【改訂版】 戦艦ミカサを奪還せよ! 【『軍神マルスの娘と呼ばれた女』 2】 - ネイビーの裏切り者 -

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カーキ色のテュニカ

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 ナンキンハゼやポプラの葉が色づき、少し冷たくなった風に吹かれ落ちかける季節になっていた。


 

 ヤヨイは大学の寄宿舎に舞い戻っていた。

「あんれまあ! もう徴兵終わったってかい? アレかね? おおかた陸軍さんからヒマでも出されたんだろうねえ。あんたみたいな頭でっかちの細っこいのじゃ、使い物にならないってとこだろう。ま、いいさね。あんたの前の部屋がまだ空き部屋になってるから、そこを使えばいいよ」

 寄宿舎の管理人のおばちゃんは、そんなふうに無遠慮な口を利いた。それでも、親切にヤヨイが暮らしていた部屋をまた用立ててくれた。たった一人で2個小隊50人以上の敵兵を倒し、しかも海軍の最新鋭の戦艦を拿捕から救い、さらに敵の海上戦力を根こそぎ粉砕した英雄的戦果を挙げたなどとは知るはずもないのだから、無理もない。


 

 久方ぶりの自分だけの部屋で、ヤヨイは、朝の二度寝からなかなか起きられないグダグダをベッドの中で持て余していた時だった。

 ドンドンドンッ!

 激しくドアが叩かれて寝ぼけ眼を擦りつつ出てみれば、リヨン中尉が軍装で立っていた。

「すぐ仕度するんだ。陸軍の軍服。階級章もちゃんと着けるんだぞ!」

「え、なに? どうしたの? どこに行くの? また任務? もう、イヤ! もう十分やったわ。もうコリゴリなのっ!」

 おはようの挨拶もなく、いきなり高圧的に言われて面食らっていると、

「質問は馬車で聞く。とにかく、急ぐんだ!」

 だんだんウリル少将に似て来たな、彼は・・・。

 髪をとかし、カーキ色の軍服を付けて姿見で伍長の階級章を整えた。

 寄宿舎の建物を出ると門のところに学生たちの人だかりができていた。見れば、目が眩むほど豪華な4頭立ての馬車が停まっているではないか。

 なんだろうと近寄ると、またも高圧的なリヨン中尉の声。

「遅いっ! 何してるんだ、早く乗れっ!」

 馭者台から降りてきた馭者が恭しくヤヨイに礼をとり踏み台を設えてくれた。リヨン中尉はその横に凛々しく立っていた。

 彼が差し出した手を取った。周囲の女学生から、

「うわあーっ!」とか

「きゃあーっ」とかいう歓声があがって、いささか、ウザかった。

 きっと秀麗なリヨン中尉に誘われたシンデレラのようなヤヨイに羨望を感じてのことだろう。

 よければ代わってあげてもいいわよ。

 どうせこんなの、またロクでもない任務なんだろうから。

 そう言いたいのをグッと堪えて馬車に乗った。

 厳かに、馬車は走り出した。

 しかも、なんと、馬車は数騎の憲兵隊の護衛付きだった。

 完全武装の騎馬憲兵隊が露払いのように沿道を行く人々や荷車を蹴散らし、その後ろをカタカタ行く壮麗で豪華な馬車。

 一行はカプトゥ・ムンディーの市街を縫うように、しかもムダに時間をかけるようにして走り回り、いつしか大きなエンタシスの立ち並ぶ白亜の神殿のような建物の前で止まった。

 なんだ、元老院じゃないか。それなら大学から歩いても10分とかからないのに。

 わざわざ遠回りしたりしてご苦労様なこと・・・。

「降りるよ、ヤヨイ」

 中尉に促され、帝国の巨大な政治の中枢である建物の前に、ヤヨイは、立った。

 そこから議場へ登る石段までは緋毛氈の敷物が敷かれ、その両脇に元老院の警備を兼ねる儀仗兵がいつもの野戦用ヘルメットではなくキンキラキンの光り輝くヘルメット姿で立ち並んでいた。汚い軍用サンダルで歩いてもいいのかと恐縮した。

「捧げ、銃(つつ)!」

 儀仗隊長の号令で一斉に銃が捧げられる中を、ヤヨイは歩かされた。

 大変に恐縮至極な催しに、緊張のあまり吐き気すら覚えるほどだった。

 緋毛氈と儀仗兵の周囲には市民たちの何事かという集まりがそこかしこに出来ていた。

 いったい、どこの国の王侯貴族が元老院に招待されたのだ。

 そんな珍事が見られるのを期待して集まって来た人々だろう。

 こんなのはササッと通り過ぎたいのに、ヤヨイの前を歩く、飾りのついた指揮杖を持った儀仗隊長の歩みはイライラさせるほど鈍重だった。これではまるで見世物、これから処刑台に向かう罪人みたいじゃないの。

「もっと胸を張って。堂々と歩くんだ」

 背後からリヨン中尉の声に押された。ヤヨイは観念して胸を張った。

 と、

 エンタシスの根元、議場の中からぞろぞろとトーガの群れが出て来て石段の上に左右に広がった。

「他国の王侯を迎える時にする、最高級の儀礼だよ。毅然とした態度を崩すなよ」

 またも中尉は背後から解説し指南してきた。

 もう、朝っぱらからなに? ウザすぎ! 逃げ出したいよ。勘弁してくれよ・・・。

 それも、ガマンした。

 石段を上った。

 昇りつめたところに、比較的若いトーガの議員が立ち、ヤヨイの手を取り、恭しく首を垂れて甲にキスした。

「ヴァインライヒ伍長! ようこそ、帝国元老院へ」

 顔を上げた議員は、黒髪を短く刈り込んだ東洋風の面差しの、壮年に差し掛かった青年という感じの人だった。

 このひと・・・。

 ヤン閣下だ。

 ウリル少将から聞いた、あの「盾の子供たち」。

 この人があの、若き日の皇帝に引き取られたチナの子供たちの一人なのでは・・・。

 ヤヨイの直感が正しかったことはそれからまもなくわかった。


 

