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29.「決着」
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「決着」
野崎里美は立ち尽くす幸一の前で、ただひたすらに泣いた。しかし、いつも優しかった幸一は何も言わない。肩を抱いてもくれないし、慰めてもくれない。もう、心がここに無いのだ。
「――帰って下さい」
里美は泣きながら、言葉を捻り出した。
「……君はどうする」
「放っておいて下さい! 私より……大事なものがあるんでしょう! それなら、行けばいいじゃない、私の事なんて、考えなくていい! 早く、行って下さい!」
幸一はうなだれたままだったが、暫くするともう一度深く頭を下げ、その場を去っていった。
後姿を見届けた里美は、もう泣いていなかった。
一度空を見上たかと思うとふらふらと、ダムに向かって歩き始めた。
まるで導かれるようにダムの側まで辿り着くと、里美は静かに左手の薬指から指輪を外し、近くの草むらに放り投げた。
そして、柵をよじ登り冷たいダム湖へ向かって飛び出して行った。
気がつくと、めぐみは泣いていた。涙で濡れる瞳にはベッドに横たわる母、床で嗚咽を漏らしている父、そして、いまだにいつ鬼と対峙し続ける月原の姿が映った。
「今のが――野崎さんの、記憶」
めぐみは静かに呟く。
「そうよ。この場にお父さんもいたからそちらの記憶も混ざっているけど」
月原の言葉に合わせるかのように、めぐみは父の姿を見た。
「許して、くれ、許して」
まるで子供のようにうずくまって泣いていた。この父が――
めぐみも月原の隣に立ち、いつ鬼に向けて、いや、野崎里美にむけて言葉を語りかけ始める。
「野崎、里美さん。私に、あなたの記憶を見せてくれてありがとう。気持ちを伝えてくれて、ありがとう。きちんと、受け取りました」
涙は止まらない。溢れてくる。
「お父さんが、酷い事をして、ごめんなさい」
その言葉を聞くと、いつ鬼の顔には更に無数のヒビが入っていく。
「あなたの、想いは、本当の願いは、家族が欲しかったんですね」
月原がやさしくめぐみの肩を撫でる。
「家族が欲しい、私のお父さんと家族になりたい。でも、もうその願いは叶わない。だから、お父さんの家族の私たちを――」
めぐみは喋りながらも、涙が溢れてとまらない。
「羨ましかったでしょう。憎らしかったでしょう。その気持ちが「家族が欲しい」から形を変えて、島岡幸一以外の家族の抹殺になったのね。今の家族がいたから、自分を選んでもらえなかったと――」
月原の声は優しく響いた。泣いてはいない、しかし、とても、優しく、悲しい声だった。
その声はめぐみの心に沁みていった。
泣き濡れるめぐみを置いて、月原は一歩踏み出した。
「そろそろ仕上げよ」
そういうと、月原は先程までとはまるで違う鋭い視線を、床にうずくまる父へと投げかけた。
「野崎さんの想いは分かったわ。でも、申し訳ないけど、その想いを果たすことは出来ないわ。だから、違った形で決着をつけましょう」
そうだ、今は野崎の想いを、その理由を知っただけだ。まだ、想いを果たしていない。そして、その想いを果たすと言うことは、自分達が死ぬと言うことだ。
「島岡幸一さん――けじめをつけなさい」
月原は冷たく言い放った。
「け、けじ、めですか」
父は震えながら声を上げた。
「ええそうよ。彼女の想いは、あなたも見たでしょう。叶えてあげなさい」
月原の冷ややかな瞳に父は震えながら声を絞り出した。
「ど、どうしろというんだ……」
「さあ、それを考えるのはあなたと――野崎さんね。待っていなさい」
すると、月原は部屋を出て行ってしまった。三分ほどだろうか、暫く待っていると扉が静かに開かれた。そこには月原と、車椅子に座る一人の女の姿があった。
