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2023
クラッシック・ミュージック
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小生は音楽好きです。
特にジャンルは問いません。器楽であれ声楽であれ、洋の東西もカンケーなく、ロックや民謡、演歌、ポップス。気にいったのがあればなんでも聴きます。
自分でも演奏したりします。ギターはそこそこ。ピアノは小学校低学年並みですけど、時に我が家の子供たちと合奏したりもします。
中でもクラッシックは最も好きなジャンルの一つです。
よく「クラッシックはハードル高えわ!」という人の声も耳にします。
確かに、普段聴き慣れない人にとってはそうかもしれません。親御さんがクラッシック好きだと子供も自然にそうなるとも聞きますし、クラッシック好きになるには様々な「キッカケ」が必要だという人の話もよく聞きます。
実は小生も最初はそうでした。
ハードルが高いとは思いませんでしたが、キョーミそのものが、ありませんでした。
小生の場合、キッカケは、映画でした。映画好きだからです。
映画にはよくクラッシック音楽が使用されます。例を挙げるとキリがないほどです。
なかでも、小生はスタンリー・キューブリックのファンでして、彼の映画は映画館やDVDなどで全部観ました。
その中でも小生がクラッシック好きになったきっかけになったのが『時計仕掛けのオレンジ』という作品です。製作されたのが確か1973年、小生が生まれる前の古い映画なのですが、ミニシアターで観たこの映画でスタンリー・キューブリックという映画監督に惚れ込み、それから『2001年宇宙の旅』とか『バリー・リンドン』とか『博士の異常な愛情』とかを観てゆきました。
以下、ネタバレになります。
ざっとあらすじを言えば、設定は近未来で、世は恐ろしいほどの管理社会になっている、というところがビミョーに現代を予言しているようですが、その近未来に暮らす、息苦しい毎日がイヤでやりたいほうだいに暴れまくっている一人の不良少年がこの映画の主人公です。
ある時、主人公は一人の資産家のおばさんを殺してしまい、終身刑の判決を受けて刑務所に服役します。しかしそこで、ある「人格修正プログラム」を受ければ刑期を短縮して娑婆に出られると聞き、これに応募するのですが・・・。というストーリーです。そのストーリーの中でベートーヴェンの第九が重要なキーとして使われています。
他にもロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲や『泥棒かささぎ』序曲』、エルガーの『威風堂々』、パーセルの『メアリー女王の葬送音楽』、タッカーの『太陽への序曲』、リムスキー・コルサコフ『シェヘラザード』など、クラッシック音楽が多数随所に挿入されている作品になってます。
『2001年』のリヒャルト・シュトラウス『ツァラトゥストラはかく語りき』とか、ヨハン・シュトラウスの『美しく青きドナウ』もそう。
『バリー・リンドン』のヴィヴァルディ、ヘンデル、バッハ、モーツァルト、シューベルトもそう。キューブリックの映画にはクラッシック音楽が多く使われていますね。
さて、映画のことはちょっとおきます。
この『時計仕掛け・・・』の中で使われたのが、ベートーヴェンの交響曲第九番、その第二楽章だったのです。最初に観たのが高校生の時でした。そのころバンドを組んでギターをかき鳴らしたりドラムを叩いたりしていた小生にとって、この第二楽章がビビッと来たのです。
それまでクラッシック音楽というものにどこか古めかしいイメージを持っていたのですが、第九の第二楽章は恐ろしくロック的で、正直、映画と同じぐらいに、惚れてしまいました。
そこからは早かったです。
続いてベートーヴェンの第七をカックイイ! と思い始め、同じくベートーヴェンの三大ピアノソナタを聴いているうちにいつしかバッハに行き、ギター曲にもなっている『神よ人の望みの喜びを』を自分でも練習したりしてるうちに、ムソルグスキーの『展覧会の絵』に行きました。リアルタイムではありませんが、エマーソン・レイク・アンド・パーマーというバンドがこの『展覧会の絵』のロック版を演奏しているのを知り、それにもカックイイ! となってしまい、そんで彼らが題材にしていたチャイコフスキーの『くるみ割り人形』に飛び火して、そのチャイコフスキーをめっちゃリスペクトしていた「遅れて来たロマン派」と言われるラフマニノフに行きつきました。
