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26. 皇子、戦う

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 きっかり7時。
 アルフォンソは言われた通り、一人で指定された場所にやってきた。
 正規の道を堂々と通って。
 色あせた扉に手をかけると、きしみつつも、それは簡単に開いた。
 長らく使われていなかった建物独特の籠った匂いに、冷え冷えとした風が吹き込んだ。

 そこは、古いながらも、それなりの大きさの礼拝堂だった。
 薄汚れてくすんだステンドグラスの嵌った大きな窓。漏れ入る夕日に所々染まった、弧を描いて連なる継ぎ目のない木製の座席。細い通路を挟んで均等に並ぶその列は、進むにつれて短くなり、扇状を成している。その最奥、扇の中心あたりは、やや高くなっており、場違いなほど立派な祭壇が設けてあった。
 祭壇の上には、額にサークレットをはめ、長い髪を靡かせて天を仰ぐ少女の胸像が置かれていた。少女の両手は胸元でしっかりと組み合わされ、一心に神に祈りをささげているようだ。

 おそらく、彼らが信じる『銀の聖女』を模した姿。
 あまりの空言に、反吐が出そうだ。
 あの時、どんなに祈っても、神とかいうものは、応えてはくれなかった。 

「お待ちしておりました、アルフォンソ殿下」

 祭壇の傍らに立ち、『銀の聖女』の胸像を眺めていた女が振り向いた。
 『聖女レダ』としての装いではなく、暗殺者としての殺気をまとって。

 肩を覆っていた赤みがかった銀髪は、耳が隠れる程度の長さの明るい茶髪と化している。眼鏡を取り去った瞳は赤茶色だ。まとっているのは、明らかに防御魔法で強化されたひとつなぎの黒装束。腰辺りに幾重にも巻かれたサッシュを除けば、それは、しなやかで強靭な肉体を惜しげもなく晒しだしていた。

 女の背後には、頭巾とマントをすっぽりとかぶった人影が6つ、静かに佇んでいる。

「言われた通りに参上した。ベルウエザー嬢を返してもらおう」

 背後の扉が音もなく閉じた。
 アルフォンソは、一瞬のうちに礼拝堂全体が結界に包まれたのを感じた。

*  *  *  *  *

「どうやら、本当におひとりのようですね。カッツエル副団長くらいは、潜んでくると踏んでいたのですが」

 やはり、ここまでの道中、見張りの目が配置されていたらしい。

「エクセルなら、まだ魔香で使い物にならない。魔香を仕込ませた当人なら、十分、承知しているはずだが?」

「基本的に、魔香の効果は3日間ほど。されど、副団長殿は、油断がならないことも、十分、伝え聞いておりますもので」

 レダと名乗っていた暗殺者は淡々と言った。

「まあ、たとえ、援軍が潜んでいたとしても、問題はないでしょう。この結界内に皇子、あなたが一人で囚われた以上」

 赤い唇が薄い笑みを刷く。
 アルフォンソが右手で長剣としてはやや短めの剣を抜いた。

「勤めを果たせ!」

 命に従い、無言で控えていた男たちが、アルフォンソに一斉に襲い掛かった。

*  *  *  *  *

 人狼族ウェアウルフか?

 脱げた頭巾の下から現れた顔は、人間と言うより狼を思わせるもの。
 むき出しの巨大な牙。尖った鼻づら。白目が極端に少ない茶色い瞳。

 アルフォンソは、真正面から繰り出された鋭い鍵爪を剣で受け止めて振り払うと、その顔を柄で殴りつけた。と同時に、両脇から横殴りに突き出された爪と牙を、大きく身を反らせて躱し、その勢いのまま反転する。尚も追いすがる敵を、床に左手を突いて飛びずさって避けると、身をかがめたまま刃を水平にして薙ぎ払った。なおも背後から襲いかかる敵に、ふり振り向きざまに、左手で腰に下げたもう一つの剣を抜く。そのまま、剣を斜め上に突き上げ、毛むくじゃらな脇腹に突き立てた。頭上から迫る獣形態の魔の襲撃を、クロスさせた刃で防ぐと、その腹を蹴り飛ばす。

