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第1話 初めての日。その手を取った。

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「おはようございます」

 真っ白な部屋の中、私の小さな声が広がる。
 いつも1人だけど、つい癖で毎朝言ってしまう。

 ここは、開店から数年たった私の小さなお城。
 五年間チェーン店に勤め、お客様から背中を押されて独立した私のネイルサロンだ。
 部屋の照明をつけ、タイマーで稼働しているクーラーの涼しさに身を委ねる。毎日暑いなぁ。汗が引くまで風を浴びて、開店準備を始める。



 洗濯後に消毒していたおしぼりのバケツに水を注ぎながらホワイトセージに火をつけ、煙で部屋の浄化。
 お客様商売はこういったスピリチュアルなものとも密接。特にお祓いや浄化のアイテムは縁起物だからかかせない。

 部屋を一周しながら換気のためにサーキュレーターのスイッチを入れる。
 マンションの角部屋なので窓が沢山ついてる明るい部屋。



 この季節は日焼けもするし熱が窓から伝わってくるから、UVカットのカーテンを閉める。暗くなりすぎないレースの二重カーテン。
 おしぼりをすすいでアロマオイルを垂らし、しっかり絞ってタオルウォーマーにいれ、スイッチをオン。



 手洗いうがいのためのうがい薬を洗面台に置いて、掃除機で床を1周する。
 ネイルデスクの電源を入れて、デスクライト、マシンのセット、テーブルセッティングを行う。
 ヒーリングミュージックをかけて、お釣りをキャッシャーにしまい込み、スケジュールの確認。伝票を記入しておく。



 鏡を見ながらエプロンをつけて、マスクを装着する。肩より少し長い髪の毛、そろそろ切ろうかな?ポニーテールにまとめる。
 茶色いい髪の毛、茶色い瞳。一般人にふさわしい見た目の私が姿を現す。
 黒いエプロンをすれば少しはマシかな。



「今日は来るかなぁ?」

 朝一番のお客様は、当店の唯一の男性顧客様。マンションの一室のためプライベート空間が売りになっているから、基本的には男性は普通お断りしている。
 だから、この方は唯一自分から招き入れた男性のお客様。

 この方はワケありのお客様で、キャンセルが多いしリスケも多い。
 それでもきちんとキャンセル料を支払ってくださるし、後日謝罪のためだけにいらっしゃる事もあって、定期的に訪れる顧客様になった。



 ピーンポーン…
 インターホンの音。
 カメラで確認すると、件のお客様が応答を待っていた。今日は暑いのに汗ひとつかいてない。



「おはようございます、どうぞ上がってください」
「おはようございます、朝からすみません」

 礼儀正しく返事が来て、間もなく部屋のドアが開く。



「よろしくお願いします」

 パリッとしたシャツとグレーのスーツ、いつものオーダー物のかっちりした衣服に包まれた彼。
 彼の場合は開店時間を少し早めて招くのが通例だった。体温を計って、手洗いうがいをしてもらう。



 彼はスーツの上からでもわかる、体躯のしっかりした男性。
 スラリとした風貌と身のこなしで…あまり筋肉質には見えないけれど、腰を曲げたりなにか動くと綺麗な筋肉が感じられる。

 駅からほど近いマンション、古いこの部屋のドアをくぐる時……少し頭をさげて通るほど背が高い。
 濡れ羽色の黒髪、少しタレ目の真っ青な瞳、ウエストがきゅっとしまった綺麗な躰。日焼けしているのか肌の色が濃いめ。
 失礼だとは思いつつも、しっかり眺めてしまう。
 本当に素敵な人だなぁ。



 手洗いを終えた彼を誘導してネイルデスクへ。
 大人しく椅子に座り、手を出してくる。

「今日は暑くなりそうですね」
「夏本番になりましたからね、はじめますね」



 男性らしい低い声が部屋に響く。
 真っ白の部屋の中で異質な彼の黒。




「今日はケアとマッサージでよろしいですか?」
「はい、お願いします」

 はにかんだような可愛い笑顔が覗く。
 大きな体の割に童顔な彼が一層可愛らしくなる瞬間。



 がっしりしているけど指が長く、全体的に大きな手のひらを掴み、観察する。
 少し爪が伸びてるけれどささくれもなく、綺麗な状態。


 右手から始めて、爪先の長さを整える。
 少し脆い。食生活が乱れているか、徹夜かな?