 その東洋風の元老院議員に導かれるようにして、生まれて初めて、議事堂に入った。

 はるかに高いドーム型の天井の下、正面の演壇を中心にして、真っ二つに切ったすり鉢のような、扇形に弧を描く長椅子が勾配を付けながら設けられているのが眼下に一望できた。長椅子は半ば以上がトーガの老人たちで埋まっていて、彼らの目が一斉に自分に注がれているのを知った。

「こちらです」

 もう、背後にリヨン中尉はいなかった。導かれるまま、正面の演壇に向かって真っすぐに伸びた階段を一段一段、降りていった。

 演壇のすぐ脇に設えられた椅子に導かれ、自然にその前に立って議場を見渡した。

 すると、放射状に広がった議員席から少しずつ穏やかな拍手が沸き起こり、それは演壇前の最前列にあるただ一つの空席の主が着席するまで続いた。

 彼は、まだ小学生ほどの白いテュニカを着た男の子の廷吏を左右に従えて議場に現れた。男の子の一人が議場に響き渡るような高音の美声で宣言した。

「帝国皇帝。並びに第一人者の入場です」

 ヤヨイに送られた拍手を上回る盛大な拍手が沸き上がり、プリンチペスはその東洋風の面差しに微笑を湛えながら、前後に男の子を従え石段を下り席に着いた。拍手が鳴り止み、ヤヨイもその設えられた席に座って、大人しく見世物になった。

 通常は秘密会である元老院。

 そこで討議される内容は後日検閲を受けたうえで広場に掲示され、市民の目にするところとなる。

 だがその時は、なぜか議員席の上の傍聴席に大勢の市民の姿があり、傍聴席はほぼ満席の景況を呈していた。

 やがて、ヤヨイを案内してくれた東洋風の元老院議員、ヤン閣下が手を挙げて発言を求めた。

 議長席にいた、まだ少年のような廷吏が、

「ヤン議員。発言を許可します!」

 と甲高い声で許可した。

 ヤン議員は起立し、重厚なトーガの裾を華麗に捌きつつ登壇した。

「フロイライン・ヴァインライヒ。どうか、起立してください」

 彼は小声で教えてくれた。訳が分からずも、とにかくも彼の言うがまま、演壇の横に立った。それを見て、ヤン議員は発言を始めた。

「偉大なる帝国の第一人者である皇帝陛下、並びに元老院議員諸兄諸姉!」

 それが、この議場で発言をする際の発句、枕詞のようなものなのであろうと察せられた。

「本日ここにお集まりいただいたのは、帝国を震撼させた先の海軍の不祥事、ミカサ事件において多大なる貢献を果たした一士官を表彰し、同時に不幸な事件を克服し、帝国の更なる繁栄を期すべく、議員諸君と思いを新たにせんがためである」

 ヤン議員は高らかに謳った。

「議員諸君に問う。この、帝国に対し多大なる貢献を為したる士官に歴史ある鉄十字章を贈呈するの非、有りや無しや」

 ヤヨイはドキドキしてきた。それを察したのか、

「大丈夫。そのまま立っていてください」

 ヤン議員は小声でヤヨイに話しかけてくれた。

 彼が一度降壇すると、議長席の少年廷吏が声を張り上げた。

「ただいまのヤン議員の提案に対し、反対の議を表する者の発言を求めるものである」

 議場は静まり返った。

 そこで最前列に座っていたプリンチペス、帝国皇帝が手を挙げて少年廷吏に発言を求めた。

「帝国元老院は、ここに第一人者の発言を許すものである」

 議長が宣言した。

 元老院の第一人者、プリンチペス。帝国軍最高司令官、インペラトール。そして、帝国皇帝、カエザル。

 それら、政治の長と軍事の長、そして国家を代表する権威とを一人格のうちに体現した存在が席を立った。

 ヤヨイはウリル少将の叔父という帝国皇帝その人を、初めて親しく間近に見た。

 少将の家系のせいなのか、皇帝もまたウリル少将に似て黒髪を短く刈り上げ、長身で浅黒く精悍な肌、贅肉の無い颯爽とした壮年という印象を受けた。

 だが、王冠を頂いているでもなく、特別な勲章をぶら下げているでもない。他の議員たちと同じ、真っ白なトーガを纏っているだけで、ただ議席が最前列にあるという、ただそれだけが彼をして第一人者プリンチペスたらしめているというものだった。

 その帝位のありようの、なんと簡素なことか。

 彼は演壇脇に佇立するヤヨイにわずかに微笑むと、颯爽と演壇に立った。

「私は、ヤン議員の発言は至極妥当なものと考える。プリンチペスたる私はここに彼の意見に賛同する旨を表明するものである」

 皇帝の発言はそれだけだった。

 第一人者が発言したということは、それ以降反対の意見を持つ者はもう発言できないということだった。「鶴の一声」という言葉がかつて海の底に沈んでしまったヤーパンにあったと、大学の文科系の学生に以前聞いたことがあったが、彼の一言はまさにその、「一声」だった。

 皇帝が発言を終えると議場から再び拍手が沸き上がった。

「ヤン議員の発言に異議なしと認めるが、如何か」

 議長がさらに確認したが異論の声は上がらず拍手が鳴り止まなかった。

「それではこれより、ヤヨイ・ヴァインライヒ伍長に対する、鉄十字章の授与に移るものなり!」

 議長の宣言にまたも拍手。

 それを受けてヤン議員は起立し、再び演壇に歩み寄った。

「ヴァインライヒ陸軍伍長。どうぞ、こちらへ」

 少年廷吏に促されるまま、演壇の前に立っているヤン議員の前に進み出た。

「ヤヨイ・ヴァインライヒ陸軍伍長!」

 ヤン閣下は東洋風の穏やかな風貌をわずかに崩し、優しく語り掛けてくれた。

「はい」

 ヤン議員は少年廷吏が用意した盆の上から首飾り型の黒い十字の勲章を取り上げた。話には聞いていた、千年ほど前のドイツの軍隊が発祥とされる、顕著なる武功を上げた軍人に送られる最高の、歴史ある勲章であると。

