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* * *
――これは仕事だ。職務をまっとうしろ、ジーン。
内心で自らを叱責する。期待と緊張と、昼食のBLTサンドが胃の中でグルグルしていた。
だからだろう、ザック・ファレルのキャリーケースを手に彼の部屋に入ったジーンは、なんとかプロらしく振る舞うことに精一杯で気付かなかった。
「お荷物はこちらで――え……っ、わっ!」
いつの間にか、すぐ後ろに迫っていたザックに驚き――次の瞬間にはその広い胸板に飛び込んでいた。強制的に。
あまりに勢いよく飛び込んだおかげで、ジーンは彼の胸に鼻の頭を強か打ち付けた。細身に見えるが、厚みのあるたくましい胸に。肺いっぱいに彼の香水――トム・フォードだ――を取り込んで恍惚としていると、一瞬鼻の痛みを忘れた。
「やっと会えたね」
熱っぽい囁きに目線だけで見上げれば、淡いブルーグレーの双眸が悪戯っぽい光を湛えてジーンを見つめていた。ザックの指が頤にかかり、彼が長身を屈める。――ああ、キスされる。認識した瞬間うっとりしてしまう。この一か月間、何度頭の中で〝あのシーン〟を反芻しただろうか。アナログのテープだったら、とっくに擦り切れてしまっていただろう。
挨拶のような、ちゅ、と触れるだけのキスが唇に落とされた。
そっと離れ、見つめ合う。ジーンの物欲しそうな顔――多分、そういう顔をしていた――にザックは満足げに目を細め、ふたたび唇を重ねた。
窺うように下唇を食まれ、ジーンは口を開く。
めくるめく甘い記憶の再来だった。いや、記憶の中のキスより、本物の方がずっといい。
応えるように、ジーンは男の広い背中にてのひらを滑らせた。質のいいスーツの下に隠れたたくましい体を想像する。この腕に裸で抱かれると考えただけで体が熱くなった。
ジーンの高揚が伝わったのか、力強く腰を抱き寄せられ、口付けも深くなる。突然荒々しいほど熱心になった抱擁と口付けに、制服の帽子がずれた。カーペットの上にコトンと音を立てて落ちたその瞬間、ジーンはハッと我に返った。
キスにめちゃくちゃに応えたい気持ちははやまやまだが、このままでは数分後にはベッドの上になる可能性が高い。それは流石にマズい。
「ちょっと!」と背中をタップし、腕の力が緩んだ隙に、ジーンは男の胸を押し返す。
不満そうに唸りながらも、ザックはジーンを解放した。
ジーンは素早く拾った帽子を被り直し、毅然として言った。
「お客様、困ります」
ザックがプッと吹き出した。
熱心に口付けに応えておいて、説得力も何もないのはわかっている。肩を震わせるザックにバツが悪くて、「僕は今、仕事中なんです。これ以上は、ちょっと……」と弁解するように言った。
「ああ、わかっているさ。それで? 仕事は何時まで?」
愉快そうに淡いブルーグレーの目を細めたまま、ザックがたずねた。黙っていると冷たく近寄りがたい美形だが、こんな風に笑うとたちまち柔らかい雰囲気になる。美貌の男にこんな視線を向けられると、それだけで舞い上がってしまう。
「今日はもうこれで終わりですけど……」
「それはいいね。僕はこれからいくつか片付けなければならない仕事があるが、そうだな、七時はどうだろう。一緒に食事でも?」
悦びと興奮と期待と。胸が詰まって咄嗟に声が出ない。
慌ててこくこく頷くと、ザックはジーンの手を握って微笑んだ。
「連絡をくれ。ジーン……と呼んでも?」
ザックが名札に視線を落としながらたずねられ、ジーンはここでようやく自分が一度も名乗っていないことに気が付いた。
「え、ええ、勿論」
「ありがとう。じゃあ、また夜に、ジーン」
ちゅ、と唇の端に音を立ててキスをされる。挨拶のような可愛らしいキスに、ジーンはしどろもどろになって部屋を出た。さっきまでもっとすごいキス――濃厚なやつ――をしていたというのに。
チップと一緒に握らされたのは彼の連絡先だった。
ズボンのポケットに押し込み、ジーンは急いでフロントに戻った。約束の七時まではまだまだたっぷり時間があるが、一度家に帰ってシャワーを浴びなければ。着替えはどうしよう? ドレスコードは必要だろうか?