冬季オリンピックであのフィギュアスケートの浅田真央選手が「ピアノ協奏曲第二番」を舞っているのを見ながら、「やっぱ、ええわあ・・・」と思ったものです。
さて、ではクラッシック音楽の定義ってなんだろう。そう思う人は少なくないようで、小生もこれに明快な答えを持ち合わせなかったので、チラっと調べているうちにネットである文章に行きあたりました。
『第一次世界大戦が「クラシック音楽」に与えた「意外なダメージ」をご存じですか? 』という、許 光俊さんという人の一文がそれです。
無断ですがその一文を短く要約すれば次のようになるかと。
いわく、
「クラシックというとまっさきに連想されるのは、19世紀のベートーヴェンやショパンのような作曲家であり、マーラーやリヒャルト・シュトラウスなんかも全盛期は20世紀初頭まで」
「でも、そのころ丁度起こった大事件、第一次世界大戦が全てを変えてしまった」
「人類史上初めての大量の殺人兵器によるこの戦争によって、それまでの常識が全部ひっくり返ってしまった。シリアスに人生を考え、理想美に憧れたり、上品なきれいさを好んだりすることが、馬鹿らしくなってしまった。大量生産、大量殺戮、あっという間に普及した飛行機をはじめとする近代兵器・・・。それらの出現が人々の感性を変えてしまった」
「第一次世界大戦が終わった1920年代あたりには、妙に軽薄でふざけたような作品、逆に不安にさいなまれる心中を吐露したような作品など、それまでとは趣を変えた音楽が増えた。さらには、ジャズを取り入れたり、機械のような現代的な美を表現したり。もはや理想美などなくなってしまった」
「『芸術とは美しいものだ』という考えの外側に一歩を踏み出せば、それは時代のリアリティを表現するという点では間違っていないけれど、ごく普通のきれいな音楽を聴きたい人が求めるものとは違うものを作るということになるのは自明」
「そして、第二次世界大戦が始まると、激しい爆撃によってホールやオペラハウスは破壊され、才能あるユダヤ人は虐殺され、文化をめぐる状況は一変してしまった。もはやモーツァルトのような音楽を書ける状況ではなくなった」
「このような時代の変化を見ていると、おのずと第一次世界大戦が始まるあたりまでがクラシックの全盛期だったのではないか。普通のクラシック愛好家が聴く作品は、1910年代までがほとんど」
「クラシックとは、作品も演奏家も大事だが、聴衆も大事だった。すばらしい作品、それを魅力的に奏でる演奏者、それを喜んで聴く聴衆。この三つが揃って、いわゆる「クラシック」の世界は成り立っていた」
「第二次世界大戦後は、さまざまな実験音楽が作られ、「現代音楽」なるジャンルも生まれた。もはや聴衆がどう反応するかはほとんど眼中になく、純粋に、音楽の新たなあり方を問うものが増え、理解されようがされまいが、作曲家は自身の信念を貫くことだけを考えるようになった。きれいでないもの、わけがわからないものを弾いたり聴こうとするのはよほどの変人であり、そんな変人だらけになってしまった世界ではもはやクラッシック音楽は成立しない」
「故に、1920年代以降の音楽は、もはやクラッシックとは言えない」
というものです。
さて。
小生がこの一文を書こうと思ったのはまさにこの許さんの一文に接したからなのですが、敢えてこの文への反論はしません。
クラッシックという一音楽ジャンルをどのように捉えようと、それは各人の自由だし、誰が何を言おうとも、バッハが平均律というものを定める以前から音楽というものは厳然として存在するわけで、ベートーヴェンやモーツァルトやラフマニノフやバーンスタインの音楽は素晴らしいし、それは戦争がどうであれ、変わらない事実だということです。
そして小生が指摘したいのは、今活躍している少なくないロックやポップスのミュージシャンがこぞってクラッシック音楽をモチーフにしているということであり、今作曲されている多くの楽曲の中にも「シリアスに人生を考え、理想美に憧れたり、上品なきれいさを好んだり」する傾向は確かにあり、「きれいでないもの、わけがわからないものを弾いたり聴こうとするのはよほどの変人」なのかもしれませんが、モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても「絶対さ」とか「斬新さ」は追及したけれど、必ずしも「キレイさ」とか「美しさ」とか、変人の反対である「常識人」であろうとして音楽を追い求めたのではないんじゃないかなと思うのです。