「これより貴官の武功大いに誉(ほまれ)なるをもってこの名誉ある鉄十字章を授与する」

 ヤヨイは恐る恐る首を差し出した。

 壮麗な元老院の議場にさらに大きな割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。


 


 


 

 元老院が散開した後、ヤヨイは議員控え室に呼ばれ、再度ヤン議員に対面した。

「ヴァインライヒ伍長!」

 と、ヤン議員は優しく呼びかけてくれた。

「この度の作戦、まことにご苦労でした。ウリル少将からも、ワワン中将からも全て聞いています。何よりも、私の同胞、私の弟妹達をあれほどまでに多く救ってくれたこと、このヤン、御恩は一生忘れません」

 ヤン議員は目に涙さえ浮かべ、ヤヨイの手を取ってその手に額づいた。

「あ、はい、あの、あのう・・・」


 


 


 

 元老院が差しまわしてくれた4頭立ての豪華な馬車に乗って、ヤヨイはクィリナリスに着いた。

 エントランスに停まった馬車から御者が用意した踏み台を使って降り立ったヤヨイの右胸、階級章の隣には、小さな黒い月桂樹の葉を模した、鉄十字章の略章が着けられていた。

 エントランスに立っていた門番に扮した曹長も、執事頭に扮した准尉も、皆が敬意を表し両の踵を合わせた省略型の敬礼を、階級が下であるにもかかわらずヤヨイに捧げた。彼女もまたその度に両の踵を付け答礼を繰り返せねばならなかった。

 疲れる・・・。

 唯一の慰めは受付の准尉のおばちゃんだった。彼女だけは以前と変わらず、

「閣下はいないわよ」

 メープルシロップのガムをクチャクチャさせながら胡散臭げな眼をヤヨイに向けた。

「じゃあ、オフィスで待たせてもらいます」

 そう言って、勝手知ったる「ウリル機関」の、地下に降りる階段を降りていった。

 少将のオフィスには守衛が立っていた。彼は完璧な敬礼でヤヨイに対した。

「Ave CAESAR!(アヴェ・カエザル! 敬愛なる皇帝陛下!)」

 仕方なく、ヤヨイもあわせ、正式なヤツをした。

 そうしてやっと少将のオフィスに入り、デスクの前の椅子につかつか歩み寄るとどっかりと身を沈めた。

 疲れた。マジで・・・。

 顔を上げて天井の明かり取りを見上げ、目を閉じた。

 


 


 


 


 

 就役中の帝国海軍第一艦隊旗艦の拿捕と現職の第一艦隊参謀長の内通という事件は大きな衝撃をもって帝国内部を揺さぶった。それは支配層である元老院、行政のトップである内閣府や陸海軍省だけでなく陸海軍の作戦部隊全てに影響を及ぼした。


 

 逮捕されたカトーは十数日にわたる元老院直属の調査機関による徹底した熾烈で過酷な取り調べを受けた。それによって内閣府の高級官僚や海軍省や軍令部内の高官の名前が次々に上がり、都度憲兵隊の逮捕の手が差し向けられた。

 そのようにして帝国の政治軍事はもとより、立法機関である元老院や学問の場であるバカロレアや産業界の中枢にまで蔓延っていた総勢100名を超える内通者が芋づる式に検挙されていった。彼ら一人一人をさらに尋問した結果、チナへ流出した情報の規模や精度もそのほとんどが明らかとなって行った。調査結果はすべて元老院と十人委員会へ提出され連日のように討議が行われ、最終的に帝国中枢に大きな行政改革を促す機運を呼ぶのであるが、それはまた後日のこととなる。


 

 そうした「激震」のいわば終幕として彼ら内通者の処刑が執行された。

 貴族でもあった元老院議員の場合はまず称号が剥奪され財産は全て没収され国庫に納められた。議員本人には自決か銃殺かを選ぶ権利が与えられ、数名の裏切り者議員全員が服毒による自決を選んだ。家族もまた称号を失い平民に落された。自分は手を染めていなかったが身内に内通者を出した家はやはり家長が称号を返上したうえで自決した。もちろん、本人は銃殺に処された。

 カトーもまた将官であったため軍籍を剥奪された後自決か銃殺かを選ぶ権利が与えられたが何故か銃殺を選択し、処刑に際し、

「チナ王国万歳」

 を唱えて死んだ。

 デービス大尉も軍籍を剥奪され処刑されたが、意外なことに両者はお互いが内通者同士であったことを知らなかった。その一件はチナの諜報、内通者徴募の層の厚さを伺わせるものだった。チナは実に帝国のあらゆる層に触手を伸ばし、帝国をして内部から腐食させんとの目論みが浮き彫りになった。内通者の追及は上層部だけでなく平民階級や奴隷にまで及び、ひと月経った今も水面下で継続していた。


 

 一方。

 多くの粛清者を出した陸海軍では大幅な人事異動が行われた。それを全て記すにはあまりにも語り部の手に余る。今回のミカサ事件に関する者だけを列記すれば次のようになる。

 新しい帝国海軍第一艦隊司令長官には、第一戦隊司令だったフレッチャー少将が昇進して中将となり就任した。参謀長及び参謀にはフレッチャーの参謀だったものたちがそのままスライドしたが、現参謀のラカ少佐のみが中佐に昇進、主任参謀として残留した。

 ドックに入渠し大規模な修復工事を終え再び戦列に復帰したミカサは引き続き第一艦隊旗艦であり続けたが、艦長には新たに第二艦隊参謀長を務めた大佐がこれを襲った。ミカサの幹部士官では航海長のメイヤー、機関長のノビレ、砲術長のハンターが残留し、通信長にはなんとヴィクトリー通信長だったスミタが転任してきた。