 ちら、と彼の顔を眺めると、マンスリーデザインのサンプルをしげしげしげと眺めていた。
 綺麗な青の双眸の下にクマが鎮座している。
 


 目線を私に戻した彼と目が合う。
 瞬間的に、優しいとろけるような笑顔が覗く。
 自分の頬に熱が上がるのがわかる。
 …いけない、集中集中。

 長さを短くしたらファイルで綺麗に整え、角質軟化剤を付けて暖かいお湯に浸す。
 彼の薄い唇からため息がこぼれた。
 お疲れみたいですねぇ。



「甘皮カットしますね」
「はい」



 暖かいお湯から引き上げて、プッシャーで押し上げ、甘皮をニッパーで丁寧に除去していく。
 男性は爪が大きく、硬いはずなんだけど。
幅が細目の綺麗な爪。指先に綺麗に飾られてとっても綺麗な見た目の爪美人さんだ。



「最近お野菜食べられていますか?爪が少し脆くなっています。クマも酷いですし…お仕事お忙しいですか?」
 ニッパーを当てながら問いかける。



「直ぐにバレますね、そうなんです。最近大きな仕事が続いてしまいまして」
「お爪には生活が出ますから。ご病気ではないようですが、お食事はしっかり摂られて下さいね」
「…気をつけます」

 しょんぼりした声色にちょっと微笑んでしまう。
 いつも忙しい中来て下さる事に嬉しい気持ちがじわり、と広がる。
 お仕事は知らないけど、この方との出会いは閉店時間の真夜中だった。



━━━━━━

 いつもより予約が立て込んで、お掃除が終わったのが夜中の0時。
 雨の日だった。
 終電を逃すまいと、急いでマンションのエントラスから駆け出そうとした時。

 エントランスの木陰に蹲る人影に気づく。
 びっくりしてエントランス脇の鉢植えからそっと覗くと、白いシャツ、ボウタイ姿で腕に血が着いている彼が…木立に背を預けてうずくまっている。
 しばらく迷ったあと、すぐ近くの駅から終電が出ていくのを見て覚悟を決めた。




「あ、あの、濡れますよ」


 精一杯の声で傘を差し出す。
 驚いた様子の彼が真っ青な瞳でこちらを見つめてきた。



「放って置いてください」

 顔を逸らした彼が腕の血を隠す。
 握られた手のひらから、じわりと血が滴り落ちる。



「あの、私のお店がここなんです。応急キットもあります。良かったら手当だけでもされませんか?」

 一人の部屋にこんな怪しい人を招き入れるなんて、
と思ったけど放っておけなかった。

「雨で濡れるとあまり良くないと思います。私も放っておくのはちょっと気が引けます」




 傘を差し出したままの私に雨が降り注ぐ。
 雨足が強まって、髪の毛がしっとりと濡れていく。
 それを見た彼がため息を落とした。


「…お願い、します」



 掠れた声で了承され、お店にとんぼ返り。バックヤードのローソファーに座ってもらう。
 応急キットを差し出すと、ボウタイを取り、ベストを脱いでシャツを外す。



 Tシャツになった彼の綺麗な引き締まった筋肉が見えて、思わず顔を逸らした。
 応急キットを開いて、彼はテキパキと処置をしている、怪我になれてる感じ。どこでそんな怪我したんだろう?
 雨で髪の毛が濡れてしまっていたのでタオルを渡し、ケトルの電源を入れる。



 あっ!右手の怪我だから包帯が巻けないのかな。
彼が包帯を掴んで思い悩んでいる。

「巻きますよ」
「すみません…」



 ティーカップに紅茶のパックを入れて、包帯を受け取る。
 二の腕にしっかり巻き付けながら、その腕のたくましさに感心してしまう。パッと見も細く見えたのにかなり鍛えているみたい。




「キツくないですか?」

 巻き終わって尋ねると、苦笑いが浮かぶ。

「大丈夫です。本当にすみません」

 いえ、と答えると彼が腕をさすっているのが見えた。痛そうだなぁ。

 紅茶とお水を用意してロキソニンを添えて差し出す。
「痛み止め、良かったらどうぞ。」



 彼が目を見開いて、ローテーブルに乗せられた薬を見つめる。
「ありがとうございます。何から何まで…」

 薬と水を口にして、ソファーに背を預けながら紅茶を飲み始める。
 少しほっとした表情になった。
 よかった、声掛けて正解だった。




「血抜きだけしておきますね」
「あっ、あの…」



 暖房を入れて、返事を待たずに部屋を後にする。
 お店で使っているアセトンがあれば染み抜きができるから、腕の部分だけ洗剤で洗って、丁寧に血のシミを抜いた。



 ドアをノックしても返事がない。
 そっと開けると、ソファーに横になっている彼が見えた。

 音を出さないようにして床に畳んである、シャツとベスト、ボウタイをハンガーに掛ける。
 

 痛みは治ったかな?そっと近寄ると、うっすら瞼が上がって、長いまつ毛の奥に青い色が見える。
 頬が赤い…熱が出てきちゃったかな…?