「きれいでないもの」「わけがわからないもの」を追い求めるのはクラッシックとは言えない。
もしそういう見方が成立するならば、バッハやヘンデルの作品を「古楽」と称するクラッシック音楽は、そこから一歩も発展も進捗もしなかったかもしれないとおもうのです。
先に挙げた『時計仕掛けのオレンジ』は、スタンリー・キューブリックの他の作品に共通するテーマである「暴力」がもっとも先鋭的に描かれた作品という評価が定まっています。
ネタバレになりますが、主人公の不良少年アレックスは、刑務所で受けた人格矯正プログラムの一環として非常に暴力的な映像を強制的に見せられるシーンがあります。
特殊な薬品を投与されながら暴力的な映像を延々と見せられると暴力に対する嫌悪感が生まれ、吐き気を催して暴力をふるいたくなくなる、という療法というわけです。
そのシーンにベートーヴェンの「第九」が効果的に使われ、挙句、ベートーヴェンをこよなく愛していたアレックスは、しまいには「第九」を聴いただけで吐き気を催し、ついには苦しさのあまりジサツを図ってしまうという、そういうストーリーなのです。
ベートーヴェンの「第九」の第四楽章と言えば、あの有名な「喜び」です。日本では毎年年末の恒例になっていますね。
ドイツの詩人であるシラーの書いた「喜び」とベートーヴェンのその音楽の中に、ある種の「暴力」的なものを見出したキューブリックの天才が、それをさらに至高の芸術に高めたのだと言えると思うのです。
チャイコフスキーの『1812年』だってそうです。
あの英雄ナポレオンのロシア遠征をめでたくも撃退した祝賀用に作曲されたこの曲で、初めてオーケストラの楽器として殺傷兵器である大砲が使われました。よほどうれしかったのでしょう。YouTubeで見れます。実際に曲に合わせて発射された大砲の轟音は凄まじいです。オーケストラの音も霞んでしまうほどに。大砲という凶悪な殺人兵器「暴力装置」が、「ごく普通のきれいな音楽」であるクラッシックに堂々と使われているのです。作曲されたのは1880年、第一次世界大戦の、30年以上も前に、です。
小生がハマったエマーソン・レイク・アンド・パーマー、EL&Pの『展覧会の絵』にしても同じです。
第二次世界大戦以降の、「きれいでない」「わけがわからない」音楽をやっているロックミュージックのバンドは、第一次世界大戦よりもはるか昔に作曲された「クラッシック音楽」の中に秘められた強烈なロック性を見出し、第二次世界大戦も過ぎてだいぶ経った現代に蘇らせ、その素晴らしさを再生させ、第二次世界大戦以降の音楽として若者を熱狂させたのです。
小生は犬好き猫好きです。
だからネットで「子犬のワルツ」とかの記述があるとすぐ飛びつきます。
敢えて説明するまでもない、ワルツ第6番 変ニ長調 作品64-1 は、フレデリック・ショパンの作曲したピアノ独奏のためのワルツ、ということになってます。
ショパンの恋人であったジョルジュ・サンドが、飼っていた子犬が自分の尻尾を追ってぐるぐる回るクセを持っていて、サンドがショパンにそれを音楽で描写して欲しいと頼んだ。そこでショパンが即興で作曲したものといわれている、そうです。「きれいで」「美しい」というよりは、軽やかで楽しいチャーミングな曲ですね。子犬と戯れる美しい恋人のそばで愉しげにピアノを奏でるショパンの姿が目に浮かぶようです。
「猫のワルツ」ってのもあります。
こちらはルロイ(リロイ)・アンダーソンというひとが作曲したオーケストラの曲です。
聴いていただければわかりますし、TVなどでも度々BGMとして使用されているので聴いたことがあるという人もいるでしょう。上品な猫が甘えるような鳴き声をストリングスが巧みに表現していてとてもキュートでチャーミングな曲です。
アンダーソンは朝鮮戦争までアメリカ陸軍で軍属として働いていました。作曲を始めたのはそれからです。だから、この「猫のワルツ」は第二次世界大戦以降の楽曲ということになります。
一般に「モーツァルト」というと、「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」を指すわけですが、そのお父さんは「ヨーハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルト(Johann Georg Leopold Mozart, 1719年11月14日 - 1787年5月28日)」と言いました。