めぐみはその光景に驚いたが、その眼は車椅子の女に注ぎ込まれていた。その女をめぐみは見たことがあった。そう、確か先日母の見舞いに来た時に一心に壁を覗き込んでいた若い女だ。その顔をじっと見ていると、つい今しがた見ていた人物と人相が被った。
随分と痩せこけ、一気にふけてしまったようだが、それは間違いなく――
「里美……」
父の口から言葉が漏れた。めぐみは一気に頭が混乱してしまった。
確かにあの日の光景では、野崎里美はダムに身を投げた。ここにいるはずが無いのだ。ではここにいるのは幽霊なのだろうか。
「ど、どういう事なの? 月原さん、これは――」
「死に切れなかったのね」
「え!? 生きてたの?」
「ええ。私は一度でも死んだと言ったかしら? 野崎里美さんは確かにあの日、ダムから身を投げた。でも、運よく助かったのよ。ニュースでもやっていたわ。たまたま上手く流されて、下の駐車場にいたカップルに助けられたらしいわ。あなた知っていたわよね、勿論」
月原の冷たい視線がまた父に注がれた。
「知らないとは言わせないわ。会社の人間が自殺未遂を起こして、知りませんでしたとは言わないわよね」
「……警察が来たんだ……最初は私も疑われていたから……警察は私が里美と一緒にいた事を知っていたからね。でも、状況証拠と――本人の証言から自殺未遂だったと分かったと……それからは何も知らない。まさか、ここにいたのか」
「ええ、そうみたいね。生き残ったのはいいけど、心が壊れてしまったのね。でも、こんな状態でどうして警察は証言を得たのでしょうね?」
月原の言うとおり、里美はとてもまともに話せるような精神状態ではない。何を話そうとも、答えは返ってこないだろう。しかし、そうでは無い事は月原の言葉ですぐに分かった。
「野崎里美さん……あなたは、あのダムで誰かに突き落とされたの? そう、あの島岡幸一に――」
月原がそう声を掛けると、今まで眠っていたように静かだった里美が目を見開き、小さな声で呟き始めた
「違います……違います……私が……自分で落ちたんです……あの人は……悪くない……」
焦点の合わない目で、里美はずっと繰り返し繰り返し呟いた。それは、まるで壊れたレコードのようだった。
「こんな状態になっても、この人はあなたの事を庇い……想い続けている。こんな事になっても、心が壊れても、あなたを恨まずに、ただあなたと一緒になりたいと……さあ、島岡幸一、あなたはどう応えるの? もし、この期に及んでまた逃げ出すなら……そんな恥をさらすくらいなら――舌を噛み切って死になさい」
月原の恐ろしく冷たく、鋭い言葉が場を支配した。
「わ、私は……どうしたらいい」
「全てはあなたが撒いた種よ。全てはあなたが考える事よ」
「わ、私は……辛かったんだ……家を捨て、聖子と一緒になったが、私はずっと軽んじられてきた……婿だからと言って、いつも、いつも……あの爺に、親戚連中どもにまるで虫けらのように思われてきたんだ……だから私は――」
「野崎さんと不倫したの?」
黙っていためぐみが静かに口を開いた。この期に及んでまだ言い訳をする父をこれ以上見ていられなかった。
「……お父さんは苦しかったのかもしれない、辛かったのかもしれない。私は……何もしてあげられなかった。でも、それでも、お父さんがした事で、お母さんは、野崎さんはどうなったの? お母さんがベッドに縛り付けられているのも、野崎さんが壊れてしまったのも、お父さんのせいじゃない!」
「め、めぐみ……」
娘の辛らつな言葉に、父はただ口を噤む事しかできなかった。そんな父を一瞥すると、めぐみは里美に近づき、その手を取った。
「野崎さん――私のお父さんが酷い事をしてごめんなさい。謝っても許してくれるとは思いません。だから……私が代わりに罰を受けます。いつ鬼、それでいい?」
「な――馬鹿な事を」