 妙だ。まだ月は出ていない。完全獣化フルシェイプシフトにはまだ早すぎる。

 刹那、迫る冷気に、身を伏せ、床に転がった。
 両脇から挟み撃ちにしようと跳びかかってきた2匹の魔物が、悲鳴を上げて床にもんどり落ちた。
 女が放った氷の刃に背や腹を串刺しにされて。
 女の舌打ちが聞こえた。
 氷の刃を突き刺したまま、一匹の『狼』がよろよろと立ち上がる。

「さすが、『黒の皇子』。私の氷剣から逃れるとは。今まで生き延びてきただけのことはある」

 アルフォンソは、自分の得物、長剣とレイピアの間くらいの双剣を両の手に、油断なく身構えた。

 人狼たちはあちこちから血を流しながらも、再び臨戦態勢に入っている。スピードをやや落として近づいてくる彼らは、戦意を失ったようには見えない。
 床で完全に絶命している一匹を除いては。
 いや、はたして、これは戦意だろうか?その見開かれた瞳には、殺意どころか全く意思が感じられない。

「彼らに何をした?」

 アルフォンソが、低くかすれた声で尋ねた。
 女がやや驚いたように目を見開いた。

「彼ら?おや、まさか、魔物に同情ですか?」

人狼族ウェアウルフは、むやみに人を襲う好戦的な種族ではない。彼らに何をした?」

「魔物に造詣が深くてらっしゃるようですね、アルフォンソ殿下」

 アルフォンソの声にこもる感情に気づいた女が面白そうに言った。

「あの者たちは、今や罪深き魔物ではないのですよ。欲望にまみれた意志も、種族としての本能もありません。彼らは、聖なる御手によって、造りだされた生きた道具。命令を実行する知能と強靭な肉体を持つ忠実なる下僕。我々に尽くすことのみを喜びとする存在なのです」

「お前たちはいつもそうだ。お前たちにとって、人のみが、この世界に選ばれた至上の存在。自分たち以外の種族を、お前たちは決して認めようとしない・・・

 彼の全身から感じられるもの。それは静かな怒りだった。
 常時ほぼ無表情を保つ彼からは信じられないほどの激しい怒り。

 彼が率いる黒騎士団のメンバーさえ、今の彼の表情を見れば、間違いなく驚くに違いない。

 アルフォンソは、両手の剣を軽く振って、滴る血を払った。柄を強く握り直し、口の中で呪文を唱える。
 その両腕からじんわりと銀の煌めきが立ち昇る。

「なんてきれいな色でしょう」

 うっとりと呟く女を尻目に、アルフォンソは、魔物たちの方へ自ら近づいた。
 先刻ほどの俊敏さもなく闇雲に襲いかかってくる魔物たちの攻撃を往なしつつ、銀色の光を帯びた双剣で、その急所を的確に狙う。
 心臓を突き刺し、頸動脈を一瞬で切断する。
 残った5匹の人狼の身体が次々と倒れ伏した。
 見る間にその体が縮み、人間のものに変化する。
 息絶えた男たちの顔は、まるで眠っているように穏やかだった。

「冷酷な『黒の皇子』様は、案外と情け深いこと。初めて拝見しましたわ。全ての苦痛を消す光魔法ってところかしら?」

 人狼の血にまみれたアルフォンソにじりじりと追い詰められながらも、女はまだ余裕を失ってはいなかった。

「人質のことをお忘れかしら?ベルウエザー嬢がどうなってもいいのですか?」

「彼女なら、今頃、エクセルたちに助け出されてるさ」

 アルフォンソは事も無げに答えた。

「お前の負けだ。誰に命じられたか答えてもらおう」

 女が祭壇を背に立ち止まった。両手を軽く上げて掌を見せ、降参を示す。それから、まるで今思い出したかのように、しらじらしい口調で言った。

「そういえば、殿下は、ベルウエザー嬢に婚姻を申し込まれたとか」

 アルフォンソの動きが止まった。

「まさか、本気で彼女と結婚ができるとお思いで?闇に染まった汚れた身で、令嬢を幸せにできるとでも?令嬢はご存じかしら?あなたが生きている限り、魔物は増え続け、人々が苦しむことになるのを?」

「お前には関係ないことだ」

 アルフォンソは女を睨みつけた。

「そうでしょうか?世界の運命を憂う一員としては、大いに関係があるはずです。我らと『銀の聖女』との関わりを思えば、見逃すことはできません」

 女は意味ありげにいったん言葉を切った。さりげなく片手で腰のサッシェに触れる。

「かわいそうなベルウエザー嬢。真実を知れば、さぞや苦しまれることになるでしょうよ。この世界を滅ぼすかもしれない存在と、好んで結婚する人がいると思われますか?まあ、ご令嬢は必死に殿下のことを庇っておられましたが」

