『ノクトホロウの魔女に選ばれし復讐者──幻眼の乙女』

カトラス

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第十六話『黒猫の目が見た王女の狂気』

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 夜の帳が城の中庭に降り、月明かりが白銀のように石畳を照らしていた。遠くの塔の影は濃く、風が高い壁を越えてひそやかに流れ込み、部屋のカーテンをそっと揺らす。昼間のざわめきは跡形もなく消え、廊下を行き交う足音すら途絶えている。



「さて……」



 背後から低く呟く声に振り返ると、ニールが壁にもたれ、腕を組んで私を見ていた。



「ちょっと内部の偵察に行ってくる」



「偵察? こんな時間に?」



 私が眉をひそめると、ニールは片方の口角を上げ、子どもみたいにいたずらっぽく笑った。



「夜だからこそだよ。昼間は目立つけど、今なら衛兵の目もすり抜けられる」



 そう言って私の正面に立った彼は、軽く両手を振るような仕草をした。空気がふわりと波立ち、次の瞬間、そこにいたはずの少年の姿は艶やかな黒毛の猫に変わっていた。



「……猫?」



 思わず息を呑むと、小さな口からニールの声が聞こえた。



「俺が変われるのは猫だけなんだ。ご主人様は蛇にもカラスにもなれるんだけどな。俺はこれが限界」



 どこか照れくさそうに尻尾を揺らす黒猫の瞳が、月の光を受けて鋭く光る。



「気をつけなさいよ。捕まったら、ただの野良猫扱いされるんだから」



「心配性だなぁ。俺の足なら誰にも見つからない」



 ニールは小さく笑い、窓枠にぴょんと飛び乗った。肉球が木の縁を押す音すら、夜の静けさに吸い込まれる。



「じゃ、すぐ戻る」



 ひらりと外へ飛び降りる黒い影。その姿が中庭の暗がりに溶けていくのを、私は窓辺に立ったまま見送った。



 胸の奥で、不安と期待が複雑に絡み合い、鼓動を早める。あの足音なき影が、どんな真実を私に持ち帰るのか——その時を静かに待った。







 王女の部屋を後にした俺――いや、この時は黒猫の姿だった――は、闇に溶けるように廊下を駆け抜けていた。背後から響く重い足音が、耳の奥にまで食い込んでくる。振り返ると、巨大な影——ゴリアテが、驚くほどの速さで迫ってきていた。



「……化け物みたいな図体で、なんでそんなに速いんだよ……」



 心臓が毛皮越しにも高鳴り、肉球に冷たい石床の感触が刺さる。柱の陰から陰へ飛び移り、呼吸を押し殺す。ようやく足音が遠ざかった時、薄暗い物置部屋の扉が半開きになっているのが目に入った。



 好奇心が勝ち、音もなく中へ滑り込む。埃と古木の匂いが鼻をくすぐる。中には古びた肖像画がいくつも立てかけられていた。その一枚には、王女そっくりの女が描かれていたが——髪は黒く塗り潰され、口元には刃物で裂かれたような禍々しい傷が走っている。



「……家族か? いや、もっと厄介な匂いがするな」



 背筋に冷たいものが這い、尻尾がぶわりと逆立つ。これ以上はまずいと感じ、すぐに部屋を後にした。城内の奥へ進むと、明かりの漏れる厨房の前に出る。



 中では夜勤の下働きの青年が、パンを盗み食いしていた。俺は猫らしく、音もなく背後に現れ、尻尾をゆらりと揺らして足元にすり寄る。



「ひっ……!」



 青年が落としたチーズの欠片を素早くくわえ、口の中で転がす。



「お前の秘密は守ってやる。こいつは俺の取り分な」



 青年が呆けた顔で見送る中、チーズを味わいながら城の外れへ向かった。人気のない物陰に入り、月光の下で人の姿に戻る。



「……あの女、思ってたよりずっとタチが悪い」



 吐き捨てるように呟き、主人公の部屋の前まで歩く。ノックする前、塔の最上階で微笑む王女の姿が一瞬、脳裏をよぎった。背筋にぞくりと冷気が走る。



 扉を軽く叩き、開いた隙間から顔を覗かせる。







 ニールが戻ってきたのは、部屋の蝋燭が半分ほど溶け落ちたころだった。窓辺から音もなく滑り込み、猫の姿のまま私の前に軽やかに着地する。その瞳は月光を映し、どこか興奮の色を帯びていた。



「いやぁ、すごいもん見ちまった」



 低く押し殺した声でそう切り出すと、尻尾をゆっくりと一度だけ揺らし、私の足元に腰を落ち着けた。私は視線を合わせ、続きを促す。



「まず、城の北翼は予想通り厳重な警備だった。王女の部屋の前にはゴリアテがいてな……あれは化け物みたいにデカい。肩まで俺の二倍はあるし、全身が岩みたいに硬そうなのに、動きはやたら素早い。廊下を走れば影みたいに後ろにつきまとってくる。何度か本気で尻尾を掴まれそうになった」