月原はすぐにめぐみを引き離そうと駆け寄るが急に見えない縄で縛り上げられ、全く身動きが取れなくなった。
「い――いつ鬼……」
いつ鬼は想いを果たそうとする者を最優先に考える。どうやらめぐみの案が選ばれたようだ。それと同時に縛り上げられ床に転がっていた父の縄は解かれ、荒い呼吸をしながらふらふらと立ち上がった
「あなた――何を考えて、いるの」
月原は縛り上げられながらも必死に抵抗している。
「ごめんね――でも、嫌なの。確かにお父さんは、酷い事をした、最低の人だと思う。でも、私にとっては、優しくて大切な、お父さんだから」
そう言うとめぐみはベッドで横たわる母を、ようやく立ち上がった父を見た。
大切な家族。失いたくない――
「野崎さん。お父さんが酷い事をして、本当にごめんなさい。私が、死ぬから。だからどうか、お母さんとお爺ちゃんとお婆ちゃんは、許してください――私の、大切な家族を、奪わないで」
めぐみが言い終わると、いつ鬼はゆっくりと右手でめぐみの首を掴んだ。その右手はみるみるうちに大きくなり、めぐみは首を絞められながら宙に浮いた。
「島岡――さん」
月原はもがくが、体の自由が効かず、見ている事にしか出来ない。
「め、めぐみ――」
父が震えながらその光景を見ていた。そんな父に月原が叫んだ。
「島岡、幸一! これでいいと――あなたはそう思っているの? 今、命をかけて、あなたを助けようと、しているのは――誰! あなたの――家族でしょう! もし、このまま――見殺しにしたら、ゆるさ――ない」
そう言うと、不意に月原の目が次第に紅く染まっていく。それは、ただ目が充血したそれとは全く異質の、最初から紅い目をしていたかのように、黒い目が紅く染まっているのだ。
首を絞められながら、めぐみは月原の目を見て、ただ綺麗だと思った。
すると、月原の体は少しづつ自由を取り戻してきたのか、手が、足が動き始めた。しかしそれと同時に目からは血の涙が流れている。明らかに無理をしているという事が分かる。
止めてと月原に叫びたい。しかし、めぐみの首は今まさに締め付けられており、一言も出す事が出来ない。
意識が遠のき始めたとき、床にへたり込んでいた父がふらふらと歩き出した。その視線の先にはめぐみを映して。
父の足は、首を締め上げられているめぐみの下で止まった。そして、いつ鬼に向かって、はっきりと言った。
「私がけじめをつける――だから、娘を降ろしてくれ」
いつ鬼はそのヒビだらけの顔で父の顔を暫くみつめると、めぐみを締め上げていた右手が消え、めぐみは地面に叩きつけられた。
「島岡さん!」
月原を縛り上げていた見えない縄も消えたようだ。月原は地面に倒れ伏しためぐみのもとへ駆け寄った。
声をかけたと同時にめぐみは苦しそうに咳き込んだ。
「良かった―――」
「ごめんね――心配かけて……目、紅いよ」
「……気にしないで……本当に、あなたは馬鹿ね」
月原は優しくめぐみの肩を抱いた。
「お、お父さんは」
二人の視線の先には父と、いつ鬼が向かい合っていた。
「けじめをつけると、この女の想いを果たすというのだな」
父は静かに頷いて、里美のほうに向き直った。
「本当に、すまなかった。どれだけ謝っても許してもらえるとは思わない。でも、ひとつだけ、言わせて欲しい。私は本当に、君の事を愛していた。人間として最低だと分かっている、でも、本当に君の事を愛していた」
父はそっと、めぐみを、そしてベッドにいる母にむかって頭を下げた。
「おとう――さん」
「今は――みているのよ」
月原はぐっとめぐみの肩に力を入れた。
「君が、自殺に失敗し、どこかに入院しているとは聞いていた。調べたらすぐに分かっただろう、でも私はそれが出来なかった。こうして君が壊れてしまったのに、壊してしまった私は何も……何もしてやれなかった。すまない……」
そういうと、父は拾い上げた指輪を持ち、里美の前に跪づいた。