 副長のチェン少佐も中佐に昇進したが、その負傷の癒えるまで艦を降りることを余儀なくされた。その後は第三艦隊の参謀長を打診されたのにそれを固辞した。

「できることならもうしばらくミカサの副長を務めたい」

 その言はミカサ事件の折のチェンの不退転の行動を高く評価していたフレッチャー中将を喜ばせた。

 一時的に艦を降りる副長の不在を支えるため、必然的に「ミカサの主」である先任士官の存在がより大きくなったが、当のヨードル海曹長が除隊を申し出たことはミカサの乗組員たちを驚かせた。が、当の本人は何度その理由を問い詰められても、

「思うところがありまして・・・」

 としか口にしなかった。彼は新任の艦長や士官たちと入れ替わるようにして愛猫クロと共に艦を去った。ただ、長年の友達であった機関主任のタツローに対してだけは、

「一度故郷に帰ってみようかと思うんだ」

 とだけ言った。


 

 人事異動や人の去就は海軍だけではなかった。

 バカロレアでも小さくない異動があった。

 まず工学部電気学科のフェルミ先生が内閣府直属の工業技術院に転出していった。

 彼は満身創痍のミカサが帰港してきたとき、わざわざ出迎えに来てくれてヤヨイを驚かせていた。

「先生。どうしてここに?」

 ターラントの軍港部の警備は厳重で、乗艦許可を受けた者か港内労働の証明書の無い者は港内に立ち入りを許されない。だが、ヤヨイには思うところがあったのでカマをかけた。

「もしかして、通信機、ですね?」

 彼はヤヨイやミヒャエルが使用した携帯用の小型通信機を回収に来ていたのだ。

「やはり、君にはバレてたか」

 好奇心丸出しの大きな目をクリクリさせながら、フェルミ先生は頭を掻いた。

「実はもう半年も前に試作機を完成していたんだ。ただ、帝国の情報がダダ漏れになっているという話があって、トランジスタの開発も大学じゃないところでやらざるを得なかったんだ。お金はふんだんにくれたからその分はラクができたけれどね。騙していて、ごめんな」

 そういって先生はミカサとリュッツオーに搭載していた小型通信機を回収して内閣府の研究所に帰って行った。ヤヨイはこの後またしばしば彼と共に仕事をすることになるのだが、それはまた別のお話し。

 ヤヨイに騙されてヴィクトリーに乗艦する羽目になり、好みでないスミタを上官として仰いでいたアンは電気学科に帰るといきなり婚約を発表して皆を驚かせた。

「相手はね、今度ミカサの通信長をすることになったひと」

 スミタのひそかな、だが熱い求愛にほだされるようにして受け入れたアンだったが、

「仕方ないわね。将来金の肩章を着けるって約束するならあんたで妥協してあげる」

 そんな酷いことを言いながらも再び航海に出る未来の夫を案じ、ターラント内の彼の宿舎に押し掛け女房のようにして移り住み、今では隔週でバカロレアに遠距離通勤するために徐々に乗馬の練習をするほどになった。

「結婚式には呼ぶから。あんたも必ず来るのよ」

 こんな高圧風味の性格はまったく変わっていないのに。まったく、「蓼食う虫も好き好き」である。

 そして何よりも彼女を驚かせたのはミヒャエルが院を辞めて海軍兵学校を受験することになったことだった。

 それだけ、あのたった数日間のリュッツオーでの体験が彼の心を大いに揺さぶったのだろうと思われた。

「卒業して正式に任官したら通信科の士官を志望しようと思うんだ」

「海が大好きになっちゃったのね」

「うん。ヤヨイともしばらく会えなくなるな。君はどうするんだい。また徴兵に戻るのか」

「わからないの。まだ、今は・・・」

 本当に、わからなかった。出来ることなら、もうしばらくはここに、バカロレアに居たいとは思うけれど・・・。

「そうか・・・」

 ミヒャエルは俯いた。そしてハニかんだ顔を上げると、こう言った。

「でも、今だから言っちゃうけど、ボク、君が好きだった」

 武術の手練れであるヤヨイにも勝る早業で、ミヒャエルは彼女の唇を盗んだ。

「ミック・・・」

「元気でね。また会おうな」

 そう言い残し、ミヒャエルはターラント向けの汽車が出る南駅に向かって大学を去っていった。


 

 そして、数百人に及んだ「盾の子供たち」ならぬ「小舟の子供たち」だが。

 30年前と違い、帝国は里親を募ることはしなかった。急遽近隣のいくつかの小学校のギムナジウム(体育館)に宿泊施設を設けそこに収容した。また臨時に子供たちの面倒を見る乳母を募った。子供たちは半年ほどをそこで過ごし、やがて帝国が用意した家庭に引き取られてゆくことになるのだが、それもまた、別のお話し。


 


 


 

 そして今、ウリル少将のオフィスで、ヤヨイは胸の黒い月桂樹の略章を弄びながら、ヤン閣下の熱すぎる思いを反芻し、持て余していたというわけなのだった。

「重いなあ・・・。重すぎるわ」

 ふいにドアが開いた。

「おう、来たな」

 どうせ、「そのままでいい」と言われるのはわかっていた。だから、椅子から立ち上がりもしなかったし、当然ながら敬礼もしなかった。

 トーガ姿のウリル少将はデスクの向こうに立つと机の上にバサッとファイルの束を投げ出し、椅子にふんぞり返っているヤヨイをしげしげと見下ろした。

「ずいぶん図太くなったな、ヤヨイ」

「・・・そうでしょうか」

 ヤヨイは答えた。

 少将はフン、と笑った。

「よほど疲れたと見えるな。ま、無理もあるまい。私もあそこはいささか疲れる」

 閣下は暑くるしいトーガを脱いで丸めデスクの端に置き、白いテュニカだけになった。「なぜお前がそれを授与されたか、わかるか」

 彼の視線がヤヨイが弄んでいた胸の黒い略章に注がれているのがわかった。

「戦争が近いからですね」

 今までの少将の言葉からすればそれは容易に想像がついた。

「もちろん、それもある。それが一番大きな理由だ」

 と閣下は言った。

「前に言ったように、皇帝陛下はチナに対する軍事行動を裁可された。

 近々それは目に見えるものになってゆくだろう。今回の作戦行動中にミカサに送った宣戦布告に関する電文。もちろん、あれは全てフェイクだ。だが、そう遠くないうちにあれらが全て実施され現実のものとなる。

