた。
でも、スミレにも考えがあった。
「この子はサキさんの子。彼の優秀な遺伝子を継ぐ子。
もしも、いつか彼が現れた時、
『なんだ。何の変哲もない子にしちまったなあ』
そんなこと、絶対に言われたくない。彼に申し訳が立たないよ。あんただってそう思ったからわたしに託したんでしょ。
この子が将来どんな人間になりたいのかはまだわからない。でも、サキさんにもいろんな夢や希望があったと思う。せめてサキにはいろんなことを経験させて最高の教育を受けさせたいの。彼に恥ずかしくないように」
それで、レナも折れてくれた。
この国に置いておいては視野が狭くなる。この子にはスミレという、とてつもなく大きなフィールドで活躍する親がいる。もしこの子が将来タチバナの指導的な地位に就いて縦横に采配を振ってくれたら・・・。
市井の親が誰しも陥る錯覚に、スミレもまた落ちていることをこの時はまだ自覚していなかった。
だが、サキはやっぱり情の深いレナの娘だった。
「赤ちゃん出来ちゃった」
電話の向こうであっけらかんと告白された時は、頭の中がエクスタシーに似た真っ白に覆われた。あまりにも気が遠くなりすぎて性的ではない不思議な快感を覚えるほどだった。リアルで雷に打たれたことはないけれど、例えていえばそれはまるで感電して感覚がマヒしたかのような境地だった。青天の霹靂とはこのことか、と。
太平洋のこちら側で多忙で身動きがとれずに地団駄踏んだ。
あちらの国でも親権者の同意なしには未成年者の堕胎手術などは出来ない。だからマークにもどうしようもなかったのだ。無理やりにでも連れ戻して欲しかったがそんなことは頼めない。会社の人間に頼んだりもやはり出来なかった。
しかも、なんと、「産みたい」とまで言い出した。
何故だ!?
それだけはまかりならん!
絶対にダメ!
頭ごなしに反対した。
そうしたら、サキは電話にも出てくれなくなった。マークも彼の奥さんも何とか翻意させようと一生懸命説得してくれたことを後になってサキ自身の口から聞いた。
で、やっと駆け付けられるようになった時にはもう、堕胎できる時期を過ぎてしまっていた。
「・・・父親は誰なの?」
事ここに至ってしまってはもうどうしようもない。せめてサキが安心して出産できる環境を整えるべく、周辺の事情を聴こうとした。
ところが・・・。
「さあ・・・、わかんない」
またアタマがクラクラした。
その一言で娘がどのようなセックスライフを送っていたのか、想像はついた。普通の日本人よりも日本的なマークと彼の妻は平身低頭で謝ってくれたが、もちろん、彼らを責めるなんて筋違いだ。そんなことはとてもできなかった。
血は争えんな、と思った。
もちろん、レナからもらい受けた娘だから血の繋がりはない。だけどサキの、後先も考えずに闇雲に突っ走るところは若いころの自分ソックリだった。サキは間違いなく自分の娘だと確信した。
翌年生まれた赤ん坊はサキさんによく似たブルネットの、緑色の瞳の肌の白い女の子だった。娘は15歳で母になり、自動的にスミレは「ばあば」になってしまった。
不思議なことに孫娘のその白い小さな無垢な命を腕に抱いた途端、サキへの怒りやらマークへの遣る瀬無さやらという重たいものはどこかへ行ってしまった。
サキさんの残した結晶が、また美しい花を生み出した。
そんな麗しい、それまで感じたことのなかったしあわせな思いで胸がいっぱいになった、その矢先に、娘の口から飛び出した言葉にまたアタマが真っ白になった。
「でね、この子育ててくれない?」
なんて、無責任な!
瞬間的にアタマに血が上り、危うく、まだティーンエイジャーなのに早くも出産という女の一大事を終えたばかりの娘に手を挙げそうになった。
スミレの軽挙を抑えてくれたのは、やっぱり、マークだった。
「子供が子供を産んじゃったんだ。ここは怒るよりも考えるべきところだと思うよ、スミレ。それがぼくら大人の務めだろ?」
その時のスミレはもう、3人いる副社長の一人として、引退した父の代わりに会長となったマキノや、新たに社長となった親衛隊のサガワの手前、私事を優先できる状況になかった。マキノからも、
「いったいいつまで待たせるんだね!」
と始終せっつかれていた。早く社長になれ、ということだ。
スミレはもう、「タチバナ」の全てをその肩に担わねばならなくなっていたのだ。
毎日があまりにも忙し過ぎ、その多忙な日々の真っ只中で勃発した椿事に動揺し、危うくかつての父や母と同じことを、正しい道を踏み外して娘と孫を不幸にするところだった。
マークと彼の奥さんには感謝しかない。つくづく、彼が幼馴染で良かったと思う。
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