そして虚ろな目をする里美の手を取ると、その細く痩せてしまった薬指にそっと指輪を嵌めた。
「取り返しがつかないと分かっている。許してくれとも言わない。だが……私は本当に……」
突如、今の今まで死人のようだった里美が幸一の頭を優しく撫で、静かに言った。
「幸一さん――前にも言ったじゃないですか、この指輪、大きいって」
静かだが、はっきりと話す里美に、一瞬驚くが、父は構わず続けた。
「里美……ごめん、ごめん。私が弱いばかりに――」
父の目から涙が溢れ、その涙が里美の手に、落ちていった。
「本当に――泣き虫なんだから」
そういうと、里美はめぐみに視線を向けた。
「本当にごめんなさい。酷い事をしたのは私です。奥様やお子さんがいるのを分かっていながら、あなたのお父さんを愛してしまったのだから――」
「野崎さん――」
「そして、隣の――月原さんね。私を止めてくれて、奥さんとめぐみちゃんを助けてくれてありがとう。私が言えた義理じゃないけど」
そう言うと、月原はちいさく溜息をつきながら口を開いた。
「どこかで、あなたも迷っていたんじゃない。こんな事をしても、本当は何の意味も無いって。だから、私をここに招き入れた。本当に拒絶していたら、流石に私でもどうにもならないもの」
野崎は何も答えず、また、父を強く抱きしめた。
「幸一さん。ありがとう……ずっとね、後悔していたの。指輪、捨てちゃったから……でも、本当に大事なものだったから……また戻ってきてくれて、良かった」
「里美……」
「もう、十分です。これで、十分」
すると、里美は中に浮くいつ鬼に向かって静かに声をかけた。
「ありがとう。ずっと奥にいて、壊れていた私の心に触れてくれて……。でも、もういいの。奥さんを、めぐみちゃんを殺しても……きっと私は家族なれなかった。だから、私はこれでいい」
里美は薬指に嵌められた指輪をそっと撫でた。その瞬間、いつ鬼は元からそこにいなかったかのように消えてなくなってしまった。
野崎里美は立ち尽くす幸一の前で、ただひたすらに泣いた。しかし、いつも優しかった幸一は何も言わない。肩を抱いてもくれないし、慰めてもくれない。もう、心がここに無いのだ。
「――帰って下さい」
里美は泣きながら、言葉を捻り出した。
「……君はどうする」
「放っておいて下さい! 私より……大事なものがあるんでしょう! それなら、行けばいいじゃない、私の事なんて、考えなくていい! 早く、行って下さい!」
幸一はうなだれたままだったが、暫くするともう一度深く頭を下げ、その場を去っていった。
後姿を見届けた里美は、もう泣いていなかった。
一度空を見上たかと思うとふらふらと、ダムに向かって歩き始めた。
まるで導かれるようにダムの側まで辿り着くと、里美は静かに左手の薬指から指輪を外し、近くの草むらに放り投げた。
そして、柵をよじ登り冷たいダム湖へ向かって飛び出して行った。
気がつくと、めぐみは泣いていた。涙で濡れる瞳にはベッドに横たわる母、床で嗚咽を漏らしている父、そして、いまだにいつ鬼と対峙し続ける月原の姿が映った。
「今のが――野崎さんの、記憶」
めぐみは静かに呟く。
「そうよ。この場にお父さんもいたからそちらの記憶も混ざっているけど」
月原の言葉に合わせるかのように、めぐみは父の姿を見た。
「許して、くれ、許して」
まるで子供のようにうずくまって泣いていた。この父が――
めぐみも月原の隣に立ち、いつ鬼に向けて、いや、野崎里美にむけて言葉を語りかけ始める。
「野崎、里美さん。私に、あなたの記憶を見せてくれてありがとう。気持ちを伝えてくれて、ありがとう。きちんと、受け取りました」
涙は止まらない。溢れてくる。
「お父さんが、酷い事をして、ごめんなさい」
その言葉を聞くと、いつ鬼の顔には更に無数のヒビが入っていく。