 戦時動員が布告され国境は閉鎖。陸軍は部隊の大移動を開始し、予備役は家庭から引き離されて戦場へ送られねばならなくなる。国庫の負担も増すだろう。戦時増税も行われるかもしれん。さすれば必ず帝国の臣民に負担を強いることになる。だから、国民の鬱積してゆく不満を逸らし、対チナ戦争のために国民の意識を高揚しまとめ上げるための英雄が必要だったのだ」

 少将はデスクの上のファイルから一枚の分厚い書類を取り出した。

「それに、ここ一か月で陸海軍だけではなく政府の多くの役職やあらゆる社会の階層から内通者を出し、処刑が相次いだ。戦争を前にして人々の心は醒め、荒み切ってしまっている。そのためにも、国民に明るい話題を提供する必要があったからな」

「じゃあ、わたしはさしずめ道化師みたいなものですね」

 少将はヤヨイの皮肉は無視した。その代わりに、こう言った。

「ヤヨイ。今日呼んだのはお前に辞令を交付するためだ」

「辞令?」

「ヤヨイ・ヴァインライヒ伍長!」

 なんだかわからなかったが、とりあえず席を立ち、胸を張った。

「はい」

「ヤヨイ・ヴァインライヒ。本日より、貴官を4階級特進、陸軍特務少尉に任官する」

 ウリル少将は読んでいた辞令書をクルリと回してヤヨイに示した。

 それは正式な任命書らしかった。上から中ほどまではウリル少将が読み上げた通りで、一番下に何人かの名前が書いてあった。

「徴兵途中。しかも士官学校も出ていない者には特例中の特例だが、そこにある通り元老院議員であるヤン閣下、陸軍省と海軍省の長官、陸軍参謀本部総長、海軍軍令部長、そして最後には、推薦者のワワン退役中将の署名もある」

「ワワン、退役中将?」

 問い返すとともに、書類の一番下を凝視した。

「そうだ」

 ウリル少将はそう言うとどっかりと椅子に沈んだ。

「ワワン閣下が退役なされたのですか?」

「閣下はこの度の一連の事件の全責任を負って、海軍を去られたのだ」

 少将は顔を上げて暗い天井を見上げた。

「そんな! なんで? どうして長官が!・・・」

「そういうものなのだ、ヤヨイ!」

 とウリル少将は言った。

「世の中とは、組織とは、そういうものなのだ」

 ただ命令に従っただけの自分があのように煌びやかにホメられて、その一方で全てを承知して自分の命を懸けて裏切り者を炙り出し、ミカサを保全し、敵の水上勢力を壊滅に導いた功労者が途中退役をさせられる。これからチナとのいくさが始まるなら、あの絶大なほどの統率力が是非とも必要になるだろうに・・・。

 そんな理不尽がまかり通るなんて!

「ひとつ、付け加えておく。その書類にはないが、この辞令には拒否権がある」

「拒否権?」

「徴兵は国民の義務だが、職業軍人になるのは平民の義務ではないからだ。特例中の特例ではあっても、その意思のない者に士官たるを強制することは出来ないからだ。

 そしてお前が拒否権を行使するなら、本日只今よりお前の徴兵義務の残りは消化され、お前は大学に戻ることが出来る。それは特にワワン中将が望まれた。退役するにあたり、それが偉大な戦果を挙げてくれたお前への、せめてもの餞(はなむけ)だと」

「それは・・・」

「この度の通信機の存在がそれだけ貴重なものだったということだ」

 と、少将は言った。

「お前の活躍も大きかったが、あの通信機がなければ裏切り者の摘発もできなかったろうし、敵の、チナの水上戦力や軍事施設に対しあれほどの打撃を与えることもできなかった。

 ワワン閣下は、お前が市井の大学にいれば通信に関わることによって、軍の中であればそのたぐいまれなる武術をもって、いずれの道でも立派に帝国に貢献してくれると、そこに名のある方々を説得してくださったのだ」

「・・・わたしが望めば、もう一生、作戦に参加したり戦場に出る必要はないということなのですか。人を殺めたりする必要もないと・・・」

「そうだ」

 とウリル少将は言った。

 ファイルをキャビネットに仕舞い施錠し、トーガを取り上げて少将は続けた。

「返事はすぐでなくてもいい。むしろ、その返事をもらう前に、お前に見せたいものがある。夕方寄宿舎に馬車を差し向ける。それに乗って私の家に来るがいい」




 今度の馬車は4頭立ての豪華なものではなく、街中を走る乗り合いの辻馬車よりも粗末な一頭立てで馬も老いたものだった。もちろん、御者はリヨン中尉ではなく、ただし、クィリナリスで何度か見かけた、門番に扮した曹長だった。

 彼は職務に忠実な軍人らしくヤヨイとは一言も会話せずトコトコとただひたすらに7つの丘の外にあるというウリル少将の家までの、舗装もしていない石ころさえ転がっている寂しい道を御し続けた。

 秋の短い陽差しがすでに傾きかけ、民家の灯りもまばらな、そこここにキャベツ畑の点在する寂しい郊外に着いた。少将の家はその一角にあった。


 

 皇帝直属のスパイ機関の親玉という顕官にありながら、ウリル少将の家は粗末に過ぎた。

 クィリナリスの規模に比べればはるかに小さな平屋で、もちろん噴水のあるアトリウムもない。石を積み上げた壁には白い漆喰が施されてはいたが、屋根は多くの平民の家と同じように板葺きで所々に短い雑草さえ生えていた。

