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09 日常の努力
しおりを挟む熟慮の結果、プロの探偵を雇うのはやめにした。どうせヒマなのだから自力でやることにした。本当はヒマどころか、企画案の提出期限まで一か月を切っているのにまだ一つもアイディアが浮かばなかった。仕事に傾注するなら、6時間で四千円のレンタカーを借りるために外出しているヒマはないはずなのだが・・・。
久々の外出で暑さに頭がくらくらする。冷房の効いた部屋に籠りきりだったせいだ。電車や通りで見かける女性のノースリーブの二の腕やタンクトップの胸に目が行ってしまう。妻を満足させられないくせに妻の匂いや女の身体には執着する男だ。
今朝、加奈子は里香を連れて早めに家を出た。
「友達がね、預かってくれるっていうの。里香も彼女を気に入っててね。午前中から預かってもらって午後はジムに行ってから里香を迎えに行って、少し遊んで、そうねえ・・・、七時ぐらいには戻るわ」
ここ半月ほどで妻は目に見えて綺麗になった。
加奈子のいでたちはノースリーブの白いシャツに色こそグレーだがやけに短いスカートのスーツ。溌溂としていて健康的なエロティックさを漂わせる雰囲気を纏っていた。その場に押し倒したくなる衝動を堪えるのが辛くなるほどに。絶対に何かある。証拠はまだないが、そう確信させる何かを加奈子は身体じゅうから振りまいていた。
達彦の無遠慮なイヤらしい視線を感じたのか、電車の座席の前に立っていた女性がジャケットの胸を掻き合わせて睨みつけてきた。
前金をカードで支払い、レンタカー屋を出て加奈子の会社に向かった。
だが、ここ二年ほど車を運転していない。ウィンカーと間違えてワイパーを動かしてしまう。バックミラーにレンタカー屋の店員の冷笑が映る。クソ! もうこの店は使ってやるもんか。独り言ちてとりあえずの留飲を下げる。
加奈子の会社の通用口が見える路端にハザードランプを点けて駐める。そして待つ。
今日は水曜日。例の早上がりデーだ。
いつものジムに行くなら会社の前の地下鉄に乗るはず。そうでないなら・・・。それを確かめるための尾行だ。
バックミラーに早くも駐車禁止を取り締まるミニパトの影が映る。ウザい。ウザすぎる。舌打ちを繰り返している間に十二時を過ぎる。パラパラとビルの横から人影が出てくる。見知らぬ男女の顔、顔。ランチタイムだから他のテナントの社員たちも混じる。ミニパトも気になるが、ここで見失ってしまってはレンタカーを借りてまでこんなことをしている意味がない。
その顔の群れの中にやっと加奈子の顔を見つけた。
朝,送り出したそのままの姿で通用口から出てきた。それだけで軽い感動すら覚える。何故感動するのだろうか。家で見る彼女とはまた別の新鮮さを感じるからだろうか。
ボーっと見とれている場合ではない。ブレーキを踏んでギアを入れようとすると窓を叩かれた。
「すみませんねえ。ここ駐停車禁止なんですよ。免許証見せてください」
そうこうしている間に加奈子の姿を見失ってしまった。
「あ・・・」
いた。地下鉄の降り口には向かわずに通りに出てタクシーを拾った。追わねば。
「あ・・・」
達彦は加奈子の乗ったタクシーと冷たい視線で彼を見下ろす婦人警官とに挟まれて困惑した。
加奈子は渋谷の分身からゴム製品を取り去り、慣れた手つきで口をキュッと結びゴミ箱に捨てた。そして再びベッドのヘッドボードに背中を預けている彼の脚の間に入り分身を舌で清め始めた。
「そんなことまでしなくていいのに」
「したいんです。させてください」
「いいけど、もう片方の手は何してるの。ん」
加奈子は左手で幹を支える一方、右手は自分の股間を弄っていた。それを咎められ、赤面した。顔を赤くしながらもフェラチオはやめず、クリトリスへの刺激も止めない。
「可愛いよ、加奈子・・・。おいで」
顔を上げ、渋谷の身体を這いあがりキスを受けた。大胆に舌を差し入れ彼の舌に絡ませ、吸う。彼の乳房への愛撫に吐息を漏らしながら、彼の分身を扱く手は止めない。
渋谷の提案を受け入れ、加奈子は彼の愛人になった。