「あなたの、想いは、本当の願いは、家族が欲しかったんですね」
月原がやさしくめぐみの肩を撫でる。
「家族が欲しい、私のお父さんと家族になりたい。でも、もうその願いは叶わない。だから、お父さんの家族の私たちを――」
めぐみは喋りながらも、涙が溢れてとまらない。
「羨ましかったでしょう。憎らしかったでしょう。その気持ちが「家族が欲しい」から形を変えて、島岡幸一以外の家族の抹殺になったのね。今の家族がいたから、自分を選んでもらえなかったと――」
月原の声は優しく響いた。泣いてはいない、しかし、とても、優しく、悲しい声だった。
その声はめぐみの心に沁みていった。
泣き濡れるめぐみを置いて、月原は一歩踏み出した。
「そろそろ仕上げよ」
そういうと、月原は先程までとはまるで違う鋭い視線を、床にうずくまる父へと投げかけた。
「野崎さんの想いは分かったわ。でも、申し訳ないけど、その想いを果たすことは出来ないわ。だから、違った形で決着をつけましょう」
そうだ、今は野崎の想いを、その理由を知っただけだ。まだ、想いを果たしていない。そして、その想いを果たすと言うことは、自分達が死ぬと言うことだ。
「島岡幸一さん――けじめをつけなさい」
月原は冷たく言い放った。
「け、けじ、めですか」
父は震えながら声を上げた。
「ええそうよ。彼女の想いは、あなたも見たでしょう。叶えてあげなさい」
月原の冷ややかな瞳に父は震えながら声を絞り出した。
「ど、どうしろというんだ……」
「さあ、それを考えるのはあなたと――野崎さんね。待っていなさい」
すると、月原は部屋を出て行ってしまった。三分ほどだろうか、暫く待っていると扉が静かに開かれた。そこには月原と、車椅子に座る一人の女の姿があった。
めぐみはその光景に驚いたが、その眼は車椅子の女に注ぎ込まれていた。その女をめぐみは見たことがあった。そう、確か先日母の見舞いに来た時に一心に壁を覗き込んでいた若い女だ。その顔をじっと見ていると、つい今しがた見ていた人物と人相が被った。
随分と痩せこけ、一気にふけてしまったようだが、それは間違いなく――
「里美……」
父の口から言葉が漏れた。めぐみは一気に頭が混乱してしまった。
確かにあの日の光景では、野崎里美はダムに身を投げた。ここにいるはずが無いのだ。ではここにいるのは幽霊なのだろうか。
「ど、どういう事なの? 月原さん、これは――」
「死に切れなかったのね」
「え!? 生きてたの?」
「ええ。私は一度でも死んだと言ったかしら? 野崎里美さんは確かにあの日、ダムから身を投げた。でも、運よく助かったのよ。ニュースでもやっていたわ。たまたま上手く流されて、下の駐車場にいたカップルに助けられたらしいわ。あなた知っていたわよね、勿論」
月原の冷たい視線がまた父に注がれた。
「知らないとは言わせないわ。会社の人間が自殺未遂を起こして、知りませんでしたとは言わないわよね」
「……警察が来たんだ……最初は私も疑われていたから……警察は私が里美と一緒にいた事を知っていたからね。でも、状況証拠と――本人の証言から自殺未遂だったと分かったと……それからは何も知らない。まさか、ここにいたのか」
「ええ、そうみたいね。生き残ったのはいいけど、心が壊れてしまったのね。でも、こんな状態でどうして警察は証言を得たのでしょうね?」
月原の言うとおり、里美はとてもまともに話せるような精神状態ではない。何を話そうとも、答えは返ってこないだろう。しかし、そうでは無い事は月原の言葉ですぐに分かった。
「野崎里美さん……あなたは、あのダムで誰かに突き落とされたの? そう、あの島岡幸一に――」
月原がそう声を掛けると、今まで眠っていたように静かだった里美が目を見開き、小さな声で呟き始めた
「違います……違います……私が……自分で落ちたんです……あの人は……悪くない……」