彼が作曲した曲として『おもちゃの交響曲』というのがあるのですが、小学校や中学校の音楽の授業で聴いたことがある、という人もいるでしょう。とても有名な、「きれいで」「美しい」クラッシックというよりは、小さな子供の遊びのBGMみたいな可愛らしい曲です。
ちなみに、近年の研究で、実はこの曲はエトムント・アンゲラー(Edmund Angerer 1740年5月24日 - 1794年8月7日)というオーストリアの神父さんが作曲したものであることがわかってきました。
いずれにしても18世紀の人の手になるもので、「きれいで」「美しい」というよりは、今のポップスにも通じる「軽やかさ」と「キュートさ」あふれる曲です。許 光俊さんの分類、定義に従うなら「クラッシック音楽」と言えるかどうかビミョーです。。
でも、かつての小生のように「クラッシック? キョーミないです」という人が
「子犬のワルツ」
「猫のワルツ」
「おもちゃの交響曲」
これらの楽曲を続けて聴いたとすれば、みんな等しくこう言うでしょう。
「なにこれ、全部クラッシックじゃん!」
第一次世界大戦がどうであれ、それ以前もそれ以降も戦争はあり、大量かそうでないかの違いこそあれ、人々は音楽の中に心の安らぎを求めたり、刺激を求めたり、救いを求めたり、美しさや醜さを求めていることは同じではないかと思うのです。
「才能あるユダヤ人」にしか美しい音楽は作れない。だから、ユダヤ人が大量に殺戮された後に作られた音楽はクラッシックとは言えない。
許さんの文章にはそういう意味にも受け取れる文言があります。
ですが、今や「才能があるかもしれない」パレスチナの人々を迫害し、大量に虐殺し、その子供たちを殺しているのは紛れもなくユダヤ人の国であるイスラエルです。
昔も今も、人種がどうであれ、その本質はいささかも変わっていないと思うのです。
「そんな変人だらけになってしまった世界ではもはやクラッシック音楽は成立しない」
そう思うのは勝手です。ご自由です。
でも、今日も小生は、何百年も前のクラッシック音楽から刺激を受け、癒され、戦火の中で荒廃した廃墟の中から紡ぎ出された美しい、刺激的な音を愛で続けたいと思うのです。
特にジャンルは問いません。器楽であれ声楽であれ、洋の東西もカンケーなく、ロックや民謡、演歌、ポップス。気にいったのがあればなんでも聴きます。
自分でも演奏したりします。ギターはそこそこ。ピアノは小学校低学年並みですけど、時に我が家の子供たちと合奏したりもします。
中でもクラッシックは最も好きなジャンルの一つです。
よく「クラッシックはハードル高えわ!」という人の声も耳にします。
確かに、普段聴き慣れない人にとってはそうかもしれません。親御さんがクラッシック好きだと子供も自然にそうなるとも聞きますし、クラッシック好きになるには様々な「キッカケ」が必要だという人の話もよく聞きます。
実は小生も最初はそうでした。
ハードルが高いとは思いませんでしたが、キョーミそのものが、ありませんでした。
小生の場合、キッカケは、映画でした。映画好きだからです。
映画にはよくクラッシック音楽が使用されます。例を挙げるとキリがないほどです。
なかでも、小生はスタンリー・キューブリックのファンでして、彼の映画は映画館やDVDなどで全部観ました。
その中でも小生がクラッシック好きになったきっかけになったのが『時計仕掛けのオレンジ』という作品です。製作されたのが確か1973年、小生が生まれる前の古い映画なのですが、ミニシアターで観たこの映画でスタンリー・キューブリックという映画監督に惚れ込み、それから『2001年宇宙の旅』とか『バリー・リンドン』とか『博士の異常な愛情』とかを観てゆきました。
以下、ネタバレになります。
ざっとあらすじを言えば、設定は近未来で、世は恐ろしいほどの管理社会になっている、というところがビミョーに現代を予言しているようですが、その近未来に暮らす、息苦しい毎日がイヤでやりたいほうだいに暴れまくっている一人の不良少年がこの映画の主人公です。
ある時、主人公は一人の資産家のおばさんを殺してしまい、終身刑の判決を受けて刑務所に服役します。しかしそこで、ある「人格修正プログラム」を受ければ刑期を短縮して娑婆に出られると聞き、これに応募するのですが・・・。というストーリーです。そのストーリーの中でベートーヴェンの第九が重要なキーとして使われています。
他にもロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲や『泥棒かささぎ』序曲』、エルガーの『威風堂々』、パーセルの『メアリー女王の葬送音楽』、タッカーの『太陽への序曲』、リムスキー・コルサコフ『シェヘラザード』など、クラッシック音楽が多数随所に挿入されている作品になってます。
『2001年』のリヒャルト・シュトラウス『ツァラトゥストラはかく語りき』とか、ヨハン・シュトラウスの『美しく青きドナウ』もそう。
『バリー・リンドン』のヴィヴァルディ、ヘンデル、バッハ、モーツァルト、シューベルトもそう。キューブリックの映画にはクラッシック音楽が多く使われていますね。
さて、映画のことはちょっとおきます。
この『時計仕掛け・・・』の中で使われたのが、ベートーヴェンの交響曲第九番、その第二楽章だったのです。最初に観たのが高校生の時でした。そのころバンドを組んでギターをかき鳴らしたりドラムを叩いたりしていた小生にとって、この第二楽章がビビッと来たのです。
それまでクラッシック音楽というものにどこか古めかしいイメージを持っていたのですが、第九の第二楽章は恐ろしくロック的で、正直、映画と同じぐらいに、惚れてしまいました。
そこからは早かったです。
続いてベートーヴェンの第七をカックイイ! と思い始め、同じくベートーヴェンの三大ピアノソナタを聴いているうちにいつしかバッハに行き、ギター曲にもなっている『神よ人の望みの喜びを』を自分でも練習したりしてるうちに、ムソルグスキーの『展覧会の絵』に行きました。リアルタイムではありませんが、エマーソン・レイク・アンド・パーマーというバンドがこの『展覧会の絵』のロック版を演奏しているのを知り、それにもカックイイ! となってしまい、そんで彼らが題材にしていたチャイコフスキーの『くるみ割り人形』に飛び火して、そのチャイコフスキーをめっちゃリスペクトしていた「遅れて来たロマン派」と言われるラフマニノフに行きつきました。
冬季オリンピックであのフィギュアスケートの浅田真央選手が「ピアノ協奏曲第二番」を舞っているのを見ながら、「やっぱ、ええわあ・・・」と思ったものです。
さて、ではクラッシック音楽の定義ってなんだろう。そう思う人は少なくないようで、小生もこれに明快な答えを持ち合わせなかったので、チラっと調べているうちにネットである文章に行きあたりました。
『第一次世界大戦が「クラシック音楽」に与えた「意外なダメージ」をご存じですか? 』という、許 光俊さんという人の一文がそれです。
無断ですがその一文を短く要約すれば次のようになるかと。
いわく、
「クラシックというとまっさきに連想されるのは、19世紀のベートーヴェンやショパンのような作曲家であり、マーラーやリヒャルト・シュトラウスなんかも全盛期は20世紀初頭まで」
「でも、そのころ丁度起こった大事件、第一次世界大戦が全てを変えてしまった」
「人類史上初めての大量の殺人兵器によるこの戦争によって、それまでの常識が全部ひっくり返ってしまった。シリアスに人生を考え、理想美に憧れたり、上品なきれいさを好んだりすることが、馬鹿らしくなってしまった。大量生産、大量殺戮、あっという間に普及した飛行機をはじめとする近代兵器・・・。それらの出現が人々の感性を変えてしまった」
「第一次世界大戦が終わった1920年代あたりには、妙に軽薄でふざけたような作品、逆に不安にさいなまれる心中を吐露したような作品など、それまでとは趣を変えた音楽が増えた。さらには、ジャズを取り入れたり、機械のような現代的な美を表現したり。もはや理想美などなくなってしまった」
「『芸術とは美しいものだ』という考えの外側に一歩を踏み出せば、それは時代のリアリティを表現するという点では間違っていないけれど、ごく普通のきれいな音楽を聴きたい人が求めるものとは違うものを作るということになるのは自明」
「そして、第二次世界大戦が始まると、激しい爆撃によってホールやオペラハウスは破壊され、才能あるユダヤ人は虐殺され、文化をめぐる状況は一変してしまった。もはやモーツァルトのような音楽を書ける状況ではなくなった」
「このような時代の変化を見ていると、おのずと第一次世界大戦が始まるあたりまでがクラシックの全盛期だったのではないか。普通のクラシック愛好家が聴く作品は、1910年代までがほとんど」
「クラシックとは、作品も演奏家も大事だが、聴衆も大事だった。すばらしい作品、それを魅力的に奏でる演奏者、それを喜んで聴く聴衆。この三つが揃って、いわゆる「クラシック」の世界は成り立っていた」
