重清狸ばなし★ヒプノサロンいせき1

野栗

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MINO 1930s 海を見た山狸

ウチの名は

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「みっちゃん、少し前に戻ってみるで?」

うなずくおミヨ。

「ほな…前の日に移ります…いち、に、さん!」

海四(みよん)がパチンと指を鳴らすと、おミヨは美馬農林学校の校舎にいた。窓の外を眺めながら、この学校を作るために、美馬郡重清村の山間部にこれだけ広い敷地を確保し、グラウンドまで造成することがどれだけ大変だったろうかと、改めて胸がいっぱいになった。

ー「カノ」

…そや、うちの名前、カノいうんやった…

「七兵衛、平助」

「今度の試験、赤点だけは取らんようせなな」

「そや。狸やいうてバカにされとうないし、…それに、うち、野球したいし」

「カノ、名前考えたで?」

「名前?」

「そうじゃ。公式戦出るのに狸だけ重清平助やら重清梅吉やら重清七兵衛やら重清カノじゃどもならん、て後藤監督に言われたやろ?」

自分の暮らす村の名を、そのまま名前の上に乗せて名乗るのが、狸たちの通例だった。

「…そうやな。ほなけんどどないしよう、監督に考えてもらおうか」

「わいは校長先生の名前もらうことにしたわ。先生の名前、岡田一雄じゃけん、字ぃ入れ換えたら田岡雄一や。ええ考えやろ」

「うわ、完璧な人間ネームやん」

「平助、頭ええなあ」

「ついでにカノのも考えたるわ。カタカナのカノのままじゃ、おなごの名前じゃけんよけい都合悪いな。
…そや、思い切ってカノカノにしたらどや」

平助は黒板に「加納佳之」と書いて見せた。

「うわ、これうちの名前?かっこええなあ、映画スターみたいや。ありがと!平助」

三匹が部室に向かうと、監督の前に梅吉がいた。

「藤川」

ー梅吉のやつ、苗字を藤川にしたんやな…

「藤川、その手じゃ無理や。しっかり治してこい」 

ー…!

「監督、わいはいけます!公式戦のために、こうやって人間の名前も考えて来ました」

「あかん。休まなならん時は、きちんと休め。球捕ったりバット振るだけが野球ちゃうぞ」

「わいは試合に出たいです!」 

梅吉はすすり泣いていた。

「梅吉!今日…今日だけは、やめとき!」

カノは部室のドアをぱんと開けた。

「うち知っとるんじゃ、おまはんがずっと…」

梅吉が右手を振り上げた。カノは梅吉の目の前に出ると、顔を上げた。 
乾いた音がした。

「…これで気ぃ済んだか?」

カノは左の頬っぺたを押さえもせずに、梅吉を正面から見すえた。

「…藤川、行くぞ」

後藤監督はつと立ち上がると、部室を出た。梅吉はその後ろについて、救護室の方へ消えていった。

ーみっちゃん。

海四の声が頭の中で響く。

ーみっちゃん、この先行っても大丈夫で?

ー大丈夫です。行かないかんです。

うちら、グラウンドにおります。練習着の左胸には、監督が布切れに筆で書いてくれた人間名が縫い付けてあります。

うちは「加納佳之」ー監督は、「かのうかの」ではなく「かのうよしゆき」と読むのだと教えてくれましたー、平助は「田岡雄一」、七兵衛は「河野(かわの)衛」、新入部員の太助は「山本太助」、そして梅吉は「藤川梅吉」。梅吉は左手が良くなるまでまだボールは触れんけど、練習に出られてほんまに嬉しそうです。

この日から監督から、うちらはグラウンドでは狸名ではなく人間名で呼び合うよう、また人間の部員たちには、早くうちらの新しい名前を覚えるように言われました。最初はどうしても馴染んできた狸名が先に出ましたが、公式戦を目指す中で、次第に人間の名前に慣れていきました。

海四は揺らぎはじめたビジョンを目の端に置きながら、おミヨの様子を窺った。表情も呼吸も安定している。ービジョンが再び焦点を結び始める。海四はアンチャンティーを一口すすると、そこに視線を向けた。

…ミーティングの様子だ。夏の大会のレギュラーが、後藤監督から発表されている。投手が剛球の武市、捕手が…3年の板東、と発表されたところで、後ろの方から「どうしてですか!」という声が上がった。1年生部員の太助だった。