 馬車は小さな門の前でヤヨイを下ろすとすぐにゴトゴト走り去った。

 玄関までのアプローチは短く、だが石が敷き詰められた小奇麗なものだった。花壇はあったが花はなかった。その代わりにやはりそこにも背の低い雑草が生えていた。

 木づくりの、鋳鉄の板を張った玄関のドアの前に立つと、何やら美しくも重い、琴の音に似た音が聞こえてきた。閣下得意のギターにしてはその音の連なりは、硬かった。

 ヤヨイは夕暮れを浴びたそのドアをノックした。

 返事はなく、その不思議な調べだけが流れ続けていた。

 ドアにカギは掛かっていなかった。その鋳物の取っ手を押すと、ギイ、とドアは開いた。不思議な音の調べはより大きく、ハッキリと聞こえてきた。

「ヤヨイか。遠慮しないで、入ってこい」

 小さな、漆喰を塗った壁の玄関ホールを巡ると板壁のリビングだった。その奥にカンテラが灯り、ウリル少将は何やら茶色い大きな箱に向かって座り、両手を動かしていた。大きな箱は楽器だと察せられた。彼の指はその箱の中ほどにある左右に広がったいくつもの白と黒の鍵盤の上を踊り鍵(キー)を叩いていた。

 その鍵の音が次第に低くなり、何度かの和音を叩いて余韻が残った。

 その余韻が消え去るまで、ヤヨイはそこに立ち尽くしていた。

 やがて音が消え入り、ウリル少将は振り向いた。

「初めて見るだろう。これはピアノという楽器だ。この家どころか、ちょっとした貴族の屋敷が数件は買えるほど高価なものだが、どうしても欲しくて苦労して作らせてしまった」

 謹厳実直、非情で老獪な帝国のスパイマスターは、意外なほど可憐な趣味を持っていた。少将は右手をテュニカの袖に触れ、凝った肩を揉んだ。

「レオン少尉の事件のとき、宿営地でギターを聴かせたな。覚えているか?」

「はい、閣下」

「これはあの折に奏でた曲よりも少し後に作曲されたものでな。ベートーベンという人が月の光を表して書いた、ピアノのための曲なのだ。

 こうしてピアノを作らせたのはいいが、なかなか練習するヒマがなくてな。思うように指が動かん。このていたらくでは作曲者に対してはなはだ失礼というものだ」

「いいえ。心に染み入るような、素敵な曲でした」

「そうか・・・」

 彼はクィリナリスでは見せない、柔和な顔になった。

「来たまえ」

 彼はリビングの奥の裏庭に通じているのだろう粗末な戸口に立った。ヤヨイも彼に従った。

 裏庭は表とは違い雑草もなく良く手入れされた花壇が連なり、秋の花々が夕暮れに映えていた。

「死んだ家内が花好きでな。亭主がロクに相手もせんものだから、いつも一人でこうして庭いじりしていたのだ」

 と、そこかしこにいくつかの石碑のような石が置かれ、それは庭の奥の街道まで続いていた。その奥に、先刻ヤヨイを連れて来てくれた辻馬車が待っていた。街道は少将の家をぐるっと迂回するように回り込み、遠くに見える黒い山までずっと、続いていた。

 少将はその庭の小路をゆっくりと歩き、最も新しい石碑の前で立ち止まり、跪いた。

「お前に見せたかったものとは、これだ」

 と彼は言った。

 その石碑には「THAO」(タオ)と刻まれ、その下にハイフンと現在の皇帝の名の付いた数字が彫られていた。それは今年を表す年号だった。

「・・・お墓ですか」

 少将は頷いた。

「彼は、30年前に私が引き取った『盾の子供たち』だった」

 彼はテュニカのポケットから小さな香木を取り出し、墓石の前に備えるとマッチで火をつけた。香木はオレンジや紫の炎をあげ、懐かしい記憶を呼び覚ますような香りを漂わせ始めた。

「私と妻との間には子がなかった。だから彼を連れてきたとき、家内はそれは喜んだものだ。

 いつも不在がちの私の代わりに彼を、タオを立派に養育してくれた。家内は、タオを深く愛し、慈しんでくれた。

 タオは幸せだったろう。愛情薄い家に生まれ幾ばくも無いカネと引き換えにいくさの道具にされたことを忘れるほどに愛され、新しい母に懐いていた。

 だからタオが成人し軍に入りたいと言った時、妻は猛反対した。が、タオの意思が固く翻せないと知った時はずいぶんと当たられたものだ」

 ウリル少将はそれまで見たこともないような優しいまなざしを墓石に落していた。

「士官学校を出て任官しすぐに任地へ行ってしまうとふさぎ込むようになった妻も、里帰りのたびに逞しくなってゆくタオを見てようやく納得するようになっていった。

 妻は元々身体が弱くてな、そんな妻を放っておけずに除隊したいと言い出した時は一喝したものだ。『そんな気弱なことで部下に示しがつくと思うのか』とな。言ってすぐに後悔したのだが・・・。

 それから間もなく家内が亡くなると、タオは野戦部隊から特殊部隊への転属を希望した。妻と帝国に恩返しがしたいと言い出してな。特殊部隊とは今の私の機関の前身でな。その頃は陸軍の管轄だったのだ。敵地へ潜入して情報を得るのが任務だった。

 私は諄々と説き伏せた。

 過去何人もの工作員が潜入して生きて還らなかった。もしそんなことになったら妻が悲しむ、と。その墓の前で何度も言い聞かせた」

 すぐ隣にやや古びた墓石があった。それがウリル少将の奥さんの、なのだろう。

「それでもタオは意思を曲げなかった。それでせめて私自身がハンドリングしたいと、その年皇帝選挙で当選した叔父、つまり現皇帝陛下に働きかけた。今のクィリナリスが皇帝直属になったのは、それからなのだ。

 そしてタオは国境を越え、深くチナに潜った。

 何年かが過ぎ、やがて彼は大きな情報を掴んで知らせてきた。

『帝国海軍の最新鋭艦を手土産に亡命を企てている者がいる!』

 だがそれ以降、タオとは連絡が取れなくなった」

 ヤヨイは戦慄した。

「それでは閣下、今回の作戦は・・・」

「その通りだ」

 と彼は言った。

「このタオが、命と引き換えにして得た貴重な情報だったのだ」

 少将はその逞しい腕を伸ばし墓石に触れた。

「おかげで帝国は、チナに大規模侵攻する前に獅子身中の虫をおおかた退治することができた。戦艦の一隻や二隻では贖うことのできない、貴重で巨大な利益を帝国は得たのだ。恩返しどころか、このタオのおかげで帝国は衰亡を免れたと言えるかもしれんのだ」