 私は思わず息を飲む。奴がそんなに厄介とは……。



「逃げ回ってたら、部屋の中から王女の声がしたんだ。『可愛いネコちゃん』ってな。異変に気づいたらしく、扉を少し開けて手招きされた」



 ニールはその時のことを思い出したのか、鼻先を小さくひくつかせた。



「部屋に入った瞬間、金糸のカーテンが揺れて、甘く酔いそうな香の匂いが鼻を突いた。床には厚い絨毯が敷かれ、中央の肘掛け椅子に王女エミリアが座ってた。背筋をぴんと伸ばし、まるで舞台の主役みたいに俺を見下ろしていたよ」



 その光景を想像した瞬間、私の胸の奥にじわりと警戒心が広がっていった。



 ニールは、窓辺の影の中で尻尾をゆるく揺らしながら、低く囁くように語り出した。



「王女はな、女官長エルヴィラを部屋に招き入れてた。あの女……ただそこに立っているだけで、部屋の空気がぴんと張り詰めるような奴だ。若いのに妙に落ち着いていて、氷を思わせる冷ややかな眼差しをしてた」



 私はその名を聞き、脳裏に先ほど対面した端麗な女官長の姿が蘇る。その静かな気配の奥に、何か鋭い棘を隠していたのを思い出す。



「そこへ王女は若い新人女官を呼び寄せた。立ち上がった王女は、ふわりとスカートを揺らして近づくと、その子の手をそっと取って耳元に何か囁いた。何を言ったのかまでは聞こえなかったが……新人の顔が一瞬で赤く染まるのが見えた」



 ニールの瞳が月明かりを受けて細く光る。



「それから頬や首筋に指先を滑らせて……まるで花びらを愛でるみたいにゆっくりと、しかもわざと見せつけるようにな。あれは新人に向けた仕草に見せかけて、実際は横に立つエルヴィラを射抜いてた。あの視線は……嫉妬を煽るためのものだ」



 その光景を思い描くと、私の胸の奥に薄ら寒いものが広がった。王女エミリアの微笑は、愛情でも親しみでもない。もっと歪み、計算され尽くした冷たい愉悦の匂いがした。



 なるほど……ニールが見た光景は、酒場で聞いた噂どおりだ。

 意外と容易に彼女へ近づけるかもしれない――そんな考えが、私の中で静かに芽を出した。



 ニールは部屋の片隅で、黒猫の尾をゆっくりと揺らしながら、声を潜めて続けた。



「……次はな、もう狂気じみてた。王女はわざと新人を自分の膝に座らせたんだ。嫌がってわずかに身を引くその肩を、逃げ場を与えない優雅な手つきで押さえつけてな。わざと見せつけるようにワインを口に含み、そのまま口移しで飲ませた」



 目の前にその光景が浮かぶ。王女の唇から紅い液体が滴り、膝の上で硬直する新人の頬を、白い指がなぞる。その指先は甘やかでありながら、檻の鍵のように冷たい。



「エルヴィラは一見、氷みたいに無表情だった。けどな……眉尻のほんのわずかな揺れ、唇の端の強張り……あれは嫉妬と苛立ちが滲んでた。あの女でも、感情を抑えきれない時があるらしい」



 私は思わず息を詰めた。噂は本当なのかもしれない――王女は同性愛者。そしてその嗜好は、計算と愉悦の道具になっている。ならば、王女に近づく道は意外と容易い……。



「他の女官たちは、全員視線を逸らしてた。あの場の空気は重くて、誰もが“何も見なかった”ふりをしてた。少しでも目を合わせれば、自分が次の玩具になるって分かってるんだ」



 ニールの低い声が闇に溶け、部屋の空気がひやりと冷える。私は窓の外の王女の塔を見上げ、胸の奥で新たな算段を静かに練り上げた。



 ニールの報告を聞きながら、私は窓辺に立ち、夜空に浮かび上がる王女の塔を見上げた。漆黒の闇に包まれた城の中で、その塔だけが月明かりを浴び、白銀の刃のように冷たく輝いている。塔の上層の窓には、揺らめく燭火がかすかに見え、その奥で誰かが微笑んでいるような錯覚さえ覚えた。



 権力と美貌を盾に、人の心を弄び、感情を試す王女——もしそれが本性なら、必ず隙はある。むしろ、そういう相手のほうが落とし甲斐がある。胸の奥に、鋭い期待と熱が同時に芽生えた。



「面白いじゃない……そんな相手なら、落とし甲斐があるわ」



 自分でも驚くほど自然にその言葉が漏れた。声に出した瞬間、胸裏で小さな火花が弾け、じわりと温かい熱が広がる。冷たい塔の最上階で、彼女を見下ろす未来の光景が、鮮やかに脳裏に描かれた。



 ニールは壁際で黒猫の姿のまま、尻尾を揺らしながら肩をすくめた。



「俺はもう少し見ていたかったけどな。氷みたいな女が、あそこまで感情を揺らしてるなんて滅多にないし」



 茶化す口ぶりとは裏腹に、瞳の奥には微かな警戒が宿っている。その表情を見て、私は口元に笑みを浮かべた。



「十分よ……次は、私が近づく番」



 心の中で、復讐の盤上に新しい駒が置かれる音が確かに響いた。その音は、静かだが確実に、これから訪れる嵐の始まりを告げていた。

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