お金はありがたかったが、それに伴って渋谷が口調を変えてくれたことのほうがもっと嬉しかった。これで渋谷と共に過ごす時間は身も心も全て彼のものだという気持ちになれた。でも、ことが終われば達彦の妻に戻る。身体はもう大部分が渋谷の色に染められてしまったが、心まではダメだと自分に言いきかせる。達彦のためというよりは、それが渋谷の願いだから、そうしている。
ベッドを共にしている間だけ。それ以外は達彦の妻だと。夫への配慮よりもパトロンの意思の方に重きを置いている自分に嫌悪感を抱くのはもうやめた。自分に素直になった結果がこれなのだから。
眠れない夜に自分を慰める時も、過去を思い出すことは無くなった。代わりに死ぬほどイカされた渋谷とのセックス、その一つ一つのシーンを思い出すようになった。そのほうがより感じるようになった。達彦との間は不健康になる一方だったが、心の奥底の不幸な記憶は少しづつ洗い流され、そこに拘ることもなくなった。記憶は消えない。だがその記憶に沁みついた不快な思いが薄れゆき、過去の出来事の一つになってゆくのを加奈子は感じていた。
「もう一度したいのかい。あんなにたくさん悦んだくせに・・・。底なしだな、加奈子は」
「渋谷さんに変えられちゃったから。だから・・・」
「また人のせいにする。イケない子だな。そういう悪い子にはお仕置きしないとな」
彼が枕もとのバッグからゴム製品を取ろうとするのを加奈子は押しとどめた。
「今日は大丈夫な日なんです。このまま、お願いします」
「ダメだよ、それだけは。約束したじゃないか。そうでないと・・・」
彼の口を唇で塞いだ。
「あなたを直接感じたいんです」
そう言ってもう一度彼にキスし、彼に跨り、彼の分身を、呑んだ。そのまま腰を使おうとするのを渋谷に両手で抑えられた。
「このまま。出来るだけ長く加奈子の中に入っていたいんだ」
「ああ・・・、嬉しい・・・。あ、動いてる。・・・奥・・・、奥が・・・ああ、熱い。素敵・・・」
「ところで、彼の方は、大丈夫かい」
「やだ、こんな時に・・・」
「こんな時だから言うのさ。大事なことだよ。加奈子は僕とずっとこうしてゆきたいだろう」
「それは、そうだけど・・・ああ・・・」
「何か変わったことはある? 例えば態度とか、行動のパターンだとか。急に優しくなったり、逆に質問されることが増えたり、とかね」
渋谷には徐々に達彦のことを話すようになっていた。仕事で大事な局面にいるらしいこと。在宅で企画を考えているのだがどうやらあまり上手く行っていないこと。いつもイライラして娘にまで当たることがある・・・。そういう話を事細かに彼に話していた。
「そう言われれば・・・」
「あるかい? 何か、サインが」
「このごろ、口数が増えたような気もする。この前渋谷さんと会って帰ったら何年かぶりに『お帰り』って言われたわ。娘にも話しかけるようになったし。あっ!・・・そこ、あん、・・・いい・・・ピクピク、動いてるぅ・・・」
「ふーむ・・・」
と彼は言った。
「一つ、聞いていいかな」
「はい。・・・ああ・・・」
「もし、だよ。もし仮に旦那さんが加奈子と僕とのことを知ったら、どうするだろう。自分の妻の浮気を知ったら、彼はどうするだろう」
「・・・今は考えたくない」
「考えるんだよ。彼は赦してくれるだろうか。それとも離婚を選ぶかな」
「わかんない。・・・ああ、動きたい。動いていい?」
「ダメ。
僕はね、きみの旦那さんがどうしようと、きみと里香ちゃんを守りたい。今その対策を考えているんだ、いろいろとね」
「渋谷さん・・・」
「絶対にきみと里香ちゃんを不幸になんかしない。だから全て僕に任せてくれ。いいね?」
「うれしい・・・。大好き・・・」
「可愛いよ、加奈子。その気持ちだけ聴いておきたかったんだ。
さ、あとは自由にしなさい。終わったらちょっと打ち合わせしよう。なるべくそうならないような努力もしておかなければね」
「大好きです・・・、あなた・・・」
尾行初日から切符を切られてしまった。幸先の悪さに悪態を吐いた。仕方がない。次からは原付バイクにすることにして、念のために加奈子の通うジムに電話して呼びだしてもらった。今日は来ていないと言われた。