 ヤヨイはタオの墓石の前に膝をついた。

「先日ヤン閣下がここにおいでになった。そしてこれを捧げて下さった」

 そう言って再びポケットを探るとヤヨイが今日元老院で授与されたのと同じ、鉄十字章を取り出し、墓石に掛けた。

「今日これを授与されるはずだった者は、実はお前の他にもう一人いたのだ。

 タオはまだ死亡の扱いにはなっていない。ここには彼の遺体はない。公式には彼は『行方不明者』のままなのだ。この墓石は私が自身のけじめのために建てた」

 日が暮れた。太陽は西の山の向こうに落ち、辺りは急に暗くなった。墓石の前の香木の灯がより一層明るく見えた。

「でも、どうして閣下はこのことを今、わたしに? 」

 こんなことを聞いてなお、特務部隊に入りたいと思うものはいないのではないだろうか。

「事実を知り、それでも志願したいというのなら。

 そうでなければフェアではないし、決断をするなら、全てを知るべきだと思った。

 お前が正式に私の機関に加わるというなら、全て承知で、自らの意思で加わって欲しかったのだ」


 


 


 


 


 


 


 

 数日後。


 

 ターラントから東へ数百キロ。

 青い大海原を、一隻の小さな漁船が港に向かっていた。

 所々ペンキを塗り直さねばならないようなボロ船に近い船だったが、聞こえるエンジンの音は快調で、世話する者の手入れの良さが窺えた。波は少し荒かったが力強いエンジンはへこたれることなく、乗組員2人と今日の漁果である3メートルを超える立派なカジキとを載せて気持ちよく波を切って進んでいた。

 ふいに船が大きくローリング(横揺れ)した。

「おい、小僧! 三角波に気を付けろと言っただろうが!」

 舵輪を握る大男はうんざりしたような顔で船尾で糸を繕っている老漁夫を顧みた。

「気を付けてますって、おやっさん! ついうっかりなんて誰にでもあるでしょうが。それにオレもう40になるんですぜ。もうすぐ孫も生まれるってのに。小僧呼ばわりなんて・・・」

「あ? なんか言ったか」

「そうやってすぐ聞こえないフリすんだもんなあ・・・」

「お前な、すぐ目の前で爆弾ハレツしてみろ。あれ以来なーんか聞こえにくくなってなア・・・」

「そのくせ悪口は聞こえるんだから・・・」

「あ? なんか言ったか」

「なんでも」

 左舷前方から白波を蹴立てて駆逐艦の単縦陣がやって来た。汽笛が聞こえる。

「おやっさん。来ましたよ。ほら、一度ぐらい答礼してやったら?」

 4隻の小さな駆逐艦は、対航する船が2人の乗る漁船だと知るや、乗組員がワラワラ甲板に出て来て美しい登舷礼式を観せた。

「フン! うるせえっ! オレァもう海軍じゃねえ。それにあんな田舎のへっぽこ駆逐隊なんて・・・」

 大男はため息をついて左手に舵輪を持ち替え、右手で答礼をした。

 2人は元海軍軍人で同じ軍艦の乗組員だった。先ごろほぼ同時に退役して今は同じ漁船で漁をする漁師になっていた。

 4隻の単縦陣が行ってしまうと、大男はまたボヤいた。

「そのくせ、すれ違うたんびに、いつも艫のほうずーっと見送ってるくせに・・・」

「あ? なんか言ったか」

「いいえ! 何も」

 そうこうするうちにキールの港が見えてきた。

 港口も埠頭も軍港と漁港とを完全に区別して厳重に出入りを監視しているターラントと違い、東のキールでは軍艦と漁船は共同で港を使っていた。昼近くなれば漁から帰って来る漁船と、これから24時間のパトロールに向かう軍艦とが港口付近ですれ違う風景がこの辺りでの見慣れた光景になっていた。

「また来ましたよ。今度はフリゲート艦です。あれは、『アドミラル・グラーフ・シュペー』、かな?」

「いちいちやかましいわ、小僧! そんなことより艀やブイに気を付けろ。今度ぶつけたらタダじゃおかねえからな! なけなしの恩給前借してやっと買った船なんだぞ!」

「あ~あ、このオヤジ早くくたばらねえかな。そうすりゃこの船、オレのもんになるのになあ・・・」

「あ? なんか言ったか。言っておくがな、オレァあと30年は漁師やるからな。まだまだお前らみたいな小僧にゃ負けらんねえっ!」

「うるせーわ、この、クソジジイ!」

「あ? なんか言ったか」

 この2人はいつもこんな風であった。そのくせ気が合うらしく、水揚げでも一番大きな獲物を獲って来るのはいつもこの2人の「MIKASAMARU」だった。

 大男はいつか訊いたことがある。

「ねえ、おやっさん。このMARUってのは、なんなんですか? どういう意味なんです?」

「てめえ、そんなことも知らねえで漁師やってんのか。マルってのはなあ、昔々、この海に沈んだヤーパンの名残なんだ。船ってのは城と同じなんだ。城には本丸二の丸三の丸ってあってなあ・・・」

「へえ・・・」

 たしかに、2人が乗っていたのは城のような大艦だった。そこで大きな事件があり、それをきっかけにして2人とも艦を降り、海軍を辞めたのだった。

 港口を過ぎると岸壁が見えてきた。

「あ・・・」

「今度はなんだ」

「おやっさん。大事な女の人が来てますぜ」

「はああ? 大事な女? お前男やもめ拗らせ過ぎて、ついに頭に蛆でも涌いちまったんじゃねえのか」

「いいえ違います」

「じゃあ、お前のハラのデカくなった娘だろう」

「いいえ、それも違います」

「お前の逃げた女房だってのか。そんななァありえねーだろう」

「失礼な! いいえ。それでもありませんっ!」

「じゃあ、誰だ」

 繕っていた糸を片付けて、老船頭は舳先へ移り目を細めてオカを眺めた。

「ああ・・・。なんだ。軍神マルスの娘じゃねえか」

 老船頭は日焼けした顔を大きく綻ばせた。


 