「…………」

 無言でお互い見つめあって、突然抱き寄せられた。

「ひゃっ!あ、あの!ちょっ」

 抱え込むようにソファーの上に持ち上げられて、しっかり抱きすくめられてしまう。
 ムスク系の香水の香り、少し熱めの体温、ガッチリした男性の体。
 もがいてみても、抜け出せない。



 目の前に整った顔が瞼をしっかり閉じて寝息を立てている。
 寝ぼけたのかな。彼女さんと間違えた?もう一度動いてみるけど、ビクともしない。
 なんでこうなったのっ。



 悩みながら彼を観察する。
 目の下にクマが薄くある。
 唇はプルプルして柔らかそう。
 僅かに開いた口から小さな吐息が私の顔をくすぐってくる。
 ここまで整っている顔を間近で見たことがなくて、心臓がうるさい。

 うーんうーん、と悩みながらいつの間にか私は寝てしまっていた。



 目が覚めると、彼が居なくなっていて、ローテーブルにメモがひとつ。


『ありがとうございました、後日連絡します S』


 簡易な言葉の後に電話番号。



 一応スマホに登録して、電話番号でSMSメッセージを送っておく。 


そして…
 その後彼から返事があって、こうなりました。

 アロマオイルで保湿しながらマッサージ。
 疲れが取れるツボを押しておく。


「いつもありがとうございます。疲れが取れます」
「ふふ、お役に立てて良かったです」



 笑顔で見送り、ため息を落とす。
 1週間に1回、この日を迎える度に胸が暖かくなる。今日も1日頑張れそう。背伸びして、次のお客様のセッティングをはじめることにした。


 ━━━━━━

「困ったなぁ」


 私の両手には動かす度にギチギチと音を立てるロープ、足にも同じものが巻かれてしまっている。



 私のサロンの中に、土足で上がり込んでいる男の人達。
 数日前営業に来た、水道工事業者の人だだたなな。

 水周りからぐるっと室内を点検して、その日は帰っていったけど、あれはもしかして下見だったのかもしれない。迂闊だった。



「おい、金はこれだけか」
「はい」

 レジ金が掴まれて、ばら撒かれる。
 あぁ、それはやめて欲しかった。毎日こつこつ頑張ってたのに。

「隠してんじゃねぇぞオラァ!あいつが出入りしてるのは知ってるんだ」
 真っ黒なスーツを纏った、いかにも怪しい人達が私を睨みつける。



「あいつってどなたでしょうか」
「しらばっくれてんじゃねぇ、黒髪碧眼のイケメンだよ。月一どころかしょっちゅう来てるじゃねーか」
「お前情報屋だろ、わかってるんだ」

 あの人!そうか、初対面で血を流していた。危ないお仕事をしてる人だったのか。
 身なりからしてかなりの富者だとは思っていたけど。

 時計もパテックフィリップだったし、スーツはいつもオーダー物、お財布は持っていなくて、マネークリップから万札しか出てこなかったし、靴はジョンロブ。どう見ても高級品しか身につけていない。

 がし、と前髪を掴まれ、髭を蓄えた男が顔を近づけて来る。
 痛いし、タバコ臭い。



「金はここにねぇのか?情報ならあるのか」
「ありません」

 頬に熱が走る。
 衝撃で体が倒れ込む。
 女子にぐーはやめましょうよ。
 口の中が切れたけれど、歯は無事みたい。

「舐めてんじゃねぇ!!あいつの足取りが掴めてるのはここだけだ!他に通いつめてる場所なんかねぇんだよ」

 顎を掴まれ、引き上げられる。
 もう、ほんとに痛い。普通に喋って欲しい。 

「知らないんです」

 でも、たとえ知っていたとしても私は喋らない。
 言ったら、きっと危険な目に遭うのはあの人だから。

「ちっ、ハズレか?よく見りゃてめぇいい体してるじゃねぇか」
 黒光りする拳銃が胸元に押し付けられる。
 そうなるよね。パターン的に。

 胸の谷間に銃が突き刺され、力のままに引っ張られてボタンが弾け飛ぶ。
 お気に入りのワンピースが!ブラまで破けた!