「第二次世界大戦後は、さまざまな実験音楽が作られ、「現代音楽」なるジャンルも生まれた。もはや聴衆がどう反応するかはほとんど眼中になく、純粋に、音楽の新たなあり方を問うものが増え、理解されようがされまいが、作曲家は自身の信念を貫くことだけを考えるようになった。きれいでないもの、わけがわからないものを弾いたり聴こうとするのはよほどの変人であり、そんな変人だらけになってしまった世界ではもはやクラッシック音楽は成立しない」
「故に、1920年代以降の音楽は、もはやクラッシックとは言えない」
というものです。
さて。
小生がこの一文を書こうと思ったのはまさにこの許さんの一文に接したからなのですが、敢えてこの文への反論はしません。
クラッシックという一音楽ジャンルをどのように捉えようと、それは各人の自由だし、誰が何を言おうとも、バッハが平均律というものを定める以前から音楽というものは厳然として存在するわけで、ベートーヴェンやモーツァルトやラフマニノフやバーンスタインの音楽は素晴らしいし、それは戦争がどうであれ、変わらない事実だということです。
そして小生が指摘したいのは、今活躍している少なくないロックやポップスのミュージシャンがこぞってクラッシック音楽をモチーフにしているということであり、今作曲されている多くの楽曲の中にも「シリアスに人生を考え、理想美に憧れたり、上品なきれいさを好んだり」する傾向は確かにあり、「きれいでないもの、わけがわからないものを弾いたり聴こうとするのはよほどの変人」なのかもしれませんが、モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても「絶対さ」とか「斬新さ」は追及したけれど、必ずしも「キレイさ」とか「美しさ」とか、変人の反対である「常識人」であろうとして音楽を追い求めたのではないんじゃないかなと思うのです。
「きれいでないもの」「わけがわからないもの」を追い求めるのはクラッシックとは言えない。
もしそういう見方が成立するならば、バッハやヘンデルの作品を「古楽」と称するクラッシック音楽は、そこから一歩も発展も進捗もしなかったかもしれないとおもうのです。
先に挙げた『時計仕掛けのオレンジ』は、スタンリー・キューブリックの他の作品に共通するテーマである「暴力」がもっとも先鋭的に描かれた作品という評価が定まっています。
ネタバレになりますが、主人公の不良少年アレックスは、刑務所で受けた人格矯正プログラムの一環として非常に暴力的な映像を強制的に見せられるシーンがあります。
特殊な薬品を投与されながら暴力的な映像を延々と見せられると暴力に対する嫌悪感が生まれ、吐き気を催して暴力をふるいたくなくなる、という療法というわけです。
そのシーンにベートーヴェンの「第九」が効果的に使われ、挙句、ベートーヴェンをこよなく愛していたアレックスは、しまいには「第九」を聴いただけで吐き気を催し、ついには苦しさのあまりジサツを図ってしまうという、そういうストーリーなのです。
ベートーヴェンの「第九」の第四楽章と言えば、あの有名な「喜び」です。日本では毎年年末の恒例になっていますね。
ドイツの詩人であるシラーの書いた「喜び」とベートーヴェンのその音楽の中に、ある種の「暴力」的なものを見出したキューブリックの天才が、それをさらに至高の芸術に高めたのだと言えると思うのです。
チャイコフスキーの『1812年』だってそうです。
あの英雄ナポレオンのロシア遠征をめでたくも撃退した祝賀用に作曲されたこの曲で、初めてオーケストラの楽器として殺傷兵器である大砲が使われました。よほどうれしかったのでしょう。YouTubeで見れます。実際に曲に合わせて発射された大砲の轟音は凄まじいです。オーケストラの音も霞んでしまうほどに。大砲という凶悪な殺人兵器「暴力装置」が、「ごく普通のきれいな音楽」であるクラッシックに堂々と使われているのです。作曲されたのは1880年、第一次世界大戦の、30年以上も前に、です。
小生がハマったエマーソン・レイク・アンド・パーマー、EL&Pの『展覧会の絵』にしても同じです。
第二次世界大戦以降の、「きれいでない」「わけがわからない」音楽をやっているロックミュージックのバンドは、第一次世界大戦よりもはるか昔に作曲された「クラッシック音楽」の中に秘められた強烈なロック性を見出し、第二次世界大戦も過ぎてだいぶ経った現代に蘇らせ、その素晴らしさを再生させ、第二次世界大戦以降の音楽として若者を熱狂させたのです。