よし! 初めて妻がウソを吐いた証拠が取れた。
中古バイク屋に寄ってなるべく安いのを調達し、マンションに置くと怪しまれるので駅前の有料駐輪場を契約した。
望遠付きのカメラと合わせて結構な出費になったが、ジムに行くと言って行っていなかった事実を知り、気分は高揚していた。
しかし、家に戻ってふと気づいた。
ということは今、加奈子は他の男に抱かれているということだ、と。少なくともその可能性があるということだ。
どお~ん。
心の中で重々しい地響きが起こった。
妻のあの、しなやかなのに魅惑的な胸や尻が他の男に愛撫され、イチモツをそこに受け入れているのだ。暗澹たる気持ちの中に何かが芽生えた。
引き出しのカギを開け、その奥にあるビニールに包まれた布を取り出した。数日前のそれは、まだほのかな妻の匂いを放っている。
鼻にあてた。そして大きく香りを吸い込んだ。
そしてジーンズのベルトを外し、トランクスの中に手を入れた。
帰宅していつにない上機嫌な夫の出迎えを受け、薄れつつあった罪悪感が再び頭を擡げた。
「お帰り。里香、楽しかったか?」
「ウン。ブランコして、おばちゃんにスパゲチー作ってもらったー。それからカブトムシ獲ったー。ホラ!」
「へえ。ホントだ。すごいじゃん。よかったな、里香」
それきり夫はまた部屋に籠った。だけど確実に進歩はしていると思う。彼なりに努力はしているのだと。そしてできれば彼の業績が会社で認められますように。そうすれば、また前のような穏やかな家庭が戻って来るかも。
しかし、そうなったとしたら、その時はどうすればいいのか。渋谷との関係を。それはそれとしてこのまま続けて行くのか。仮に今そうなったとして、どうすればいいのか。
渋谷と別れるか。
それはNOだ。
もう加奈子はそこまで行ってしまった。彼を失うなんて絶対に出来ない。
「加奈子」
「ひっ、」
流しに佇んで考え事をしていたら急に声を掛けられて驚いてしまった。
「ひどいな、どうしたんだ。旦那に声を掛けられてそんなに驚かれちゃうなんて、ヘコむなあ・・・」
「ごめんなさい。ちょっと仕事のことで気になることがあったもんだから・・・」
なんとかその場は切り抜けた。
「そうか。お前のとこも大変なんだな・・・。ところでさ、」
「え? なに」
「いや、大したことじゃないんだけど、お前今日ジム行ってないの?」
きた・・・。
用意していた回答を口にする。
「あのね、実はクラブを変えようと思って。今日は別のクラブのお試しに行ったの。よかったんで来月から変えようと思う。どう? これを機会に夫婦で一緒に行ってみない。ずっと家に籠りきりじゃ身体によくないよ」
夫婦、を強調してみた。
「・・・いや、それはいいよ」
「そう・・・。それで、何か用だったの」
「いや、あー、会社のさ、書類関係で、ハンコ、そう、ハンコがね、どこだったかなあ、ってさ・・・」
「会社で使うハンコなんて、全部あなたの部屋じゃないの。わたし、知らないよ」
「そうだったっけ、ああ、そうだった。忘れてたよ、ハハ・・・」
夕食が終わり、風呂に入った。
湯船の中でもう一度先刻の妻の反応を考えてみた。
声を掛けた時の、あの驚いたような顔。そしてジムについての何気ない質問に対する不自然に完璧な返答。
達彦は妻への疑いが濃厚になってゆくのを感じていた。
風呂から上がり、冷蔵庫からビールを貰おうとリビングを通り抜けようとした時、妻と娘がソファーでパソコンを覗いている横を通り過ぎた。里香が獲って来たカブトムシの飼い方をネットで調べているらしい。
「あ、ここに出てるよ。やっぱり・・・。ね、里香。見てごらん。オス同士を一緒にするとケンカして弱っちゃうんだって」
「そーなのかー」
「今度のお休みにホームセンターでもう一つ虫かご買おう。強そうな方のオスとメスをカップルにして飼えばタマゴ生むかもしれないよ。弱そうな方は別の方にしてさ」
「でもー・・・。なかまはずれかわいそーだよー」
「うん。でもね、その方が両方とも長生きするよ。出来るだけ元気な方がいいでしょう?」
バン!