「彼女にお前は何を・・・」

 隙ができたのは、ほんの一瞬。その一瞬を女は見逃さなかった。

絡みとれエンタングル!」

 女は、サッシェの端を掴むと、皇子に向かって放り投げた。それは宙でばらけると、まるで無数の蛇のようにうねりながらアルフォンソの四肢それぞれを絡みとり、捩じ上げた。
 両手の剣が乾いた音とともに床に転がった。アルフォンソの身体が半転し、背後の祭壇へ叩きつけられた。サッシュは、そのまま、鎖と化して祭壇にめり込み、手足を開かせた状態で、アルフォンソの身体を磔にした。

 背中への衝撃と容赦なく手足に食い込む鎖の痛みに、アルフォンソは小さくうめき声を漏らした。切れた唇にかすかに血がにじんだ。

「形勢逆転ですね。どちらにしても、あなたに勝機はありませんでしたが。念のため、動きは完全に封じさせてもらいます」

 女が勝ち誇って言った。

「殿下は、光属性、それも癒し系魔法の特化型。つまり攻撃魔法は一切使えない。そうですわね?」

 かがみこむと、アルフォンソのあごをつかんで、顔を上げさせる。
 されるがままになりながらも、アルフォンソはその問いには答えなかった。

「シャル嬢は関係ない。彼女は、私の身勝手な願いに巻き込まれただけだ。今後、彼女には手を出さないと約束してくれるか?」

 女の目を見て、静かに尋ねる。

「あなたの存在いのちと引き換えになら考えましょう」

 女の手が祭壇の胸像に触れた。すると、像の頭部がぱくりと二つに割れ、中から黒水晶のように煌めく短剣が出現した。

「それは、まさか?」

 遠い昔に見た、忘れられない外観に、アルフォンソが瞠目した。

「懐かしいのではありませんか?これは、勇者が魔王を滅した聖なる剣の残骸にして、『銀の聖女』が自らを突き刺したと言われる刃。闇に落ちた聖女が世界を呪うための媒介。これであなたを滅せば、すべてが終わる。もう二度と汚れた聖女の現身は現れない」

 違う。世界を呪ったことなどない。

 アルフォンソの中の絶望に屈した女が叫ぶ。欲しかったのは世界の終焉ではない。ただ『彼』に消えてほしくなかっただけ。もう一度会いたかっただけ。この世界を引き換えにしてでも。

 女が何か唱えると、メリメリと音を発てて、祭壇全体に斜めに亀裂が走った。
 その亀裂からちょろちょろと湧き上がつ炎。それは、瞬く間に勢いを増し、天井まで燃え広がった。

「ここはすぐに崩壊し、すべてが燃え失せる。あなたも私もすべてが。世界は救われるのです。『御方』の願い通りに」

 炎に照らされた女の顔が愉悦にゆがんだ。
 その両手が短剣をしっかりと握りしめ、ゆっくりと振り上げる。

 シャル嬢は大丈夫だ。彼らは、エクセルたちは、きっと、すでに彼女を救出してくれたに違いない。

 じりじりと炎の熱に焙られながら、アルフォンソは思う。

 『銀の聖女』の術は成就した。願いはかなったのだ。今生で『ゾーン』を、もはや独りぼっちではない『彼女シャル』を、アルフォンソはみつけられたのだから。
 それ以上、望むべきではなかったのだ。この女の言葉には、確かに否定できない真実があるのだから。

 アルフォンソはほろ苦さを噛みしめて、その刃をただ見つめていた。

 彼女シャルの、『ゾーン』とは全く違う声を、笑顔を、ぬくもりを、ありありと思い出す。
 こんなに違うのに、同じ魂をもつ存在ひと
 許される時間だけでいい。できれば、少しでも長く一緒にいたかった。
 だけど、彼女にとっては、これでよかったのかもしれない。前世も真実も知らない方が・・・。

 さようなら、何よりも大切だったゾーン。さようなら、リーシャルーダ・ベルウエザー。
 アルフォンソは貴方を本当に『愛しく』思っていたよ。

 己の心臓目指して落ちてくる刃に、アルフォンソは目を閉じた。

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