小生は犬好き猫好きです。
だからネットで「子犬のワルツ」とかの記述があるとすぐ飛びつきます。
敢えて説明するまでもない、ワルツ第6番 変ニ長調 作品64-1 は、フレデリック・ショパンの作曲したピアノ独奏のためのワルツ、ということになってます。
ショパンの恋人であったジョルジュ・サンドが、飼っていた子犬が自分の尻尾を追ってぐるぐる回るクセを持っていて、サンドがショパンにそれを音楽で描写して欲しいと頼んだ。そこでショパンが即興で作曲したものといわれている、そうです。「きれいで」「美しい」というよりは、軽やかで楽しいチャーミングな曲ですね。子犬と戯れる美しい恋人のそばで愉しげにピアノを奏でるショパンの姿が目に浮かぶようです。
「猫のワルツ」ってのもあります。
こちらはルロイ(リロイ)・アンダーソンというひとが作曲したオーケストラの曲です。
聴いていただければわかりますし、TVなどでも度々BGMとして使用されているので聴いたことがあるという人もいるでしょう。上品な猫が甘えるような鳴き声をストリングスが巧みに表現していてとてもキュートでチャーミングな曲です。
アンダーソンは朝鮮戦争までアメリカ陸軍で軍属として働いていました。作曲を始めたのはそれからです。だから、この「猫のワルツ」は第二次世界大戦以降の楽曲ということになります。
一般に「モーツァルト」というと、「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」を指すわけですが、そのお父さんは「ヨーハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルト(Johann Georg Leopold Mozart, 1719年11月14日 - 1787年5月28日)」と言いました。
彼が作曲した曲として『おもちゃの交響曲』というのがあるのですが、小学校や中学校の音楽の授業で聴いたことがある、という人もいるでしょう。とても有名な、「きれいで」「美しい」クラッシックというよりは、小さな子供の遊びのBGMみたいな可愛らしい曲です。
ちなみに、近年の研究で、実はこの曲はエトムント・アンゲラー(Edmund Angerer 1740年5月24日 - 1794年8月7日)というオーストリアの神父さんが作曲したものであることがわかってきました。
いずれにしても18世紀の人の手になるもので、「きれいで」「美しい」というよりは、今のポップスにも通じる「軽やかさ」と「キュートさ」あふれる曲です。許 光俊さんの分類、定義に従うなら「クラッシック音楽」と言えるかどうかビミョーです。。
でも、かつての小生のように「クラッシック? キョーミないです」という人が
「子犬のワルツ」
「猫のワルツ」
「おもちゃの交響曲」
これらの楽曲を続けて聴いたとすれば、みんな等しくこう言うでしょう。
「なにこれ、全部クラッシックじゃん!」
第一次世界大戦がどうであれ、それ以前もそれ以降も戦争はあり、大量かそうでないかの違いこそあれ、人々は音楽の中に心の安らぎを求めたり、刺激を求めたり、救いを求めたり、美しさや醜さを求めていることは同じではないかと思うのです。
「才能あるユダヤ人」にしか美しい音楽は作れない。だから、ユダヤ人が大量に殺戮された後に作られた音楽はクラッシックとは言えない。
許さんの文章にはそういう意味にも受け取れる文言があります。
ですが、今や「才能があるかもしれない」パレスチナの人々を迫害し、大量に虐殺し、その子供たちを殺しているのは紛れもなくユダヤ人の国であるイスラエルです。
昔も今も、人種がどうであれ、その本質はいささかも変わっていないと思うのです。
「そんな変人だらけになってしまった世界ではもはやクラッシック音楽は成立しない」
そう思うのは勝手です。ご自由です。
でも、今日も小生は、何百年も前のクラッシック音楽から刺激を受け、癒され、戦火の中で荒廃した廃墟の中から紡ぎ出された美しい、刺激的な音を愛で続けたいと思うのです。
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Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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