知らないうちに手が勝手に動いてテーブルを叩いていた。
リビングを見た。妻と娘が驚いたような顔で自分を見つめていた。
「・・・あ、蚊がいたよ。パパ、蚊を一匹仕留めたぞ。ごめんな、驚かせて。風呂開いたから入れよ。さて、パパはもうひと頑張りするかな。じゃあ、お休みなー」
動揺しているのを気取られぬよう、何とか自室に逃げ込んだ。
なんてイヤなイメージだろう。
オスとオスが戦う。強い方のオスがカップルを作り、弱い方は仲間外れ・・・。
それが自分のことを揶揄しているように感じてしまい自制が効かなかった。
達彦の中では、すでに妻は浮気をしていて夫である彼を欺き、浮気相手との情事のベッドの中で二人して寝取られ夫の自分を嘲笑っている・・・、そんな風景が出来上がってしまっていた。まだ証拠と言えるものはほとんどないのにも拘わらず。
友達の紹介で妻と、加奈子と初めて出会った日。達彦には加奈子が女神のように思えた。
社会人になるまで女性経験が無かった彼にとっては加奈子は初めての女でもあった。
それまでの青春、自己処理ばかりしてきたうっ憤を晴らすかのように猛アタックを重ね、ついに結婚できた時は天にも昇るほどの幸福に包まれたものだ。
それが・・・。
妻を性的に満足させてやれていないのは自覚していた。しかしだからと言って夫以外の男と関係を持つなどは絶対に許せない。
なら、加奈子を離縁するか? 加奈子と別れられるのかと言えば、それも出来ない。加奈子を失う人生など全く考えられない。それは絶望に等しい。
どうしたらいいのだ。
袋小路に落ち込む彼ができることは、とにかく事実を掴み、証拠を取り、相手の男を完膚なきまでに叩きのめし、もう一度妻にチャンスを与え取り戻す。
これしかない。
原付も用意した。この次は絶対に逃さない。必ず尻尾を掴んでやる。
あらためて決意し、引き出しのカギを開けて加奈子の下着を取り出そうとして気付いた。さっき自己処理に使い汚したものを洗って乾燥機で乾かし妻の下着の引き出しに戻したのを忘れていた。また折を見て洗濯籠から調達しておかなくては・・・。
さすが、渋谷だと思った。
夫の出方を見事に予想し、「別のジム」というアイディアを加奈子に提供してくれたのは彼だった。加奈子がカモフラージュに利用するものはチェックされる可能性があると。だが、確認の電話をするということは相当疑われているということでもある。あの取ってつけたようなハンコの言い訳でそれは確実に思えた。
景子にLINEした。
(今日はありがとうございました。ご紹介いただいたスポーツジム、とてもよかったです。夫も誘ったのですが、『ボクはいいから』といわれました。また今度よろしくお願いします)
予想が的中したらそう送ってと言われていた。
しかし、夫が本気で疑ってくるなんて・・・。
初めて達彦と出会ったときのことは今も覚えている。
加奈子は、あの高校時代の忌まわしい事件のせいで男性恐怖症に陥っていた。
その自分を曲がりなりにも妻と母にしてくれた夫には深く感謝していた。多少引っ込み思案で優柔不断なところも優しいところも全部好きだった。この人なら優しく包み込んでくれそうだ。殻の中に閉じこもっていた自分を陽の当たる世間に引っ張り出してくれたのは達彦だった。人間として、女として徐々に自信を取り戻し、今では仕事で男性と二人きりになっても全く怖くなくなった。そのきっかけをくれたのは達彦だったのだ。
それが・・・。
他人と男性への恐怖を克服した途端、変わってしまった。
達彦の優しさが物足りなく思えてきてしまった。それで頻繁に彼を求めた結果、彼に自信を喪失させてしまったのかもしれない。その自分が彼を裏切ってしまうとは。
また罪悪感に襲われた。
もし引き返すことが出来るとすれば、あの高校時代の悪夢も含め、一切合切を達彦に告白して審判を待つ。それしかないだろうという気がした。だがそれだけは出来ない。
渋谷を失うことだけは、もう出来ない。
やはり自分が一番悪いのだ。
あの高校生の夏の日、それがすべての始まりだった。好奇心に駆られてチヤホヤしてくる男たちに付いていった、あの日の自分を殴りつけてやりたい。もし、それができるのならば・・・。
昼間、イヤというほど悦びを与えられたにも拘わらず、加奈子は再び疼きだした乳首と股間に指を這わせた。這わせながら、背徳と罪の意識に身を昂らせ、静かに深く絶頂した。
応援ありがとうございます!
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