朝からずっと落ち着かなかったが、ここにきていよいよ地に足がついていないようだ。気持ちも足取りもフワフワとしている。仕事がもう終わりでよかった。こんな調子では到底業務に集中できなかっただろうから。
――これは仕事だ。職務をまっとうしろ、ジーン。
内心で自らを叱責する。期待と緊張と、昼食のBLTサンドが胃の中でグルグルしていた。
だからだろう、ザック・ファレルのキャリーケースを手に彼の部屋に入ったジーンは、なんとかプロらしく振る舞うことに精一杯で気付かなかった。
「お荷物はこちらで――え……っ、わっ!」
いつの間にか、すぐ後ろに迫っていたザックに驚き――次の瞬間にはその広い胸板に飛び込んでいた。強制的に。
あまりに勢いよく飛び込んだおかげで、ジーンは彼の胸に鼻の頭を強か打ち付けた。細身に見えるが、厚みのあるたくましい胸に。肺いっぱいに彼の香水――トム・フォードだ――を取り込んで恍惚としていると、一瞬鼻の痛みを忘れた。
「やっと会えたね」
熱っぽい囁きに目線だけで見上げれば、淡いブルーグレーの双眸が悪戯っぽい光を湛えてジーンを見つめていた。ザックの指が頤にかかり、彼が長身を屈める。――ああ、キスされる。認識した瞬間うっとりしてしまう。この一か月間、何度頭の中で〝あのシーン〟を反芻しただろうか。アナログのテープだったら、とっくに擦り切れてしまっていただろう。
挨拶のような、ちゅ、と触れるだけのキスが唇に落とされた。
そっと離れ、見つめ合う。ジーンの物欲しそうな顔――多分、そういう顔をしていた――にザックは満足げに目を細め、ふたたび唇を重ねた。
窺うように下唇を食まれ、ジーンは口を開く。
めくるめく甘い記憶の再来だった。いや、記憶の中のキスより、本物の方がずっといい。
応えるように、ジーンは男の広い背中にてのひらを滑らせた。質のいいスーツの下に隠れたたくましい体を想像する。この腕に裸で抱かれると考えただけで体が熱くなった。
ジーンの高揚が伝わったのか、力強く腰を抱き寄せられ、口付けも深くなる。突然荒々しいほど熱心になった抱擁と口付けに、制服の帽子がずれた。カーペットの上にコトンと音を立てて落ちたその瞬間、ジーンはハッと我に返った。
キスにめちゃくちゃに応えたい気持ちははやまやまだが、このままでは数分後にはベッドの上になる可能性が高い。それは流石にマズい。
「ちょっと!」と背中をタップし、腕の力が緩んだ隙に、ジーンは男の胸を押し返す。
不満そうに唸りながらも、ザックはジーンを解放した。
ジーンは素早く拾った帽子を被り直し、毅然として言った。
「お客様、困ります」
ザックがプッと吹き出した。
熱心に口付けに応えておいて、説得力も何もないのはわかっている。肩を震わせるザックにバツが悪くて、「僕は今、仕事中なんです。これ以上は、ちょっと……」と弁解するように言った。
「ああ、わかっているさ。それで? 仕事は何時まで?」
愉快そうに淡いブルーグレーの目を細めたまま、ザックがたずねた。黙っていると冷たく近寄りがたい美形だが、こんな風に笑うとたちまち柔らかい雰囲気になる。美貌の男にこんな視線を向けられると、それだけで舞い上がってしまう。
「今日はもうこれで終わりですけど……」
「それはいいね。僕はこれからいくつか片付けなければならない仕事があるが、そうだな、七時はどうだろう。一緒に食事でも?」
悦びと興奮と期待と。胸が詰まって咄嗟に声が出ない。
慌ててこくこく頷くと、ザックはジーンの手を握って微笑んだ。
「連絡をくれ。ジーン……と呼んでも?」
ザックが名札に視線を落としながらたずねられ、ジーンはここでようやく自分が一度も名乗っていないことに気が付いた。
「え、ええ、勿論」
「ありがとう。じゃあ、また夜に、ジーン」
ちゅ、と唇の端に音を立ててキスをされる。挨拶のような可愛らしいキスに、ジーンはしどろもどろになって部屋を出た。さっきまでもっとすごいキス――濃厚なやつ――をしていたというのに。
チップと一緒に握らされたのは彼の連絡先だった。
ズボンのポケットに押し込み、ジーンは急いでフロントに戻った。約束の七時まではまだまだたっぷり時間があるが、一度家に帰ってシャワーを浴びなければ。着替えはどうしよう? ドレスコードは必要だろうか?
朝からずっと落ち着かなかったが、ここにきていよいよ地に足がついていないようだ。気持ちも足取りもフワフワとしている。仕事がもう終わりでよかった。こんな調子では到底業務に集中できなかっただろうから。
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