「アニキ、そっちにソファーがあるぜ」
「ふん、仕方ねぇ。満足するまで遊んでやるよ」

 腕を引っ張り上げられ、バックヤードのソファーに投げられる。

「……っ」
 ソファーに落ちた瞬間、肘置きに頭を思い切り打って頭の中に光が走る。
 痛い!

「いい声で鳴けよ」

 足を縛られたまま持ち上げられ、ショーツが破られる音が響く。
 さっきの衝撃で気絶出来たら良かったのに。
目をぎゅっと瞑る。
 おしりの割れ目を撫でられ、嫌悪感で肌が粟立つ。

「手を上げろ」 

 はぁ、はぁと荒い息が落ちる。
 数人が玄関から駆け込んでくる足音。

「てめぇ!?」

 私を掴んだ手が離れる。
 恐る恐る目を開けると、彼がいた。
 青い目が、一瞬こちらを見たあと眉をしかめて立ち上がった男と睨み合う。
 手に持っているのはまさか拳銃?
 本物??

「外に出ろ」
「出るかよ!こっちには人質が…」

 彼の双眸から冷たい光が放たれる。
 青い瞳の中で、ぎゅっ、と瞳孔が広がった。
 くぐもった音の銃声。彼の背後から数人が入ってくる。
 音が途切れたように、何も聞こえない。頭から血を零しながら私の傍で、男がスローモーションになって倒れていく。

 ドカドカと男たちがもみ合う中、彼が険しい顔で私を抱き上げ、部屋を出ていく。
 マンションの外に、黒塗りの車が複数。何が起きてるの?

「すみません」



 私が今日整えた手のひらをまっすぐ首に落とし、衝撃とともに闇の中に意識が吸い込まれた。

━━━━━━

「組織の人間の可能性は?」
「ない」
「可能性がないとは言いきれないでしょ」
「ないと言っている」

 重い瞼をこじ開け、瞬く。


「目が覚めたか」

 後頭部がズキリ、と痛みを伝えてくる。
 頬にガーゼが貼られてる。胸元が裂けた私の服。夢じゃなかったんだ。

「頭を打っている。一応医者にみせたが問題ない様だ。痛むか」
「はい」

 いつも下ろしていた真っ黒な髪の毛をオールバックにまとめ、青いタレ目で私を覗いてくる。

「あの…安斎さん」
「それは偽名だ。説明も後になる。大人しくしていてくれ」
 口調も、目つきも違う彼。
 偽名だったの?
さっきの事より、なんだかショック。

 彼の両脇に同じようにオーダー物のスーツを着た男性が2人、私を睨んでいる。
 今日はよく睨まれる日だな。

「あんた、アイツらと面識はないのか」

 尋ねてきたのは右側にいる人。
 さっぱりした短髪の黒髪だけど前髪が長く、目元に影を落としている。
 前髪の間からグレーの瞳が私を冷たく見下ろしていた。
 顔の作り自体は可愛いんだけど、猫目の目付きが冷たくて寒気がする。

「はい。水道工事の営業さんとしか」
「大方中に入れたんだろ」
「はい、そうです」

 彼の口からはぁ、とため息が落ちる。
 私も迂闊だったとは、思ってるんだけど。

「お前度胸がありすぎるだろ、普通泣く所だぞここは」
 呆れたように言われる。



 こんな事は初めてだけど、あまり動じてるとは自覚がないかも?



「良いじゃない。うるさいよりはマシでしょ」

 この人は柔らかい口調だけど、見た目はちょっと怖い。
 耳にピアスが沢山ついてる。彼もつり目で黒髪、唯一3人の中で黒目だった。肩まで伸ばしたストレートの髪が揺れて、顔は優しそうに見える。

「どうする?」
「しばらく私が預る。」
「それはダメだろ」
「うーん、反対しても聞かないよねぇ」
「分かってるなら聞くな。立てるか」



 革張りのソファーに寝転んでいた私に手を差し伸べてくる彼。

 この手を取ったらもう、戻れない気がする。

「動けないか?」
「いえ」

 どちらにしても、あんな事の後で私が何か出来るとは思えない。
 大きな手に私の手を乗せた。
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