 ミカサマルがその小さな船体を大きな埠頭に着けた。

 獲物が大きすぎて埠頭のレールの上を滑って来るデリックを使わないと吊り上げられないからだった。

 そのブルネットの美少女の服は海軍のネイビーブルーと短靴ではなく、陸軍のカーキ色と軍用サンダルに変わっていた。埠頭に据えられたデリックの横に立った彼女は、カーキ色の軍服ながら、海軍式の敬礼でミカサマルの帰港を出迎えてくれた。

「長官、お久しぶりです!」

 美少女の敬礼を受けた老船頭は、先刻までの厳めしい顔つきをあらため、あれだけ嫌がっていた答礼を行い、温かい笑みを浮かべた。

「もう、長官ではない。ただの、漁師のジジイだ。何十年ぶりで、そのジジイを愉しんでいる」

 長身の老漁師は目を細め、眩しいほどの美しい陸軍士官を見下ろし、答礼を解いた。

「いいえ、閣下」

 その女性士官も敬礼を解いた。

「小官にとって、閣下はいつまでも海軍中将ワワン閣下です!

 閣下が海軍を去られたのをとても残念に思っております」

「誰かが責任を取らねばならん。世の中とは、組織とは、そういうものなのだ」

 老漁師は、ウリル少将とまったく同じことを言った。

 あの海軍の最新鋭の戦艦に乗っていた時と同じ、千鈞の重みを持った老漁師のその言葉には、ただ、頷くしかなかった。

 潮風に靡くブルネットをかきあげながら、女性士官は言った。

「閣下、推薦いただき、ありがとうございました!」

 彼女の右胸には茶色の樫の葉の階級章と黒い月桂樹の葉の略章が輝いていた。

「決断したのだな」

「はい」

「後悔は、ないのだな」

「はい」

 潮風に揉まれた浅葱のテュニカの老船頭は瞑目して頷いた。

「ならば、いい」

 その情景を、大男は船の上からじっと、暖かく見守っていた。

 と・・・。

「お父さ~ん!」

 漁船と同じ、ポンポン鳴るエンジンを響かせてトラックがやって来た。

 トラックの助手席には毛足の長い、ずんぐりしたように見える黒猫が乗っていた。彼はデリックの傍に立つブルネットの美少女を認めるや、サッとトラックを飛び出し、その体形に似合わない素早さで駆け寄った。

「わあっ、クロちゃん! 元気だったのね」

 クロと呼ばれた黒猫はカーキ色の女性陸軍少尉にピョンと飛び乗り、彼女の腕の中でゴロゴロ喉を鳴らし、マルスの娘を見上げた。

「クロちゃん! あんたいつの間にこんなカワイイ彼女を見つけていたの?」

 運転席から降りてきたのは、小舟の上でボーっと突っ立っている大男によく似た、ヤヨイと同じブルネットの青い眼をした娘だった。臨月のお腹を抱えながら、漁に出ていた父と父の舟の船頭を迎えに来たのだった。


 


 

 虎口を逃れミカサと共に母港ターラントに帰った大男の許に、一通の手紙が届いていた。

「おとうさん、元気ですか? 実は、お知らせがあります。あたし、結婚しました! もうすぐベイビーも生まれます!」

 なんだって?!

 なんだかやけに娘のことを思い出すと思っていたら・・・。それは飛んだムシの知らせというヤツだったのだ。

 男親だけに一人娘からの「結婚」の二文字にはいささかビミョーな気持ちにはなったが、それよりも長い間会えていなかった娘に会いたい思いの方が勝ってしまった。

 一度は帰ってみるか。

 当初は休暇を願い出るだけのつもりだったのに、いつの間にか除隊して漁師に戻ってしまっていた。

 それほどに、離れていた娘と再会した喜びが、大きかった。

 それはきっと、今岸壁に立っているカーキ色のテュニカを着た娘と乗り越えた、あの困難な10日間の航海のせいだったかもしれない。


 

 トラックを運転していたブルネットの娘は、はちきれそうな腹を抱えてブルネットの陸軍少尉に頭を下げた。

「はじめまして。父が大変お世話になったと聞きました。ありがとうございました」

「とんでもない!」

 黒猫を抱いた陸軍少尉は慌てて頭を上げた。

「あなたのお父さんのご協力が無ければ、到底なしえない任務でした」

 まったくの他人ながら、二人の娘はよく似ていた。

「今はお父さんといっしょにお暮しになってらっしゃるんですね」

「ええ」

 金髪の娘は、大きなお腹を擦りながら、頷いた。

「カレも、この子の父親も、是非に、って言ってくれたものですから。おかげで何年振りかで、親子一緒の生活を楽しんでいます!」

 その情景をニヤニヤ見上げていた大男は、すぐに老船頭に窘められた。

「おい、スケベ小僧! いつまでもニヤニヤしてねえでサッサと水揚げしろ!」

「あのさあ、スケベ小僧はないでしょうが。仮にも娘の前ですぜ」

 大男はウンザリしたようにボヤいた。

「ところでおやっさん。今晩、少尉を我が家にお泊めするんですが、おやっさんはどうします? 来ます?」

「バカ野郎! 陸軍一の美少女とキール一の美少女が揃ったんだぞ。サカナにして呑むに決まってるじゃねえか!」

 カーキ色のブルネットの娘は失笑し、臨月のブルネットの娘は腰に手を当てて眉をひそめた。

 大男は晩秋の空を仰いで大きな溜息をついた。


 


 


 


 


 


 

                  了
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みんなの感想(1件)

スパークノークス

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2021.08.15 take

ありがとうございます!
次回作もよろしくお付き合いください。

解除

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