「なんしに梅吉先輩やないんですか!」

「蜂商に勝てるメンバーを選んだ」

後藤監督は部員一人一人を見渡しながら言った。

「なんしに梅吉先輩では勝てんのですか!狸ではあかんのですか!」

監督の言葉を弾き返すように太助が叫ぶ。

「あほ!」

監督に食い下がる太助の胸ぐらを掴んだのは、梅吉だった。

「梅吉!」

カノは梅吉の右腕にしがみついた。

「やめんか」

監督が低い声で言った。

「わしは、ずっと藤川と板東のことを見てきた。山本、お前よりずっと長くな」

「わいは山本なんかとちゃう!重清村の太助じゃ!」

太助は胸の名札を引きちぎらんばかりに掴んだ。

「黙れ太助!」 

梅吉の右腕がカノを振り回した。 

「やめい梅吉!」

カノは振り払われぬよう必死でしがみついた。

「山本、藤川、加納!これ以上騒ぐなら、ここから出ていけ!」

監督が三匹をにらみつける。
梅吉は二匹を引きずるように部室を出ると、まっすぐグラウンドに向かった。

「監督」

声の主は、エース武市に次ぐ長身の選手。

「何だ、板東」

「自分が、藤川先輩と山本に、監督の話を納得させます」

「どないして?」

「…これ、借ります」

板東は防具一式とバットを持っていた。

「よかろう」


グラウンドでは、カノがマウンドに上がり、右打席には板東が立っている。その後ろに梅吉が座り、小柄な身体に大き過ぎる防具を身につけた太助が主審の位置にいる。

「太助、しっかり判定せえよ」

梅吉は太助に念を押した。

「梅吉、マスクぐらいせんで?」

マウンドからカノが声をかける。

「いらんいらん、お前のへろへろ球やかし当たったところでどうもないわ」

「ーほな、始めましょう。10球ずつで二回交代、これでいいですか?」

板東の言葉に三匹はうなずいた。

「加納のストライクの数、やな」

梅吉は右の拳でミットをパンと叩いた。

「さあ来い!」

カノは梅吉の構えるミットに向かって力一杯投げ込んだ。

「ボール」

外角に大きく外れる。投手など、子狸の頃の草野球以来だ。外野からのバックホームとはいささか勝手が違う。

「加納…カノ、初めてにしてはなかなかええ球やんか、その調子じゃ!球置きに行ったらあかんぞ」

最初の10球が終わり、捕手と打者が入れ替わる。梅吉より頭ひとつ近く体格の良い板東がミットを構えると、にわか投手のカノはその的の大きさと安定感に、こんなに投げやすさが違うのか、と実感した。

ー約束の球数が終った。太助は、カノの決めたストライクの数が、ふたりの捕手の間で倍以上違う事実に愕然としていた。

「太助、わかったか」

梅吉の言葉に、太助は座り込んでわんわん泣き出した。

「蜂商に負けたら、こらえんぞ」

梅吉は太助から外した防具を、板東の方に突き出した。

「わかった」

板東は踵を返して部室に戻っていった。カノは梅吉の顔をまともに見ることができなかった。

「…太助、監督に謝りに行け」

梅吉は泣きじゃくる太助に声をかけた。

「…山本が、そんなに嫌か?」

「…」

「嫌ならええ、野球もやめればええ」

太助は驚いたように顔を上げた。

「嫌や!」

「お前、監督に山本ちゃう、重清村の太助や言うたな」

「…山本や呼ばれても、わい自分のような気がせんのです…」

「お前、いつまで重清村の太助のままでおるつもりや?蜂商に勝って甲子園行って優勝して、日本一の山本太助になりとうないんか?」

太助ははっとした顔で梅吉を見つめた。

「監督が、重清の山から日本一に、言うて山本にしてくれたの、忘れたんか?」

カノは胸の痛みを振り切るように、部室に戻る梅吉と太助の後を追った。

ーその日の練習で、三匹は一日グラウンドの隅で正座させられた。


ーー海四は深いため息をついた。
おミヨはタオルケットにくるまって過去世の中をたゆたっている。

「徳島県学生野球史」によると、美馬農林はその夏の県大会決勝で蜂須賀商業に惜敗し、甲子園への切符を手にすることはできなかった。カノは俊足強肩を生かした華麗な守備で追加点を許さず、板東は制球に難のある武市をよくリードした。蜂商のエースから唯一のヒットを放ったのは、9回裏に代打で打席に立った藤川梅吉だった。

梅吉が塁上で両の拳を突き上げている姿を最後に、ビジョンは次第に暗くなり、おミヨは過去世から眠りの世界に移っていった。
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