焦点の合わない目で、里美はずっと繰り返し繰り返し呟いた。それは、まるで壊れたレコードのようだった。
「こんな状態になっても、この人はあなたの事を庇い……想い続けている。こんな事になっても、心が壊れても、あなたを恨まずに、ただあなたと一緒になりたいと……さあ、島岡幸一、あなたはどう応えるの? もし、この期に及んでまた逃げ出すなら……そんな恥をさらすくらいなら――舌を噛み切って死になさい」
月原の恐ろしく冷たく、鋭い言葉が場を支配した。
「わ、私は……どうしたらいい」
「全てはあなたが撒いた種よ。全てはあなたが考える事よ」
「わ、私は……辛かったんだ……家を捨て、聖子と一緒になったが、私はずっと軽んじられてきた……婿だからと言って、いつも、いつも……あの爺に、親戚連中どもにまるで虫けらのように思われてきたんだ……だから私は――」
「野崎さんと不倫したの?」
黙っていためぐみが静かに口を開いた。この期に及んでまだ言い訳をする父をこれ以上見ていられなかった。
「……お父さんは苦しかったのかもしれない、辛かったのかもしれない。私は……何もしてあげられなかった。でも、それでも、お父さんがした事で、お母さんは、野崎さんはどうなったの? お母さんがベッドに縛り付けられているのも、野崎さんが壊れてしまったのも、お父さんのせいじゃない!」
「め、めぐみ……」
娘の辛らつな言葉に、父はただ口を噤む事しかできなかった。そんな父を一瞥すると、めぐみは里美に近づき、その手を取った。
「野崎さん――私のお父さんが酷い事をしてごめんなさい。謝っても許してくれるとは思いません。だから……私が代わりに罰を受けます。いつ鬼、それでいい?」
「な――馬鹿な事を」
月原はすぐにめぐみを引き離そうと駆け寄るが急に見えない縄で縛り上げられ、全く身動きが取れなくなった。
「い――いつ鬼……」
いつ鬼は想いを果たそうとする者を最優先に考える。どうやらめぐみの案が選ばれたようだ。それと同時に縛り上げられ床に転がっていた父の縄は解かれ、荒い呼吸をしながらふらふらと立ち上がった
「あなた――何を考えて、いるの」
月原は縛り上げられながらも必死に抵抗している。
「ごめんね――でも、嫌なの。確かにお父さんは、酷い事をした、最低の人だと思う。でも、私にとっては、優しくて大切な、お父さんだから」
そう言うとめぐみはベッドで横たわる母を、ようやく立ち上がった父を見た。
大切な家族。失いたくない――
「野崎さん。お父さんが酷い事をして、本当にごめんなさい。私が、死ぬから。だからどうか、お母さんとお爺ちゃんとお婆ちゃんは、許してください――私の、大切な家族を、奪わないで」
めぐみが言い終わると、いつ鬼はゆっくりと右手でめぐみの首を掴んだ。その右手はみるみるうちに大きくなり、めぐみは首を絞められながら宙に浮いた。
「島岡――さん」
月原はもがくが、体の自由が効かず、見ている事にしか出来ない。
「め、めぐみ――」
父が震えながらその光景を見ていた。そんな父に月原が叫んだ。
「島岡、幸一! これでいいと――あなたはそう思っているの? 今、命をかけて、あなたを助けようと、しているのは――誰! あなたの――家族でしょう! もし、このまま――見殺しにしたら、ゆるさ――ない」
そう言うと、不意に月原の目が次第に紅く染まっていく。それは、ただ目が充血したそれとは全く異質の、最初から紅い目をしていたかのように、黒い目が紅く染まっているのだ。
首を絞められながら、めぐみは月原の目を見て、ただ綺麗だと思った。
すると、月原の体は少しづつ自由を取り戻してきたのか、手が、足が動き始めた。しかしそれと同時に目からは血の涙が流れている。明らかに無理をしているという事が分かる。
止めてと月原に叫びたい。しかし、めぐみの首は今まさに締め付けられており、一言も出す事が出来ない。
意識が遠のき始めたとき、床にへたり込んでいた父がふらふらと歩き出した。その視線の先にはめぐみを映して。
父の足は、首を締め上げられているめぐみの下で止まった。そして、いつ鬼に向かって、はっきりと言った。
「私がけじめをつける――だから、娘を降ろしてくれ」
いつ鬼はそのヒビだらけの顔で父の顔を暫くみつめると、めぐみを締め上げていた右手が消え、めぐみは地面に叩きつけられた。
「島岡さん!」
月原を縛り上げていた見えない縄も消えたようだ。月原は地面に倒れ伏しためぐみのもとへ駆け寄った。
声をかけたと同時にめぐみは苦しそうに咳き込んだ。
「良かった―――」
「ごめんね――心配かけて……目、紅いよ」
「……気にしないで……本当に、あなたは馬鹿ね」
月原は優しくめぐみの肩を抱いた。
「お、お父さんは」
二人の視線の先には父と、いつ鬼が向かい合っていた。
「けじめをつけると、この女の想いを果たすというのだな」
父は静かに頷いて、里美のほうに向き直った。
「本当に、すまなかった。どれだけ謝っても許してもらえるとは思わない。でも、ひとつだけ、言わせて欲しい。私は本当に、君の事を愛していた。人間として最低だと分かっている、でも、本当に君の事を愛していた」
父はそっと、めぐみを、そしてベッドにいる母にむかって頭を下げた。
「おとう――さん」
「今は――みているのよ」
月原はぐっとめぐみの肩に力を入れた。
「君が、自殺に失敗し、どこかに入院しているとは聞いていた。調べたらすぐに分かっただろう、でも私はそれが出来なかった。こうして君が壊れてしまったのに、壊してしまった私は何も……何もしてやれなかった。すまない……」
そういうと、父は拾い上げた指輪を持ち、里美の前に跪づいた。
そして虚ろな目をする里美の手を取ると、その細く痩せてしまった薬指にそっと指輪を嵌めた。
「取り返しがつかないと分かっている。許してくれとも言わない。だが……私は本当に……」
突如、今の今まで死人のようだった里美が幸一の頭を優しく撫で、静かに言った。
「幸一さん――前にも言ったじゃないですか、この指輪、大きいって」
静かだが、はっきりと話す里美に、一瞬驚くが、父は構わず続けた。
「里美……ごめん、ごめん。私が弱いばかりに――」
父の目から涙が溢れ、その涙が里美の手に、落ちていった。
「本当に――泣き虫なんだから」
そういうと、里美はめぐみに視線を向けた。
「本当にごめんなさい。酷い事をしたのは私です。奥様やお子さんがいるのを分かっていながら、あなたのお父さんを愛してしまったのだから――」
「野崎さん――」
「そして、隣の――月原さんね。私を止めてくれて、奥さんとめぐみちゃんを助けてくれてありがとう。私が言えた義理じゃないけど」
そう言うと、月原はちいさく溜息をつきながら口を開いた。
「どこかで、あなたも迷っていたんじゃない。こんな事をしても、本当は何の意味も無いって。だから、私をここに招き入れた。本当に拒絶していたら、流石に私でもどうにもならないもの」
野崎は何も答えず、また、父を強く抱きしめた。
「幸一さん。ありがとう……ずっとね、後悔していたの。指輪、捨てちゃったから……でも、本当に大事なものだったから……また戻ってきてくれて、良かった」
「里美……」
「もう、十分です。これで、十分」
すると、里美は中に浮くいつ鬼に向かって静かに声をかけた。
「ありがとう。ずっと奥にいて、壊れていた私の心に触れてくれて……。でも、もういいの。奥さんを、めぐみちゃんを殺しても……きっと私は家族なれなかった。だから、私はこれでいい」
里美は薬指に嵌められた指輪をそっと撫でた。その瞬間、いつ鬼は元からそこにいなかったかのように消えてなくなってしまった。
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